第13話 敵のアジトへ

銀子は圭太達を見送った後、後部座席のタムとチャウに近づいた。

「大丈夫だからね。

 あなた達二人のパ、あ(いいか、パパでも)パは強いから安心して待っててね。」

「パアパ?」

「そうよ、あなたたちのパパ。

 直ぐにあなたたちの元に戻ってくるからね。

 じゃあ、ギエさん、お願いします。」

ギエは頷くと、慎重に車を発進させた。

車が動き出すと、タムとチャウは緊張から解き放たれ、身体中に痛みはあったが上着から圭太の匂いを感じると、気が緩みすぐに意識が遠のいて行った。

その遠のいていく意識のなかで、二人は「パアパ」と圭太が自分達に向けた笑顔を思い出しながら小さく呟いた


「さてと。」

一人残った銀子は、内ポケットに入っている何か書類の入っている封筒を触り、確認すると精悍な顔つきで“風神”にまたがった。

スターターを回すと、“風神”も“ドルルン”と気持ちいい音を立てエンジンに火が入った。

そしていきなりアクセルを全開にすると、前輪を浮かせながら“風神”はものすごい勢いで加速していった。

路地を出て大通りに入り少しすると、店の方に向かっていく複数の警察車両とすれ違った。

圭太達が飛び込んだ音と銃声とで、近所の人間が警察に通報したに違わなかった。

「でも、随分と早いお出ましね。

 クエンが通報したのかしら。

 蜂合わせなくて良かったわ。」

銀子はそう思いながら、風神のアクセルを全開のまま、一気に加速していった。


15分程風神を駆って、大きな屋敷の近くで銀子は風神を止めた。

屋敷は高い塀に囲まれ、壁の上には有刺鉄線が張られていた。

その壁の近くには、カラスの様な鳥が落ちていた。

「あの有刺鉄線、高圧電流が通っているのね。」

カラスは鉄線に引っかかり、感電死していた。

また、正面の門と裏の勝手口には、それぞれ自動小銃を持った男が4~5名、立って周りを監視していた。

「さすがに、ロン一家の縄張りね」

銀子は警備の厳重さに舌を巻いた。

その屋敷は、この辺りを束ねるギャングのボスのロンの家で、家族や手下を入れると常時50名程が屋敷の中に詰めていた。

「さてと、ぐずぐずできないし、かと言って正面から押し入っても、ロンのところにたどり着くのに時間がかかるわね。

 それに、壁の上は高圧電流の流れている有刺鉄線か。

 さて、どうしたものかしら。」

言葉とは裏腹に、銀子の頭の中ではすでに侵入方法が決まっていた。

そして風神に戻ると、その横のポケットから何かを取り出し、壁に向かって歩き始めた。


「若、大丈夫か?」

雷神の後ろに乗っている弥七が圭太に話しかける。

「チビちゃんたちを助け出せて、ほっとして気が緩んでいるんじゃないだろうな。」

「…」

圭太は答えなかったが、弥七の言ったとおり、タムとチャウをギリギリで救い出せ、内心ほっとしたせいか、牛刀男やキムとの戦いの疲れが押し寄せていた。

「たく、そんな気の抜けた面でチョウのアジトに入ったら、あっという間に返り討ちに合うぞ。

 しっかりしろって。」

「ああ、わかっている。」

