第5幕
第5幕 シーン1
翌朝、千敦はトーストした食パンを口に咥えながら、朝の情報番組をぼんやりと眺めていた。
父親は出勤が早いので起きたときには既に姿がなく、心身共に若々しい祖父と祖母は今頃近くの公園でゲートボールに勤しんでいる。3つ下の生意気盛りの妹は、あと少ししたら寝ぼけ眼を擦りながら起きてくる。そんな時間に、突然自宅のインタホーンが鳴った。
こんな時間に誰だよ。と思いながらも、千敦は母親が玄関へと向かうのを眺めていた。少しして母親が戻ってると、いやに嬉しそうに笑っている。そして、祐美ちゃんが来てるわよ。と言ってきたので、千敦は口に含んでいた牛乳を噴き出してしまった。
すぐさま手で押さえたので被害は最小限で済んだが、手から白い液体がこぼれて落ち、おまけに少し生臭い。その手を見つめながら、そういえば最近してないなぁということに気づく。それはそれとして、とりあえず近くにあったティッシュで手を拭いた。
「ほら、待たせるのも悪いから早く行ってきなさい」
「……別に約束とかしてないし」
「そういうことじゃないでしょ! とにかく行きなさい」
訳の分からない理論で母親に急かされたため、千敦は食事の途中にも関わらずく玄関へと向かうことになった。外に出ると、確かに玄関先のポーチに祐美が立っている。
「……よぉ」
と千敦は軽く片手を上げながら、少しぎこちなく声をかける。
「うん」
祐美とはトロールを撃退するため、実は土日とも会っているのだが、その日は全員業務以外の会話しなかった。千敦は仕事以外の話をすると、胸に溜まっている色んな想いが溢れてしまいそうで、わざと避しなかったのだが心情としては皆同じだったのかもしれない。
「……おはよ」
祐美は千敦を一瞥したが、すぐに顔を横に逸らしてしまう。千敦は何気なく祐美の横に立った。
「とりあえず、学校行くか?」
「うん」
祐美が頷くのを見て、2人は並んで駅に向かって歩き出す。ふとお金のことが気になって、少し迷いながらも千敦は口を開いた。
「そういえばさ……お前、電車で大丈夫なのか?」
「片道だけなら何とかね」
と言って照れくさそうに笑う祐美。片道だけかよ! と千敦をツッコミを入れようとしたが、色んな意味で口を噤んだ。
間。
「ごめん!」
祐美がいきなり謝ってきた。千敦は何となく意味が分かったけれど、わざと分からないフリをする。
「何が?」
「……1人でうこに会うのが怖くなっちゃってさ」
「あ、あー……そういうことか」
「うん」
長い間。
「千敦はさ……うこに会うの怖くないの?」
「怖ぇに決まってんだろ。っうかあれが夢だったらって、この週末ずっと思ってたよ」
うこと出会って約2ヵ月半。そう長い期間ではないが、同学年で人懐っこい性格のうことは話す機会が多かったし、思い出はたくさんある。色んな場面が頭を過ぎって、胸が少しだけ熱くなる。けれど、うこの死んだ瞬間を思い出すと胸が苦しくてたまらなくなった。
千敦を何となく空を見上げる。快晴だった。
「本当に……夢なら、良かったのに…………もう、ユーミンって呼んでくれないのかなぁ」
祐美の声はひどく震えていて、顔を深く俯けたまま言葉に詰まっていた。小さな肩が微かに揺れている。
千敦も同じ気持ちだし、きっと他の部員達も同じ気持ちだと思う。莉穂に関しては、実の妹のように可愛がっていたのだから、更に辛いかもしれない。ともかく、胸を痛みを抱えていることは皆同じだ。
千敦は小さく溜め息を吐いてから、自分の肩の辺りにある祐美の頭に手を置く。そのまましっかりと前を向くと、
「現実が厳しすぎて泣きそうなんですけどー!」
と虚勢を張ってわざと大声で叫んだ。
「……うん」
祐美は顔を上げないまま頷く。その声は何だか少し嬉しそうだった。
うこが一度死んだ日。全員うこには会わずに学校を出た。時間が遅かったのもあったけれど、うこはみんなの中でムードメーカ的な存在だったから、そんな子が変わってしまうところを誰も見たくなかった。というか怖かったのかもしれない。電車に揺られている間、千敦と祐美の会話はあまり弾まなかった。
