第5幕 シーン5

 現れた女生徒は髪を緩く縦に巻き、色白で優しく微笑んでいるからか、柔らかな雰囲気を漂わせてている。顔も美人で言うことがないのだが、その胸にはたわわに実ったメロンが2つもあり、千敦の視線がその一点集中したのは言うまでもない。


 だが、千敦には別にもう1つ気になることがあった。もうすぐ季節は夏を迎えるというのに、女生徒はピンク色した長袖のカーディガンを着ている。左手に白い手袋をしているのだが、仮に彼女が潔癖症だとしても、左手にだけ手袋をつけているのは不自然極まりない。そんな少し怪しい女生徒に莉穂が駆け寄る。


 「どうしてここに来たんだ!……もう退院して平気なのか?」

 「うん。ようやく退院許可が出たから顔見せに来ただけなんだけど……何だか苦戦してるみたいだから来ちゃった」

 「そうか……悪いな」

 「ううん。大丈夫だよ」


 どうやら女生徒は莉穂と知り合いらしく親しげに話しているが、朱梨達でさえ誰だか分からないのか、戸惑いが隠せていない。視線に気づいたのか、女生徒は千敦達の方に向き直ろうとしたが、手を前に突き出すとフェンリルに声を掛ける。


 「ワンワン。ちょっと待てしてくれる?」


 化け物を目の前にして、まるで自分の家の飼い犬に言い聞かせるように平然と命令する。


 「ん?…………貴様! もしやあのときの女か!」

 「覚えててくれたの? 脳筋だから忘れてると思ってたのに。全く、大変だったんだよ。ワンワンに半殺しにされたから、1年半も入院しちゃった」


 女生徒は楽しげに笑いながら話していたが、目は全く笑っていない。

 何なんだ、この人。と千敦が訝しいんでいると、ようやく視線が千敦達の方に向けられる。


 「ごめんなさい、無視しちゃって。私は3年の山之内梗やまのうちきょうです。まぁ、留年してるから実質2年生なんだけど、よろしくお願いしますね」


 梗は優しく微笑みながら会釈する。そういえば3年に山之内って人がいると聞いてはいたけど、まさかこんな人だとは思ってもみなかった。想像していたよりも、色んな意味で濃ゆい人だ。


 梗はごく自然に消火栓に向かって歩き出す。スカートのポケットからカードを取り出し、久しぶりにお願いね。とカードにキスしてから、ニダベの側面に触れると塚がせり上がってくる。それを引っ張り上げ、片手で器用に1回転させてから構える。


 梗の武器は千敦のオーディンと同じ槍タイプなのだが、全体的に小さめで刃が三叉に分かれている。また色がショッキングピンクなのでかなり目立つ。


 「……ニョルズか。それを構えているお前を見ていると、あのときのことを思い出すよ」

 「私はあんまり思い出したくないわ。でも、あのときから随分とメンバー変わってしまったのね」


 梗は千敦達の見回して微笑んだが、不意にそれが悲しげなものへと変わる。


 「よぉ、梗。久しぶりだな」


 少し遠くからロキが手を軽く上げながら声をかけてくる。


 「久しぶりだね、火魅ちゃん。また随分と小さくなっちゃって。まぁ私としてはそっちのほうが好みだけど」

 「…………お前、相変わらずだな」


 ロキの顔が引き攣る。この2人もまた旧知の仲らしく、敵味方とはいえ親しげに話していた。どういう関係なのかは分からないが、ロキの顔つきから梗が扱いずらい人物だということは想像に容易い。

