第2幕 シーン3
千敦の視線は今1点に集中している。何があったのかは分からないが、朱梨が顔を両手で覆いながら肩を微かに震わせている。誰かが隣にいたら笑ってるようにも見えるが、あいにく多目的室には1人しかいない。その状況を考えると、泣いているようにしか見えなかった。
ただ、男勝りの朱梨が泣くというのが想像できなくて、千敦はただただ戸惑うしかなかった。朱梨は見た目と同じく中身も男の子のようで、言葉も行動も乱暴でガサツ、思い立ったらすぐに行動に移す猪突猛進タイプ。でも全体的に大雑把だけど、男みたいにサバサバしているので話やすい先輩ではある。
どうすんだよ、この状況。と千敦はその場で考え込む。
このまま何も見なかったことにして立ち去るべきか、それとも慰めの言葉をかけるべきか。そうして1人迷っていると、結論を出す前に朱梨が顔を上げる。それから至って普通に声をかけられた。
「どうした、関岡。忘れ物でもしたのか?」
そう言って朱梨はいつものようにガハハと豪快に笑う。
その目はうっすらと充血してみたいに赤く、少しだけ瞼が腫れている。
「……あ、阿部先輩こそ、何かあったんですか?」
人の問題に易々と首を突っ込むのもどうかと思ったが、やっぱり気になって仕方なかったので直接聞いてしまった。
「べ、別に何もねぇし! 何言ってんだよ、関岡」
「目、赤いですよ?」
「ただの寝不足だ」
「……頬の辺り、涙の跡がうっすら残ってるのにですか?」
千敦の指摘に朱梨は慌てて頬を触るが、すぐに引っ掛けられたことに気づいたのか顔を露骨に顰めた。
間。
「……本当に何でもねぇよ! だから気にすんな」
「分かりました。超気になりますけど、表面上は気にしないでおきます」
「何だよ、それ」
朱梨は顔を顰めながらも吹き出すとガハハと笑う。そのときにはもう、いつもの朱梨の顔に戻っていた。千敦は安堵から一緒になって笑う。
「だって女の子の秘密を無理矢理聞くとか、男として最低じゃないですか」
「へっ?……あ、あー、まぁそうだよな……」
千敦としては普通のことを言ったつもりだったのだが、朱梨にはおかしい言葉に聞こえたのか、少しだけ驚いた顔をしてから突然押し黙ってしまう。
長い間。
朱梨がふと思い出したように、なんでここに戻ってきたんだよ、と千敦に問う。言い難かったが素直に台本を忘れたことを告げた。
「バカか、お前!」
当然のように大声で怒鳴られ、朱梨は足早に近づいてきたかと思うと、千敦の太股の辺りに思い切り蹴りを入れる。
「痛ってぇ!」
千敦は軽く飛び跳ねてから太股を押さた。
朱梨は千敦のワイシャツの襟元をを掴むと、思い切り自分の方に向かって引き寄せる。不謹慎なのは重々承知しているが、顔がかなり近くて千敦は動揺してしまう。けれど、近くで見る朱梨の顔は今は般若のようで、それはそれで怖すぎて動揺した。
「端役だからって気抜いてんじゃねぇぞ! 関岡!」
「は、はいぃ!」
朱梨は根が体育会系なので、怒らせると本当に怖い。気迫に押されて千敦は何度も何度も繰り返し頷いていると、どこからか携帯のバイブ音らしきものが聞こえてきた。
千敦はこの場に携帯を持ってきていない。というか台本以外に持ち物がないので、この音の主は当然朱梨ということになる。もしかして夜のお供かな、と千敦がゲスな方向に期待に胸を膨らませていると、朱梨が露骨に舌打ちをした。
それから千敦のワイシャツから手を離すと、スカートのポケットから手のひらサイズの緑色したたまご型の機械を取り出す。よく分からない生き物を育成する、小学生の頃に流行ったオモチャによく似ている。
「何ですか、それ?」
