第9話 新しい生活

翌日、朝から圭太の屋敷は活気に包まれていた。

圭太の部屋と、タムとチャウの部屋は屋敷の真ん中にある階段を中心に左右両端に位置していたが、朝6時からタムとチャウを起こすギエの声が聞こえ、廊下をパタパタと歩く小さな足音が響き渡っていた。

タムは足が不自由で歩くのは大丈夫だが走るのは苦手だったし、ギエが屋敷の中は走ってはいけないと言いきかせていたので、二人は走り回ることはなかったが、ギエのように静かに歩くという域までには、到底達することは出来なかった。

タムとチャウの日課はギエが決めていた。

朝6時に起床

屋敷の空気の入れ替えのための窓開け。

玄関の掃除

朝食の準備

7時には正装アオザイ姿で、圭太に朝の挨拶をするため居間で待機。

圭太を起こすのは、タム達ではなく、さすがにギエの役割のままだった。

圭太が食事を済ませたあと、8時ごろ、弥七と銀子が圭太を迎えに来るので、その出迎え。

圭太達が会社に行くのを見送った後、ギエと3人で朝食。

午前中は、片付け、洗濯や掃除と屋敷の用事をして、昼食後1時から家庭教師が来て主に国語と算数を夕方の5時までみっちり勉強。

土日は家庭教師が休みなので、銀子とクエンが代わる代わるに家庭教師の代わりを務める。

勉強後は、夕飯の支度。

圭太が帰って来て夕食が終わると、ギエと3人で夕食。

夕食の片付け後は自由時間だが、もっぱら昼間の勉強の復習。

そしてお風呂に入って22時には消灯。

10歳児には十分ハードだったが、タムもチャウも嫌な顔一つせず、逆に楽しそうにこなしていた。


ギエは結構なスパルタ教育で、食事の支度の時は平気でタムとチャウに包丁を使わせ、指を包丁で切っても大騒ぎ一つせず、下ごしらえなどを手伝わせたり、洗濯物を干す手伝い、庭掃除なども平気で二人にやらせ、きちんとできないと大声で叱りつけるのではなく普通の声で、何が悪かったのか、どうしたらいいかを納得するまで説明し、二人に家事を叩きこんで行った。

テレビはリビングに置いてあるが家事や勉強で見ている暇がなく、また、ギエがニュースを見る時に横で見るくらい。

当然、ゲームもマンガもなく、娯楽と言えば、ラジオと銀子やクエンが買ってくる絵本を読むくらいだったが、二人にとっては天国の様な生活だった。

しかも、ご飯がお腹いっぱい食べることができ、弥七や銀子、クエンがお菓子を山ほど買ってくるのでひもじい思いをしないことも二人にとっては幸せなことだった。

数日たつと、タムとチャウの性格もだいぶわかって来た。

タムは、思慮深く、大人しい性格だが、しっかりした芯の強い一面を持っていた。

チャウは、朗らかな明るい性格で、ほんわかしていた。

その二人に共通しているのは、優しく、真面目で素直な性格であること。

勉強を教えている銀子やクエンは、二人の真剣な眼差しにメロメロになっていた。

しかし、圭太には一向に心を開かず、近づくと体を強張らせ睨むような目つきで見ることは変らなかったし、話すことはあいさつ程度で、それ以外は一切なかった。

そのため、食事などは一切、圭太と一緒に取ることはなく、被りそうになるとギエが二人に席を外させ圭太を優先させていた。

圭太は、先に食べていたのが子供たちだから自分が後で食べると言っても、ギエは「当主が先です」と頑として譲らなかった。


そんな二人だが、タムは右足に障害があり、目立つほどではないが足首から下の骨が変形していて歩くことは少し足を引きずる程度で問題はなかったが、走るとバランスを崩し、すぐに転んでしまうほどだった。

また、庇って歩くため、歩行に負担がかかることをすると、夜、疼痛に悩まされることが日常茶飯事だった。

チャウは、小児喘息程ひどくはないが、喘息持ちで、激しい運動をしたり、温度差やほこりなど空気が変るとひどく咳き込んでいた。

生家は貧困家庭の農家で衛生状態が良くなかったので、それが起因している上に、組織の不衛生極まりない店で閉じ込められていたため、埃アレルギーから悪化してしまっていた。

