ちいちゃん
亜峰ヒロ
ちいちゃん
唇の隙間から、古くなった息を吐き出し、新鮮な空気を吸い込む。誰にでもできるであろう、たったそれだけの行為が、少女にはどうしてもできなかった。小さな唇をどれだけ大きく開こうとも、どんなにお腹に力を籠めようとも、小さな泡でさえ流れ込んではこない。
報われない努力を必死に続ける少女を嘲笑うように、肺に僅かばかり残っていた空気が唇を潜り抜けていく。見せつけるようにゆったりと、上へ、上へ、揺れながら昇っていく。
少女の肺の中は水で満ちていた。それしかなく、少女の矮躯を包み込んだ世界さえも水で満ちていた。滔々と流れる大河のような豊かさはなく、厳粛さはなく、激情のままに荒れ狂う人の心を表したかのような奔流だった。平衡感覚はとうに失われ、どちらが上でどちらが下なのか、どこに向かえば水面に達することができるのか、それさえも少女には分からなかった。
よしんば分かったところで、そうするだけの余力が残されていないことも確かだった。
薄く青みがかった、白妙のワンピース。少女のお気に入りだったその服は、今や水を吸って重くなり、肢体の自由を抑圧する枷に他ならなかった。
冷え切った体は針に貫かれるような痛みを脳に伝えるのに、それさえも徐々に褪せていく。明晰夢を視るときに似た、どこか浮ついた酩酊感に流され、少女は瞼を下ろした。
聞こえるのはただひとつ。弱々しくさえずる、自分の鼓動だけ。
ふと、少女は緩慢な動きで目を開けた。聞こえるはずのない声が聞こえた気がして、懐かしさに、一粒の涙を落とす。少女の心は周囲と混ざり合い、溶け、どこと知れぬ場所に流されていく。
そうして少女は、瞳を揺らめかせた。意識を手放す寸前に少女が感じたのは、水の勢いでも冷たさでもなく、悲しみでも未練でもなく――ぬめりを孕んだ、硬い鱗だった。
× ×
龍神様の御許に送られた精霊は、来世での安寧を約束される。
龍神様が摘み取られた精霊は眷属となり、一度だけ思い人と会うことを許される。
古来より交わされてきた神様と人間の契りだと、破られることは決してないと、違われることはないと言い聞かされてきた。だから私は待ち望んだ。悲しみを噛み砕き、懊悩を拭い捨て、笑って再会できるように待ち続けた。
「龍神様なんて、嘘っぱちよ」
焚き上げられた護摩の炎を眺めながら吐き捨てるように呟くと、隣でコースケが顔をしかめた。コースケは無言で私の手を握り、揺らぐ炎をそっと見つめる。夏の湿った風が護摩の炎をさらい、火の粉の雨をはらはらと降らせる。おぼろ月の光と炎の強烈な明りが交錯する顔を持ち上げ、コースケは開口した。
「龍神様は嘘なんか吐かないよ」
「いい子ちゃんの答えなんていらない」
ふてくされた声音で詰ると、コースケはばつが悪そうに目を泳がせた。
「コースケの家はあんなだから、いい子でいたいのは分かるけど」
護摩壇の前で祝詞を唱える男性は、コースケの祖父だ。
「本音を言って。建前じゃなくて」
「……そうだね。龍神様は嘘つきだ」
私が望んで、私が言わせたことなのに、コースケからそんな言葉を聞きたくなかったと思うのは勝手だろう。それでも私は「嘘じゃない」と諭して欲しかった。コースケが言えば、本当になりそうだから。わがままな私は、そっとコースケの腕を引き寄せる。
「抱いて」
コースケは逡巡し、気恥ずかしそうに顔を俯かせてから私の肩を引き寄せた。彼の気骨をそのまま反映したような逞しい手が頭に載せられ、次いで髪を撫でられる。あやされるように、宥められるように、母親がいじけた子供にするように――コースケは私の髪を梳く。
「龍神様なんて、嘘っぱちよ」
吐息とともに出てきたのは、またも代わり映えのない言葉だった。