 唐突にすまない! と言って莉穂が勢い良く頭を下げる。


 「……愛のこと、本当すまない」

 「話は染谷先生から聞いたけど、別に莉穂ちゃんのせいじゃないでしょ? というか……誰のせいでもないと思う」


 言い終わってから梗は千敦の方を見る。目が合うと柔らかい微笑みを浮かべてくれたからか、慈愛に満ちた微笑みに母親を思い浮かべてしまう。


 「あなたが愛から引き継いでくれた人ね」

 「は、はい……」

 「あなたの目は愛と似てる。人を守りたい、って強い思いを抱いてる。すごく良い目だわ」


 梗は千敦の頬に触れようと右手を伸ばすが、咄嗟に止めて左腕を正面に突き出す。次の瞬間、梗の腕はフェンリルの長い爪によって貫かれていた。

 いつの間にか千敦の梗の目の前にフェンリルがいる。


 「山之内先輩!」


 千敦はオーディンを構えたが、梗は左腕を貫かれている状態にも関わらず、大丈夫だから。と笑顔で千敦を制止する。それからフェンリルの方に顔を向ける。


 「全く…………待てもロクにできないなんて、本当に脳みそが足りてないようね。ワンワンは」

 「貴様は我が腕を斬った女! よもや再び相見えるとは……今度こそ、その体を切り裂いてくれよう」

 「それはこっちの台詞。乙女の左腕を取った恨みは怖いわよ」


 梗は冷たく微笑むと、左手でフェンリルの長い爪を掴み、動きを固定させてから右手でニョルズを器用に回転させて突き刺すが、フェンリルも反対の手で柄を掴んで動きを封じる。僅かに睨み合ったまま膠着状態が続いたが、今回はフェンリルが引いて、その場から大きく後ろに跳んだ。


 莉穂が戸惑いがちに梗に声をかける。


 「その左腕……やはりダメだったのか」

 「うん、義手にした。ギリギリ間に合わなくてね」


 悔しそうに唇を噛み締める莉穂。それ対して梗は優しく微笑むと、幼い子どもにするように莉穂の頭を撫でる。


 「おぉぉぉぉ! 佐渡ヶ谷先輩が頭撫でられてるとこなんて、初めて見たぜ!」

 「レア動画ですね!」


 千敦と朱梨は並んで貴重な光景を見つめていると、うるさいぞ、お前ら! と莉穂に怒られてしまった。


 「……本当に馬鹿」

 「2人とも、というか全体的に緊張感が足りないと思うんですけど。相手のほうが力量が上なんですから、このままじゃ私達は本当に死にますよ」


 呆れている沙夜子と、なぜか全員に説教を始める祐美。千敦は苦笑しながらも、祐美の言葉には一理あったので気合を入れ直す。


 「それじゃ、もういっちょいきますか!」

 「おう! 派手に暴れてやるぜ!」


 千敦と朱梨が好戦的な雰囲気で燃える中、莉穂は冷静に咎める。


 「勝手な行動はするな。今回は速攻かつ連携プレイでいく」


 莉穂の判断は正しかった。戦いが長引けば絶対的に千敦達のほうが不利になる。最初の一撃を食らったら、今度は多分立ち上がることさえ厳しくなるため、求められるのは短期決戦。そして、フェンリルの弱点である不意打ち攻撃。これが千敦は達に残された勝利の鍵だった。


 「何か策でもあるんですか?」

 「ないこともないんだが……なぁ関岡、お前肩には自信あるか?」


 話を振られて言葉に詰まる千敦だが、自信はそれなりにあるのでしっかりと頷く。すると、莉穂は小さく笑った。


 「ならこの作戦、いけるかもしれないな」


莉穂は前線から下がり、手短に今回の作戦の内容を小声で千敦達に話す。だが、千敦は反対した。作戦の内容に文句は無い、むしろ賛成だがそのやり方に納得できなかった。この作戦では千敦は安全な位置にいて、他の皆の負担があまりに大きすぎる。皆を守りたいという誓いが果たせなかった。


