城取物語

おん玉

一章 城奪り

過去へ

第1話 

 戦の決着から、およそ三刻余りが過ぎようとしていた。

 しばらく前まで戦場に満ちていた灼けつくような戦の匂いは、今やそのほとんどが雨で綺麗に流されている。

 代わってその戦場跡を満たしていたのは、おそらく片方にとって限りなく不幸な情景。

 逃げ遅れた兵たちが一方的に追われ、狩られていく、悲哀に満ちた光景だった。




「もう、勘弁してくれよ!」


 堪え切れず吐いた言葉は、降りしきる雨音でかき消されてしまった。

 林の中は辺り一面泥だらけ。足元もこれ以上ないほどぬかるんでいる。

 もはや履いている草履など何の役にも立っていない。


 不安定に粘つく足元に、幸村はいい加減、堪忍袋の緒が切れたようだった。

 しかるに彼は、泥がついて重たいばかりの草履を脱ぐと、力を込め、あさっての方に放り投げてしまう。


 もちろん、その行為にたいした意味は無かった。

 単なる憂さ晴らし以外の何物でもない。

 そしてなにより、これで幸村は素足で林を走らねばならなくなった。


 いったい地面に何が落ちているかも分からないのだから、これはとんだ阿呆もいいところであろう。

 いや、というより彼はもう、半分自棄やけになっていたのかもしれない。

 切羽詰まった状況に追い込まれて、幸村の頭はまともに働いていないのだ。


 その日、夕刻から降り始めた雨はますます勢いを強くしていた。

 指折り数えてみれば、一週間ぶりに降った大雨である。

 ちょっとやそっとでは、降り止む気配を見せるはずがなかった。



 何かの拍子に特に大きな雨粒が落ちてきたようだ。

 運悪く、幸村はその固まりを顔面で受け止めてしまう。


「んが」


 そのたった一発で幸村は目を潰された形になった。

 反射的に手の甲で目元を拭う。


「ンな」


 すると今度は違う意味で、両目が開けられなくなった。

 手に付いた土が目に入り、痛みやら何やらでもう無茶苦茶になってしまったのだ。

 それまで木々の間をすり抜け、何度も転びながら走ってきた幸村の両手は、もはや雨粒でも落ちないほどに汚れていた。


「あー、もうーー。くそっ」


 ついていない時はどこまでもついていない。

 ようやく目の汚れを拭き取り、幸村は悪態をつく。

 ただでさえ、体のあちこちにまとわりつくような疲労感があるのだ。

 それでも、今の状況で一息ついて休むわけにもいかない。

 濡れて垂れてきた前髪を指で払い、再び足に力を入れる。


 幸村が今進んでいるのは、戦があった場所からおよそ一里ほど離れた林の中。

 周囲の兵が逃げ出すのにつられて、適当な方向に駆け出した幸村だったが、幸運にも怪我一つ負わずにここまで逃れてこれた。

 さらに陽が落ち、雨が降り始めてからというもの、敵方の追撃の手は明らかに緩くなっている。


(ここでなんとか追手の目をくぐり抜けられれば……)


 どこかの村までたどり着けるだろうか。

 と、そんな甘いことを考えたバチが当たったのかもしれない。


『オラァァぁぁ、動くなァァぁぁ!』


 突如としてとどろく、雨音を切り裂くような怒声。

 刹那、幸村は姿勢を低くして体を隠し、それから周囲を見回した。


 木々の合間で一呼吸、二呼吸。注意して確認しても、人影はない。

 改めて状況を確認する。

 どうやら林のどこかで、運の悪い味方が追手に見つかったらしい。


 そのまましばらく身を潜めていると、今度は身をちぎるような甲高い叫び声が林に響いた。

 断末魔。

 今日何度も聞いた悲痛な叫びは、すぐに雨音に溶けて消えた。


「……こっちにくるなよー」


 身を伏せた幸村の頭にあったのは、第一に自分の安全について。

 次いで、同じような道を選んだ人間が捕まったのであれば、これから先はさらに慎重に進まねばならないということ。


 ただただ申しわけないが、名前も知らない誰かを助けに行くつもりはなかった。

 というより、今は誰かを助けたくても助けられる状況ではない。

 総勢で何名追ってきているかも分からない敵方に、幸村がたった一人で何が出来るというだろう。


 さらに言えば、半日前まで担いでいた長槍は逃げている最中に放り捨ててしまった。

 いわんや、最も重量のあった鎧においてをや。

 幸村が今も身につけているのは、着たきりの汚れた上下だけである。


「……くそっ!」


 泥と一緒に腕にへばりつく雑草を振り払い、幸村は吐き捨てる。

 いったいどうしてこんな状況に陥ってしまったのか。

 今からちょうど一年前。

 幸村は、空調の効いた新幹線の中で携帯を弄りながら、駅弁を一人味わっていたはずだ。

 どこで何を間違えたというのだろう。


 腹を冷たい泥に浸しながら、幸村はこれまで何度も繰り返したようにその時のことを頭に思い浮かべる。

 その始まりは一年前の、とある夏の日のこと。

 特に強い日差しが差し込む八月初旬、姫路城跡でのことだった。

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