二次元が好きな僕と高次元の存在な彼女

宮野原 宮乃

終話

「この世界を消し去って欲しいんです」

  開口一番に告げられた少女の言葉に、僕は言葉を失った。

 陽は随分と傾き、校舎屋上に二つの長い人型が刻まれている。

 夕暮れが近い。

 春なのに木枯らしのように冷えきった風が、僕と彼女の間を吹き抜けていった。

 僕には数分にも感じられたが、まじまじと僕を見つめる少女の瞳が初めて瞬きをした事で、それがたった数秒の空隙にしか過ぎなかったのだと理解した。

「……話が見えないんですが。僕を呼んだ用件って、もしかして、それ?」

 彼女は笑みを浮かべてコクンとうなずいた。そのはずみで大きめの眼鏡が少し鼻からずり落ちる。慌てて直す仕草が可愛らしくて、胸が一回だけトクンと強く脈打った。

 身長は僕より頭半分ほど低く、上目遣いの視線がまっすぐこちらに向けられている。自慢じゃないが、僕は女性に対して免疫のある方ではない。

「と、と、とにかく。詳しい話を聞かせて欲しいんだけど」

「はい、ありがとうございます!」

 しどろもどろになる僕に向けて、彼女は満面の笑みになって再びおじぎをした。 その肩でショートボブの髪が踊る。小柄な体に反して発育の良い胸と一緒に。

 ……だめだ、落ち着け僕よ。

 節操無く吸い寄せられる視線を首を振って打ち消すと、気持ちを落ち着けようと深呼吸を二度三度。

「……それで『この世界を消し去って欲しい』っていうのは、どういう意味?」

「そのままの意味ですよ?」

 少女はあっけらかんと言い放ち、さらに「実はこの世界は全部、わたしがみている夢なんです」とも付け加える。

 ひょっとしてそれはギャグのつもりなのか。

 ツカミなのかも知れなかったが、あいにく僕はツッコミが苦手なので、なんと返答したものか困ってしまった。

 しばしの沈黙の後、僕は再び会話の続行を試みる。

「それで、僕を呼び出した理由っていうのは」

「この世界を消し去って欲しいんです」

 そうして会話は振り出しに戻る。

 どこから突っ込んでいいものやら。しかしこのまま無限ループに陥る訳にもいかない。何か話のとっかかりをみつけるべく、僕はズボンのポケットから一通の手紙を取り出して広げてみた。

 そこには丸っこくて可愛らしい文字が踊っている。


”お話したいことがあるので、今日の放課後に東棟屋上で待っています そうま”


「……ええと、キミの名前は”そうま”さん?」

「はい、”そうまさん”です」

 ”そうまさん”は再びニッコリと笑う。またもや僕の胸は小躍りした。

 ダメだ冷静になれ。笑顔を向けられるたびにドキドキしたら身が持たないぞ。レクチャーも受けたし、授業中ずっとシミュレーションしていたろう、僕よ。落ちついて、彼女の言わんとする事を頭の中で整理しろ。

 僕は深く息を吐くと、彼女の言葉を思い出して要約してみる。

「……つまりこの世界は全部、眠っているあなたがみている夢だと。で、僕にそれを破壊して欲しいと、そういう事ですか」

 我ながらバカバカしい事を口走っているなぁと思ったが、

「おおむねそんな感じかな。理解が早い人は大好きです。やっぱり、あなたを選んでよかった」

 彼女はうんうんと何度も頷いて僕の言葉を肯定した。”そうまさん”は、あいも変わらず笑顔のままで、冗談を言っているような素振りは毛ほどもない。

 僕の背中を嫌な汗が伝っていく。

 これは、もしかして、ひょっとして、本気なのか?

「いやいや、そんなまさかね」

「何がですか?」

 首を振って否定する僕の顔を、そうまさんが覗き込んだ。

「この世界が夢?そんな話を、信じろと?」

「うん。だって事実だから」

 即答。瞬きもせず、そうまさんは言ってのけた。

 この人、大真面目だ。不思議ちゃんというか、電波さんというか。そんな類の人間に出会ったのは初めてだった。心の準備くらい欲しい。

 正直な話『不思議系の二次元キャラクター』は大好物なんだが、三次元で出くわしたら、ただ恐怖しかなかった。

 夢が壊れた。

 やっぱり三次元なんてクソだな。

「あー……それは、凄いね」

「えへへ、それほどでもないけど」

 そうまさんはふにゃっと表情を崩して照れ笑いする。その普通過ぎる反応に、うすら寒いものを感じる。なんとかここから逃げなくては。しかも機嫌を損ねないように、だ。怒らせたら何をされるか分からない。

 頭の中で考えを巡らせた。喉が緊張で渇き、何度も唾を飲み込みながら。

「どうしたの?顔色良くないみたい」

 警戒と恐れが表情に表れていたようで、そうまさんが僕の顔を心配そうに見つめている。

「なんでもない。なんでもないですよ?」

「まだ屋上寒いもんね。あ、そこに座ってちょっと待ってて」

 僕に座布団を勧めると……なんで座布団がここにあるんだ?……そうまさんは小走りで数メートル先に置いてあったカバンに駆け寄って「温かい紅茶あるけど、飲む?」そう言いながらステンレス製のポットとティーカップを取り出した。

 ……ポット?そう、確かにポットだった。水筒ではない。半球体で本体がステンレス製、注ぎ口がプラスチックの蓋状で取っ手付き。携帯性のまるでない形をしたそれは、普通の人なら持ち歩きはしないだろう、まごうことなき「ポット」だった。

 白くて軽い陶器のティーカップとソーサーを手渡されると、湯気の立つ紅茶を前述のポットから注がれた。

 紅茶の良い香りが立ち込める。砂糖もミルクも入れずに一口すすってみると、口の中に広がるほろ苦さが、僕を現実に引き戻してくれた。

「どう、美味しい?」

 ポットを片手に提げたままのそうまさんが、しゃがんで僕の顔を覗き込む。

「…うん、美味しい」

 ―――と、思う。正直言って紅茶の良し悪しなんか分からないけど、少なくとも寒気を吹き飛ばす効果は充分にあった。

「良かったぁ」

 嬉しそうに笑うそうまさんの表情を見ていると、さっきまでの電波なやりとりを忘れそうになる。普通の、僕と同じ高校生にしか見えない。

「えーと、そうまさん」

「はい?」

「この世界が夢だって、なぜそう思うの?」

 そうまさんは僕の質問に、よくぞ聞いてくれましたって風の得意げな表情をすると、立ち上がって語り始めた。

「人間の感覚で言うところの時間で何百億年も前に、わたしは眠りについたんです。で、人間の言うところのレム睡眠って時期に入って、夢を見始めた。それがこの宇宙そのものなんです。スゴイでしょう?」