気になって千敦が覗き込もうとすると、朱梨は素早く腕を離して機械を遠ざける。
「見んな、バカ!……別に大したもんじゃねぇよ」
たまご型のおもちゃを胸に抱きながら千敦を睨みつける朱梨。結構可愛い。
「えぇぇぇぇ! すんごい気になるんですけど」
「……女の秘密は無理矢理聞かない主義なんだろ? お前」
「それは時と場合によりますね」
と千敦が即答する。
「ふざけんなよ、てめぇ!……とにかくお前は今から3分以内に学校を出ろ!」
完全に無茶振りだった。この学校は無駄に広い。そして多目的室は校舎の端の方にあるため、どんなに千敦が頑張っても5分はかかってしまう。無論、教室に放置してある、自分の鞄を取りに行く時間は含めていない。
「3分じゃ絶対無理ですよ! 俺、これから鞄を取りに行かないといけないのに」
「うっせぇ! お前の理由なんて知らん」
「そんなこと言ってると、ここで泣いてたことみんなにチクりますよ?」
「……蹴り殺すぞ、てめぇ」
「サーセンした!」
最後にもう一度早く帰れ、と念を押すように朱梨は言うと、そのまま千敦の脇を抜けて走って多目的室から出て行ってしまう。
朱梨もいなくなってしまったし、1人ここにいても仕方がないので千敦はとりあえず自分の教室へと向かう。教室に戻ると自分の鞄を手に取った。そのまま廊下に出ると、何となく物寂しい感じがして辺りを見回してみる。クラスメートの姿はないし、知っている生徒の姿もない。というか誰の姿もなかった。
廊下は全く人気がなく、この学校に誰も生徒がいないのではないか、というくらい静まり返っている。
ふと、演劇部の皆はもう帰ったんだろうか。今から行ったらまだ部室にいるかなぁ、なんて思って、千敦は部室棟がある方向に向かって歩き出した。
しばらく歩いていると、廊下の角を曲がった先に何やら得体の知れないものが見えて、自然と足が止まった。それは人のような形をしているけれど、人にしてはどうにも形がおかしい。それは全身がこげ茶色に染まっていて、関節が定まっていないのか、手や足が不自然に揺れている。人というより人形のようだった。けれども千敦は特に怖いとは思わず、何か変だなぁと程度にしか考えていなかったのは、現実味があまりになかったからかもしれない。
その人形がこちらに向かって走ってくるまでは。
そいつは突然、物凄い勢いで千敦に向かって走ってくる。それもかなりのスピードで。その姿はこちらに近づいてくるにつれて、当然のことだながら姿が大きくなっていく。その人形は、千敦が予想していたよりもずっと大きかった。
身長は約2メートル以上あり、全身が焦げ茶色一色に染まっている。一応顔らしき部分はあって、目に当たる部分はくり抜かれたように真っ黒で虚空。鼻はなく口はだらしなく開いたまま。形状は主に男性の体系で、上半身は少し猫背気味に弧を描いている。
それは、到底人間と呼べるものではなく、むしろ化け物と呼ぶべきに相応しい。千敦の体は石のように固まってしまう。よく車に轢かれる直前とか、人は硬直して動けなくなる、というけれどそれは本当の事だったんだな、と身をもって体験した。いよいよ化け物が千敦のすぐ目の前まで迫る。
「……っ……あ、あぁ……」
情けないことに千敦は声すらまともに出せなかった。
ただ、こんな人気のない所で助けてくれー! と、叫んだところで助けになんて来るか怪しいところだし、この化け物を見て、果たして勇敢にも助けに来てくれる男気に溢れた若者が、この学校にいるのかも怪しい。
化け物は荒い息を漏らしながら千敦に顔を近づける。ヘドロの匂いがした。まるでファーストキスを奪われそうになる女子みたいに身を縮こまらせ、千敦は別にしたくもないが身長差的に上目遣いで化け物を見つめる。
