第3話

 道中の叔父との会話は、正直得るものがなかった。


 唯一得られた情報は、自分がとある農家の三男坊であるということだけ。

 残念ながらこの叔父という人物は人の話を全く聞かず、自分の話ばかりをし続ける人柄であるらしい。

 こちらから振った話題はほとんど広がらずに次に移ってしまう。


「そういえば、ここから一番大きな町って」

「あん? 何だお前、そんなもん一個しかねえだろうが。そんなことよりなんだ、さちさんは最近どうだ。飯喰わないとか、体が痛いとか言ってないか」


 まずその、さちさんという人のことが分からないのだ。

 とりあえず適当に相槌を打ってみる。


「元気みたいです」


 一本調子に過ぎるだろうが、叔父はそうかと嬉しそうに笑う。

 それでその『さちさん』という女性が叔父のお気に入りであることはわかった。


 しばらくして、さちという女性の話題がひとまず終わると、この前ここらで鹿を見つけたとか、あそこに綺麗な花が咲いていたとか、叔父はそんなことばかり言うようになった。


 そのような純朴なことばかり語る大人と話した経験は、幸村にはあまり覚えがない。こちらとしてはここがどこで、今がいつの時代であるとか、そういうことを尋ねたいのだが、実際どう切り出していいのかはわからなかった。


 仕方がないので、幸村は耳だけに意識を残したまま、今歩いている場所の周囲を見回してみる。

 さきほどまではどこを見ても木しか見当たらないような林の中を歩いていたが、今は周囲がいくぶん開けた平地にまで出てきていた。


 そういえば、昔旅行で行った北海道の公園がこんな感じだったかもしれない。

 ほとんど放置されているようではあるものの、人の手も入ってはいるらしく、道の草が刈ってある場所もある。


 ただ、どこまで遠くを見渡せるようになっても、周囲には一切人工物がない。

 コンクリートなどもちろん望むべくもなく、ただただ何もない緑の土地が広がっている。

 うるさいほど自動車が通る国道付近に実家があった幸村としては、その事実こそ否応なしに時代性が感じられた。


 そのまま三十分ほど歩くと、今度は田畑がちらほらと見え始めた。

 すでに時期は終わっているらしく、稲は刈られた後のようだ。

 藁があちこちに撒かれていて、その隙間から見える土はかぴかぴに乾いている。


 そこから村までは、ほとんど時間は掛からなかった。

 茅葺きの建物が目に映り、幸村はようやくここで叔父以外の人間を目にすることができたのだ。


(あー)


 そして幸村は落胆する。

 視界に映る人たちの格好は、幸村の想像を全く裏切らなかった。

 洋服などを着ている人間はもちろんいない。

 皆、教科書で見るような、その、言葉を選べば、特徴ある格好をしている。


(俺、大丈夫かな……)


 この分だと価値観をすり合わせるまでに、だいぶ時間がかかりそうだ。

 なにもかもが新鮮に過ぎて頭が痛くなってくる。

 表情にこそ出さずに済んだものの、やはり幸村はこれから先の困難を感じずにはいられなかった。




 まず多くの人がそうであるように、幸村は海外に留学したことなどない。

 ということは、当然ホームステイの経験なんかあるはずもなく、


「おかえり」


 そのように見ず知らずの人間から当たり前に家に迎え入れられたことなど、ついぞ今まで経験がなかった。

 そして実際そのような立場に立ってみると、無性に背中がむず痒くなる何かを感じずにはいられない。

 気持ち悪いともまた違う、妙な居心地の悪さがある。


 ともかく、叔父の後に付いて入った家の中にはそこそこ広い土間があった。

 そして火の前で夕飯の支度をしていたらしい、一人の女性。

 どうやら彼女が自分の母親であるようだ。

 声をかけられた時の特有の声色でそうとわかった。


 幸村が思ったよりも、ずいぶん母親の顔つきは若い。

 わりあいハキハキとした元気の良い人で、髪なども白い箇所がほとんどないようだ。その姿は、たとえばファミレスで一緒に働いていたような気のいいおばちゃんたちとそう変わりないように思える。