圭太は返事はしたが、身体が異様に重く感じていた。

「ちっ。」

弥七は舌打ちすると、雷神のマフラーの下のスイッチをつま先で押した。

カチッという音とともに、マフラーが外れ、例の爆音とともに振動が二人を襲う。

「ちょっ、何を…。」

圭太が慌てて弥七に向かって叫ぶ。

「気の抜けた面しているから、雷神様に気合を入れなおしてもらっているんだよ!」

雷神の爆音の中、弥七は身を乗り出し、圭太の耳の近くで、大声で叫んだ。


「パアパ…。」

それと同じ頃にギエの運転する車の中では意識を失っていたはずのチャウが目を閉じたまま、口を開き何かを言い始めていた。

それは、言葉ではなく、何か歌のようだった。

横で意識を失っているはずのタムも、チャウの手を握り、自分のエネルギーをチャウに注入しているようだった。

そして、数分、不思議な光景が続いたが、ふっと、チャウが静かになりタムに寄りかかり動かなくなった。

それをギエがルームミラーでじっと見つめていた。


「…。」

雷神を駆っている圭太は、いきなり何か歌のようなものが聞え、また雷神の爆音と振動で、どんどんと気持ちが高ぶり体が軽くなってくるのを感じていた。

そして、さらに雷神のアクセルを開ける。

「くぅー、いいね。

 その気合、最高だぜ。」

弥七は振り飛ばされそうになり、圭太に強くしがみつきなおした。

二人を乗せた雷神は大爆音とともにすでに夜のとばりが降りた街の中を疾走していった。


「若、そろそろですよ。」

弥七が圭太の腕を叩いて合図する。

圭太は、踵でマフラーの下のスイッチを軽く蹴ると、カチッと音がして、マフラーがもとの位置に接続され、爆音が鳴りやんだ。

そして、圭太はアクセルを緩め、速度を落とした。

「若、その先の角を曲がったところで、チョウの車に付けた発信機の信号が止まっています。

 恐らく、そこが奴のアジトでしょう。

 一旦、雷神を置いて、様子を窺いましょう。」

弥七が警戒を促した。

「わかった。」

圭太は雷神を道端に停め、二人は雷神から静かに降りた。

「若、その恰好じゃ目立ちますね。」

圭太は、タムとチャウに上着をかけたままだったので、白いワイシャツ姿だった。

しかも両肩のところにはタムとチャウの血がこびりついていた。

「白いシャツだと…。」

弥七がつぶやくのを後目に、圭太は雷神の座席を持ち上げ、中を覗き込み、頷いたように何かを取りだした。

取り出したのは黒の薄手のレーザージャケットだった。

「あると思ったよ。」

圭太は、レーザージャケットを羽織った。

そのジャケットは、まるで圭太ように誂えたように圭太の身体にぴったりだった。

「これって、もしかして…。」

「詮索は後にしよう。」

何かを言いかけた弥七を圭太は制して、曲がり角の方に早歩きで向かって行った。

二人はまるで空中を歩いているように足音がしなかった。

曲がり角からそっと道の先を覗き込むと、大きな倉庫のような建物が広がっていて、その入口と思われるところに、チョウが乗っていた車と思われる車の他、数台が停まっていた。