 ああ、心地良いまでに電波だ。よく言えば想像力豊かって言うのか?何度でも確かめたい。心の底から本気でそう思っているのか、と。

「スゴイけどさ、キミは人間にしか見えないんだけど」

「わたしの本体はもっと高次元にいて眠っています。今のこの姿はわたしが夢の中で作り出した、仮の姿なんです」

「なんでそうまでして夢の中に現れたの?普通に起きればいいじゃない」

 そうまさんは、いやーそれが……と照れくさそうに頭をかいた。

「目覚め方を忘れちゃって。だから夢の中で起きる手段を探そうと思って」

 聞いてるうちにバカバカしくなってきた。お茶のせいで頭がハッキリしたせいだろうか。何やってんだこんな所でこんな講釈を聞かされてと、状況を客観的に判断している自分がいた。

 ティーカップの底に残っていたお茶を飲み干すと、僕は立ち上がった。おかわりを勧められたが拒否する。

「そうだ、お茶菓子出すの忘れてましたね。ゴメンね」

 そうまさんの笑顔を見ているうちに、僕の胸のうちに沸々と怒りが湧いてきた。

 下足箱を開けて手紙を見つけたときに高鳴った胸の鼓動も。

 授業中ずっとソワソワしていて教師に注意されたのも。

 好きなおかずの詰まった弁当が喉を通らなかった事も。

 ……こんな電波話を聞かされるためにあったワケじゃない。

「僕をからかって面白がっているのなら、もうやめて下さい」

 僕はそう言って踵を返した。こんな茶番に付き合ってなどいられないから。目じりに涙が溜まっていくのを感じた。屋上のドアを開けてそうまさんの姿を見たとき、僕はドキドキしていた。たった十分ほど前のことが、ずいぶん昔の事に感じられる。今はもう胸の高鳴りなんて全部どこかへ吹き飛んしまっていて、ただ空虚な悲しみしか残っていない。どうしてこんな思いをしなければならないのか。バカバカしい。

 だが。

「帰らないで、お願い」

 階下へ続くドアのノブに手をかけた時、ブレザーの裾が強い力で後方に引っ張られた。振り返ると、そうまさんが僕のブレザーの裾に取りすがっていた。

 さっきまでの零れ落ちそうな笑顔はどこへやら。頬に涙を伝わせて、僕を帰らせまいと必死になっている。

 泣きたいのはこっちだ。

 僕は口の中で呟くと、ブレザーのすそからそうまさんの手を振り解こうとする。小さくて白い手は震えていて良心がチクリと痛んだが、同情など無用だと心を鬼にして力任せに振りほどいた。男の僕が本気になれば、いくら必死でも女の子の腕力などたかが知れている。

 だがそうまさんは思いのほかしぶとかった。今度は僕の左足を両腕で抱きかかえると、両足を放り出して全体重をかけてきた。これには参った。推定体重四十キロほどの重りの出現に、僕は勢い余って床に手をついてしまう。

「僕はそういうのぜんぜん向いてないし!他の人に頼んでよ!」

 向き不向きなんてものがあるかどうかは分からない。からかわれるのがイヤなだけだ。向いていると思しき人がいたら、すぐにでも紹介してあげたい。

 重りをぶら下げたまま這いずるようにして屋上を出ようとするも、すがりついたそうまさんは離れまいと必死なのでなかなか前に進めない。

「こんな事を頼めるのは、あなただけだから」

「なんでそこまで必死なのさ!僕はキミと違って『いろんな意味で』普通の高校生なんだ!」

 そうさ、僕は普通の高校生一年生。この春に入学したばかりの、夢や希望に燃えるピカピカの一年生なんだ。入学してまだ一月のこんな時期に、電波さんに絡まれるなんて出鼻をくじかれたけど、すぐに忘れてやるさ。

「それは、あなたが世界を消し去りたいと願っているから」

「はあ?」

 僕は思わず聞き返した。世界を消し去るなんて誇大妄想を抱いた記憶など無かったから。

 僕が動きを止めたのを見計らうと、そうまさんは胸元から大学ノートを取り出した。ごく普通の大学ノートだったが、使い込まれているようで日焼けしてボロボロだ。

 そうまさんはページを繰ると、咳払いを一つ。

「えーと、『世界は滅ぶべきなんだ!こんな優しさの枯れた世界、もう必要ない!』」

 ……一瞬、目の前が真っ暗になった。

「『学歴が何の役に立つ?高校受験なんて瑣末な出来事が、世界の秩序に何を貢献するっていうんだ!そんな事も理解できない世界なんて、無くなってしまえばいい!』それから……」

「やめろおおおおおおお!」

 気が付くと僕は絶叫していて、自分でも驚いた。無我夢中でそうまさんの手からノートをひったくると、震える指で開かれたページの文字を追っていた。そこには丸っこくていかにも年頃の女の子が書きましたって文字で綴られた、思い出したくない記憶の数々が羅列していた。

 思春期にありがちな、自分の狭い了見でしか世界に向き合えずに抱いてしまう誇大妄想。

 人、それを「黒歴史」もしくは「中二病」と呼ぶ。

 ……忘れてたわけじゃない。忘れたかったんだ。

「思い出しました?」

「……世界を滅ぼしたいとか、高校受験に疲れた中学生にはよくある思い込みだから!誰もが通る道だから!」

「そうなんですか?」

 そうまさんが詰め寄り、ノートを回収しながら僕の顔をじっとみつめた。そのあまりにも純粋な瞳に驚かされる。自分は現在進行形で中二病に罹患中だから理解できないのか。

「……ああ、そうだよ」

 僕は絞り上げるように声を吐き出した。結局自分もそうまさんと同じ穴のムジナなんだなと思うと、気持ちが落ち込んでくる。

 そうまさんはしばらく首を傾げて考えている風だったが、

「うーん……わたしには判断できないです」

 と呟いて立ち上がった。どうせ分かってくれるとも思っていなかったので別にいいけど。だが、

「だから、他の人たちに聞いてみますね」

 しゃがみこんだままの僕の耳元でそう囁くと、屋上から出て行こうとした。今度は僕がそうまさんにすがりつく番だった。それは僕の黒歴史を言いふらすって意味だったから。

「やめろ!いや、やめて下さいお願いします!」

「だって、本当かどうかちゃんと確認しないと」

 僕はやっと理解した。この女、最初から計算づくだったんだ。切り札は最初から彼女の手にあったのだ。屋上に来てしまった時点で、僕の負けは確定していたんだ。

「……分かった。協力するよ」

「引き受けてくれますか?思ったとおり優しいんですね!」

 そう言うと、そうまさんは僕に向けて手を差しのべた。僕はその手を無視してのっそりと立ち上がると、力なく屋上を出た。

 屋上のドアを閉めるとき、そうまさんの微笑が目に留まった。

「明日からよろしくね、桐一くん」

 指名された”桐一くん”である所の僕は、つられて微笑んだ。客観的に見たら、目は笑っていなかっただろうが。

 

