第2話
仮に例えるなら、そこらの地面を掘ったらいくらでも代わりが出てくるような、時給三桁でバイトをする実家暮らしの大学生だった。
日頃は相応に真面目に大学に通い、週に二度三度と近所のファミレスで働いては、店長とパートのおばさんが不倫しているらしいと同僚と笑い合う、そんな生活。
酒もタバコもやらない。たまに誘われて、友人の家で麻雀に付き合う程度。
ただそれも『一局終わって誰がカモだか分からない』くらいの腕前なので、特段好き好んでいるわけでもなかった。
そのため、幸村がバイトで稼いだ給料は、最低限の生活費を抜いたほとんどが、自身の持つ趣味の方面へと注ぎ込まれることになる。
幸村の場合、その趣味とは『旅行』の部類を指した。
それも友人と行くのではない、言葉通りの一人旅。
なかでも好んで見て回るのは、各地に残る『城』の跡地が中心で、関東近隣の県を軸に長期休暇はもちろん、三日程度の連休があればこれ幸いにと遠出する。
もとより歴史の雑学、特に戦国時代の逸話にはそこそこ興味があったからだろう。
友人とたまたま観光に訪れた旅行先で、巨大な城の構造を見て回ってからというもの、幸村は各地に散在する城跡巡りの旅にどっぷりとハマってしまったのだ。
それは先祖代々『幸村』という苗字を背負う割に、その両親がほとんど歴史に興味を持たなかったことからすると、なんとなく家筋に――もちろんかの有名な武将と血縁などあるわけも無いが――立ち返った感じもする。
とはいえ、さすがに歴史学を専門にしている人たちのように、論文を読み重ねて比較することまではできていない。
せいぜいの歴史知識は、ネットで話題に上がるような一般向けの書籍から。どちらかと言えば、城の資料からその当時の構造を頭で想像してみたりすることのほうが多かった。
さらに興が乗れば、どのように現実の戦が行われたかを妄想して、まるで自分が一部隊を率いているかのように楽しんだりもするし、ときどきその感想を SNS《ソーシャルっぽいもの》に書き込んでみたりしてーーあとから後悔して消したりもするのだけれど。
と、そうして毎日を送ってきた幸村も、三年の夏頃になると、そろそろ就職の問題が目に見えて迫ってくる。
そこで彼は、これを学生最後の旅行にするつもりで奮発し、一週間の日程を組んで中国地方を見て回ることを決めた。
かの有名な姫路城を皮切りに、毛利家由来の各城跡を通して見学しようと考えたのだ。
■
(姫路、
旅行当日、新幹線の車内で幸村は、心のなかでこれから巡る城の名を順に挙げ、その期待に胸を躍らせていた。
なにせ、今回巡ろうとしている城跡は、姫路城を始めとして歴史の教科書にも出てくるような名の知られたものが多いのだ。
たとえば姫路城であれば、豊臣秀吉の名前はすぐに浮かぶだろう。
ないしは池田輝政、黒田官兵衛であるとか。
そのように城の名が著名であれば、その近くには美術館やら博物館もあったりして、幸村としてはことさら見学のしがいがある。
特に姫路城は、本当にこの城の内部を歩き回るだけでも十二分に見ごたえがあるようだから、幸村の顔がほころぶのも無理はない。
(……ん?)