このままじゃ奪われる。というか食べられる。
千敦はどうにかしなければ、と必死に頭を回転させるが、逃げるという選択肢以外が浮ばなかった。けれども、まるで頭と体が分離してしまったかのように、全く体が言うことを聞いてくれない。事態は最悪の展開を目指して物凄い勢いで加速している。
化け物が口を開く。
口はどんどん大きく開いていき、やがて千敦を頭から丸呑みにできそうなほどになった。口の先はただ真っ黒な闇が広がっている。
そのとき愛の姿が脳裏を掠めた。記憶の中の愛が自分のことを好きだと言って、八重歯を覗かせて嬉しそうに笑う。
こんなときに思い出すなんてまるで走馬灯かよ。まるで、大切な人みたいじゃないか。そんなこと一度も思ったことがないのに。と千敦は嘲笑する。愛を可愛いと思ったことはあるが、恋愛として意識したことはなかった。なのに今は胸が痛い。苦しい。なぜだか無性に掻き毟りたてたまらない。
もう訳が分からなくなって、千敦はその場でうあぁぁぁぁぁぁぁ! と大声で叫んだ。それに反応するかのように化け物が千敦に襲いかかってくる。
次の瞬間、ザクッという土に尖ったものでも突き刺したかのような音と共に、体が崩れ去った。もちろん化け物のほうが。
化け物は顔を歪ませると、まるで氷が溶けるように体の形を崩し、やがて廊下の床に沈んでそのまま跡形もなく消え去ってしまった。
「……だから早く帰れって言ったんだよ、関岡」
呆れたように呟かれた声には聞き覚えがあり、千敦がゆっくりと顔を上げる。
すると呆れているような、困惑しているような、複雑な顔でこちらを見ている朱梨がいた。が、朱梨は普通ではなかった。
化け物を倒した時点でもちろん普通ではないのだが、緑色に染まった円錐型のドリルの底に長い柄をつけた、まるで馬に乗った中世の騎士が持っていそうな武器を手にしている。それなのに格好はいつもの制服姿で、ひどく違和感がある佇まいだった。
「阿部、先輩……どうしてここに? っていうか、なんでそんな変なもの持って、いや、その前にあの化け物は何なんですか?!」
「そんないっぺんにたくさん言うな! というか説明はしてやりたいが、あたしにはできん。バカだからな!」
朱梨は自慢するように胸を張る。意外と大きな胸に千敦は一旦は視線を奪われながらも、我に返って視線を顔へと移す。
「いや、言い切られても困るんですけど……」
「説明は多分……あの人がする。それに今は、呑気に説明している場合じゃねぇしな」
朱梨は素早く体を反転させると武器を構える。
すると、千敦の近くの床に波紋が広がる。その波紋は少しずつ大きくなり、さっきの化け物と同じような奴が顔を覗かせる。
うわぁっ! と驚きの声を上げてその場から飛び退く千敦。
けれども朱梨は至って冷静で、慣れているのか全く慌てることなく、完全にその姿を現す前に化け物に武器を突き刺す。化け物の顔が苦痛に歪む。化け物はまだ肩の辺りまでしか出てきていない状態だったが、床に溶けて消え去った。
間。
「…………それ、アリなんですか?」
「普通にアリだろ。体が全部出るまでいちいち待ってる義理なんてねぇし、第一、あの状態だとあっちが動けないから楽なんだよ」
「なんか……すっごいシュールな絵だったんですけど」
「気にすんな。っうか最近数が多いからよぉ、こうでもしないと追いつかねぇんだよ!」
朱梨は廊下の先に視線を向ける。廊下のいたるところで波紋が広がる。それから化け物達が次々と顔を覗かせた。その数ざっと数えただけでも8体。
