第7話 タムとチャウ
退社時間の17時になると、圭太は真っ先に会社を出て銀子の待っている車に乗り込んだ。
「子供たちの具合はどうだった?」
車が動き始めるとすぐに圭太は銀子に尋ねた。
「はい、まだ意識は戻りませんが、だいぶ安定してきて、これなら乗り切れると医師が言っていました。
詳しい話は、また後でご報告します。」
「そうか、何とかなりそうか。」
圭太は安どのため息を小さくついた
しばらくすると、圭太のスマートフォンが鳴って、メールが届いたことを圭太に知らせた。
圭太はスマートフォンで届いたメールを読み終わると、また、正面を向いた。
「どなたから?」
銀子は運転しながらバックミラー越しに後ろの席の圭太に話しかける。
「うん、弥七さんから。
あと少しでこっちに着くって。
19時ごろ会えないかって言うから、我家でいいよって返信しておいた。」
「そうなんですか。
じゃあ、私も一旦車を置いてから、その時間に伺います。」
「わかった。」
その夜19時には圭太の屋敷の居間に、弥七と銀子、それにギエが集まっていた。
「弥七さん、ご苦労様。
で、報告というのは?」
弥七は目の前に出されたビールを一口飲むと手帳を取り出した。
「今日は、昨日の二人の身元の洗い出しに行ってきました。」
「早い…、で、わかったのか。」
いつものように手早い弥七の働きに、圭太は今更ながらに舌を巻いた。
「ええ、昨晩、あの店に忍び込んで二人の身元の特定になるようなものを見つけたのでそのまま。
二人とも、ここから車で9時間位の農村に家がありました。」
「9時間?
弥七さん、寝てないんじゃないの?」
銀子が驚いた声を出した。
「途中途中で休んだから大丈夫。
で、あの子たちの家は両方とも思った通り貧乏で、酷い有様でした。
子供たちは、学校にも行けず、ひたすら農業の手伝いや家の手伝いでこき使われ、少し大きくなると、昨晩みたいに売り飛ばされる始末です。」
「あの子たちの両親は?
会いたがっているんじゃないか?」
圭太がそう聞くと、弥七はかぶりを振った。
「いや、まったく。
逆に連れてこようかと言ったら、売った奴らから金を返せと言われるのでやめてくれって。
それに、そんな汚いところに売った子供は、戻って来ても村八分だってさ。」
「じゃあ?」
「ああ、子供たちに何の愛情も愛着もないし、引き取る気は、毛頭ないから好きにしてくれと言っていました。」
「実の子供だろ…。
本心からか?」
圭太は半信半疑で聞くと、弥七は無言で頷いた。
「ひどい…。」
銀子が呟いた。
「では、よくなったら孤児院か。」
圭太が眉間に皺を寄せた。
「ばかか。
孤児院なんかに入れたら、また、すぐに売り飛ばされるよ。
ここら辺の孤児院はつねにいっぱいだからな。」
「そうなんだ…。」
圭太は、その先、子供たちが退院した後のことを考えられなかった。
そんな圭太をギエは黙って見ていた。
「で、二人の名前は?」
「まず、足を引きづっていたのが『タム』で、咳をしていたのが『チャウ』。
どちらも、10歳だそうだ。」
「え?
10歳?
あそこでは7歳って言っていたのに。」
「そうね、痩せて小柄だから7歳でも通るわね。」
銀子は、子供たちのガリガリに痩せた体形を思い出していた。
「実のところ、俺も驚いたよ。
ろくな食べ物を食べていなかったせいだろう。」
弥七は両手の手のひらを上に向け、小首をかしげた。
「そうか、おおかた、状況は分かった。
銀子さん、病院の子供たちの様子は?」
「ええ、さっきクエンから電話があって、私たちが帰った後、様態を持ち直したそうよ。」
銀子は圭太の屋敷に集まるため自分の代わりに会社がひけた後、クエンに様子を見に行かせていた。
「薬が効いてきたのか、熱はあるけれど38度くらいに下がったそうよ。
昨晩運び込んだ時は40度だったからね。
原因は、やはり皮膚の傷から雑菌が体に入り込んだ感染症だそうよ。
それに栄養失調で抵抗力もないので、医者もさじを投げかけていたんだって。
ともかく、身体を消毒し、抗生物質と栄養剤を点滴しているそうよ。
ほらICUで腕に点滴の針が刺さっていたでしょ。
それから容態が落ち着いて来たので、午後からまた、検査をしたらしいの。」
「それで?」
「足を引きづっていた子、“タム”は、右の足首から下に障害があるそうよ。
重度ではなく、歩くのであれば大丈夫だけど、走るのは難しいみたい。
日常生活でも痛みがあるらしいの。
咳をしていた子、“チャウ”だっけ?