倉庫のような建物は、あちらこちらの窓から明かりが漏れ、中では人間が騒々しく動いているのが見えた。

「あそこがアジトですね。

 うちらを迎える準備をしているってところですかね。」

弥七は呑気な声で言った。

「そのようだね。

 さてと、どうしようかな。」

「若。

 ともかく、チョウを探し出して二度と若とチビどもに手を出させないように思い知らせないと駄目です。」

「わかっているって。

 でもそれが一番厄介でさ。」

圭太は、既になにか策を考えているのか、まんざらではない顔をして言った。

「若。

 取りあえず、あのアジトをぶっ潰して力の差を見せつけて黙らす、と言ったところですかね。」

弥七が圭太の心の中を読んだ様だった。

「そうだね、そうしよう。」

倉庫の周りには人家が無く、うっそうとした繁みに覆われていて街灯もなかった。

圭太は弥七に声をかけると、暗がりに溶け込み、チョウのアジトの正門から少し離れた塀にたどり着く。

塀は3メートルくらいの高さがあり、容易に中を窺うことは出来なかった。

途中、自動小銃を持った二人組が塀の外を歩いて見張っていたが、その見張りは暗がりの溶け込んでいる圭太と弥七には気がついていない。

見張りをやり過ごすと、圭太と弥七は壁伝いに塀の内側で人の気配がなさそうな場所を探して移動した。

「若、ここ。」

弥七が停まって圭太に合図する。

圭太は頷いて、人差し指を自分に向け、自分が先に行くと合図をする。

弥七は頷くと、塀を背に、両手を下ろし前で手を組み、踏み台の様な姿勢を取った。

圭太は音もなく弥七に駆け寄ると、そのまま弥七の組んだ手に右足を乗せ、飛び上がり、弥七も組んだ手を上にあげるようにして圭太に勢いをつけた。

圭太は弥七の補助もあってか、塀の上部に手を引っかけ勢いそのままで塀を飛び越え敷地の内部にまるで重力を無視したように音もなく着地する。

圭太が飛び降りたところは、雑草が生い茂っている土の上だった。

着地してすぐに、生臭い獣臭と血なまぐさい匂いが圭太の鼻につく。

すると、暗がりの方から“ガルル”と犬の唸り声が聞こえた。

唸り声から犬は少なくても3頭以上いることがうかがえ知れた。

その途端、サーチライトの様な光が幾重にも圭太の方を照らし、辺りは昼間のように明るくなる。

圭太は一瞬眩しさに目を散られたが、直に目を凝らして周りを見回と、圭太のところと建物の間には檻のようなもので囲まれていた。

そして、圭太の飛び込んだ檻の中には4匹のドーベルマンと思われる犬が獰猛な顔をして涎をたらして圭太の様子を窺っていた。

倉庫との塀の間には、塀に沿って檻があり、その中を獰猛な犬がブロックごとに放し飼いになっていて外からの侵入者を拒んでいたのだった。

また、塀には微弱な電流が流れていて、侵入者を感知すると、自動的にサーチライトが照らす仕組みになっていた。

(ハイテクとローテクのコラボか)

圭太はその警備システムと番犬をもじった。

圭太は足に何かを感じ、目をやると、泥にまみれ犬の歯形が付いて女児のカチューシャが落ちていた。

「犬に食わせる」とズーハンが言っていたのは本当で、まさに目の前にいる犬たちのことだと確信した。

タムとチャウがこの檻に入れられ恐怖と絶望で震えたらと思うと、圭太は怒りで髪の毛が逆立つ気がした。

警報装置が鳴ったのか、建物から自動小銃を持った男たちが5,6人出てきた。

一人がトランシーバーで何やら叫んでいる。

「チョウさん、侵入者です。

 男が一人のようです。」

しかし、言葉はC国語だったので圭太には内容はわからなかった

その時、塀の上から「若、目と耳」という弥七の声が聞え、目の前に野球のボールの様な金属の球が落ちてきた。

球はスタン・グレネード(閃光弾)だった。

圭太は急いでポケットから何かを取り出すと、目をつぶって耳を押さえる。

その途端、小さな太陽が出現したような光と気が遠くなるような大きな音が周りに鳴り響いた。

光の玉は直接見ると網膜が焼けたような痛みを覚え、しばらくは目が開いてられないほどで、そして音は聞いた人間を無気力にする程の爆音だった。

“ぎゃん”

スタン・グレネード弾は犬にも有効で、先ほどまで唸り声を上げていた犬たちは、体を横たえ痙攣させていた。

圭太は、ふと誰かに腰を抱かれ体が宙に浮いた気がした。

それは、弥七がスタン・グレネード弾を炸裂させた後、塀から檻の上部に鉤付きの太いゴムの様なロープを渡し、片手でそのロープを持ったまま圭太のすぐ横に飛び降り、圭太の腰を抱くと、そのロープの反動を利用して圭太を抱きながら一気に檻の上部に飛び移った感覚だった。

圭太も瞬時に状況を把握すると、檻の上部に手をかけて、そのまま内側の屋敷の庭に飛び降りた。

二人は、スタン・グレネード弾で苦しがっている手下たちを特殊警棒で眠らせると、建物を背に辺りを窺う。

近くのドアが勢いよく開くとバラバラと6,7人位の男が手に拳銃を持って飛び出してくる。

圭太と弥七は男たちに気取られないよう建物の壁に貼り付きやり過ごすと、後ろから襲い掛かり、あっという間に6人の男を眠らせていた。

違うブロックの犬たちが、騒ぎで吠え始め、辺りは喧騒に包まれていた。

すると遠くの方で人の声と犬を解き放つ音が聞え、犬独特の疾走音が聞えてくる。

圭太と弥七は、躊躇せずに先程男たちが出てきたドアの内側に飛び込むと、ドアを閉めて鍵をかけた。

圭太達は振り返り中の方を見ると、そこは通路で、左右に部屋のドアがあり、奥から男たちの声が聞えてきた。

圭太と弥七は、左右のドアを確認すると、左側のドアが施錠されていなかったので、そっとドアを開け中に忍び込んだ。

忍び込んだところは、100㎡ほどの広さの物置部屋のようで、木箱が所狭しと何箱も置いてあった。

ひとつの木箱が開いていたので、圭太が中を覗き込むと、自動小銃がびっしりと詰められていた。

(ここは武器庫か)