もうヤダ。逃げだしたい。というのが千敦の本音だったが、朱梨を残して男の自分が逃げるというのは情けない。それに朱梨は場慣れしていて、おまけにあいつらを攻撃できる武器を持っている。一方、自分はこの状況に全くついていけてなくて、おまけに武器もないし、仮にあったとしても戦いたくなんてない。
もしかしたら、千敦がこの場にいると朱梨の足手まといになるし、何かと戦いづらいかもしれない。と心の中で前置きしてから、逃げてもいいですか? と朱梨に問いかけた。
「別にいいけど」
朱梨があっさりとした答える。
すぐさまこの場から離れようと千敦は朱梨に背を向ける。
「逃げるのはいいけど、途中でまたあいつらに会って死んでも……いや、死にはしないか。ともかく絶対ロクな目に遭わないだろうけど、一切責任取らねぇ――」
「ここにいさせてください!」
千敦は振り返りざまに朱梨の言葉を遮って即答する。
「好きにしろ」
少し呆れた顔して朱梨が笑う。よくよく考えてみれば、あいつらを倒せる朱梨と一緒に居るのが、1番安全に違いない。たった今そう確信した。
ふと辺りを見回すと、化け物達の体は殆どが出かかっている。このまま一斉に動かれたら朱梨でも形勢は不利に違いない、朱梨も同意見なのか本当に馬に乗った騎士のように、武器を構えたまま化け物に向かって特攻する。そのドリルのような先端で、次々と敵の体の真ん中に風穴を貫いていく。
朱梨が廊下の端まで行くと、8体は砂のように崩れて溶け、廊下の床に消えていった。さっきまでの光景が嘘のように、廊下に日常が戻ってくる。
朱梨は泥を払うように武器を振るう。それから千敦がいる方に振り返ると、武器を肩で担ぎながら、どんなもんだ。と言わんばかりにドヤ顔をする。
けれど、千敦は笑えなかった。
死角で出現していたのか、それとも隠れていたのかは分からないが、朱梨の少し後ろには、新たに2体の化け物がいる。今にも朱梨に襲い掛かろうとする化け物達。
「阿部先輩、後ろぉぉぉぉぉぉ!」
千敦はできる限りの大声で叫ぶ。結構距離があったが日頃の発声練習の成果なのか、自分が思っている以上に声が響いた。朱梨はすぐに振り向こうとしたが、油断していたせいか少しだけ動作が鈍る。化け物は2体同時に朱梨に襲いかかる。
もしかしたら死なないかもしれない。朱梨なら何とかしてしまうのかもしれない。それでも千敦はその場から勢い良く走り出していた。武器もない、根性もない、ヤバくなったらすぐ逃げる。そんな千敦だが、体力と瞬発力には自信があった。
愛のときみたいに、目の前で誰かが死ぬのを味わうのはごめんだ。あんなに辛くて悲しくて、今思い出して胸が痛くなる。あんな思いは絶対したくない。愛のことは夢の話だけど、それでも嫌なものは嫌だった。
それに今起こっていることは間違いなく現実だ。
千敦は颯爽と廊下を走り抜けると、朱梨に向かって手を伸ばし、その体を抱え込むと勢いに乗ったまま前に飛ぶ。それと入れ替わりになる形で、突然左右から素早く影が飛び出してきたかと思うと、一瞬で化け物達を真っ二つにした。
体が溶けて廊下の床に消えていく化け物達。2つの影は泥を払うように武器を振るうと、1人は紫色に染まった細身の剣を腰につけ、もう1人は1本の剣から枝分かれしたように刃が伸びた、変わった形をしたピンク色の短剣を腰に収める。
千敦はすぐに声が出なかった。というか少しだけ思考が停止していた。
それは当然のことで、朱梨に続いてまたも身近な人間が、目の前に現れたからだった。
「う、うこ! それに勝野先輩も……な、なんで2人がここに!?」
「……それはこっちの台詞だから」
「やばっ! せっきーじゃん!」
こちらを見て大げさに驚くうこ。千敦は呆れながら今更かよ! と冷静にツッコミを入れる。