肺炎を患ったことがあるのか、肺に影があるのと、喘息気味らしいの。
肺の影は特に問題なく、大きくなれば薄れていくそうよ。」
「ふう。」
弥七がため息をつく。
「喘息持ちに障害ありか。
ますます、孤児院では引き取ってくれないな。」
「あと、熱が40度以上出たので、脳に障害が出るかも知れないと先生が言っていたそうよ。」
「あちゃー。」
弥七は右手で顔を覆った。
「…。」
圭太は、銀子や弥七の話を黙って聞いていたが、何かを考えているようだった。
そして、ギエは圭太を黙って見つめていた。
「弥七さん、銀子さん、昨日からご苦労様でした。
ともかく二人の意識が戻らないと何も進めないことがわかりました。
今は、二人の回復を待ちましょう。
先のことは、それから考えましょう。」
圭太がそう言うと弥七と銀子は頷いたが、ギエだけは無表情に圭太を見つめるだけだった。
「そう言えば、若。
例の馬鹿息子の話、聞きましたか?」
「榎本のことか?」
弥七は黙って頷く。
「今日、会社に何度も電話をかけてきたんだが、外に出ていていないとクエンに言ってもらったら、それから掛かってこなくなったな。」
「しばらくは、何かに理由を付けて居留守を使ってください。」
「どうかしたのか?」
「あのドラ息子、昨晩、二人も女を買って帰ったじゃないですか。
その一人が昨晩姿を消したらしいです。
何故逃がしたんだって、組織の人間が怒っているらしいですよ。
あのドラ息子、V国に来て2年も経つのに、現地語、何一つわからないし、話せないから、それで一人は何を言っても通じないと逃げたらしいんですが、もっと始末に悪いことに、あの坊ちゃん、女を買ったという意味をわからなかったみたいで、単なる売春婦としか見ていなかったようです。
ようやく人身売買で身体ごと買ったということが分かったようで、身の危険を感じたのでしょうか、親に泣きついて大騒ぎになっているようです。」
「そうか、親に泣きつく前に、俺のところに電話してきたって言う訳だね。」
圭太は榎本から再三にわたってかかってきた電話の理由が分かった気がした。
「そのようです。
組織は逃げた女を探しているのと、ドラ息子にも口外するなと圧力をかけているらしいです。
若も、大丈夫だとは思うのですが昨晩お買い物をしなかったので良く思われていないのと、3人をドラ息子の家まで送って行ったじゃないですか。
逃げる手助けをしたんじゃないかと疑われるかもしれませんので、しばらくは出ない方が良いかと思います。」
「わかった、そうしよう。」
圭太は弥七の言うことに頷いて見せた。
それから圭太は、弥七の忠告に従い、不要な外出は避け、家と会社の往復のみに控えていた。
タムとチャウの容態は安定し、順調に熱も下がったが、意識は戻っていなかった。
そして、病院に担ぎ込まれてから3日が過ぎた頃、二人は申し示したように相次いで目を覚ました。
その報を受けて夜に、また圭太の屋敷に弥七と銀子が集まっていた。
「チビちゃんたち、目を覚ましたんだって?」
弥七が嬉しそうな顔をして銀子に尋ねた。
「ええ、今日、午前中に二人とも目を覚ましたんですって。
病院から連絡を受けて、行ってきたわよ。
目を覚ました直後は、機械がたくさん置いてある部屋で、自分達の身体にいろいろな装置が付いているでしょ。
それに、腕に点滴の針が刺さっていて、酸素マスクされていて、パニックになって暴れたらしいの。
まあ、お医者さんも看護婦さんもそうなることは見越していたみたいで、すぐに落ち着かせたそうよ。
話しも出来て、自分の名前も言えたそう。
心配していた脳に障害も大丈夫そうだって。
今日1日、ICUで様子見て、大丈夫そうだったら、明日から一般病棟に移すって言っていたわ。」
「そうか。
じゃあ、山は越えたわけだね。」
圭太も安堵の声をあげた。
「で、これから一般病棟に移って、どうするのか。」
「うん、一般病棟に移っても、身体の衰弱は激しいし、別の感染症も恐れもあるから、まだまだ入院が必要だそうよ。
それに、まだ、脳や他のところも所見だけなので、きちんと検査をしなければならないって。
だから、2,3週間の入院は必要と言っていたわ。」
「そうか。
二人とも立場が微妙だし、どうせ、親は医療保険のお金も払っていないから、実費だな。
入院が、まあ、20日として、あと治療費、それを2人分だとこうなるか。」
弥七は電卓をたたいて、結果を圭太に見せた。
圭太も、想像していた額だったのか、渋い顔をして頷いた。
「これは、親父さんに出してもらう訳にもいかないし、会社の経費と言う訳にはいかないよな。
若、貯金、少しくらいあるんだろ?
