失くしたものは
うたう
失くしたものは
正義感を失ったからなのだとずっと思っていた。
チンピラは、原が現れた瞬間にバッグを抱きかかえるようにして逃げ去った。小悪党の手本のような逃げ足の速さだったが、原は追いかけなかった。
原の視線は、俺が握りしめている封筒に注がれていた。薬物を横流しして受け取った報酬だ。
「……どうして」
原との付き合いは三年になる。
刑事課に配属された原を俺が教育した。色白でひょろりとしていて頼りなかったが、正義感だけは人一倍強い男だった。あるとき、食事に招いた原を見て、妻が可笑しそうに笑った。「昔のあなたに似てる」原は今時の男には珍しく、口下手で不器用だった。そこが俺に似ていると思わなくもなかった。
原はいい目をするようになった。じっと俺を見据える眼差しに気圧される。成長を好ましく思うよりも忌々しさが勝った。苛立ちの矛先は、おそらく俺自身だ。
「他の何よりも妻が大事だった」
何のことかと原は目を丸くしていたが、少しして「その、お気の毒でした」と絞り出すように言った。社交辞令でないことは、ふっと瞼を伏せた、その仕草からわかった。
何よりも大事だと思っていた妻が病気になった。ある日突然倒れて、昏睡状態に陥った。様々な検査を経て、病名が判明した。横文字混じりの複雑なその病名を俺は今でも一字と違わずに言うことができる。難病だった。
明確な治療法はなく、意識を取り戻す可能性は極めて低いと医師に言われた。が、妻はそのうちに目を覚ますだろうと信じていた。昼寝をしすぎたみたいに「ちょっと寝過ぎちゃった」と照れる、妻のそんな姿が思い浮かんだ。医学の進歩は著しく、明日は無理でも、一ヶ月後には、そうでなくとも半年後には何かしらの治療法が見つかるのではないかと思っていた。
八ヶ月が過ぎた頃、妻を楽にしてやることを考え始めないかと医師に言われた。俺が妻を苦しめているのだと責められたようで腹が立ったが、妻が衰弱してきていることは確かだった。快活だった頃の面影はなく、妻は青白く細っていた。無機質な生命維持装置に繋がれた姿が痛々しかった。だが俺は決断できなかった。妻を看取った後、少しして治療法が発見されたとしたら、俺は待てなかったことを一生後悔する。それが怖かった。
タバコをやめた。酒もやめた。質素倹約に努めた。それでも妻の医療費を差し引くと毎月赤字だった。やがて貯金が底をつき、借金をするようになった。返済のために他からも金を借りた。医療費の一部を援助してくれていた妻の実家へ増額を求め、頭を下げに行ったら、「もう充分だよ。ありがとう」と義父に泣かれ、「もうゆっくり眠らせてやって」と義母にも泣かれた。
真当なところからは借りられなくなって、闇金に行った。次に行ったときには借入を断られた。返済が滞っているからではなく、警察官には貸せないという理由だった。闇金の社長は、貸せないが報酬ならやれると言った。社長は俺の身の上を知っていたようで、「治るといいね」と沈痛な面持ちで俺に同情した。神の存在は疑わしいが、悪魔はいるのだと思った。
以来、押収した薬物の横流しをやるようになった。発覚すれば、医療費を捻出できなくなるため、細心の注意を払った。そのせいか、ばれることはなかったが、罰が当たったのか、それから一ヶ月と少しして、妻は静かにこの世を去った。
闇金の社長には、もういいと言われたが、俺は横流しを続けた。借金は残っていたが、真面目に働けば、いずれ返してしまえる額だった。贅沢をしたいわけでもなかった。
「妻が死んで、金しか信じられなくなった。それだけの話だ」
「見くびらないでください。先輩が得た金を全部寄附してることは調べました。でもそんなの違うでしょ!」
報酬は毎回、妻の患った病気を研究している海外の施設に全額寄附していた。それで治療法が見つかったら、俺は自身の悪事が許されたと思うだろうか。いや、思わないだろう。見つかりたくて罪を犯し続けていた。止めてほしかったなどと言うつもりはない。どうしようもない状況に自分を追い込みたかっただけだ。背中を押して欲しかったのだ。
「原、捕まえに来たのがお前で良かったよ」
俺は拳銃を取り出し、自分のこめかみに当てた。
「もう逃げるのはよしましょう!」
端から逃げる気などない。妻が亡くなってからは、見つかったときが最期だと決めていた。だから原が何を言っているのかわからなかった。少しして、ああ、俺はずっと妻の死から逃げていたのだなと思い至った。
正義感を失ったからなのだとずっと思っていた。まず失くしたのは、勇気だったのだ。死にゆく妻に向き合えず、その死からも逃げ出して、臆病に彷徨い続けていた。
原の目が潤んでいる。
なんだか若い頃の自分と対峙している気分になった。
引き金を、引けなかった。
意を決して、俺は拳銃を足元に置いた。
それから原に向かって両腕を差し出した。
失くしたものは うたう @kamatakamatari
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