そのいつ起こるかわからない喘息の発作のため、薬や喘息を押さえる吸入器を常に持ち歩いていた。


圭太は、二人のために、医学雑誌を買い込み読み耽ったり、専門の病院などを調べていた。

その話をギエから聞いた弥七と銀子は圭太のことを不憫に感じていた。

「圭太さん、一生懸命、タムやチャウの身体のことを考えているのに、二人の心が開かないなんて。

それと、やはりギエさんが教えてくれたんだけど。」

「ん?」

弥七は銀子の話に興味があるようだった。

「ちびちゃんたち、来た頃はベッドの上で膝を抱えて座って寝てたんだって。」

「座ったままでか?」

弥七は驚きを隠せなかった。

「最近は、横になって寝るようになったんだけど、ベッドの隅で縮こまって寝ているそうよ。」

「そうか、二人にとっては、この屋敷もまだ安心できるところじゃないんだ。」

銀子はやり切れないというような顔をした。

「まあ、仕方ないだろう。

 若のことは、若本人もわかって引き取ったんだから。

 とはいうものの、タムもチャウもいい子だから、早く若に対しても、この屋敷についても安心できるんだって思って欲しいよな。」

銀子は“その通り”と言うように頷いた。


「そう言えば、榎本の坊ちゃん、ちゃんと働いているの?」

「ああ、それが面白いくらいに真面目にやっているよ。」

榎本幸喜はチョウの店で酒と怪しいタバコを吸った上、女性を二人買ったということが親や会社に知れ渡り、その影響で圭太の会社との業務提携は白紙となり、本人は親に勘当され会社も首になっていた。

買った女性の内、一人は、その当日に榎本のところから逃げ出し、組織に追われることになったが、その後のことはわかっていない。

残った一人は、幸喜のことをどう思っているのかわからないが、たぶん傍に居た方が安全だと思ったのか、逃げ出すことはせずに幸喜にずっと寄り添っていた。

幸喜の方は、その女性のことが心底気に入ったのか、別れるように親や会社から忠告を受けたが従わず、結果的にそれが会社を追われる原因となった。

勘当され収入もなくなった幸喜は、当然、それまで住んでいた豪華なマンションを追い出され、安いアパートに二人で転がり込ことになった。

生活費も少しの貯金から細々と暮らしていたが、引っ越し費用や家賃、二人分の生活費であっという間に底をつき、圭太を頼ってやってくると、平社員でなんでもやるから雇って欲しいと真剣な顔で頭を下げてきたので、仕方なく圭太は一般社員として雇用していた。

その裏に、幸喜の親から幸喜が頼ってきたらチャンスを与えてほしいと親の間で話しが付いていたので、圭太としても特に異論はなかった。

「そうなんだ、その人にほれ込んだんだね。

 やはり、好きな女性が出来ると男って変わるのかしらね。」

銀子は面白そうに言った。

「そう、今では、女の方もドラ息子に心が傾いたみたいだよ。」

「でも、あの坊ちゃん、V国語一切できないんでしょ?」

「ああ、日本語オンリーさ。

 でも、身ぶり手ぶりで一生懸命らしいよ。

 ジェスチャーゲームが。」

「へえ。」


弥七と銀子が話していると庭のプールの方から子供の楽しそうな声が聞えてきた。

「タムとチャウか?」

「ええ、暑くなったからって、ギエさんが二人に水着を買ってあげて、勉強の合間に遊ばせているの。」

銀子が嬉しそうにタムとチャウのはしゃぐ声の方を向いて言った。

「タムとチャウを引き取ってから2か月か。

 あっという間だな。

 それに二人ともあんなに元気になって。」

「そうなのよ、見違えるほど元気になって。

 体重なんて二人とも5キロも増えたのよ!

 もう、びっくり。」

「へぇ、5キロもか。」

弥七が驚いた声を上げた。

「あ、でも、まだ10歳の標準体重には程遠いわ。

 ここに来た時、二人とも7歳児の平均体重くらいしかなかったのよ。

 身長も低いし…。

 でも、ここでたくさん食べてすくすく育てば、すぐに追いつくわよ。」

銀子は自分を納得させるように頷いて見せた。

「まあ、食べ物には困らないからな。

 若にしっかり働いてもらわなければだけど。」

「うふふ。」

「ところで、若もプールかな?」

「ううん。」

銀子が首を左右に振った。

「圭太さん、タムちゃん、チャウちゃんがプール遊びをしている時は、近づかないそうよ。」

「え?

