雷の花

浅木大和

雷の花

 街は二つの轟音に包まれていた。

 

 雨の轟音と雷の轟音が拮抗する夜の世界。


 若い男が二階建てアパートの一室でカーテンを開け、締め切った引き戸式の窓から、雨水で歪んだ視界を見つめる。


 天井からは大きな雨粒たちのドラムロールが絶えず部屋へ向かって響き渡る。


 六畳という室内面積と湿った空気が程よい孤独感を演出している。

 

 真夏に出現する局地的な雷雨を呼び込む積乱雲。

 

 男の住むこの地域には、非常に雷雨・雷雪が多い。

 

 桜の木が花で染まる時も、落ち葉で満たされる時も、真っ白な世界に包まれる時も。

 

 この街には、かつて雷獣と呼ばれる、江戸時代に雷とともに現れたあやかしを、当時の人々は正体不明の生物として非常に恐れていた。

 

 気象技術の発達に伴ってそれは、雲の中に発生する氷の火花が集束し、撃ち放たれる現象である。


 遠い国ではベンジャミン・フランクリンという学者が雷雲のそばで凧を上げ、神が引き起こすとされていた御技を、科学で証明できると説明した。

 

 しかし、男は自身の住む二階の部屋から、時折稲妻のように光る、四足歩行の動物が空中を走り回っている姿を見つめていた。


 その姿は豹、ライオン、虎など大型のネコ科に当てはまるような体躯を持ち、縦横無尽に上空で走らせる。


 時々立ち止まっては街中に響き渡る咆哮を様々な建物へ反響させる。


 その音はまさに山から轟く、バリバリと空気を噛み砕く雷鳴と呼べるものだった。


 男の部屋も、少し老朽しているのか、劈く光が叫んだ衝撃によって小刻みにミシミシと軋む音を立て、三半規管を若干揺らすほどの振動を全身に感じ取った。


 絶縁体のガラスを貫いて感電したように、指先には針が刺ささる痛みを、少しながら感じ取っていた。


 最初の雷鳴が始まって一時間ほどで雷雨が止み、街は静けさを取り戻そうとしていた。


 長時間続いた雨粒のドラムロールは徐々に勢いをなくし、仕舞いにはスネアの一音すら聴こえなくなった。


 男は空が晴れたことを確認すると窓の鍵を開ける。


 湿った風が待ちかねたかのように塊となって部屋一帯に入り込む。


 頬をなでるように風はそばを通り抜け、男の短髪を揺らした。


 壁にピンで刺したカレンダーが小さく揺れ、カサカサと紙が擦れた。


 夜空に多い被さった黒に近い灰色のヴェールが取り払われ、闇色の混ざった青空と、そこに浮かぶ満月が姿を現した。


 窓を開けたまま男は部屋の真ん中にある机の近くにゆっくりと座る。


 カーテンが風によってスカートのようにゆらゆらとなびいている。


 月明かりに照らされたカーテンのスクリーンには、男が先ほど見ていた四足歩行の動物も開けた窓から侵入していたことを、陰影によって示されていた。


 男は驚くこともなく「おいで」と一言、その動物に伝えた。


 ゆっくりと歩を進め、動物の全体が顕になった。


 姿はネコ科の動物でありながら、180cmはゆうにあるだろうと思われる大きさだ。


 体毛は黄金色に光っており、先ほど降り注いた稲妻の電気が猫全体に精密機械の回路内をループするように走っている。


 咆哮は発さず、男の近くまで寄ったとき、徐々に全身を輝かせていた動物の光が失い始めた。


 そのまま全身の体毛が消え、体も一回りほど小さくなったが、その変化が終わる頃には、見慣れた姿がそこにはあった。


 気づくと、神社の巫女にも似た服を纏う年若い女性が正座をした状態で、あぐらをかいて座る男の前に現れた。


 真っ黒なショートヘアーが窓から入った風によって、少し揺れる。


 灰色のかかったに大きな瞳は部屋の光が入り、輝きを示しているように見える。


 その後、彼女はなんの躊躇いもなく、男の肩に自身の身体を預け、そのまま寄り添った。


「おかえり」


 男がそう言って、女性へ変わったその動物を抱き寄せた。


「ただいま。疲れたわ」


 彼女は笑顔を見せることはなく、ただただ安堵の表情を見せ、瞳を閉じたまま言葉を発した。


「随分と長く雷雨を降らせたんだな」


「仕方がないのよ」


 女性は気を吐いた。


「この時期には穢れが増えて、絶えず浄化させないといけないの」


「身体は大丈夫か?」


「平気よ。長いこと続けているから、もう慣れっこよ」


 その内容は、仕事のことを聞く夫とそれに答える妻のやり取りに錯覚してしまう。


「布団を敷くよ。だいぶ疲れているみたいだ。横になったらどうだ?」


「ちょっと休めば大丈夫よ。連日ふられているから、流石に疲れが出てしまったようね」


