第2幕

第2幕 シーン1

 「うあぁぁぁぁぁぁ!」

 

 叫び声を上げながら千敦は勢い良く上体を起こす。

 目の前には見慣れない景色が広がっていて思わず顔を顰めた。少ししてからここが学校の保健室で、自分はベッドで寝かされたことまでは分かったが、それにしても目覚め悪い夢だった。というか夢というにはあまりにもリアルで、愛の温もりが少しずつ失われていくのを思い出すと、今でも恐ろしくて鳥肌が立つ。


 「……さっきのは、夢だよな? いや絶対夢だ!あんなことが現実にあるわけがない。だって、部長が俺に告白するとか、マジでありえないし」


 と自分に言い聞かせるように独り言を呟く。現実が身に沁みて辛くなった。

 とはいえ、千敦がどうして保健室にいるのかは分からない。怪我か病気なのかは不明だが、少なくとも倒れた記憶はない。


 試しに千敦は肩を回したり、足を恐る恐る動かしてみたが、特に痛いと思う箇所はなかった。ふと、夢のことを思い出して頬の辺りを触ってみたが、当然血なんてついていなかったし、部長の血で濡れているはずのズボンも乾いている。念の為に鼻を近づけて匂いを嗅いでみたが、生臭くもなければ鉄が錆びたような匂いもしない。


 頭を捻っていると、突然保健室のドアが開いた。おー、ようやく起きたか。と言いながら、保健室の天使と名高い保険医の中島なかじまかすみが中に入ってくる。


 長い髪の先端で1つに束ね、薄いピンク色のワイシャツに一般的には大きい部類に入る胸。タイトで短めの黒のスカートと、そのスカートから伸びる美しい足。おまけに美人とくれば、大抵の男が放っておくはずもない。この高校に赴任して以来、かすみは一部の男子から絶大な支持を受けている。どうして一部なのかと言うと、もう1つの2つ名に原因がある。


 「関岡、気分はどう?」

 「えっ? あぁ……まぁ普通ですかね」


 千敦はありのままを素直に答えた。


 「立てる?」

 「はい」

 「歩ける?」

 「はい。多分、大丈夫だと思います」

 

 千敦は頷くと適当に保健室を歩き回って見せる。やはり何の異常もない。

 

 「なら帰れ」

 「えぇぇぇぇぇぇっ!」

 

 無情な言葉に反論の意味も込めて叫ぶ。 


 「ここは健康で悩みもない人間がいる場所じゃないの。だからさっさと帰って」

 

 かすみの言うことは正論だったが、教員としての態度がこれで正しいのかというと、少し間違っているような気がする。

 だが、かすみはいつもこんな感じで、軽い怪我だと舐めときゃ治るとか、我慢しろなどと平気で言う保健医で、ベッドもあまり貸してくれない。そんな人なので一部の生徒からは保健室の悪魔と呼ばれている。

 

 そんなかすみのことを千敦は嫌いではなかった。見た目の部分も大きいが、本当に怪我をしたら当たり前だけどちゃんと手当てしてくれるし、数日経ったときに怪我の具合はどう? と聞いてくれる。噂では、本当に悩んでいる生徒には、親身になって相談に乗ってくれるという。


 千敦はとりあえず保健室を出ようと思ったが、不意に聞かないといけない大事なことを思い出し、体を反転させてかすみと向き合う。


 「あの先生……俺、なんで保健室なんかにいるんですかね?」

 「何も覚えてないの?」

 「はい。あっ…………覚えてることはあるんですけど」


 千敦は愛が死ぬ夢シーン我頭を過ぎって言い及ぶ。


 「言い出して急に止められるの嫌なんだけど」


 かすみの冷たい視線が突き刺さる。そういうのを喜んでしまう上級者ではないので、千敦は重たい口を開く。


 「その……部長の宮島さんが、突然血を流して死んじゃうんです。もちろん夢だとは思うんですけど、何かすごいリアルな夢で……」

 「覚えていることはそれだけ?」

 「はい……でも、先輩は元気なんですよね? 死んでなんていないですよね?」


 千敦は自分でも馬鹿な質問をしたと思ったが、夢とは思えない程、今でも鮮明に覚えている。真っ赤な血、初めて聞く愛の弱々しい声。好きという言葉に一瞬胸が高鳴るが、冷たくなっていく手と静かに閉じていく瞳を思い出すと、千敦の胸は激しく締め付けられて、強い痛みに思わず左胸を強く掴んだ。


 突然、関岡。とかすみに名前を呼ばれる。

 声に反応して顔を上げると、切ない瞳でこちらを見つめるかすみと目が合う。

 思考が停止する。


 こんな顔をするかすみを千敦は今まで見たことがなかった。まるで夫を失い途方に暮れる夕暮れの未亡人、または団地妻。そんな顔をしている。とにかくエロい。

 千敦は生唾を飲み込む。

 なぜそんな顔をするのか聞きたかったが、上手く声が出なかった。それにそんな切ない顔をされると、まるで本当に愛が亡くなったように思えてくる。


 もしかして夢じゃなかった? いや、そんなはずはない。あれは絶対に夢だ。などと自問自答してると、突然かすみがひどく呆れたような溜め息を吐き出す。

 それから千敦は脳天に手刀をくらった。


 「痛ってぇ!」

 「……関岡は本当にバカだね」

 「えっ?」

 「宮島ならさっき普通に廊下を走ってたよ。 というか、あいつは絶対にタダじゃ死なないから安心しな」


 かすみの顔は完全に呆れていて、千敦は乾いた笑い声を漏らしながら頭を掻く。本当に馬鹿なことを言ってしまったようだ。やっぱりあんなことが現実に起こるわけがない。ただ、第三者に愛が普通に元気でいる、という話を聞いたことで千敦の不安はだいぶ取り除けた。


 「ですよね。本当に馬鹿なこと聞いちゃってすみません……あっ、そうだ。今日って部活に出ても問題ないですよね?」


 千敦は保健室のドアに向かって歩き出す。


 「あぁ。でも無理はしないでよ。それと、部活に顔出すなら阿部あべ勝野かつのにお礼言っといたほうがいいわよ」

 「どういうことですか?」

 「その2人がここまで連れて来てくれたから。何でも関岡は階段の踊り場で倒れてたらしいよ? 全く、女の子に運ばせるなんてだらしない」


 かすみのひどく呆れた視線を再び受け止めながら、千敦はただただ苦笑するしかなかった。最後にもう一度かすみにお礼を言うと、千敦は保健室を後にした。今度はその足で多目的室へと向かう。いつもは本校舎から少し離れた部室棟に一旦集まり、そこからロードワークに行って3km程度走り、いつも練習に使用している多目的室に行って、ストレッチや発声練習などを行う。だが、今日は既に時間がかなり経っていそうなので、そのまま多目的室へと行くことにした。


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