 あのプール好きな、若が?」

「ええ。

 自分がいると二人は入れないからだって。

 それに二人の楽しそうなはしゃぐ声が聞こえるだけで満足なんですって。

 あの子たち、プールなんて平日もあるのにね。」

「まあ、若はそういうところがあるな…。

 あの子たちの楽しそうな声を聞くだけで満足しているのか。

 …

 でも、若は、本当のところどういうつもりであの子たちを引き取ったんだろう。

 例のお告げがあったっていうけど。」

弥七は頭をひねった。

「まあ、弥七さん。

 そんなに深く考えることないわよ。

 気にしない、気にしない。」

「え?」

気楽に答える銀子を弥七は呆然と眺めていた。


8月に入ったある日、圭太、弥七、銀子の揃っているリビングに、タムとチャウは圭太から呼ばれ、ギエに連れられて入って来た。

タムとチャウは以前ほどではないが、相変らず圭太を見ると警戒するようなそぶりを見せ、顔や体をこわばらせていた。

(まだまだかな…)

(そんなことないわよ。

 あれでも随分ましになって来たんだから)

圭太達に聞こえないように弥七と銀子は小さな声で圭太に対するタムとチャウの態度について話していた。

「さて、タムとチャウが揃ったところで、二人に話があります。」

圭太は座ったまま話し始めた。


「いろいろと手続きが大変だったけど、弥七さんと銀子さんが頑張ってくれて、やっと、小学校に編入手続きが終わりました。

 なので、9月から二人には小学校に通ってもらいます。」

圭太がそう言うと、タムとチャウは二人で顔を見つめ合った

「がっこう…?」

「がっこう…。」

「小学校?」

「小学校。」

二人はオウム返しのように言い合った。

「そうよ、小学校の5年生のクラスに編入です。」

ギエが、タムとチャウに声をかけた。

タムとチャウは、ギエの方を見上げ、まだ、現実が理解できていない顔をしていた。

「小学校に通えるの?」

「小学校に通っていいの?」

その自分達の言葉を噛みしめるように、タムとチャウはすがるような目でギエを見た。

「そうよ、小学校に通います。」

ギエがそう言うと二人はやっと飲み込めたようにお互いの顔を見ると、声にならない声を上げてお互いを抱き合い、キャッキャッとその場でぴょんぴょんと跳ねて見せた。

圭太や弥七、銀子は嬉しそうに飛び跳ねている二人を見て顔をほころばせていた。

「これ、二人とも。

 圭太様たちがいるところではしゃがないの。

タムはまた足が痛くなるでしょ。

チャウは埃が待って喘息の発作を起こすからやめなさい。」

「はい。」

ギエのひと言で二人は飛び跳ねるのをやめて、きちんと並びなおした。

「タム、チャウ、圭太様にお礼を言いなさい。」

ギエがそう言うと、タムとチャウは困った顔をして固まっていた。

「ほら、二人とも、お礼は。」

ギエにきつく言われ、二人は強張った顔で圭太にお辞儀をした。

「“ありがとうございます”は言えないの?」

ギエが尚も二人に言うのを圭太は遮った。

「ギエさん、その辺で。」

圭太のひと言で、ギエは黙って引き下がった。


「で、タム、チャウ。

 最初の約束、憶えているかな?

