再会と自覚と煩悶
仕事を終える。手に付かなかったので、残業をしてしまった。
時刻は午後八時過ぎ。家に帰って食事を買うなり作るなりすると、十時近くになってしまうだろう。それは色々とまずい。
なので、食べて帰ることにした。
私の勤務先は、最寄り駅前に商店街がある。
おそらく私よりもずっと年寄りであろうその商店街は、細いアーケードがちびっとだけ続く、ささやかなものだ。
そしてそのささやかな商店街の中には、様々な店がある。
肉屋、魚屋、青果店、畳屋、書店、などなど。
無論、飲食店もある。前を歩いて通り過ぎるばかりで、入ったことはないが。
今まで行ったことはないけれど、今日は行ってみよう。
そう思えるほどに、空腹だった。
少し歩き、とある中華料理店にたどり着く。
古びた外観。店先には、埃が積もった食品サンプル。そして、色がかすみ端がよれている暖簾。
所謂、街中華であろう。最近は、このような街中華も後継者不足で無くなる一方らしい。
私の子供の頃は、溢れていたのに。
少しずつ、確実に、世界は変容していく。その速度は、早まっているように思える。あるいは、私が遅くなっているのか。
世界は、私を取り残して変わっていく。
完全に取り残されたとき、私はどうなるのだろうか。
私の中にある精神に、何が訪れるのだろうか。
仮に。
精神に破滅的な何かが訪れたとしても、私の肉体は生き続けるような気がする。
心の弾みを失った肉体、人生に価値はあるのだろうか。
まあ、それはさておき。
どうするか、と少し思案し、入ることにする。
店の扉は引き戸だった。開くと、客の姿はゼロ。
ちょっと遅めの現在時刻を差し引いても、これはハズレの店を引いたかな、と思ってしまう。
さらにハズレ感漂うのは、店の中に客どころか店員の姿もないこと。商売っ気のなさが如実に表れていた。
店員に見つかる前なら、引き返すことも容易い。
そうしようか、と思った。
「あ、いらっしゃいませー」
そんな私を呼び止めるように、澄んだ声が店の奥から聞こえてくる。
さすがに今から帰るのは無理だな。そう思った私は、諦めてこの店で夕食を食べることにした。
「何名様ですか?」
「あ、一人で……」
と、ここで私は固まった。
それはなぜか。
「……あの?」
目の前で、女の子が一人、小首を傾げている。
それは、朝見た彼女だった。
朝とは違い、その長髪を後ろで結んでポニーテールにしている。その毛先が、重力に従い下方へ垂れ、瑞々しく揺れていた。
「……どうしました?」
固まった私を怪訝に思ったであろう彼女が問う。私はその声で意識を取り戻す。
「あ、はい。一人です。うん、はい」
カクカクと、顎が強ばった動きをする。
「カウンター席にどうぞ」
と言われたので、案内された席に座る。
頭の中は、ぐるぐると回っていた。
混乱が。混沌が。
朝の出来事と、目の前にいる彼女。間違いなく朝の彼女が、店内にいる。
どうして? バイト? それとも別人?
思考が入り乱れ、それを断ち切るように、トン、と水の入ったコップが置かれた。
「ご注文はお決まりでしょうか?」
「え、ええと……」
特に何も決めていなかった。ええと、夜だし炭水化物は避けて……油ものも……。
迷っていると、今日の夜定食という文字が目に入った。
「え、ええと、夜定食で」
「夜定食ですね。少々お待ちくださいませ」
彼女はそう言って、店の奥に消えていく。私はその背中を横目で見送る。耳の裏で、心臓の鼓動が鳴っていた。
少しして、彼女が厨房に立った。カウンターの前に厨房があり、彼女は私に背中を向けながら、料理の準備をしている。
……いや、あなたが作るの?