「だったらなおさら横になった方がいいだろうに」


「いいの。こっちの方が落ち着くもの」


 女性はゆっくりと瞼を開き、大きな二つの瞳で真央の方向へ目を向けた。


「月、本当に綺麗ね。昔はもっと近くにあったのに、いつの間にか遠く離れてしまったわ」


 宙に浮かぶ、輝きを見せる衛星を、彼女は当時を懐かしむかのように一喜一憂する。


 その時代を知らない男は、イメージでカバーする他なかった。


「毎年少しずつ、この星から離れているらしい。竹取物語が出来た頃はよほど月が近くに見えていたのかな」


 二人は、同じ方向を見ていた。


 満ち欠けを起こす光の球体は、偶然にも等しく構成された寸分の狂いもない円を映し出しているようにも見えた。


「ライカ。そろそろご飯を作りたい。今夜はとびきり好きなものをね」


「ごめんなさい。もうちょっとこのままでいさせて。あなたと初めて出会ったこと、思い出してしまったわ」


 ライカと呼ばれた女性は、その景色を見続けたい我が儘を男に願った。


 彼女の意向に折れた男も料理することを諦め、その時のことを思い出すことにした。


「あの時、どうして俺を選んだのさ?」


 男が問いかける。


「わたしは今まで雷雨を呼ぶあやかしとして、人々に恐れられていたのに、潤は逃げずに受け入れくれた。それだけで嬉しかったの」


 潤の質問にライカは答えた。


「逆にどうして潤は、わたしを選んだの?」


 ライカが問いかけた。


「あの時は、一瞬だけ途轍もないほどの強い雨になって、偶然近くの神社に雨宿りしたんだっけか」


 当時を思い出し始めた潤は一連の出来ごとを話しながらも振り返っている。


「昔から言い伝えられていた雷獣が近くにいただけでも驚いたのに、あっという間に女の子に変身してしまったのはさらに驚いた」


「直後にあなたはわたしを『可愛い』だなんて言ってたわね。あんなこと初めてで、恥ずかしくなって、どんな顔したらいいか、わからなくなってしまったんだもの」


 状況を思い出しながら、ライカの顔はまた過去のように顔を赤らめた。


「本当に可愛いんだよ。それだけじゃなくて、ライカは遠い昔からこの街を守り続けていたことが、嬉しかった」


 潤の独白に、彼女は首を横に振った。


「ううん。感謝したいのはわたしの方よ。こうやって帰ることのできる居場所を作ってくれて――ありがとう」


「いいんだ。こんな日常が毎日やってくることが、本当に楽しい。俺に出会ってくれて――ありがとう」


 お互いに感謝の言葉を交わすと、揃って恥ずかしくなって、そのあとに続く会話がなかなか出てこなかった。


 数分後口を開いたのはライカだった。


「こんなに不思議でドキドキすることなんて、潤に出会わなかったら、一生知らなかったかもしれない。ああ――恥ずかしいのが、消えない――」


 鼓動が加速し、顔の赤くなり、温度が上昇し、高揚する気分は、ライカにとって新鮮な感覚であることを、潤は嬉しく感じていた。


「これは正常なんだよ。こんなふうに感情があって、意思があって、変化がある毎日がとても幸せだ」


 潤がライカへ寄り添うひと時の中で、もう一つ気付いたこと。


 やろうとしていた夕飯の支度を忘れてしまっている。


「そろそろ夕飯を作らないと。このままじゃ夜中になってしまう」


 顔を真っ赤にして脳内を暴走させているライカに呼びかける


「わ、わかったわ」


 ライカはようやく観念し、潤の身体から離れ、近くにあった座布団を並べて横になった。


 IHヒーターのスイッチを入れ、調理を始める潤の後ろから問いかけが聞こえた。


「潤――どうしてわたしに『ライカ』と名づけたの?」


 名前のなかった彼女に「ライカ」と名付けたのは潤である。


「それは内緒」


「お、教えてくれたっていいじゃない」


 由来を知りたいライカは「内緒」という言葉に敏感に反応する。


「今夜はライカの好きな麻婆豆腐だぞ」


「食べ物で話をそらさないでよ!」


 ライカそう怒りつつも、今の生活感ある環境に、過去には得られなかった充実感を、彼女は笑顔に置き換えて表現していた。


 潤にとってライカという存在は、降り注ぐ雷雨に咲いた、稲妻色の一輪の花だった。

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雷の花 浅木大和 @nitoni_mutsuki

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