第1話 川瀬マリ
しかし、彼は本当にこの世に存在していたのだろうか、とあの頃を思いだすたびに思う。
ひどく曖昧で現実味を帯びない記憶をかき集め、新たに違うなにかを思いだそうとするが、月日が経つにつれどんどん記憶は頼りなくなってゆく。
拗ねた子供のような口もと。シャープだけど頼りなさげな輪郭。
ピアノのように真っ黒な髪。黒目がちな目はいつも前髪で隠れていた。
せっかくの長身は猫背で、不健康に見えるほど白い肌。
何故かそんなことばかり思いだすのだ。
あの頃の野崎君を、かたどっていたいろいろな要素が思いだせなくなっていく。
やっぱり初めに言っておこう。わたしは野崎君が好きだった。
男の人はむかしの恋人にさえ嫉妬するなんて言うから、もしかしたら言うべきではないのかもしれないけど、もう何年も前―――それこそ”にほんむかし話”に出てくる寓話ぐらいに遠く感じている―――の感情だし。それにこの話をする上で重要なことだし、どのみち野崎くんを好きだったことはすぐに明らかになるだろうとも思う。
彼がいま、どこで何をしているのは全くわからない。
彼を知っているひとに訪たり、彼が住んでいた街の駅前をぶらぶら歩いたりもしたこともあるが、彼にもう一度会うことはできなかった。
ツイッターやフェイスブックなどのSNSで検索をしたこともある。
”野崎ハル”、”ノザキ ハル”・・・。
たぶん見つからないだろうなとは思った。野崎君はなんとなくSNSとは無縁に思えた。もしかしたらガラケーなのかもしれない。
”短い不在は恋を活気づけるが 長い不在は恋を滅ぼす”
あのミラボーさんはそう謳ったらしい。そんなことない、そんなもんじゃない。そう自分に言い聞かせてきたが、わたしはやっぱり”普通の恋をする普通の女の子”であったらしい。
それからわたしは彼のことを思いださなくなった。
――――――――――
「野崎君とはずっと会えてないのかい?」
少し休憩を兼ねて散歩することにして、別所さんと一緒にドトールを出た。
二月になりここ数日は寒さも少し落ち着いていたが、その日は再びコートの必要な気温になっていた。わたしはキャメルのダッフルコートを着ていた。マフラーをしても寒かったのに、別所さんもピーコートは着ていたがマフラーはせず、それでも寒そうなそぶりさえ見せなかった。
「はい。高校卒業してから会ってないです。もう五年になるかな」
「五年か・・・」
五年。それは長い時間だと思う。
赤ちゃんが生まれて、幼稚園の年長さんになるまで。そう言われると短い気もするが、わたしの過ごした五年は長かった。高校を卒業し、大学に進学をせずに職についたわたしは、もう社会人五年目になる。高校生のときアルバイトとして働いていた塗装会社。その事務の仕事ををしている。わたしは比較的早い段階からこの会社を生涯の職場にしようと決めていた。小さな会社だし、華やかではないが祖父の築いたこの会社と、そこで働く人たちが大好きだったからだ。
少し前は地元の小さい家屋の外壁や内装の塗装をする、小さな仕事が多かったが
ここ数年、大手建設会社の役員さんの依頼で、うちの塗装会社が大きな工事現場も下請けとして工事を行うようになった。
その立役者となったのが、別所さんだった。
「僕が明日香ちゃんと会ったのもそれくらい前だね」
「はい。別所さんと知り合った頃には、彼は音信不通でした」
言い訳のようになってしまったかな、と気になる。
わたしは別所さんを前にすると、まだ緊張してしまうみたいだ。
公園に隣接された川に沿った歩道を歩く。足元のアスファルトには近所の小学生が書いたという動物の絵があった。わたしのすぐ下に、バナナ色のキリン。数歩先に、鼻が体より大きなゾウ。空は曇っていて、日の光は遮られていた。風も少し強く、秋に散った古い枯れ葉があたりを舞っていた。
さえない天気、気温だったがわたしは久しぶりに別所さんとデートが出来てうれしかった。
「少し歩きながら話の続きをきかせてもらえるかな」
と、別所さんが横目でわたしに笑いかけた。綺麗な鼻筋が横顔だとよくわかる。
そうだ、デートじゃなかったんだ。そう思いだす。
今日は野崎君を思い出すための準備の日だった。
数日前に、わたし宛てに小包が届いた。
宛先はわたし、川瀬明日香。送り主は野崎ハル。とあった。
わたしは初めそれが誰なのかわからなかった。懐かしい響き。野崎・・・野崎君。
名前とその人が合致し、わたしはとたん彼が見せた最後の笑顔を思い出す。
荷物は、分厚い辞書のような帳面だった。表紙にはノートとは明らかに年季が違う真新しい手紙が挟んであった。きっと送る直前に綴って、挟んだのだろう。
手紙の内容は手短なものだった。
「川瀬へ。急に荷物なんか送ってごめん。驚いただろ?俺のこと覚えてるか? 忘れてたら思いだしてくれ。このノートを読んで。そしたら思いだせるはずだ。なんたって思いだせるように、お前自身が書いたノートなんだからな。こんなこと言っても信じられないだろうから、一つお前の秘密を暴いてやろうと思う。それで信じてくれ。お前の宝物は、庭のミカンの木の下に埋まっている」
わたしは息を切らしはち切れそうな鼓動を感じながら庭の土を素手で掘った。五十センチほど掘り進み、布のような感触が爪にあたった。
更に掘り、ようやく土から掘り出した。
それはくまのぬいぐるみだった。
去来したのはある光景。誰だろう、男の子の顔が見える。照れて不機嫌そうな顔で差し出されたのは、このくまのぬいぐるみ。あれは、野崎君だ。
「「川瀬、誕生日昨日だったのかよ。なんで言わないんだよ」」
「「こんな色男からもらったプレゼント、宝物に違いないな」」
くまのぬいぐるみは酷く汚れていた。わたしはそれが不憫で、何度も何度もぬいぐるみを撫で続けた。
こんなところに埋めた覚えはない。ぬいぐるみのことも今の今まで忘れていた。
きっとあの分厚い帳面はわたしと野崎君のことについて書かれているのだろう。
あれをわたしが書いた?
信じがたい話だった。そんなことがあるのだろうか、でもわたしさえ知らないぬいぐるみの行方を言い当てた。
あの帳面を開くのはまだ勇気がいると思う。だがわたしはもう立ち止まれないのだ。
野崎君、いまどこにいるの?
夜 ユイハル @yuiharu
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