「だって……」
――だって、ちいちゃんは私に会いに来なかった。
私だけじゃない。おじさんにもおばさんにも、コースケにだって会いに来なかった。
龍神様は、ちいちゃんを遣わしてくれなかった。
私の手足がすらりと長くなり、胸が膨らみ、子供から大人になってもちいちゃんは会いに来なかった。大人になったちいちゃんどころか、子供のままの彼女さえ――
ちいちゃんが大好きだったコースケ。コースケもちいちゃんが大好きだった。
だから私はコースケに彼氏になってもらった。そうすれば、
「だめだよ……こうちゃんはわたしのおむこさんになるんだから」
水風船みたいに頬を膨らませ、泣きそうになりながらも文句を言いに来ると思ったから。
背中まであった髪をばっさりと切った。髪はまた伸びてしまうから金色に染めた。
ちいちゃんと私はいつも真似っこだったから。
ちいちゃんがピンクのサンダルを履いたら私も履いた。私がキャミソールを着始めたら、次の日からちいちゃんも着るようになった。私は恥ずかしくなんてなかったけど、ちいちゃんは頬を桜色にしながらもじもじしていた。それが可愛らしくて、愛おしくて、抱き締めたらちいちゃんはもっと委縮していた。
そんな情景を心に浮かべ、金髪になったちいちゃんを抱き締めようと心を躍らせながらヘアカラー片手に待ち続けたけれど、ちいちゃんは髪を染めに来なかった。
ちいちゃん、体が小さかったからちいちゃん。本名よりも親しんだあだ名を口にすると、口の中いっぱいに得も言われぬ感慨が滲む。
ちいちゃんとコースケと私。どこにいても、どこに行っても一緒。
コースケの家で座禅の真似事をしたり、ちいちゃんの家で黄金のようなとうもろこしをもいだり、私の家で色とりどりの絵を描いたり。春には草原を駆け回り、秋には山で木の実を集め、冬には白く彩られた山でそりに乗り、夏には龍神様に見守られながら白蛇川に潜った。
――蛇、白蛇、白くなった蛇、蛇の抜け殻。脱ぎ捨てられた衣から生まれるのは、衣を失った蛇、新しい生命。生命の――再生。
細くせり出した一角岩から飛び出すと、わずかな浮遊感の後に、冷たい感触が全身を包み込む。心の片隅を掠めた不安感はたちまち拭われ、心地よさでいっぱいになる。
――川、白蛇川、龍神様の加護を受けた川。私達に褪せることのない思い出をくれて、私達に途絶えることのない絆をもたらしてくれて、私から、コースケからちいちゃんを奪った憎たらしい神様の住まう川。ちいちゃんを摘み取った、憎たらしい神様が統べる川。
今でもはっきりと脳裏に焼き付いて離れない、あの光景。
ちいちゃんという燈火を失い、河原に横たわっていた骸。
何が起こったのか分からなくて、現実を理解したくなくて、私はちいちゃんだったものを前にして茫然と立ち竦んでいた。目を閉じれば、ちいちゃんの姿が浮かび上がる。私の中の彼女は頬をほころばせて笑っているのに、目の前に横たわった彼女は能面でも被っているのではないかと疑ってしまうほど、ひどく、無表情だった。
ぐらぐらと、私の中で何かが揺れる。
揺れて、崩れる。
崩れて、壊れる。
夏の終わりに訪れた夕立のような勢いで、何かが消える。
人は死ぬ。生きているからこそ人は死ぬ。それは人に限らず、この世界にあまねく全ての命に対して終わりは訪れる。いつだって世界のどこかで誰かが死んでいて、いつでも見えないところで命は消えている。そんなことはずっと前から理解していたつもりだった。
けれど、私は何も分かっていなかった。
『死』という言葉の概念は理解していても、本質はまるで見えていなかった。
ちいちゃんの体はそこにあるのに、ちいちゃんの体を動かすものがそこにはない。それを魂と呼ぶのか、精神とするのかは分からないけれど、肉体という