「手紙の件、どうだった?」

 下足箱から革靴を取り出して地面に転がしていると、聞き覚えのある声が僕を呼び止めた。

「どうもこうもない。お前からのアドバイスは全部ムダになった」

「次元の壁をいきなり超えるのはのは難しかったか」

「お前みたいに女の子に慣れてないんだよ」

 達也は照れ臭そうに頭を掻いた。

 昔から女の子にモテるリア充全開な野郎だが、二次元に生きる俺と不思議にウマが合い、僕の趣味に偏見もなく楽しそうしている。

 高校でも一緒なのは腐れ縁ってヤツなのか。

 今日は休み時間中、コイツから恋愛講座のレクチャーを受けていた。

 しかし。

 振り返った僕の顔を見るなり達也の表情は驚いたように固まった。

「…何か、あったのか?」

「今日、僕に求められたスキルが、恋愛に関するテクニックじゃなくてカウンセリングのやり方だっただけだ」

 僕の言葉に達也は口をあんぐり開けた。そりゃそうか。

「誰かのイタズラだったのか?」

「イタズラだったらまだ良かったんだが」

「詳しく聞かせろよ」

 僕の投げやりな態度に興味を引かれたのか、さっさと帰りたいのにカバンを掴んで引き止められた。さっさと切り上げたかったので、簡潔に伝える。

「一緒に世界を滅ぼしましょう!とか言われた」

「……そりゃ、あんがいお似合いかもな」

 達也はニヤニヤと笑った。達也は僕が中学時代「中二病」に罹患した事を知っていたから、それを皮肉っているのだろう。

「いい加減に忘れてくれよ。流行り病みたいなもんだし」

「何言ってんだ。つい数ヶ月前の事じゃないか」

「思春期の数ヶ月は大人の数年分に等しいんだよ。もう僕はすっかり生まれ変わったんだ。今の僕は、平和主義で普通の彼女が欲しいだけの一介の高校生なんだぜ」

「そういう事にしといてやるよ」

 達也はまだ何か言いたそうだったが、そこで会話の流れを止めてくれた。スマホの着信音が鳴ったからだ。出所は達也のズボンのポケット。達也は画面を見つめて顔をしかめた。十数秒ほどなにがしかの操作するとため息をついてポケットに戻す。

「彼女からか?」 

「うん、まぁ彼女といえば彼女かな」

 冷やかしのつもりだったのだが、達也の反応は曖昧なものだった。

「彼女からの愛のメッセージか、羨ましすぎるだろ」

「そんな良いもんじゃねーよ。こっちも大変さ……お前ほどじゃないけどな」

 しっかり皮肉を返すことは忘れない。

「ゼイタクなヤツだな。彼女がいるのに何が不満なんだよ」

 僕の問いに、達也は再びため息をつきながらスマホのディスプレイをこちらに向けた。

「一人くらいなら紹介してやろうか?」

 液晶画面に表示されていたのは、上から下までびっしりと女の子の名前で埋まっているアドレス帳。

「……これ、もしかして全部お前の彼女?」

「んー……彼女だったり女友達だったり。明確な線引きはしてないな」

 中学時代から女の子に人気のあるやつだとは思っていたが、まさかこれほどとは。自分との立場の差に軽く落ち込んだ。女の子に不自由したことの無い達也には、自分の悩みなんて分からないかもしれない。