真っ先にそんな疑問が浮かぶ。
それは別に、彼女が若いから腕前が不安とか、そういうことではない。
純粋に、疑問。
そもそもこのお店、誰が経営してるの? まさか彼女?
でもどう見ても女子高生だし、朝も制服着てたし、経営できるわけがない。
あるいは、彼女は制服を着て出かけるのが趣味の、成人女性なのかもしれない。……そんなわけはないけど。
彼女はその雰囲気、肌のハリツヤ、そして目の輝き、全てが若さを感じさせた。
躍動する生命が、その身の内に秘められていると、見ただけでわかった。
私のそれは、とっくに色
料理をする彼女をしばらく眺める。
彼女が刻む。炒める。焼く。揚げる。和える。
彼女が料理を励み、私が彼女をひやすら見ている一方。
私の理性は、彼女の料理を(……ばんばん油使ってるな)と分析していた。
そんなこんなで、料理が運ばれてくる。
炒飯とエビチリとサラダとスープのセットだった。
炒飯もエビチリも量が多く、明らかに高カロリーである。
この時間帯に食べては駄目であろうメニューが、この時間帯で摂取しては駄目であろう量にて盛られていた。
「それでは、ごゆっくり」
彼女はそう言い残し、厨房に戻るかと思いきやホールの隅に立っていた。
「……どうしました?」
思わず私は彼女を見てしまい、彼女は私の視線を察し尋ねる。
「い、いや別に、な、何もないです……」
と小さな声で私は返し、料理に向き直る。
とにかく、料理を食べよう。
様々な気持ちや疑問が脳内で交錯する中、私はひたすらそう思うのだった。
○
「ご、ごちそうさまでした」
そんなこんなで完食。でもって満腹。
明日の体重計が怖い。
「食器お下げしますね」
「あ、はい……」
満腹で果てている私とは違い、彼女はしゃきしゃきと自分の勤めを済ませていく。そんな彼女を見つつ、しっかりしてるなあ……と思う私である。
すごいなあ。どんな育てられ方したんだろ。
私の高校時代はあんなしっかりしてなかったよなあ。
などと考えて。
気づく。
「じゃなくて」
思わず漏らした言葉は、意外と大きな声量になってしまい、厨房で食器を洗う彼女の目がこちらを向く。
私と彼女、二人の目があった。
「……どうしました?」
彼女がきょとんとする。
「あ、えと、その」
彼女の澄んだ瞳を前に、私はどぎまぎしてしまう。
けれど、それじゃあ駄目だろう、と私の中の理性が言う。
何年生きてるんだ。たとえ無味乾燥な日々を送っていたとしても、年季だけは本物だろう。
恐れるな。もっと、前に出ろよ、と。
「あ、朝っ、駅で見かけて……」
私はそう言って、ごそごそと鞄の中をまさぐる。
彼女は、困惑の表情を浮かべている。そりゃあそうだ。突然見知らぬ女に『朝、駅で見かけた』と言われても、何がなんだかだろう。
「……その、これ」
彼女は私が手に持ったものを見た瞬間、ぱあっと表情を明るくした。
「あ、これ⁉ ……もしかして、拾ってくれたんですか?」
「うん」
彼女の嬉しそうな表情を見て、私の心の中が温かくなる。その感覚は、春の陽光にも似ていて、私の言葉をぎこちなくしていた氷を溶かす。
羞恥とか、人付き合いが苦手だとか、そういった氷を。
「ありがとうございます! 落としちゃって、もう駄目かと……」
彼女は心底嬉しそうな笑顔を浮かべる。拾った甲斐があったな、と思った。
思えば、彼女と駅ですれ違ったのは偶然で、彼女が落としたストラップを拾い上げたのは気まぐれで、そしてこの店で再会したのも偶然で。
不確定というか、おぼろげなものが重なり合って、この場を構成している。
彼女にもう一度出会いたい、という願いを叶えて
「これ、ほんとに大事なものだったんです!」
嬉しそうに語る彼女に、どうして大事なのだろうか、と聞きたくなる。
けれど、それを聞いてどうなるというのか。
私に何の意味が、益がある?