悲しいけれど、認めたくないけれど、長考の果てに辿り着いた。
だけど、ちいちゃんの亡骸を前にした当時の私には、幼い子供だった私には『死』という概念はあまりにも大きすぎて、漠然としていて、何かよくないことだとしか分からなかった。
分からなくて、不思議だった。ちいちゃんの体はそこにあるのに、ちいちゃんはもういないなんて、そんなの不思議で、あまりにもおかしかった。認められなかった。
明日になれば、ちいちゃんはいつもと同じように笑っていて、私とコースケに会いに来て、一緒に学校に行き、一緒に遊ぶのだと思っていた。
だけど、しかして、ちいちゃんは骨になった。
見る影もない、面影など微塵も感じられない骨と灰になった。
こんなにも軽いものが、こんなに小さなものが、こんな――真っ白なものが、
「ちいちゃん?」
信じられない。人間がこんな形になるなんて、信じたくない。
信じたくなかった、けれど、私は唐突に理解した。
ちいちゃんは死んだのだと。
ちいちゃんは失われたのだと。
ゴンゴンと、ゴウゴウと、ちいちゃんの死を飲み込むにつれて、私の裡で何かが喧しく鳴り響く。鐘楼を打ち鳴らすような響きはだんだんと膨れ上がり、ひと際大きく叫び上げたかと思うと――――……私の心はちいちゃんでいっぱいになった。
一歩、大地に擦り付けるように踏み出して、体を前に運ぶ。
ちいちゃんを奪った川、ちいちゃんを奪われたときからずっと忌み嫌ってきた白蛇川に近付こうとすると、動悸は早鐘のように高鳴り、瞼の裏でチカチカと光が明滅する。コースケと繋いだ手に、知らず知らずのうちに力がこもる。絡ませた指は必死にコースケを手繰り寄せ、眩暈と吐き気が容赦なく襲い来る。
「…………無理だよ」
そう呟いても、コースケは決して手を離さなかった。むしろ、私の手を握る力を強めた。
コースケには諦める気がない。今まで看過してきた埋め合わせをさせるべく、今年こそは私に船を流させるつもりだ。逃げてきた私を、真正面から向き合わせようとしている。
精霊を送るための船――灯篭――を渡して「いってらっしゃい」とコースケは囁き、私の背中を押した。
私は、川に向き合う。神に対峙する。
コースケの吐息を浴びた耳たぶは熱いくらいに火照っているのに、私の前に広がった水面は恐ろしいまでに冷え冷えとしていた。
目を瞑る。ちいちゃんの笑顔が浮かぶ。心が静まった。
一息に、私は川に踏み入った。
不思議と、抵抗感が消えた。あれほどまでに怖れていた場所なのに、どこか心地よい。
膝裏をさらりさらりとくすぐりながら、足の間を水が流れていく。踏みしめる石の硬さ、なめらかな石肌の感触。何もかもが懐かしく、遠い想い出。
水の中に手を沈め、灯篭を浮かべる。灯篭はしばらくそこに浮かび、ゆったりとした動きで流れにさらわれて動き始めた。だんだん、だんだんと遠ざかっていく。ちいちゃんが私から遠ざかってしまった日のことを暗示するように、川の彼方へ流れていく。
「さよなら、ちいちゃん」
これまで決して言わなかった言葉、言うつもりのなかった言葉がするりと喉から滑り落ちた。熱く、狂おしい衝動が込み上げる。眦が、瞳が、心が爆発してしまいそうになる。
堪え切れなくなる前に川を出ようと、踵を返した、その時――
耳元で、どこか懐かしい、銀糸を鳴らすような笑い声が聞こえた気がしたけれど、私は振り返らなかった。代わりに、笑う。涙でぐしゃぐしゃの、不格好な笑顔を浮かべる。
私とちいちゃんは、真似っこだから。
ちいちゃん 亜峰ヒロ @amine_novel_pr
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