衝動と願望
私は今年で二十七になる。
大学をなんとか出て、社会の歯車をして、五年になる。
三十が近くなると、自身を取り巻く世界も変わってくるものだった。
知り合いが結婚したり、何か夢を叶えたりあるいは諦めたり。
世界に溢れるコンテンツも、年下の人間が作っていることが多くなったり。
なんていうか、世界において私という存在が型落ちになっているような気がする。
そう思うことが、増える。
そんな中、私はただ働いている。それは尊い行為なのかもしれない。けれど、私にはただ働いている、としか思えない。
そこには一切の喜怒哀楽がなく、ただ、義務感のみがある。
まるで無味乾燥なコッペパンを咀嚼するような毎日。空虚な毎日。
それが私の世界だった。
私の世界に満ちる、空虚感。
それは、今に限った話ではなく、今までずっと。
小さな頃から、私には願望というものが薄かった。欲というものが持てなかった。
そりゃあ、食欲や睡眠欲はある。性欲は、排泄ぐらいなら。
そういった次元の欲ではない、もっと高次元の欲。
自己実現の欲求、と言えば良いのだろうか。それが、希薄なのだ。
小学生の頃、同級生が様々なことに熱狂しているのを、私は離れて見ていた。
何かをやりたいという欲求、何かを追い求めたいという熱望。
それがあることが、羨ましかった。
そしてそれらは。
私には、それはついぞ訪れなかった。
例えば、面白い映画を観たとする。それに強い感銘を受けた人は、映画に関わる仕事に就きたいと願うかもしれない。
例えば、美味しい食事を食べたとする。それに感動して、コックを目指す人もいるだろう
けれど私は違った。
面白いものを観れば、『面白かった』。
美味しいものを食べれば、『美味しかった』。
遊びをすれば、『楽しかった』。
その感想の全ては、紋切型。薄っぺらく、軽くて脆い。
故に、すぐさま冷えて消える。
私の感情は、ただ文字が並んでいるような、そんな文章にも似ている。
そこには何の感情の動きも、ドラマもないのだ。
だから。色んなことを体験したとしても。
……その先が、繋がらない。
繋がらないまま、年月は無慈悲にも私の肉体を成長させ、私は職に就き――。
今日に至る。
この世界を生きるには、おそらく大なり小なり、楽しみなり目的なりが必要だ。
私には、どうしてもそれが無かった。
映画を観るのが唯一の趣味かもしれないが、仮にその趣味が私の世界から奪われたとしても、
『別にどうでもいいか』
で済ませられる程度。
私には大切なものも、大切にしたいものもない。
それは、自分も含めて。
一切の願望を持たない人生。一切の衝動を持たない人生。
それはまるで、星の光が死に絶えた夜空のように、冷たく暗いものだ。
〇
今日も無味乾燥な日々を送る。
最寄り駅から人でごった返す電車に乗り、息を詰まらせながら会社に向かう。
その間、私はこう思う。
辛い。
苦しい。
面倒だ。
会社辞めたい。
などと。
でもそれは願うだけで、行動には繋がらない。
それに、仮に繋がったとしても、私にはやりたい仕事がない。
今の会社は別に福利厚生が特段良いわけでも、業務内容が楽しいわけでもない。
けれど、そこに落ち着いてしまった。そこから動くのは、私にとっては大変なことなのだ。
あ、少しの変化はあった。今年になって、勤務地が市内の中心地から、川を二つ越えた駅に変わった。
わかりやすく言ってしまえば左遷であり、二十代から閑職コースに乗っかってしまうところが実に自分らしい。
働いてから今まで、変化はこれくらいしかない。
だから、私はこれから先も、こうやって脳内で自虐的なモノローグを読みながら、無味乾燥な世界で生きていくのだろうな、と思った。
――思っていた。
少なくとも、今日までは。
会社の最寄り駅で、電車を降りる。
そこで、彼女と出会った。
その
雪のように白い横顔を見たとき、私の目は見開かれた。
制服から伸びる細く長い手足に、生物としての違いを思い知らされ酩酊した。