「いいなあ、羨ましいよ」

 正直な感想が僕の口から漏れてしまった。が、それに対する達也の反応は意外なものだった。「俺にはお前の方が羨ましいよ」

「……本気か?」

「ああラブレターで呼び出されるなんて今時貴重だもの」

「それは確かにそうかもしれないけどさ。でも相手にもよるだろ」

 特に今回のような場合は特に。 

「でもそれだけ手間も掛けてるだろ?こいつらは」スマホを振ってみせる。「……何でも簡単に済ませちまう。俺以外の男とも平気で遊ぶしな。何もかも軽いんだよ」

 達也はバツの悪そうな顔でスマホをポケットにしまう。女の子に囲まれていても悩みはつきないらしい。

「男女の関係って難しいな」

「本当にな。で、どうする?女の子を紹介する件は」

 さっきの言葉は本気だったようだ。「普通」の彼女……喉から手が出るほど欲しいが、

「今回は遠慮しておくよ。逃げられないんで」

「何だそりゃ」

「悪質なストーカー、もしくは名探偵並みの調査能力の持ち主」

 僕は達也に、そうまさんに自分の黒歴史を知られていて半ば脅されて協力させられる事になったいきさつをかいつまんで説明した。

「さすが高校ともなると一味違うなぁ」

 達也は驚嘆の声を上げた。感心している場合か。

「僕は普通の高校生活を送りたいんだよ」

 偽らざる本心だった。

「で、具体的に何を協力しろって?」

「さっきも言っただろ。『世界を滅ぼしましょう』と言われたって」

「……あれ、冗談じゃなかったのか」

 達也の表情が凍りついた。無理もないけど。

「『この世界はわたしが見ている夢だから、全て消し去るためにわたしの目を覚まさせて欲しい』って。目覚ましに聞くいい方法って知ってるか?」

「……それ、病院に連れてった方が手っ取り早くないか?睡眠じゃなくて心の」

「だからカウンセリングのやり方が必要だったって言っただろう」

 それでも、そうまさんについて達也が僕と同じ感想を抱いたことに少しほっとした。どうやら僕の感覚は正常らしいから。

 達也はしばらく何か考えていたが、ふいに

「時に、桐一よ。お前、明晰夢って知ってるか」と問いかけてきた。

 聞いたことのない単語だった。「いいや、初めて聞いた」

「『これは夢だ』と自覚している夢の事を、明晰夢と呼ぶんだと。意識があるから、空を飛んだり憧れの人とイチャイチャしたり、やりたい放題できるらしい」

「やりたい放題……」

 そんな単語ひとつから、思わず生唾を飲み込むような連想をしてしまうのは思春期男性のサガみたいなものなので、笑って許して欲しい。

「ごくごく稀に見ることができるらしいんだが、自発的に明晰夢を見ようとチャレンジするのが知り合いの子たちの間で流行っていてな。まぁ全然成功してないみたいだが」

「やりたい放題か……あ、いや。それで、今回の件と何の関係が?」

「つまり、その彼女は現実そのものを自分の明晰夢だと思い込んでるって事」

「なるほどね。非日常・非現実を内面に取り込みたがる中二病患者にはピッタリの現象だな」

「さすが、元患者の発言には重みがあるな」

「もう忘れてくれよ」

 しかし、これでそうまさんの症状がハッキリしてきた。現実が明晰夢でないと証明してやれば、そうまさんも普通の高校生に戻りそうだ。

「そういや、その子の名前は?」

 達也が携帯電話をいじりながら再び問いかけてくる。

「”そうまさん”とか名乗ってたな」

「ふんふん、”そうまさん”……それは苗字なんだよな?」

 達也からの質問を受けたとき、僕は気づいた。

「聞くの忘れてた。たぶん苗字でいいと思うけど」

「フルネームも聞かなかったのか」

「それだけ、突拍子も無い相手だったんだよ」

「じゃあ、血液型は?」

「聞いてない」

「連絡先くらい交換したよな?」

「いいや」

「好きな食べ物は?」

「聞いたほうが良かったのか?」

「……趣味とか好きな音楽ジャンルなんかも聞いていないよな?」

「好きな絵師くらい聞いておけばよかったかな?あ痛」

 達也のツッコミが僕の脇腹に入る。

「お前って本当に女っ気のない生活を送ってきたんだな」

「哀れむような目はよせよ。これはこれで充実した人生を送ってきたつもりなんだから」

「そうですね(棒読み)。学年は?」

「たぶん一年生だと思う。幼い顔立ちしてたし、制服がまだ新しかったから」

「他に分かっていることは?」

 僕が首を振ると、

「……”そうまさん”の情報はこれだけかよ」

 呆れたようにため息をつくと、スマホの操作を止めてポケットに戻した。どうやらメモしていたようだが、あまりにも微妙な情報しかないので諦めたらしい。

「悪かったな。で、どうするつもりなんだ?」

 僕の問いに、達也はフフンと得意そうに鼻を鳴らした。

「俺のネットワークを使って、そうまさんとやらの素性を洗ってみるのさ」

 達也はそう言うと口から綺麗な白い歯を覗かせて微笑んだ。この笑顔とノリに女の子は騙されるんだなぁと僕は思ったが、口には出さないでおいた。


「お帰りなさい」

 翌日の昼休み、屋上で僕を出迎えたそうまさんが放った第一声がこれだ。

 ここはアンタの家かよ!と突っ込みそうになったが、止めておいた。いちいちツッコミを入れてたら体が持たないと思ったから。昨日の学習成果である。

 心地よい五月の風が頬を撫で、雲ひとつ無い青空が広がっているのに、そうまさん以外に人の姿は無い。東棟の屋上はフェンスで囲われ、ベンチも設置されている。中庭の向こうに見える西棟の屋上とは違い、立ち入りは禁止されていないはずだが……と少しだけ不安になった。何しろこの学校に入学してまだ一ヶ月。知らない事だって山のようにある。ドアの鍵は開いていたし、そうまさんがくつろいでいる様子から、まぁ大丈夫なんだよなと自分に言い聞かせた。

 そうまさんは長辺が二メートルほどもある大き目のレジャーシートに寝転んで、ノートに何か書き込んでいた。ウサギのキャラクター柄入りレジャーシートはどうみても私物で、四隅を昨日使ったポットやデニム生地のトートバッグ、置き時計、卓上ラジオを乗せて風で飛ばないように押さえつけていた。置時計はカチコチと時を刻み、ラジオのスピーカーからは七十年代の洋楽ヒットナンバーが静かに流れている。屋上は完全にそうまさんのプライベート空間と化していた。

 ひょっとしてそうまさんの奇行は校内じゃ有名で、係わり合いにならないよう避けられているんじゃないかとふと思う。この屋上の閑散とした様子から鑑みるに、あながち間違っていないのかもしれない。

 そうまさんは昨日の饒舌さがウソのように静かだった。最初に座布団とお茶を勧めてくれた後は、ただひたすらノートに向かって何かを書き綴っていた。眉根を歪めたり目じりが緩んだりと百面相が見ていて面白かった。感情を込めて何か書いているようだ。その内容は、どうせロクなもんじゃないだろうが。

 僕はレジャーシートの端に腰を下ろすと、そうまさんの横顔を観察しながら弁当に箸をつけた。静かにしている分には、電波さんなんかにはちっとも見えない。最悪だった昨日の顛末を脇に追いやって容姿だけピックアップすれば、世間一般の基準からしても「可愛い」部類に入るんじゃないか。眼鏡の似合う文学少女……個人的にはすごく好みの人種である。それだけに、言動で台無しになってしまうのが非常に惜しい。