しかしふと気づくと、隣の席に座っていたサラリーマンがちらちらと気味悪げな視線をこちらに寄越している。
幸村は慌てて緩んだ自分の口元を手で隠した。
(……ヤバい奴に見えたかな)
流石によだれは垂れていなかったよなと思いつつ、もれなくごまかすように幸村は事前に買っておいた弁当箱を手元で広げる。
ご飯の上に分厚く切られた豚肉が乗っかっている、見るからに美味しそうな駅弁。
すると、サラリーマンもようやく解釈がついたのか、幸村から興味を失ったように目を離し、懐から出したスマートフォンを弄り始める。
その様子を横目に、そういえばと幸村もさきほど写真を挙げておいた SNS《つぶやくあれ》 を確認した。
「美味しそー!」
「お土産ちゃんと買ってこいよー」
二件、バイト先の同僚からの反応。
その内の片方、日頃インディーズバンドの追っかけに忙しいらしい女子高生の方は、今シフトに入っているはずの時間帯だが……。
幸村は笑って目を逸らして、見事に大学生らしい対処をする。
というか、それより。
彼らにかぎらず、城の石組みの写真を挙げた時は皆薄い反応しか寄越さないくせに、それが駅弁だったり、その土地独特の料理だったりすると簡単に反応が返ってくる。
そりゃ誰もかれもが朝昼晩と食事の写真を挙げるはずだと幸村は思う。
幸村にしても「共感のしやすさ」が結構重要、と気付いたのは結局大学の終わりが見えてきた最近になってからのことで、その時にはすでに後の祭りな雰囲気が漂っていた。
二十歳も過ぎて、容易に人の気質が変わるものでもない。
悲しいことに異性との関係でそれは顕著な傾向を見せた。
ややもすれば、水は一段低い所に流れとどまるという。
こと SNS《いいねなあれ》 を触っていると、たまに幸村は無自覚に同意を求める自分に気付いて恥ずかしくなる瞬間があるのだが――しかし、とある友人に言わせると、そこが特に幸村のモテない原因であるらしい。
「お前のそれ、時代の要求に合ってない」
その友人の言い方がひどく達観した様子であったから、幸村もその場ではつい納得して頷いてしまった。
あとで考えてみると、その友人だって言葉ほどモテているわけではなかったのだが。
いったいどんな立場からあんなことが言えたのか、幸村は次の機会にまた問い詰めてみるつもりである。
そう暇に飽かせて変な方向に頭を働かせているうちに、目的の駅に程なく到着すると放送が流れた。
姫路駅。
駅を出ると大きな通りの直線上にすぐに城の天守閣が目に入るという。
朝早く出発する新幹線に乗ったこともあり、姫路城は午前のうちからでも見学できそうだ。
もしくは時間に余裕があるから、どこかで先に早めの昼食を取ってもいいのかもしれない。いや、午前午後いっぱいかけて姫路城を見学するなら、あまり腹を膨らませるのものまずいのか。
あれこれ無駄に考え込みながら、新幹線のホームに降り立った幸村は、それから駅中で有名だというえきそばをすすり、普段食べないような和菓子を食べ、勇んで姫路城に向かったのだが――。
あの日あの時。
天守閣の写真をあらゆる角度から撮ってやろうと歩きまわっていた幸村は、ほんの一瞬よそ見をした隙に、何の変哲もない階段から足を滑らせて転げ落ちてしまった。
そして特に気を失ったつもりもないのに、その落ちた先で目を見開いてみれば。
幸村の目の前には、彼の全く見覚えのない世界が広がっていた。
■
「痛ったた……」
地面に強く打ち付けた肩を手でおさえながら、幸村は薄く目を開いた。
頭はまだ混乱している。
急に体が沈んだかとおもえば、次の瞬間にはぐるぐると世界が回りだしたのだ。
なんというか、気分が悪い。
それに身体中にじんじんとした痛みがある。
少しして混乱が収まり、自分が階段から落ちたらしいと気付くと、幸村は痛みをこらえながら体を起こした。そしてすぐに周囲を見回す。
自分だけが怪我をするならともかく、他人を巻き込んでいたらとんでもないことになると思ったからだ。
しかし、キョロキョロと辺りを見回しても、彼の目に映ったのは木と木と、木。
そこはどう考えても人の手の入っていない林の中だった。
もちろん観光客など周囲に一人も見当たらない。
「……は?」
幸村の口から思わず声が漏れる。
そして彼が遅れて驚いたのは、一瞬のうちに自分の姿格好が替わっていたこと。
お馴染みの清潔感だけを全面に出した無地のシャツとジーンズは、いつの間にか上下とも土で汚れた木綿の服になっている。
おまけに股間がやけにスースーすると触ってみれば、下着がなんとふんどしになっていた。
足元もスニーカーではなく、編まれた草鞋の硬い感触がある。
「……え?」
わけもわからぬまま、幸村はその場で立ち上がってみる。
自分の体は、もちろん思うように動く。
しかし、まるで起きながら夢を見ているような感覚がある。
(白昼夢?)
しかし、これほどはっきり意識があってそんな気分になるものだろうか?