 いや、あの人たちは白髪染めをしっかりと使っていたらしいが。


 正直、幸村は他人の家に嘘をついて入り込むような気分ではあったが、しかし他に頼る辺もないのだ。

 叔父に続くようにして「ただいま」と幸村は一言告げる。

 そしてある種の覚悟を決め、ゆっくりと家の中を見回した。


 ……何の見覚えもない我が家は、簡潔に言って汚かった。

 慣れていないせいかもしれないが、土間付きの家など現代では教科書の資料でしか見ないだろう。田舎の祖父母の家に行っても目にしないのだ。

 むしろ今は耐用年数の過ぎた家がリフォームされて、ウオッシュレットがついている時代である。


 ところがこの家といえば、壁は土壁、土間から上がれば床は全て板敷きで、しかもところどころ木の板がへこみ、曲がっていた。

 どこに目を向けても畳など見る影もなく、ヘタをすると足の親指が突き入りそうな穴がぽつぽつ開いている。


 夏はいいのだろうが、冬はすきま風でかなり寒そうだった。

 しかも、この分では虫なども自由に入り込んでくるはずだ。

 見るのも嫌というほど虫は苦手ではないが、かと言って寝起きに枕元で挨拶されても嬉しくはない。

 総じてこの時代では当たり前の家なのだろうが、事実自分がここに住んでいる、住むのだと思うと、少なからず気分は落ち込んだ。


「あら、頼んだ山菜は?」


 なかば意識を飛ばしていたところに母親からそう尋ねられたので、幸村は慌てて腰に付けていた籠を彼女に渡す。

 さきほど叔父から受け取っていた籠だ。

 彼女はその中身を見ると、露骨に顔をしかめる。

 量が少ないと思ったらしい。


 理由を尋ねられたので、幸村はいろいろ考えた結果、林の中を歩いていて転んでしまい、頭を打ってしばらく倒れていたということにした。

 また横でその話を聞いていた叔父も、そのことを笑い飛ばすようにして幸村の肩をばしんと叩く。


「まったく、お前って奴は鈍くさいな」


 それで、なんとか母親だという人の方もごまかせたようだった。

 むしろ心配されなかったのが意外だったというか、いや実際はただサボっていたのだと思われたのかもしれない。


 ちなみにこれは叔父との会話の中でもわかっていたことだが、言葉は現代のものがおおよそのところで通じるようだ。

 この時代に存在しない外来語などは通じないはずだが、日常生活においては誰とでも過不足なく意思疎通が出来ると理解していいだろう。

 それゆえ、幸村が生活するうえで一番大きな問題になってくるのは、この家の事情が全くわからないということである。


「あの、兄貴……って?」


 まずはこの家の人間関係を理解しなければならない。

 自分にとって不味い話題を変えるかように、自然な形で幸村は母に尋ねることができた。


「ちょっと、本当に頭は大丈夫なの? いつもみたいに、よその家の畑を手伝いに行ってるわよ。もうすぐ帰ってくると思うけど、でもちょっとあんた。山菜ほとんど取って来てないんだから、兄さんにはいい加減怒られるわよ」


 母親の口調には冗談めいた部分がなかった。

 もしかしたら二人いる兄のどちらかが、根性の悪い人物なのか。


「そうだよね」


 幸村は生返事を返しつつ、頬を手でこする。

 何にせよ、どうしようもないことではある。


 一方、叔父の方はといえば、さきほどまで幸村の横で妙に笑っていたかと思うと、「俺は一人だから」と自分が取って来た山菜の半分を置き土産にして早々はやばや自分の家に帰って行ってしまった。


「え、そんな悪いから」


 と押し返そうとする母親の相手もほとんどせずにいなくなったのは、なんだかこれまでの印象とはそぐわない態度である。

 どうしても身の回りの人間関係に敏感にならざるをえない幸村としては、そうした叔父の態度をいぶかしむほかないのだが、よく考えてみれば、叔父の立場で自分の兄弟の嫁とあんまり仲良くするのもちょっと違うのかもしれない。


「あのー……、何か手伝おうか?」 


 とりあえず、自分の母親と会話するための糸口が必要だった。

 幸村はそう声をかけてみる。


「は? あら、なんと珍しい。明日は雪がふるんじゃないかしら」


 そんな冗談を言いつつ、幸村は急に笑顔になった母親に、家の外から薪を一抱え持ってくるよう頼まれた。


(……なるほど)


 その反応からすると、どうやら幸村は、いやこの家で暮らしていた自分は、家の手伝いなどほとんどしない人柄であったようだ。

 となると、あまり周囲から良い印象を持たれているとも思えない。薪を運びながら、幸村は小さく溜息をつく。

 それから炊事の手伝いをしつつ、ぽつぽつと母親と話をしてみたところ、少しずつこの家の事情がわかってきた。


 まず一家の大黒柱である、父の吉蔵よしぞうはすでに病気で亡くなってしまったようだ。

 そして、長男の一郎いちろうが家を継ぎ、次男の二郎じろう、三男の三郎さぶろう――自分の名前が三郎であることを知って幸村は少しショックを受けた――が現状、その手伝いとして家に住んでいること。


 自分たちの田んぼや畑を持っていないわけではないという。

 ただ、それのみの収入に頼るには十分な余裕がないので、よその畑を手伝ったりしながら、ようやくこの一家は食べているとのことだ。

 だからお前もちゃんと働きなさいと、至極もっともな小言を言われてしまった。


 なかば想像していたこととはいえ、これから自分の生活はだいぶ辛いものになりそうだ。極端に貧しい状況ではないにしろ、現代の暮らしに慣れた自分がきちんと暮らしていけるのだろうか。


 幸村がそう不安に思っていると、家の前で誰かの話し声が聞こえた。

 もしかして、兄たちだろうか。

 そのまますぐ家の中に入ってくるのかと思ったが、しばらく待っても入ってこない。


「あら、帰ってきたのかしら。ちょっとあんた、桶に水入れて持って行ってあげて」


 同じく気付いた母親にそう言われ、素直に幸村は水の入った桶を持って家の外に出ようとする。

 おそらく土仕事の後の、足を洗うためのものだろう。

 母親との会話でいくらか緊張もほぐれていたし、さらに今度はこちらが受け入れる側なので、さきほどより心なし気分が楽だ。


 初対面の兄たちはどんな顔をしているのだろうと幸村はおもむろに木戸を開く。

 すると、ちょうど家の外でぱしゃりと液体がねたらしい。

 幸村の顔にその飛沫が飛んできた。


 かすかに粘り気のある液体。 

 空いている方の手で顔を拭うと、妙に重みがあるし、ちょっと赤黒い。


(血?)


 前を向くと、男二人と女が一人、姿勢を低くして何かを覗きこんでいた。

 まもなく背の大きな男のほうが戸が開いたことに気付いたらしい。


「おう、三郎! 帰ったぞ! ほら、おみやげだ!」


 明るいその声と一緒にその男は地面から何かを掴んで持ち上げる。


「あっ」


 瞬間、幸村はめまいを感じて、桶を落としそうになってしまった。

 男が持ち上げたのは、幸村がこれまでの人生でほとんど見たことのないもの。


「今日はこれで鍋に決まりだな」 


 そんな楽しげな言葉も幸村の耳には入らない。

 男にがっしりと角をつかまれたそれは、切断面からだらりと血を流す鹿の頭であった。

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