「桐一くん!」

 僕の思考は、そうまさんの声によって打ち切られた。定まった焦点の先には怪訝そうな顔があり、慌てて視線を逸らす。

「な、なんでしょうか」

 そうまさんはノートを閉じて傍らに置くと上体を起こし、大あくびと共に伸びをしながら、「宿題はやってきた?」と聞いてきた。

 ここで言う宿題というのは眠気覚まし対策についてだろうと思われたので、

「うん、まぁ一応」と曖昧に返事をしておく。

「さすが!ちょっと期待しちゃうからね」

 そう言って目をキラキラと輝かせているそうまさん。あんまり期待されても困る。ごく普通のやり方しか考えてこなかったから。

「じゃあ、まずは定番。無糖コーヒーの一気飲みから」

 あらかじめ買っておいたブラックコーヒーをそうまさんに手渡した。屋上に来る前に自販機で買ったばかりで、まだ温かい。

「開けてもらってもいい?」

「なんで?」

「開けられないから」

 そんな非力アピールされてもときめかないぞ!と思いつつ、軽々と開けたときに向けられた尊敬の眼差しに悪い気はしない。

 そうまさんは蓋の開いた缶コーヒーをおそるおそる、一口、二口と嚥下していく。だが三口飲んだ所で顔をしかめ、飲み口から唇を外して缶をこちらに戻した。

「もういらない」

 レジャーシート隅のポットを取ると、ティーカップに紅茶とミルクをなみなみ注ぎ、熱いのも構わずに一気に口に含んだ。

「どうだった?」

「おいしくない。ミルクは超重要だね」

 味の感想を聞いたわけじゃないんだけど。趣旨を忘れているんじゃないだろうか。

「それじゃ眠気覚ましにならないよ。全部飲まないと……むぐっ!」

「もういいから、次にいこう次に」

 そうまさんは僕の手から缶をひったくると、飲み口を僕の口にあてがって内容物を無理矢理流し込みやがった。苦い液体が気管に入り込んでしまい、思いっきりむせる。

「人が嫌がるものを無理に勧めないの。思いやり大事だよ?」

 思いやりは大事だけど、一番思いやりという言葉が似合わないそうまさんに言われるのは納得がいかない。それに、これ……間接キスじゃないか。

 そうまさんは僕の動揺を意に介さず、僕のカバンを勝手に漁ると軟膏を取り出した。メントール入りの軟膏で、受験勉強の時にはずいぶんお世話になった代物だ。

「顔に塗るとスーッとして目が覚めるんだよ」

「へぇー、面白そう」

 軟膏側面の成分表を興味深そうに眺めるそうまさん。軟膏市場というものがあるのならば、デファクトスタンダード的に認知されている有名メーカーの商品だが、そうまさんはもの珍しそうに眺めていた。

「最初は刺激の少ない鼻の下からいくといいかもね」

 そうまさんが蓋を外すと、スーッとする香りが僕の方にまで漂ってきた。久しぶりに嗅ぐ匂いだが、高校受験の終わった今でも条件反射的に眠気が飛んでいく。 

 と、そうまさんは僕に軟膏を戻すと、

「塗ってくれる?」

 言いながら、メガネを外して目を閉じた。またもや予想外の展開。

「僕が?」

「他にいないでしょう」

 そうまさんは目を閉じたまま顔を突き出してじっとしている。僕は思わず生唾を飲んだ。これ、はたから見たら、キスをねだっているようにも見えるのではないか。キョロキョロと周囲を見回して誰もいないことを再確認する僕はヘタレだ。どのみち人がいようといまいと、大それたことをする勇気など持ち合わせていないんだが。

「桐一くん、まだ?眠くなってきたよー」

 濡れた唇がなまめかしく動いて僕を誘う。いや、それは僕が意識しているだけでそうまさんには何の思惑もない。たぶん。震える人差し指で軟膏を少量掬うと、まずはそうまさんの鼻の下に横一文字に塗ってやる。指の腹でまんべんなく伸ばしていると、何してんだ僕はこんな所で、と自嘲から来る笑いが口の端からこぼれた。

「あ、なんかスーッとする!スーッとするよ!」

 そうまさんがはしゃいだ声を上げた。喋られると手が滑って口に指を突っ込みそうになるのでやめて欲しかったが、どうやら気に入ってくれたようで一安心。

「刺激に慣れてきたら、目の下に塗ると効果的だよ」

「うん、いいかも。ちょっとそれ貸してみて」

 言うが早いか、そうまさんは僕の手から軟膏の瓶をひったくった。「これを目の下に塗ればいいんだね」

 瓶に指を突っ込むと、生クリームをたっぷり味見するような分量を掬い上げ、目の下に塗りたくった。あっという間の出来事で、

「あっ、それ量多すぎ」

 そんな僕の助言は間に合わなかった。そうまさんのはしゃいだ声が悲鳴に変わるのに、さして時間はかからなかった。

「……痛い!痛いよ!桐一くん助けて!」

 目を開けられなくなったそうまさんは、涙をボロボロとこぼしながら助けを求めてじたばたともがいた。その姿があまりに滑稽、いや哀れだったので、笑いを堪えながらハンカチでぬぐってやった。入学記念に貰ったお気に入りのハンカチが軟膏でベトベトになって台無しになる。

 そうまさんはハンカチを目元に当てながら、開ききらない目で僕をにらんだ。うっすら覗いた瞳が真っ赤だ。気の毒ではあるが、自業自得だ。自業自得のハズなんだが、

「ヒドイ目にあった……ぜんぶ桐一くんのせい」

 どうも僕を悪者にしないと気が済まないようだ。ひょっとしてこの子、ただのワガママっ子なんじゃないのか?等と思い始める。電波さんよりそっちの方が救いようはあるけど。

「次の方法を試してみる?」

 機嫌を取るために提案したが、そうまさんはふてくされてそっぽを向くと、

「なんだか疲れちゃった。今日はもうおしまい」

 そう言ってハンカチを目にあてがったままレジャーシートに横たわった。

 そのまましばらくすると軽い寝息を立て始めた。

 僕を振り回しておいて疲れたら眠る。やりたい放題だ。あなたのように生きてみたい、人生がすごく楽しそうです……心底羨んだ。

 仕方なしに、ひとまず散らかった空き缶やら軟膏の瓶やらを片付け始める。

 これからどうしようかな。片付けながら僕は考えた。昼休みの時間はまだ大分残っている。教室に戻ってしまってもいいが、そうまさんを放置して帰ったら後でどんな目に合わされるか分かったもんじゃない。一緒になって眠るのも気まずい。女の子の横で眠るなんて、そんな勇気は僕には無いから。

 片づけが終わっていよいよ手持ち無沙汰になった僕の目に、そうまさんの脇に置かれた一冊のノートが目に留まった。昨日は自分の黒歴史を朗読され、今日は何がしか一心不乱に書き込んでいたノート。

 思わず手が伸びかけたが、慌てて引っ込めた。他人の私物を勝手に漁るのはいい趣味とは言えないから。

 ……でも気になる。

 いや、ダメだろう人として。そうまさんの、他人に見られたくない個人情報が満載かもしれないじゃないか。

 ……そうまさんの個人情報?それは、非常に気になる。

 心の中で天使と悪魔が十二ラウンドほど戦った結果、「自分の黒歴史だけ知られているのは不公平だ」という悪魔の言い分が判定勝ちを収め、僕は震えながらノートを手に取った。

 ノートはどこにでもある市販の大学ノートで、ずいぶん使い込まれていて古ぼけていた。パラパラとめくってみると、どのページにもギッシリと書き込みがある。内容は主に詩や創作小説のようで、流し読みする限り一見普通の内容のようだ。ちょっと以外だった。宇宙の秘密がどうとかいう、電波な内容で埋め尽くされていることを予想していたから。


 「どうせ私なんか相手にしてもらえないよ」

 「あいつモテるからね。ひとまず告白でもしてみれば?」

 「当たって砕けたらイヤだから」

 「それじゃ何百年したって進展しないよ!」


 ……これは恋愛小説か?