 「違う作戦にしましょうよ! これじゃ俺以外の皆が危険すぎます!」

 「作戦を変更する気はない」

 「なら俺を前線に出す作戦に変えてください。俺が絶対にみんなのことを守りますから!」

 「オーディンでの攻撃が1番勝率が高く、松任谷とのコンビネーションも期待できる。それに何より……私はお前に賭けている」


 真っ直ぐ莉穂に見つめられて言われると、千敦はそれ以上反論できなかった。唇を噛み締めて項垂れていると、隣にいた朱梨が顔は正面に向けたまま、千敦の背中を叩く。


 「絶対外すんじゃねぇぞ。あいつをぶっ倒せば、お前は俺達を守ったことになる」


 ひどくぶっきらぼうな物言いだったが、朱梨の激励は確実に千敦の胸を熱くさせる。はい! と大きな声で返事すると、朱梨はがはは。と豪快に笑ってから、フェンリルに特攻をかけた。その勢いに乗って、千敦と祐美を残して全員がフェンリルに向かって走っていく。


 「死ぬなよ……祐美」

 「死ぬわけないでしょ! だって私、まだ…………」


 祐美は切羽詰った顔つきで千敦を見つめるが、言葉はそれ以上続かなかった。


 「今はやめとく」

 「はぁ?」

 「で、でも…………この戦いが終わったら言うからさ、そのときはちゃんと聞いてよね」

 「あぁ、分かったよ」


 千敦の言葉に祐美は顔を上げると小さく笑う。その笑みは今まで見たことがないくらい、綺麗で大人びていて思わず見惚れてしまう。


 「それじゃ行ってくるね」


 祐美はトールを軽々と肩に担ぐと、フェンリルに向かって走っていく。千敦は皆の無事を祈り、今はただ戦況を見守ることしかできなかった。


 「全員まとめて切り裂いてくれる!」


 フェンリルが地を蹴る。次の瞬間、あの大きい体が掻き消え、数秒後に梗の背後に出現する。長い爪が梗を襲うが腕を使って防ぎながら後退する。


 「くらえぇぇぇぇ!」


 そこにヴァルキリアで朱梨が突きで乱入するが、またもフェンリルの姿が掻き消えてしまう。そして、朱梨は鮮血を撒き散らしながら吹き飛ばされた。


 「阿部先輩!!」


 千敦は少し離れた場所から叫ぶ。

 ここでトドメと、フェンリルは朱梨に爪を振り下ろすが、莉穂が素早く間に入ってフレイで受け止める。だが力負けして莉穂は床に叩きつけられる。


 「ぐあっ!」


 フェンリルの姿がまたも消える。今度は祐美の背後に出現し爪を振るう。祐美はその小さな体を生かしてしゃがみ込むと、何とか一撃を間逃れた。そこに梗が滑り込んできてニョルズで突き刺すが、突いたのはフェンリルの残像だった。


 「山之内先輩、横です!」


 祐美が叫ぶ。梗の横に移動したフェンリルは爪で薙ぎるが、同時に祐美のトールがフェンリルの顔面を襲う。さすがに相打ちは好ましくないのか、一度後ろに下がって身を引く。

 そこには沙夜子が待ち構えていて、ヴィーダルで激しく斬りかかるが、フェンリルは空中で体勢を変えながら攻撃を全て避けると、沙夜子の横に降り立ってそのか細い腕を掴んで捻り上げる。


 「……っ! あぁぁぁっ!」


 苦痛に顔を歪ませる沙夜子。


 「死ね!」


 身動きが取れない沙夜子に対し、爪を振り上げるフェンリル。爪は体を貫いたがそれは沙夜子の体ではなく、その身を呈して庇った朱梨だった。

 朱梨の血がフェンリルの爪を伝って廊下の床へと落ちる。


 「朱梨!」

 「阿部先輩!」


 沙夜子が、そして千敦が叫ぶ。


 「……てめぇは、ちょっと…………その場から動くな……」


 朱梨は冷や汗を掻きながらも、フェンリルの腕に両手を回す。沙夜子はそれを補佐するように、太く逞しい灰色の腕に自分の腕を絡ませる。千敦は合図を待たずに走り出した。

 梗がフェンリルの右足にニョルズを突き立て、莉穂はフレイに火をつけながら走ってきたが、空いているもう一方の腕で払われる。朱梨と沙夜子は大きく腕を振るわれて吹き飛ばされ、梗は蹴られて床を思い切り転がった。


