スイッチ・ポイント 3

 駅に到着する。

 私たちは改札の近くで立ち止まった。

 

 私と彼女は、今居る駅から向かう先が全く違う。

 彼女は北へ、私は南へ。


「お別れですね」

 彼女は少し残念そうに笑った。


「……そうだね、お別れ。でも、またお店に行くから」

「そうですね、楽しみに待ってます」

 彼女ははにかみ、私に背を向ける。


 彼女の漆黒の髪がなびき、揺れ、落ち着く。

 彼女が、遠ざかっていく。


 これでいいのか?

 私は、初めて生まれ出でた衝動を我慢し、押し殺すのか?

 それは……嫌だ。


 間違っているとは思う。

 けれど止まらない。


 私の人生に色彩を与えてくれた彼女。

 私の心に衝動をもたらしてくれた彼女。


 この言葉は伝えるべきではない。

 わかっている。


 私と彼女は、きっとそういう関係にはなれない。

 それも、わかっている。


 駄目だ。

 わかっている


 止まれ。止まれ。止まれ。

 念じる。


 止まらない。

 もう、止まらない。


 口が、開く。


「……あのっ!」

 突然の大声に、改札の直前に立っていた彼女が、目を丸くして振り向く。

 そんな彼女を、何人かの乗客が迷惑そうな顔で見て通り過ぎる。


「どうしました?」

 彼女は戻ってきて、心配そうに私を見る。


「……その、ね」

 口を閉ざす。早鐘のように心臓が鳴る。指が火照り、震える。


 怖い。

 けれど。

 

 言うべきではないとは思う。

 けれど。

 

 言わなければ、私は一生後悔すると思った。

 思ってしまった。

 

 初めて覚えた衝動。その衝撃に酩酊しつつ、私の願望は音の震動となって彼女に伝えられる。


「好きです」

 言った。言ってしまった。


 そう言ったあと、私はうつむく。心臓の鼓動が早まりすぎて、立ちくらみのような錯覚を起こす。顔が真っ赤になっているのが、自分でもわかった。


 顔を上げる。彼女は目を丸くして、口を半開きにし、固まっていた。

 周囲の喧噪なんて気にならないくらい、静寂。


 この世界に、私と彼女しかいないかのように、神経は彼女だけを向いている。

 そして、彼女が言葉を発する。


「……え、やだ……その……」

 彼女はあからさまに困惑しているようだった。その反応から、私は自身の行動が失敗に終わったと知る。


 いや、失敗というよりは、大失敗だろう。

 それも、どうしようもない類の。


『好きです』

 たった四音の言葉が、私と彼女の関係を破壊する。


 店員と客、だった。

 ちょっとした恩人、だった。

 映画仲間、だった。

 友人、だった。

 

 だった。だった。だった。だった。

 全てが砕け、過去になる。


「その、私……霞さんをそんな風には見れない、です」

 彼女は丁寧に言葉を紡いでいく。私を傷つけないよう、優しく紡いでいく。

 その優しさが、染みて痛い。


「……ですから、その……先ほどの言葉は、受け取れ、ません」

 彼女はそう言って、私から目を逸らした。


 今の彼女に、快活な笑みも喜色の表情も見て取ることは出来ない。

 彼女の表情から、戸惑いしか見出すことができない。

 私が、壊してしまった。


「……ごめん。ごめんね」

 私は謝罪の言葉を口にする。


 どうして、謝るのか。


 ――こんなことを言ってごめん。


 ――混乱させてごめん。


 ――こんな私があなたを好きになってごめん。


 ――裏切ってごめん。


 様々な理由が頭に浮かび、私の失敗と組んで、私の衝動の残骸を蹂躙していく。


 彼女を混乱させてしまった。彼女を困惑させてしまった。越えてはならない一線を越えてしまった。

 彼女を傷つけてしまった。


 私自身の行動に蹂躙されて砕かれた衝動と感情。

 それらの残骸は、腐臭を放ちつつ罪悪感に変質する。

 その罪悪感も、先ほどの行動と同じく、独りよがりのものかもしれないが。


「……ごめん。何にもない。忘れて。うん。……変なこと言って、ごめんね」

 顔を上げ、作り笑いを浮かべる。普段そのような笑みを浮かべたことのない人間なので、不細工な笑顔になっているに違いない。


 でも、そんなことはどうでもいい。

 今は、ここから立ち去りたかった。


 彼女に背を向け、駆けて去る。

 視界が霞み、おぼろげになる。

 

 慣れた視界だ。

 けれど、慣れないことが一つ。


 目の端から、生暖かいものが流れている。

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