 僕はそうまさんの様子を伺ってみた。相変わらず心地良さそうな寝息を立てている。

 ……よし。もう少しじっくりと読んでみようか。

 主人公はどこにでもいる、ちょっとオクテな少女。高校に入学して一人のイケメンに出会い、初めて恋をする。しかしイケメンは常に大勢の女の子を従えており、近づくことすらままならない。

 ベタな設定だ。

 イケメンが実は心優しい人柄だと知るエピソードを挟んだ後、思い余った主人公は彼のスマホを盗み出すと、チャットツール内にある彼の親友のアカウントを自分のものに偽装してしまう。イケメンは親友に向けてメッセージを送っているつもりが、主人公の元へと届く事になる。

 ……そんなのアリか。ストーカーだコレ。

 親友のフリをして彼と親交を深めていく主人公だったが、同時に彼を騙し続ける罪悪感に悩まされる……

「面白い?」

 いきなり横から声をかけられたものだから、僕は慌ててノートを取り落としてしまう。我を忘れるほどのめりこんでいる自分に驚いた。

 そうまさんはいつの間にか起きていて、僕の様子を観察しながら弁当を食べていた。

「って、それ、僕の弁当なんですけど」

「さっきひどい目にあわせた罰金なの」

「そんな横暴な。さっきのは自業自得って言うんだよ」

 僕の反論に対し、少しだけ考えた末に「それじゃ、原稿料って事でもいいよ」平然と言ってのけた。

 別に僕が頼んで書いた文章でもあるまいに、原稿料云々は当てはまらない気がしたが、勝手に読んでしまったのは事実だし、それ以上反論するのは止めた。というか、諦めた。

「それで、どうだった?」

 そうまさんは箸で僕の持つノートを指した。原稿料だなんだと言ってはいても、感想が聞きたいらしい。

「面白かったよ。続きが気になる」

 お世辞ではない。主人公の行動が少しだけ常識を踏み外しているような気もするけど、そのせいで先の展開が読めず、どのような結末を迎えるのか気になって仕方ない。

「ホント?」

 そうまさんは満面の笑みを浮かべた。自分で書いたものが褒められるのは素直に嬉しいらしい。なんだ、普通の感性を持っているんじゃないか。

「本当だよ。そうまさんて文才あるんだね」

 僕は続けた。褒めることによって普通の文学少女としての一面を伸ばせば電波も受信しなくなるのではないか、といった本音も多少は含んでいたが、文才云々についてはウソではなかった。読ませる文章だと思う。

 ……だが、事は思惑通りに進まないようで。

「それはフィクションじゃないから、文才とは違うと思うな」

 せっかくの賞賛の言葉を、そうまさんはあっさりと否定した。

「それは知り合いをモデルにしたって意味?」

「違う違う。人間の言うところの夢日記みたいなもので」

「……夢日記?」

 不穏な会話の流れを感じ取って、僕は唾を飲み込んだ。「つまり、どういう事?」

「現在か近い将来に起きる事象の内容をビビッと受信して、ここに書きとめているだけ。この世界は全て私の夢なんだから、書き綴ったらそれは”夢日記”だよね」

「受信って。電波じゃないんだから」

「電波みたいなものだよ。なんで私がわざわざ屋上に陣取っていると思ってるの」

「ひょっとして、電波状況がいいからとか言いだすんじゃないだろうね?」

「さすが桐一くん。理解がはやーい」

 そうまさんは得意そうにフフンと鼻を鳴らした。文才を褒めたところで得意そうな表情をしてくれれば無邪気で可愛い仕草で済んだのに。

 いよいよ電波さんの本領を発揮しだした彼女に焦りを感じる。さて、どうしたものか。電波の受信とか言ってるけど、それはただ単にストーリーを閃いているだけなんじゃないだろうか。屋上が電波状況良好というのは、インスピレーションが湧きやすいというだけなのでは。そう考えると、いたって普通の事のように思えてくる。よくよく考えれば、そうまさんの思い込みに過ぎないのだ。

 なので、そうまさんにとって痛いポイントであろう点を攻めてみる事にする。

「男女間の恋愛沙汰なんて、ずいぶん狭い世界なんだね。まるで一般的女子高生の生活範囲程度しか無いみたいじゃない」

「それは……」

 僕の挑発に、唇を噛んで悔しそうな表情のそうまさん。痛いところをつかれたって顔だ。僕は続けた。

「例えば戦争とか、もっとスケール大きく恒星系がブラックホールに飲み込まれる様子とか、そんな内容は受信出来ないの?」

「……今は出来ない」

「へぇ、今は?」

「そう。夢の中のわたしはこの星の、この学校に存在している。桐一くんと同じ肉の体に入ってね。この体では力が制限されて、身近な事象しか察知できなくなっている」

 それだけ言うと押し黙ってしまう。今にも泣き出しそうな顔をしていたので、僕はそれ以上の追求を打ち切った。だが初めてそうまさんに一泡吹かせた気がした。

 午後の授業開始の予鈴が、まるで試合終了のゴングのように鳴り響いた。弁当の残りはそうまさんに食べられてしまったが、そんなのが些細な問題に思えるくらい、晴れ晴れとした気分だった。