「っうかさ……せっきーはなんであべ
「……くだらない」
ムダにはしゃぐうこと呆れている沙夜子。
対照的な2人に苦笑していると、千敦はいきなり腹を蹴られて強制的に吹っ飛ばされた。
「ぐはっ!」
と呻きながら勢い良く廊下を転がる。その距離、約2メートル程。
「い、いつまで抱きついてんだよ! こ、こ、このドアスベ!」
朱梨の顔は茹でタコのように真っ赤に染まっていて、今にも沸騰してしまいそうだった。
「あべ先、ドアスベって何?」
「そ、それは……ドアホとスケベの両方の意味を持つ言葉なんだよ! すげぇだろ?」
「……全然すごくないと思うけど」
「あべ先、それマジ新しい! ヤバ、天才じゃん!」
沙夜子とうこの反応は本当に対照的だった。敦はお腹を押さえながら、ゆっくりと元の位置に戻る。すると、朱梨が危険を察知した小動物のように、千敦から距離を置いて、なぜだか軽く睨まれる。その顔はさっきより幾分マシになったが、未だ頬に少し赤みが残っている。
可愛いと思ってしまった。不覚。
そのとき突然、多目的室で聞こえてきたバイブ音が再び聞こえてくる。すると、3人の顔つきが急に変わり、やや真剣な顔つきでポケットから素早くたまご型のオモチャもどきを取り出す。どうやら色違いで同じものを持っているらしい。最近女子の間で流行っているものか。と、千敦は首を傾げた。
「…………」
「よく分からないけど、何かすごーい!」
「たっく……あのじぃさんは何考えてんのかマジで分かんねぇ」
反応は三者三様だったが、なぜか3人の視点が自分に向けられているため、千敦は動揺せずにはいられなかった。
「……俺が、どうかしました?」
気になって問いかけてみたが3人とも一斉に目を逸らす。こういうときは行動が一致するんだな、と千敦は口にはしなかったが内心思って苦笑する。
「とにかく行こっか、せっきー!」
うこが小走りでこちらにやってくると、何の躊躇もすることなく千敦の手を掴む。相手がうことはいえ、やはり女の子だし可愛いという付加価値も加わり、千敦の心臓は突然の出来事に心拍数が跳ね上がる。少しだけ頬の辺りが火照っているのを感じる。
「ここからだと、1番近いのって北校舎のやつ?」
「……左に曲がるとすぐにあるわ」
「そんじゃそこだな」
意味の分からないまま話はどんどん進んでいき、千敦はうこに引っ張られるままに歩き出す。廊下の角を曲がると、すぐ横にある女子トイレに連れて行かれた。
「ちょっと待て!」
入りたい。と思ったことは、今まで何度かあるけれど、女子に連れられて入るのは何かが違う気がして、千敦は慌てて立ち止まる。
「うおぉぉぉっ! いきなり止まると危ないよぉ、せっきー!」
うこが千敦の方に勢い良く振り返る。
「いやいやいやいや、ここに男連れて入るのおかしいでしょ!」
自分は正論を言っている自信がある。どういう理由があるのかは知らないが、いかがわしい理由以外で、女の子と一緒に女子トイレに入るなんてごめんだ。
「さっさと入れよ、バカ!」
という言葉の後に千敦は朱梨にケツを蹴り飛ばされた。その勢いで、あくまで不可抗力で、自分の意志とは全く関係なく、千敦は女子トイレに足を踏み入れてしまった。
女子トイレに入ると、千敦は辺りを見回した。それからこっそり匂いを嗅いでみたが、別にバラの匂いとかフローラルの香りとかはしなかった。でも臭くなかったことに密かに安堵する。とりあえず見た目がピンク色の塗り変えられているのと、個室の数が半数を占めているだけで、特に男子便所と変わったところはない。なぜかちょっと残念になる。