幸村が呆然としていると、その後ろの木々の隙間から、これまた彼と同じ格好をした男がぬっと姿を現した。
「おい、なんだ。こんなトコで怠けてるんじゃねーよ」
「……はい!?」
とっさのことで恐怖を感じる暇もなかった。
気づいて顔を向けたときには、見覚えのない髭面が幸村の目の前まで迫っている。
「ほら、帰んぞ、まったく。ダメなお前が怠けてる間に俺が取れるだけ山菜取ってやったからな、感謝しろよ? これで足りなきゃ今度はお前が一人で取りに来いっつうことだ」
「……帰る?」
男の言っている言葉がまるで理解できない。
幸村はろくな反応を返すことができなかった。
しかし、男は幸村の態度を気にすることなく話し続ける。
「ったく。ただでさえ、細っこい体してんだから人の倍は働かないと人並みの仕事にならねーだろうが。その歳で怠け癖がついてるようじゃ、これから本当につまんねえ暮らししかできねーぞ」
「……あの」
「分かったか? 分かったらこれ持て、ほら」
ようやく口を付いて出た言葉は、完全に男に無視されてしまう。
代わりに幸村は竹籠を一つ押し付けられた。
その中身は……キノコだ。
それこそスーパーに並べられる前、木の葉や土が付いた状態で不揃いのもの。
男は腰に四つほど同じ籠をくっつけている。
「すくねえけど、ちょっとくらいはお前も働いたことにしとけよ?」
良い笑顔で言われたので、よくわからないがまったくの厚意でしてくれたことのようだ。
ならば礼は言うべきだろうか、などとわけの分からないことを考えている間に、男は次々と太い声を飛ばしてくる。
「だいたいなあ、お前は普段からして気が弱いんだよな。俺がお前の歳くらいだった頃はーー」
それらの軽口をよくよく噛み砕くと、この目の前にいる男は、なんと自分の実の叔父に当たると自称する人であった。
彼は今日、山に山菜を取りに来ていたとのこと。
しかし、一緒に連れて来たはずの幸村が急に側からいなくなり、今まで探していたらしい。
「……???」
(山菜採り?)
幸村は何度も叔父、から聞いた言葉を頭の中で繰り返した。
いや、叔父と言われても全く覚えはない。
こんな野性味に溢れた親戚を一目でも見たことがあれば、忘れられるわけがない。
つまり、これは夢の出来事なのだろうか。
幸村はそんな風にも思ったりする。
本当の自分は今、実は姫路城の地面で横たわっているのではないかと。
とりあえず、自分の頬を幸村は強めに叩いてみた。
すると、ぺしっ、と澄んだ音が鳴り、すぐにじんとした痛みがはしる。
やっぱり、自分の体は正常だ。
ということはーー。
(……胡蝶の夢、みたいな?)
半信半疑のまま、幸村は思う。
一瞬で見知らぬ場所に移動したかと思えば、これまた一瞬で変わってしまった自分の服装。
知らない男に見知ったように話しかけられ、向こうは自分のことを甥と呼ぶ。
まさか親類が自分の親しい甥を別人と間違えるということはないだろう。
わざと呆けているような様子もない。
また『帰る』ということは自分の家が近くにあるということで。
すなわち、これらを総じて浮かび上がってくるのは……。
(俺じゃない俺がこの場にいるってこと?)
自分で言っておいてよく分からない。
自分自身ではない、自分?
いややっぱり、頭がどうかしたのだろうか。
(えーと……)
考えても答えは出ない気がした。
結局、幸村が理解しなければならなかったのはこの事実。
今自分の置かれた状況がまるで物語で読むようなお話であるということだ。
そこまで考えたところで、この不真面目野郎が、と叔父である男が呆けている幸村の肩を叩いた。
言葉ほど乱暴な叩き方ではない。黒く日に焼けた顔も笑っている。
それで自分と叔父がやはり友好的な関係であるとわかる。
(とりあえず、味方っぽい人はいるわけで)
ひとまずの身の安全を確信できる材料が一つでも見つけられたのは、唯一の救いだろう。
なんにせよ、もっと楽観的に物事を考えるべきかもしれない。
最近読み始めた自己啓発書にもそう書いてあったような気がする。
とにかく現状を理解しなくてはならなかった。
ならば、この叔父に付いて村に向かえば少しは事態も進展するだろうか。
すでに叔父はこちらに背中を向けて山を下り始めている。
それを追うようにして幸村は一歩、前に足を踏み出した。
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