「仲が良さそうで結構な事だな」

 昼休みが終わって教室に戻るなり、達也が笑顔で僕を迎えた。

「楽しそうに見えるか?」

「ああ、見えるよ」

 どうやら嬉しさが顔に表れていたらしい。わざとらしく机に突っ伏して疲れをアピールしてみせたが、隠れた口元が自然と緩んでしまう。

「俺が送ったメッセージに返信する間もないくらい盛り上がったんだな。羨ましい限りだぜ」

 達也は僕の背中をバンバン叩く。メッセージなんて来てたっけ?スマホを取り出して確認したが、通知のひとつも無い。

「届いてないよ」

 僕の指摘に、達也は慌ててスマホを開いて確認した。

「おかしいな。ちゃんと送ったはずなんだけど。システム障害で遅延してるのかな」と不思議そうに首をかしげた。

「通信量の上限に引っ掛かったんじゃないか」

 女の子の名前でギッシリ詰まったアドレス帳を思い出して反撃すると、

「嫌味か、それは」達也は苦笑いを浮かべた。

 達也からも一矢報いることができて、そうまさんと併せて二連勝したよで気分がいい。

「そういや、その”そうまさん”なんだけどさ」

 ふいに達也が真顔になる。「お前の会ってる子は『そうまさん』って名乗ってるんだよな?」

「ああ」

「ニックネームって訳じゃないよな?」

「……たぶんな。でも何でそんな事を聞くんだ?」

「それが”そうまさん”なんて子は、この学校にいないらしくて」

「もう調べたのかよ」

「ああ。一年生だけじゃなくて上級生も全部調べた」

 達也は胸を張った。女が絡むと行動が早いなと皮肉ったつもりだったのだが、通じなかったようだ。

 しかしすぐに、「じゃあそうまさんってのは一体誰なんだ」皮肉よりも、奇妙な調査結果に意識が逸れた。

「『前世の名前です!』とか『肉体に宿った精神体の名前です!』とか言い出すんじゃないか。電波さんなら有り得るだろ」

「……怖いことを言うな」

 授業開始を告げるチャイムによって話はそこで中断したが、少しほっとした。

 これ以上事態がこんがらがるような情報は、もう欲しくなかったから。 


  「俺はキミを恨んじゃいない」

  「え……?」

  「正直驚いた。女の子なんてみんな自分の幸せだけに邁進して……

   ライバルを蹴落とすことしか考えてないと思っていたから」

  「私だって同じだよ。好かれたい一心で結局あなたを騙してしまって……」

  「本気で騙すつもりなら、恋愛相談に大真面目に答えたりしないでしょ」

  「だって……あなたの悩む姿が本当に辛そうだったから」

  「辛かったさ。でも、もう悩みはスッキリ解消したよ」

  「じゃあ、私の役目はもう終わったんだね」

  「何を言ってるんだ?キミがいなくなったら、また悩まなくちゃ

  いけなくなる」

  「それって……」

  「俺と付き合って欲しいんだ」

  「ウソ……これは夢なの?」

  「じゃあ、目が覚めるかどうか試してみる?」

   そう言うと、彼は少女の唇に優しく口付けをした―――


「ね、桐一くん」

「は、はぁい!」

 そうまさんが急に耳元で囁くものだから、僕は驚いて飛びのいた。どうも彼女は僕を驚かせて楽しんでいる節がある。そうまさんの書いた物語……いや、自称夢日記が普通に面白かったのでのめりこんでいたのだが、一気に現実に引き戻された。

「わたし、思ったんだけど。これまでいろいろ試したのって、眠気覚ましの方法であって眠ってる人を起こす方法じゃないよね」

 そうまさんは僕のティーカップにおかわりを注ぎながら、キリッとした表情で言う。「何を今更」と思ったが、口には出さない。そうまさんと付き合うようになってから既に一週間、いい加減扱いにも慣れていたから。

「そりゃあ、そうだけど」

「なんか趣旨が違う気がする」

 そんな事言われても。普通は眠ったまま起きない人などいない。もしいたとしても、それは病院に行った方がいいと思う。

 紅茶の底に薄切りのレモンが沈んで揺れている。レモンの香気が、昼食後の気だるさをすっかり吹き飛ばしてくれた。ティーカップの側面にはアルファベットの「T」が小さくマジックで書き加えられている。もちろんTOUICHIのTだ。さらに僕専用に定められた座布団には、ご丁寧に「桐」の字が刺繍されている。相手が電波さんでも、馴染めば馴染むものだ。今では妙な居心地のよさまで感じる始末。人間の適応能力って怖い。

「どうしてもその、目覚めなきゃいけないの?」

 僕は今更ながら聞いてみる。「何百億年も眠ってきたなら、あと百年や千年くらいこうしてお茶を飲みながらまったりしていても大して影響はなさそうだけど」

「それは……」

 そうまさんは口ごもって迷っているようだった。もう一押しかもしれない。一週間付き合ってみて分かったのだが、そうまさんは「この世界は自分の夢だ!」という誇大妄想を持っている以外は、ちょっと変わった所のある文学少女に過ぎなかった。妄想する事をしばらく休ませれば、あとは時間が解決するんじゃないか。中二病は未熟な精神が招く流行病みたいなもの。放っておけば自然に治るものなのだ。 ……自分が経験してきたから分かる。

「ほら、今日はお茶請け持ってきたんだ。味見してよ」

 僕はカバンから紙袋を取り出した。通学途中にパン屋さんで買ってきた、数量限定のメイプルシロップ入りカップケーキだ。紙袋を開ける前から芳香が漂っていて、弁当で満腹になっているにも関わらず胃を刺激する。

「キスしてみようか」

 そうまさんは顔を上げると、ぼそりと呟いた。

「は?」

「だから、キスよ」

 僕の手から紙袋が滑り落ちた。「な、何を唐突に」

「唐突じゃないもん」

 そうまさんはノートを手に取ると、さっきまで僕が読んでいたあたりを開いた。

「桐一くんも読んだでしょ。夢から覚ます方法だよね、これって?」

「読んだけど。でもそれって、そうまさんが自分で書いたんじゃないか」

「何度も言うけどね」そうまさんは僕の頬を指でつつく。「現実に起きていることを書き写してるだけなんだってば」

「ああ、そうですね」

 僕はため息をついた。治療にはもう少し時間が必要なようだ。

「ここでお茶するのも悪くない。でも、本題は私の目を覚まさせる事でしょう?それなら、できる事を一つずつ試していかなくちゃ」

 握りこぶしを作って力説するそうまさん。

 ……一週間経っても何も変わらない彼女の態度に、僕はちょっとイライラしていたのかもしれない。

「キスねぇ。魔女の魔法は解けても、妄想には効果があるかなぁ」

 つい本音が漏れてしまった。しまったと思ったが、遅かった。

「……妄想?桐一くん、それ、どういう事?」

 そうまさんがこちらに視線を寄越した。初めて見る、冷ややかな目つきで。

「……ああ、そうだよ。夢だのなんだの、僕は信じてない」

「じゃあなんで一週間も付き合ってくれたの」

 そうまさんの口からそんな言動が飛び出すとは思わなかった。とぼけているのか、それとも天然なのか?