重苦しい空気が唇を押さえつけているかのように、口を開くことがひどく重い。そうして電車に揺られること40分。途中1回だけ乗り換えをすると、千敦達は学校の最寄駅へと降り立った。
改札を出て学校に向かう。相変わらず2人の会話は少なかった。
学校へと近づく度に千敦の心拍数が少しずつ上がっていく。横目で祐美の顔を伺うと、どこか緊張した面持ちで正面を見据えている。ひょっとしたら千敦も同じような顔をしているのかもしれない。ただ、客観的にこの場面を考えると、緊張した面持ちの男女が通学路を並んで歩いているわけで、思わず小学校の入学式かよ! とツッコミを入れたくなる。
自分のノリツッコミに口元を緩めると、僅かながら緊張が解けた。
歩みを進めていくと、遠くに学校の正門が見えてくる。うこの教室は千敦の隣で1年C組。別のクラスでまだ良かったのかもしれない。そうはいっても、いずれは顔を合わさないといけない。少なくとも部活のときに会うことになる。
「……あー、泣きたいかも」
千敦は心の声がついそのまま口から出てしまった。
「はぁ? い、言っときますけどねぇ、私は別に泣いてないからね!」
祐美は顔を赤くしながら反論してくる。正直言ってあまり説得力はない。
「はいはい」
「もうっ、絶対信じてないし! 本当にさっきのは泣いてないんだってば!」
「分かったよ。泣いてないんだろ? もうそれでいいじゃん」
「何なの、その投げやりな態度……ムカつく」
ようやくいつものような軽口を叩いていると、後ろからせっきー、ユーミン! とバカぽっい声が聞こえてきた。
それは間違いなくうこの声で、2人してほぼ同時に足を止めて振り返る。見れば、うこが大きく手を振りながら、こちらに向かって走ってくるところだった。目の前までやってくると、うこは少しだけ荒い息を吐き出しながら、いつも通りに人懐っこそうな笑みを浮かべる。
「おはよ!」
「うこ……いや、高城さん?」
「おはよう……ござ、います?」
千敦達の対応は笑ってしまうほどぎこちなかった。当然ふざけてやっているわけではく、心臓はありえないくらい早く脈打っている。心の準備が全くできていなかったため、千敦も祐美も若干混乱していた。
「えっ? えっ? 何それ? 新しいギャグ? それともオコ? オコなの?」
うこは千敦と祐美の顔を交互に見ると、1人で勝手に焦っていた。
「オコじゃねぇよ!」
千敦は叫んだ。嬉しさで声が少しだけ震えた。
「うん、ならいいや!」
うこは歯を見せて屈託のない笑みを浮かべる。いつもと変わらない笑み。3日前と変わらない笑み。そのことがたまらなく千敦は嬉しかった。
うこは何も変わっていなかった。皮肉なものだが、今まで積み重ねてきた感情を失っても、うこは誰に対しても壁を作らず、根っこから明るくて素直な奴なのだと気づかされた。
「なぁ、うこ……俺達って友達だよな?」
「えっ?……違うよ」
「はぁ!?」
「なんていうかぁ、ビジネスパートナーみたいな感じ?」
「バーカ。覚えたての単語使ってんじゃねぇよ」
千敦は笑いながらうこの額にデコピンする。痛で。と言いながら、額を押さえて顔を顰めるうこ。
「えっ? オコ? 激オコぷりぷり丸?」
「だからオコじゃねぇーっての……むしろ、今はその逆だよ」
「ふぇっ?」
「うこ、行こう!」
呆けているうこの腕を祐美はやや強引に掴むと、走って正門の方に行ってしまう。うこは千敦の方に顔だけ向けると、それじゃまた部活でね、せっきー! と言って大きく左右に手を振るう。祐美も少しだけ後ろに振り返る。その顔は晴れ晴れとしていたけれど、瞳が微かに潤んでいた。
千敦は後を追いかけることもなくその場に突っ立っていた。なぜだか少し泣きたくなった。すると、冗談抜きに目頭が熱くなってきたので、思わず空を見上げる。眩しい光を放つ真っ白な太陽と目が合う。今日は馬鹿みたいに晴天だった。
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