圭太が思った通り、その部屋は武器庫で、自動小銃や拳銃、実弾の他にロケット砲などの重火器もあった。

「若、いくらカッコいいからって持って行ったら駄目ですぜ。」

弥七が圭太に声をかける。

「わかっているよ。

 うちら一般市民がこんなの持っていたら警察に捕まるって」

「わかっていればよろしい。」

その時、武器庫の反対のドアが開き、8人の男が飛び込んできた。

男たちは圭太達を見つけると、数名が圭太達に自動小銃を向けたが、すぐに傍に居た他の男に制止されていた。

制止した男は武器庫の中で自動小銃や拳銃を使って流れ弾が売買用の武器に当たり誘爆するのを恐れたためだった。

男たちは、銃を置くと、手にナイフや警棒を持ち、じりじりと圭太達に近づいてくる。

しかし、先に手を出したのは圭太達だった。

圭太達は、木箱を踏み台にして大きくジャンプし、男たちの真ん中に飛び降りると左右に分かれ特殊警棒で殴りつけ、次々と8人全員を倒していた。

そして、弥七は最後の一人を締め上げ、チョウの居場所を聞き出すと、男を殴り倒し気絶させた。

「やつら人身売買だけでなく、武器の売買のやっているのか。

 この調子だと、密輸や覚せい剤もありそうだな。」

圭太は木箱の中の銃を見ながら呟いた。

「まあ、そんなものでしょう。

 で、チョウは奥の部屋にいるようです。

 手下はあと100人位だそうです。」

「そうか、随分と手薄だな。」

「はい、ここも複数あるアジトのひとつらしいです。」

他にもまだあると聞いて圭太はうんざりした顔をした。

「じゃあ、逃げられる前にとっとと行こうか。」

「はっ。」

圭太と弥七は、足音を消して男たちの入って来たドアから廊下に出て行った。


ギエが圭太の車を何とか運転しながら病院に着くと、既に連絡してあっあのか、ストレッチャーと看護婦に医師がドアを開けてギエの車に寄って来た。

そして、後部座席に裸で気を失っているタムとチャウを見ると、素早く毛布でくるみストレッチャーに乗せ処置室に連れて行った。

「ギエさん?

 ですね?」

ギエがタムとチャウを乗せたストレッチャーに付いて行こうとすると、1人の鋭い目をした男に声をかけられた。

「警察署のズンです。」

男はそう名乗った。

「すみませんが、子供たちに付いていきたいので、お話はあとで構いませんか?」

ギエは怯まず、威厳を持ったオーラを放ちつつ返事をし、そのギエの態度を見て、逆に男のほうが怯んでいた。

「あ、わかりました。

 そうですよね。

 私の方はホー署長が心配して様子を見て来いと言われたもので。」

ズンはすまなそうな顔で答えた。

「二人は何とか無事に取り戻せました。

 あとはよろしくお願いしますと署長に伝えていただけますか。」

「わかりました、そう伝えます。」

ズンはそう言ってギエにお辞儀をすると出口の方に向かって歩き始めた。

ギエもズンに会釈をすると、いそいでタム達を追って処置室に入って行った。

処置室では看護婦に声をかけられ、タムとチャウが目を覚ましたところだった。

ギエは医師に圭太から聞かされたタム達の怪我のことを伝えると、医師は頷き、次にタムとチャウから痛いところはどこか、何をされたかを詳しく聞き、問診するとCTスキャンのある部屋に二人を連れて行き、代わる代わるCTスキャンで体の中をチェックした。

タムは内臓の損傷、および頭に損傷がないかを、チャウは脛骨の損傷とやはり頭を集中的にチェックされていた。

「タムちゃんは、内臓に損傷はありませんでした。

 チャウちゃんは、骨に異常も見られず大丈夫です。

 二人とも頭を強く押さえつけつけられたり、地面に打ち付けられたりしたようですが、頭蓋骨に骨折もないですし、出血も見られないので大丈夫でしょう。

 あと、タムちゃんは鼻をひどくやられていて鼻骨にひびが入っていますが、少しなので大丈夫でしょう。

 チャウちゃんは、おそらく地面に押さえつけられた時の拍子で舌を噛んでしまったのでしょう。

 舌に噛み跡があり、そこから出血していたようですが、それもひどくなく、血は止まっていますし大丈夫です。」

医師の説明を聞いてギエはほっとしたようにため息を漏らした。

「そうそう、二人とも、また髪の毛を切るのかって心配していましたよ。」

看護婦が笑いながら付け加えた。

タムとチャウは、チョウの店から銀子にここに運ばれた時、あまりに不衛生なところに閉じ込められていたのか、髪が汚れでくっつき、病院で髪を短く刈られ、やっとショートヘアになるまで髪が伸びていたのだった。