足りない分は、ボーナス払いと言うことで。」
弥七がそう言うと、圭太はうな垂れて「わかった」と返事をした。
銀子は、圭太の態度が面白いのかケタケタと笑っていたが、ギエは相変わらず無表情で圭太を見つめていた。
二人が一般病棟に移ったその日は朝から良い天気だったが風があり、その風がスモッグを晴らしたのか珍しく綺麗な青空が見えていた。
丁度仕事が一段落した午後の3時頃、クエンが圭太にコーヒーを運ぶと圭太に声をかけられた。
「クエン、今日、予定ある?」
「え?」
「会社が終わってからだけど、何か予定はある?」
(なんだろう)
食事の誘いとか、そんな甘い誘いではない雰囲気だったのでクエンは訝った。
「はい、ボス。
空いていますけど、なんでしょうか?」
「うん。
例の二人の女の子なんだけど、今日、一般病棟に移る予定なんだ。
銀子さんは別件で用事があるので、代わりに二人の様子を見て来てくれないかと思って。
あ、特に何をって言う訳じゃなく、ただ、ちゃんと一般病棟に移ったかどうかを確かめてきてくれるだけでいいんだ。
当然、時間外手当を請求していいので。」
圭太は断られるかなと思いながらクエンの顔を見たが、クエンの顔は逆にぱっと明るくなった。
「え?
タムちゃんとチャウちゃんですか?
私、行っていいんですか?」
クエンは二人がどういう状況だったのか、詳しく銀子から聞いていた。
子供好きのクエンは、ICUの時に見に行ったきりだったので、心配していたところに思っても見なかった圭太の言葉だった。
「ああ、頼めるかな。」
「はい、ボス。
喜んで。
それと、時間外手当はいりませんので、今度、また、美味しいものを食べに連れて行ってくださいね。」
「ああ、喜んで。」
にっこり笑うクエンに、圭太も顔を崩した。
病院に着くとクエンは、看護婦に二人が移された病室に案内された。
二人が入った病室は3人部屋だったが、たまたまタムとチャウの二人だけだった。
病室の中は新しい病院なのか明るく綺麗だった。
二人は病室の窓際にチャムが、真ん中のベッドにはタムが寝ていた。
クエンと看護婦が病室に入ると、看護婦が二人を見てクエンの方に振り返った。
「二人とも寝ているようです。
今日、ICUから出てきてこちらの病室に移ったばかりなので、疲れたんでしょう。
熱はだいぶ下がったのですが、まだ完全に下がり切っていません。
でも、抗生物質が利いて皮膚炎も感染症も治まって来ました。」
「そうですか、ありがとうございます。
少し、二人の顔を見ていていいですか?」
「はい、構いませんよ。
ただ、まだ、精神的に不安定なので、目を覚まして何かあったら、そこのベルを押してくださいね。」
そう言うと看護婦はクエンを病室に残し出て行った。
クエンはタムとチャウの寝ているベッドの間に進み、二人の寝顔を交互に見た。
一度、ICUに入っている時、窓越しで二人を見たことはあったが、間近で見るのは初めてだった。
二人はどことなく苦しそうな寝顔をしていた。
「こんな小さな子が。
これで本当に10歳なの?」
二人のやせ細った顔や点滴のために布団から出ているか細い腕を見て目頭が熱くなるのを感じた。
「……」
身じろぎする音でクエンがタムの方を見ると、タムは目を開け、じっとクエンの顔を見ていた。
「あ…」
クエンが何か話しかけようとしたが、タムの顔が怯えたように歪んで行くのを見て、急いでタムの枕元に行き、タムの頭の下に手を回しタムを抱きしめた。
「タムちゃん、大丈夫。
怖くないよ。」
タムはクエンの胸に顔を埋めるようにして深呼吸をすると小さなため息を吐き、大人しくなった。
クエンはそっとタムを抱きしめる腕を解いてタムの顔を見た。
タムはつぶらな瞳でじっとクエンの顔を見ていた。
「おねえさんは?」
それがタムの第一声だった。
「お姉さん?