そんなとき誰がこいつと一緒に入るんだよ。さすがにこの人数は無理だろ。と朱梨のやや狼狽気味な声が聞こえてきた。聞こえてきた興味のある台詞に、何気なく千敦は朱梨の方に顔を向ける。目が合うと、朱梨は慌てて沙夜子の背中に移動して身を隠す。背が小さいのでその体は綺麗に収まってしまう。
だから、萌えるようなことすんなよ! と心の底から言いたくなった。でも言えば100%殴られるので、言えなかった。
「ならうちが入るよ!」
とうこが手を上げて立候補する。
「は、入るってこの個室の中にか?!」
「決まってんじゃん。他に入るところある?」
「いやないけどさ……でもさすがにマズイいでしょ? 一応男と女なんだし。っていうか、中に入って何するっていうんだよ」
心の動揺とあらぬ期待から、千敦の声が僅かに上擦る。
「うーんと、なんて言えばいいのかなぁ? いやー、ちょっと楽しい所に行こうと思ってさ」
ニヒヒ。という効果音がつきそうな、やや悪い笑みを浮かべながら楽しそうに口元を歪めるうこ。楽しい所って、俗に言う天国ってやつかよ。という言葉が喉元まで出かかったが、さすがにこれは表には出すことができずに飲み込んだ。多分、3人から殴られる。
千敦は生唾も飲み込む。
うこは茶髪だし明るくてノリが良い。人との距離が近くて、おまけに話すときも顔が近いそういう子なので黒髪の朱梨や沙夜子に比べると、見た目も含めて少し軽そうに見える。そのため、もしかしたらという期待値も、その分比例している。
「とにかくバーっと行っちゃお!」
やけに上機嫌のうこは千敦の後ろに回り込むと、背中を押して奥の個室へと入ろうとする。
「まぁ、頑張れよ」
「……気を付けて」
個室に入る直前に横を向くと、朱梨は気まずそうに目線を横に逸らし、沙夜子に関しては元々無表情なので感情が読み取れない。先輩2人に見送られて、千敦は1番奥の個室に押し込まれた。
中に入るとうこは後ろ手でトイレの鍵を閉める。鍵を閉める音がいやに大きく聞こえた。只でさえ狭いトイレの個室に女の子と2人きり。2人の距離は10cmもない。友達同士の距離にしてはかなり近い。顔を近づければキスなんて容易にできる。千敦はまた生唾を飲み込んだ。可愛い女の子とトイレの個室で2人きり。これで期待をするな、というほうが人間としておかしい。
うこは上目遣いで千敦を見つめてくる。目が合うと、人懐っこそうな笑顔を浮かべる。やっぱり普通に可愛い。髪から良い匂いが漂ってくる。高いシャンプー使ってるとかそういうことではなく、男とは根本的に違う、女の子特有の優しくて甘くて儚い香り。
どうやら俺は今日で卒業してしまうらしい。もちろん学校ではないほうを。
気がつくと心臓の鼓動が異常な程早くなっていた。その鼓動はうこに聞こえてしまうじゃないか、と思えるくらい大きく脈打っている。あとは、少しだけ下腹部ら辺が熱い。
「それじゃ、さっさといっちゃおうか?」
そう言うが早いか、うこはさらに千敦との距離を縮める。もう抱き合っていると言ってもいいくらいに2人の間には距離がない。うこが無言で千敦に向かって手を伸ばす。心臓が跳ねる。
けれども、その手が千敦のネクタイを外したり、ワイシャツのボタンを外したり、はたまた首に回ったりすることはなかった。期待とは裏腹に、うこは壁ドンをするかの如く千敦の顔の横に手のひらを置く。
突然、地震が起こったのかトイレの床が激しく揺れた。次の瞬間、トイレの床が左右に開き、床自体がなくなる。千敦は淡い期待と熱い昂ぶりを抱えたまま、真っ暗な奈落の底へと落ちていった。
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