そんなことを考えてしまう。それは、彼女が返すであろういくつかの答えの中に、私が何らかの恐怖を覚えているからだ。
「そ、そうなんだ。それはよかった」
疑問と恐怖が頭の中に浮かんだまま、私は当たり障りのない相槌を返す。
「恩人です! 絶対お礼しますから! お名前を!」
彼女が食い気味に、そう尋ねてくる。まさかの事態に、私は目を白黒させる。
「え、ええと、私は
最後の職業説明は不要だろう。
それに。
自身の名前を口にして思う。
霞。
まるで私の人生を表している。私の人生は、いつも霞がかっていた。
その霞は晴れることなく。その霞を切り裂くような陽光も、差すこと無く。
……今日までは。
「霞さんですか! 綺麗な名前ですねっ」
彼女はにこにこと笑顔を浮かべながら、続ける。
「私は
名前はさておき、名字は(だろうね)、と思う。
なぜならば、この店の名前は『巴飯店』だからだ。箸袋にも、そう印刷してある。
彼女の名前を知り、そして私の名前を知って貰うことが出来て、柄にもなく心が弾むのがわかった。
彼女と私、二人きり。この状況に酔ったのか、私の口は回り続ける。
私は彼女のストラップを指さす。
「それって、映画のキャラクターだよね。あの、ヒーローがすっごい集まるやつ」
タイトルも詳細も知っている。なぜなら見たことがあるから。けれど、それをスラスラと言ってしまうのも、少し気持ち悪いかと思い、誘いをかけてみる。
「あ、そうです。アベンジャーズの。私、この青い人……キャプテンアメリカが好きで。……えっと、通じます?」
不安げに問う彼女に、微笑みを浮かべて首肯を返す。
「勿論。私もあの映画好きだもの」
好き、という響きに多少の空虚を覚えつつも、そう返す。
私がそう言うと、彼女は同好の士を見つけた喜びからか、
「本当ですか⁉」
と弾んだ声を出す。
それどころか、厨房のカウンターから身を乗り出すほどだった。
「え、ええ勿論」
彼女の勢いに少し押されつつ、頷く。
「あの系列の映画、わりと観てるから」
「えっ、本当ですか⁉」
彼女はだんっ、という音を鳴らしつつ手をつき、さらに身を乗り出す。このままこちらに倒れ込むのでは、と思ってしまうぐらいに。
「ええ。……中でも……」
私は過去作でどれが気に入ったのかを言う。
「あ、それも好きです。私は……」
彼女は私の言葉に返す。
そんなこんなで、私たちは映画談義に花を咲かせる。
店を出たのは、十時前だった。
彼女は店先まで私を送ってくれた。私は頭を下げつつ、その場を去る。
しばらく歩き、振り返る。
彼女は、まだそこにいてくれた。
手を振る。彼女が振り替えしてくる。
私の頬に、朱が差した。
〇
一人の帰路。
「わかってる」
と自答する。
たぶん。いや……。
きっと私の気持ちはそういうことなのだろう。
どうして今、どうして彼女なのだろう。
今の今まで、こんな気持ちとは一切関わりなかったのに。
これはきっと。
けれど。
私は、この年になってしまった。
この年になって、初めてこんな気持ちを、衝動を、欲求を、願望を知ってしまった。
そして、この年になって初めてそんな気持ちを覚えた相手は、同性の少女だった。
もし、私がもう少し若ければ。あるいは、彼女がもう少し年齢が上ならば。
もし、私と彼女、どちらかの性別が――。
考えても仕方が無いのも、わかっている。
けれど、思わずにはいられない。
漏らさずには居られない。
「……どうして」
絞り出された煩悶の言葉は、夜の闇に溶けていった。
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