 千敦は走りながらオーディンを構える。

 フェンリルが千敦に襲い掛かる。が、爪の一撃は割って入ってきた祐美のトールによって防がれていた。


 「千敦は絶対に死なせない!」


 ハンマーの部分を盾にして防いだが、さすがにもう一方の爪の攻撃は避けられそうにない。


 「祐美!」


 千敦が叫ぶ前に祐美はトールを手放して後ろに飛んだ。それを見て千敦は躊躇することなくオーディンを投げる。


 「いっけえぇぇぇぇぇぇ!!」


 オーディンは真っ直ぐフェンリルに向かって飛んでいく。

 本来なら喉元に突き刺さるばすだったが、目標はずれてしまい突き刺さったのは左肩だった。それでも良いと千敦は両足で踏み切ってから高く跳躍すると、オーディンの柄を掴んでそのまま真下に全体重を乗せて斬る。


 間。


 フェンリルの左腕が体からずれると、そのまま無造作に床へと落ちる。


 「うがあぁぁぁぁぁぁぁ!!」


 耳を刺すような咆哮を上げて苦しみに顔を歪めるフェンリル。その目には激しい怒りと憎しみに染まっている。


 「コロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロス!」


 歯を向き出しにしてフェンリルは威嚇すると、1番近くにいた千敦に襲い掛かってくる。けれど寸前のところでロキの飛び蹴りが入り、軽々とフェンリルが吹っ飛ばされて壁が大きく凹む。


 「……今回はお前の負けだ。っうことで引くぞ」

 「ロキ様!」

 「いいから引け。フェンリル」


 いつになく低い声でロキが命令する。

 背の大きさが10倍ほど違うロキに対して、フェンリルは身を縮めて明らかに怯えている。軽々とフェンリルを吹き飛ばしたところからも、その実力は相当なものだということが分かる。ロキは千敦達の方に向き直ると、申し訳なさそうに両手を合わせた。


 「悪いんだけどさ、今日はこれくらいにしてもらえない? 楽しいことは後に取っておいたほうがいいでしょ」


 そういうが早いかロキとフェンリルの周りに波紋が広がり、底なし沼に飲み込まれるように体が床に沈んでいく。

 2人の姿が消えると、廊下には静寂が訪れる。後を追うものはいなかった。とても追える状態ではなかったし、正直引いてくれて助かった。


 「……ふぅ」


 千敦はゆっくりと息を吐き出す。今更だが、脳と体が恐怖を実感したのか息と足元が震えだす。


 「朱梨!」


 甲高い沙夜子の声に千敦は非情な現実に引き戻される。すぐさま声のした方に顔を向けると、朱梨は床にうずくまってお腹の辺りを押さえている。手の隙間からは今も血がこぼれ落ち、顔色もやや青白くなっている。もはや予断を許さない状況といえた。


 「阿部先輩!」


 千敦がその傍に駆け寄ると朱梨は小さく笑う。


 「何だよ、みんな…………そんな顔……すんなよ。これから死ぬみたいじゃ……ねぇか……」

 「もう喋るな、阿部!」

 「だい、じょうぶ…………あたしは、絶対に……死なねぇ」


朱梨の声は息も絶え絶えでかなり弱々しいが、その瞳は生命が燃え上がり、必死に生きようとしている。魂が燃えている瞳をしていた。


 「もし先輩が死ななかったら、信濃屋のラーメン特盛り奢りますよ」

 「あぁ……餃子も…………つけろよ……」


 痛みを堪えながら親指を立てると、朱梨は意識を失った。千敦達は朱梨を抱えて急いでヴァルに戻った。かすみによる応急手当の後、すぐにギムレーに入れられ、何とか一命を取り留めた。


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