「二人とも、怪我の具合よりは元気そうで良かったです。

 ただ、話しを聞くと、性的な虐待、そう身体を触られたり、舐められたりされたみたいで、心のケアを考えなければいけないかもしれません。

 それを聞いて、看護婦が二人の身体を綺麗に拭って病院着を着せています。

 まあ、それ以上のことはなかったようなので、一安心ですが、頭の怪我もありますので、念のため、一晩、入院させたほうがいいかと思います。」

「そうですね…。」

「それと、本来なら恐怖心であんなに普通に話せないかと思うのですが、その恐怖を打ち消すようなことがあったんですか?」

医師は、本来なら誘拐され、あれだけの仕打ちを受けていたら恐怖で怯えまくっているのに、それが感じられないと不思議がっていた。

タムもチャウもズーハンたちに誘拐された時は恐怖を感じていたが、手荒い仕打ちを受け、意識が朦朧としている中、圭太が助け出してくれた嬉しさが他の何よりも勝っていたのだった。

「そうですか。」

ギエは、見当もつかないというような返事はしたが、心の中では圭太の存在が、タムとチャウにいい方向に働いていると感じていた。

医師とギエが話しているところに、看護婦に連れられてタムとチャウが入って来る。

二人はおでこに大きな絆創膏、タムは鼻にガーゼを当てテープで止めてあった。

また、チャウは頬に大きな絆創膏、首には包帯が巻かれていた。

「ギエさん、髪、切らなくていいの?」

チャウが怪我よりも自分の髪の毛を心配してに尋ねると、横で看護婦が笑いを堪えていた。

「ええ、大丈夫よ。

 今回は、何もないから。

 あなた達、今晩はここでお泊りするのよ。」

ギエは、念のためと言った医師の忠告を聞き入れ、二人を病院に泊めることにした。

ギエの言葉を聞いて、二人はつまらなそうな顔をして頷いた。

「私は一旦、お屋敷に戻って圭太様たちの帰りを待ちます。

 圭太様たちが戻られたら、そうしたら、また、ここに…」

“ここに戻ってくる”と言おうとしたギエは二人の顔の変化に声を失い、呆然とした。

タムとチャウは“圭太”の名前を聞いた瞬間、驚いたように目を見開くと、その眼から大粒の涙が際限なくしたたり落ちてきた。

「パ…ア…パ。」

「パア…パ」

二人は口々にそう言うと顔をくしゃくしゃにして大声で泣き始めた。

「ど、どうしたの?」

ギエは驚いて二人に尋ねる。

「パアパは大丈夫なの?

 ちゃんと帰って来てくれる?」

「パアパ、死んだりしないよね?」

タムとチャウは圭太のことを気にしていた。

二人とも、圭太と言う存在については、まだ頭の中は混乱していたが、一つだけ確かなことは、圭太は二人にとって優しく唯一の味方だということが確信に変わっていて、それが心の支えになっていた。

ギエも銀子もクエンも弥七も二人に優しく、時に厳しい、まるで本当の家族のような大事な存在であったが、二人の本能がギエたち以上に圭太を欲していた。

「“パアパ”って言うのは圭太様のこと?」

ギエは圭太が二人にとって“パアパ”という呼び名になった経緯を知らなかった。

二人は両手を胸の前で組み、まるでお祈りをしているような格好で泣きながらギエの問いかけに頷いて答えた。

「大丈夫。

 圭太様はあんな悪人に負けたりしないわよ。

 ちゃんと帰って来るから。」

ギエは二人を慰めるように言ったが、タムが口火を切った。

「私、お屋敷に戻ってパアパを待つ。」

チャウが言うとタムに同調する。

「私も。

 私もお屋敷に帰ってパアパを待つ。」

「駄目です。

 二人とも今夜は大人しく病院にお泊りです。」

ギエが威厳を込めて言ったが二人は「嫌、帰る」と屋敷に来て以来、初めてギエに口答えをした。

そして二人は火が付いたように「帰る」と言って泣き叫び、困ったギエは医師の方を見ると、医師は笑いながら頷いて見せ、とうとうギエの方が折れた。

「わかりました。

 では、お屋敷に戻りましょう。

 でも、少しでも具合が悪くなったら、すぐに病院ですからね。」

ギエの言葉に、二人は真顔で頷いて見せた。

「それに帰ったら直ぐにお風呂に入って、身体を綺麗にしましょうね。」

ギエは、優しい顔でタムとチャウに話しかけた。

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