ああ、私ね。
私はクエンよ。
よろしくね。」
「クエン?」
「そう、クエン。
あなた達の味方よ。」
「味方?」
「そう、だから安心して。」
タムは何の疑いもなくクエンに頷いて見せた。
クエンが優しくタムの頭を撫でると、タムは嬉しそうな顔をした。
「クエン?」
今度は、チャウの方から声が聞え、クエンはチャウの方を見るとチャウのつぶらな瞳がクエンの方をじっと見ていた。
チャウは、タムが目を覚ましたのとほぼ同じ時に目を覚まし、タムとクエンのやり取りを聞いていた。
「チャウね。
クエンよ。
よろしくね。」
そう言ってクエンは、今度はチャウの頭を優しく撫でると、チャウもうれしそうな顔をして頷いて見せた。
そして二人ともクエンの頭を撫でられていると気持ちよさそうに目を閉じ、今度は安心したような柔らかな顔で再び眠りについた。
その時から、タムとチャウは銀子とクエンに心を許すようになった.
一般病棟に移ってから1週間たつと、タムとチャウはどんどんと良くなり、元気になって行った。
銀子とクエンは一般病棟に移ってから交代交代に、毎日二人の様子を見に病院に通っていたが、特にクエンは、自分になついてくるタムとチャウが可愛くて仕方なく、パジャマを買って着替えさせたり、甲斐甲斐しく面倒を見ていた。
「やっほー、タム、チャウ、今日は具合はどうかな?」
クエンは大きな紙袋を持ってタムとチャウの病室に入って来た。
「あ、クエン。」
「クエンだ。」
タムとチャウははちきれんばかりの笑顔をクエンに見せた。
二人ともその日ようやくとベッドの上で座れるようになり、クエンが見た時もベッドの上で座っているところだった。
「ベッドの上で、お座りできるようになったんだ。
良かったわね。」
「うん。」
「でも、まだ、フラフラするのよ。」
タムとチャウは優しく美人のクエンが大好きだった。
「まだ、仕方ないわよ。
ちゃんとお医者さんの言うこと聞いて、いい子にしていないと。」
「はーい。」
「クエン、何を持ってきたの?」
チャウは興味津々の顔でクエンの持ってきた紙袋を見つめた。
「え?
ああ、これね。
ほら、じゃーん。」
そう言ってクエンは紙袋から女児用のパジャマを出した。
「この水色の花柄パジャマはタムに、こっちのピンク色の花柄パジャマはチャウに、ね。」
それは同じ柄で色違いの可愛らしいパジャマだった。
「わー、可愛い。」
「私たちに?」
「そうよ。
看護婦さんが柔らかい生地のパジャマならいいって言ってくれたのよ。
だからね、洗って持ってきたの。」
「ありがとう、クエン。」
「ありがとう。」
「どういたしまして。
じゃあ、早速着替えようか。
まずは、タムからね。」
クエンはそう言うと、タムの甚平のような入院着を脱がせた。
タムもチャウも入院着を脱いで裸になると、あばら骨が浮き出るほどガリガリに痩せていた。
(こんなに痩せて、可哀想に)
クエンは目頭が熱くなるのを感じた。
「あら、クエンさん。
言ってくだされば、私たちの方で着替えさせますのに。」
看護婦が病室に入って来て、パジャマに着替えさせているクエンを見て微笑みながら声をかけてくる。
「大丈夫です。
田舎にいる妹たちの着替えも良く手伝っていたので。」
クエンはそう言うと看護婦に微笑み返した。
タムとチャウは大人しくクエンの言うことを聞いて新しい花柄のパジャマに着替え嬉しそうな顔をした。
「これでよしっと。
少し大きいかな?」
クエンは二人の年齢を銀子から聞いていたので年相応の大きさのパジャマを買ってきたが二人とも小柄だったので、袖で手首から先が隠れるようだった。
クエンは優しく二人のパジャマの袖を折って長さの調節をした。
「クエン、ありがとう。」
「クエンて、綺麗だし、いい匂いがする。
私、大好き。」
チャウはクエンの匂いを嗅ぐようにして言った。
「え?」
「本当、クエンって優しいいい香りがするの。
大好き。
それに、このパジャマも良い匂いがする。」
タムもパジャマの匂いを嗅ぎながら嬉しそうな顔をした。
V国は料理に様々な香草やスパイスを入れ、女性は特にその料理を好んで食べていた。
その香草やスパイスのせいで血流がよく新陳代謝を促していたので、女性のスタイルは良く、また身体から良い匂いの香草の香りを体臭として漂わせている女性が多かった。
クエンもその一人で、香水ではなく身体からは爽やかで優しい香りがしていた。
タムとチャウは、クエンの香りと洗い立てのパジャマの匂いで、とても幸せそうな顔をしていた。
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