 この屋敷の住人として恥ずかしくないように、学校でもいい成績を取ることっていう約束を。」

タムとチャウは頷いて見せた。

「君たちは4年までの授業を受けていないというハンデがあるがここ2か月、家庭教師と銀子さん、クエンさんにみっちり読み書きを教えてもらったので教科書の読み書きは出来るようになったと思う。

これからは学校の授業と並行して今と同様に家庭教師を雇って4年生までの授業のおさらいをやってもらいます。

 そのため、学校の授業が終わったら、遊ばずに真っ直ぐ屋敷に戻り、勉強と屋敷の仕事をやってもらいます。

 いいですね。」

圭太がそう言うとタムとチャウは大きく頷いた。

二人の村は貧しい村で半数の家庭位しか小学校に通えなかった。

それでも、楽しそうに通っている同年配の子供たちを横目で見ていた二人にとっては、夢にまで見た小学校だった。

その後、圭太に部屋に戻るように言われ二人はギエの後を心なしか軽やかな足取りで付いていた。

「まあ、二人とも嬉しそうなこと。」

二人の後姿を見送りながら銀子は嬉しそうにつぶやいた。

「で、銀子さん。

 すみませんが、学校が始まっても、しばらくは二人の先生をお願いしますね。

 クエンにも頼まなくっちゃ。」

「わかってますって。

 あの二人、ちゃんと勉強しているんだけど、クエンが教えると嬉しそうだし、すごく飲み込みが早くて。

 教え方がきっと上手なのね。」

銀子はそう言いながら圭太の頼みに大きく頷くと、圭太は今度は弥七の方を向いた。


「弥七さん、あれからあいつらの動きはどう?」

「あいつらって、あの人身売買の組織のこと?」

銀子は真顔になって横から口を挟んだ。

弥七は銀子に頷いて見せた。

「相変わらず、あの店で商売しています。

 それよりも、あいつらV国のギャングではなくバックにC国のギャングが付いていて、結構大きな組織ですので、侮れません。

 若のところにも、例のチョウから電話が入っていたみたいですが。」

「ああ、あれから2,3回電話が来たな。

 新しい子が入ったから、一緒に店に行かないかって。

 今は仕事が忙しいからとやんわり断わってはいるがね。」

「賢明です。」

「それより、どう思う?

 二人を小学校に通わせて。」

「あ…。」

銀子は話の内容がやっとわかった。

今までタムとチャウは屋敷の中、外出と言っても近所のスーパーにギエと行くくらいで、常にギエの目が光っていたが、小学校に通うようになるとさすがにギエの目は届かなくなる。

そこに組織の連中が来たらと言うことを圭太は懸念していた。

「はい、私が化けていた客がその後屋敷の中で見つかりチョウっとした騒ぎになって、一時、組織の連中が血眼になって私のことを探していたのですが、最近はトーンダウンしてきました。

 まあ、お金を払っているし、その後、何も起きないのですから。

 大方、好き者が化けて潜入し、気に入った女の子を買って帰ったんだろうと思い始めています。

 学校の通学路と組織の屋敷は正反対で、距離もかなり離れていますので、蜂合わせることはないと思いますし、それにあの時と、タムとチャウは見分けがつかないほど変わっていますのでわからないかと思います。」

「じゃあ、二人にガードを付けて通わせなくてもいいということかな。」

「はい、そう思います。」


二人の話を聞いていた銀子が口を挟んだ。

「あの、すみません。

 もしよかったら、最初の頃だけ、私がついて行ってもいいでしょうか。」

「いや、それには及ばない。

 ギエに最初はよく見張ってくれと頼んでおいたから。」

「え?

 ギエさんに…。」

銀子は、しばらく考え込んでから納得した顔をした。

「わかりました。

 ギエさんなら大丈夫ですね。」

「ああ、ギエったら、二人が小学校に着ていく服を買いに行ったり、バッグやいろいろな小物含めて、嬉しそうに買い揃えていたよ。」

「ギエさん、面倒見がいいからな。」

「ほんと。

 いつもはクールなのにね。」

3人はそう言って笑いあっていた。


人身売買をやっている組織は、弥七の言った通り、弥七がすり替わった男性客が、その夜、店の片づけをしている時間に倉庫から見つかり大騒ぎになって、すり替わった弥七のことを夢中になって探していた。

しかし、弥七は変装し、手袋をしていたので、一切痕跡を残さず、探す方も途方に暮れていた。

唯一の手掛かりと言えば、タムとチャウだったが、健康状態から長くはもたないと考えていたので、1ヶ月くらい、組織は二人を探していたが当然のこと見つからず、また、弥七を警察や他の組織の人間と疑っていたが、何も動きがなかったので、だんだんと関心が薄れていっていた。

但し、チョウは、二人が死んだ確証もないので一部の部下に続けて探すように指示をしていた。

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