彼女は漆黒の前髪、そのすぐ下に、切れ長の双眸をもっていた。
その瞳は髪同様に漆黒であり、未来を感じさせる溌剌とした光を湛えていた。
それは、私が失って久しいもので。
だからこそ、私は彼女に見入ったのかもしれない。
いや、違う。
そんな理由なんて些細なものだ。
きっと私が彼女に見入った理由は一つ。
彼女は、誰よりも何よりも――。
圧倒的に、美しかったのだ。
その美が、私の中の何かを揺さぶる。
それは常識であり固定観念であり人生観であり諦観であった。
私というものに付着して、固化していた、人生の旅塵であった。
私は、電車から降りて、ただ立ち尽くす。
電車に乗り込もうとする人々、その中にいて強烈な存在感を放つ彼女に、目が釘付けになる。
彼女は鞄を大事そうに抱きかかえ、満員電車に乗り込んでいく。
髪が微かに、風にそよいだ。
そんな彼女の様子を見て立ち尽くす私を、何人かの乗客が怪訝そうな目を向けて去るが、そんな些末事はどうでもいい。
今は、彼女だけを見たかった。それ以上は、それ以外は、要らなかった。
こんなことは私の人生で初めてで、体験したことのない感覚に私の脳は混乱する。
――私はどうしたのだろうか。
――日々のストレスで壊れたのだろうか。
などと思っていると、彼女の鞄についていたストラップが、落下したのが見えた。
彼女はそれに気づかず、そのまま電車に押し込まれていく。
発車を知らせる警告音が鳴り響き、私と彼女を、鉄扉が隔てる。
かくして電車は走り去り、私は一人、朝の喧噪に包まれるホームに取り残される。
彼女が先ほどまで立っていた場所を見る。
そこには、ストラップが転がっていた。
拾い上げる。
そのストラップは、とある有名なヒーロー映画のものだった。テーマパークや公式ショップでも買えるような、言ってしまえばありふれたストラップ。
このストラップは、彼女にとってどのようなものだったのだろうか。
わざわざ鞄につけるということは、それだけ気に入っていたのだろう。
あるいは、鞄につけるということは、いつ落としても良いものだったのだろうか。
その答えは、私が出そうとしても、出ないものだ。
今もこれから先も、きっと出ないであろう。
どうしようか、とそのストラップを指先で弄びつつ思案する。
捨てるのもなんだか悪い気がするので、鞄の中に入れておいた。
決して、欲しいからではない。
いつか返せる機会があるかもしれないから――と自分に言い聞かせる。
○
「……おかしい」
黙々とキーボードを叩き、ふとそんな言葉を漏らす。
「…………おかしい」
一人、昼食を食べながら、再びそんな言葉を漏らす。
「……………………おかしい」
仕事中にちょっとした休憩を挟みつつ、何度目かの言葉を漏らす。
おかしい。
私はおかしかった。
今朝見た彼女の顔が、髪が、立ち姿が――。
脳裏から離れない。
まるでまぶたの裏に焼き付いてしまったかのように、目を閉じれば今朝の光景が鮮明に思い出される。
まさか、と思う。
そんな馬鹿な、と自嘲する。
それでも、彼女を見たときの衝撃と、それがもたらした熱は、未だに消えない。
頭と共にその熱を冷やすため、席を立つ。
トイレに向かい、個室に入る。
個室の中で立ち尽くす。
また、彼女が脳裏に浮かんだ。
どうしてだろうか、と自問する。
彼女のことが忘れられない。
たった一度きりであろう、一方的な邂逅。たった一瞬だったのに、今まで見たどんな景色よりも、鮮明に浮かぶ彼女の像。
少し、思案する。これは何だろうか、と。
その答えはすぐに出た。
実に安直で陳腐で、手垢の付きまくった答えだった。
「……いやいや、そんな……」
そしてその答えは、私を惑わせる。
きっともう無理だろうけれど、今、私はもう一度彼女に出会いたいと願っている。
そしてその願望の出所となる感情は。
おそらく。
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