「ぼ、僕の黒歴史をネタに脅してつき合わせたのはそっちじゃないか!」

「そんな事してないもん。黒歴史って何?」

 キョトンとした顔をするそうまさん。知らないフリをしているなら女優並の演技力だ。

「僕が中学時代に抱いていた『世界なんてなくなればいい』なんて妄想を、言いふらそうとしたじゃないか」

「妄想……ウソだったの?」

 そうまさんの目にみるみるうちに涙が溜まっていく。なんでそんなに愕然とした顔が作れるんだ?信じていたわけでもあるまいに。

 いや、もしかして最初から全部本気で信じていたのか?

「そうまさん、もう止めにしよう。いい加減に目を覚ましてくれよ」

「目を覚ます努力なら、今までずっとやってきたもん」

「違う、そうじゃない。『この世界が自分の夢』だなんて妄想から覚めて欲しいんだよ!僕はもっと普通にそうまさんと付き合いたいんだ。ここでお茶を飲みながらお喋りしたり、自作小説を読ませてもらって楽しんだり……そんな普通の」

「もういい!出てって!」

 そうまさんは目から涙をこぼしてうずくまった。

 ああ、これで解放されるんだな。待ちに待った瞬間がやっと来た。

 それなのに、僕はちっとも嬉しくなかった。


「なんだ、ケンカでもしたのか」

 達也はスマホでメッセージを打ちながら問いかけてくる。

「もともと付き合ってないし、ケンカなんて」

「一週間も二人きりで過ごしているのに、まだそんな事言ってるのかよ」

 そんなに驚かれても困る。達也曰く、二人きりで二回以上会ったら、お付き合い認定なんだそうだ。

「それはお前の基準だろ?」

「その子の事、嫌いなのか?」

「それは」

「最初は災難だなー哀れなやつめと思ったけど、今じゃのろけ話してるバカップルの片割れにしか見えないぜ」

「そ、そんな事はないよ」

「そうか?」

 達也のスマホから通知音が鳴る。達也は再びスマホを操作しながら、

「じゃあ、別れる手はずを整えてやろうか」

 あっけらかんと言い放った。

「そこまでして貰わなくても」

「気にするな。俺はいま機嫌がいいんだ」

 満足そうな顔をしながら、再びメールに返信する。

「何かいいことでもあったのか?」

 達也はスマホのディスプレイをこちらに向けた。また自慢かよ……と思いきや、そうでは無かった。表示されたディスプレイに映し出されたアドレス帳は、一週間前とは決定的に違っていた。たった一人の名前しか登録されていない。

「正式に付き合うことになってな」

「そうか、そりゃめでたいな」

 これは皮肉でもなんでもない。達也は一週間前のだるそうな表情からうって変わってイキイキしていたから。さぞかしいい人とめぐり合えたのだろう。

「いい子を紹介してやるよ。みんなで幸せになろうぜ」

 気味の悪いくらいの博愛精神に、僕は若干引いた。ほんの数日前まで「女なんか面倒臭い」とか言っていたのに、変われば変わるものだ。

「遠慮しとく」

「未練があるのか?その電波ちゃんに」

 未練なんてあるわけない。最初から付き合ってなんか無かったんだから。

 なのに胸が痛んで言葉が出てこないのは何故だろう。

 口ごもった僕の背中を、達也は平手で思いっきり叩いた。

「なら俺に任せとけ!」


 夕陽の差し込む教室に、チャイムが鳴り響く。今までは授業が終わったら真っ先に帰路についていた。学校はつまらなくて、なるべく早く去りたかった。

 誰もいない教室で聞くチャイムがこんなにも寂しいものなのだと、僕は初めて知った。

 スマホのディスプレイに表示された数字が、僕に午後四時を告げる。

 達也は自信満々で僕に言った。

「俺が屋上で電波さんと話をつけてくるから、少し待ってろ」と。

 教室で待機し始めてからまだ二十分ほどしか経っていないのが意外だった。一時間も二時間もここにじっとしていたような気がしていたから。

 別れ話―――の言葉が当てはまるかどうかは定かではないが、いくら手馴れているとはいえ友人に任せても良いものだろうか。

「……やっぱり、こういうのは自分で言わなくちゃだめだよな……」

 そう決心して、何度席を立った事か。だが切り出し方やそうまさんの反応が怖くなって決心が揺らいでしまい、再び席に戻る。つまらない逡巡をこの二十分の間に何度繰り返しただろうか。

(悩むことなんて何も無いじゃないか。相手はそうまさんなのに)

 誇大妄想狂の電波さんで、弱みを握られて無理矢理協力させられて……いいことなんか一つも無かったじゃないか。

(本当に無かったのかよ)

 僕の頭の中で誰かが問いかけた。

 ああ、一つも無かったよ。コーヒーを無理矢理飲まされたり、弁当を勝手に食べられたり、勝手な振る舞いに振り回されてばかりだった。いい加減うんざりしてたんだ。

(それだけか?本当に)

 僕は自分の両頬を手のひらで打ちつけた。

 自作小説?の続きを楽しみにしていなかったのか。

 物語を書き綴っている姿に惹かれていたんじゃないのか。

 弁当を食べる姿に和まなかったのか。

 自分用のティーカップや座布団を用意されて、嬉しくはなかったのか。

 目覚まし実験のやりとりを楽しんでいたんじゃないのか。

 エキセントリックな発言に呆れつつも、次は何を言い出すのかとワクワクしてはいなかったのか。

「そういうの『あばたもえくぼ』って言うんだぜ、僕よ」

(だからどうしたってんだ?あばたもえくぼ?そんな言葉が成り立つのは、相手に好意を持っている時だけなんだっていい加減気づけよ、このバカ野郎)

 気が付くと僕は廊下に駆け出していていた。校舎内にはもう人は残っていないのか、自分の足音だけがやけにはっきり聞こえる。もっと早く走れ足よ、手遅れになってしまう前に。

 校舎二階の教室から屋上までの距離を、僕はひた走った。たった一分か二分程度の距離がずいぶん長く感じる。つまづきながら階段を駆け上がる。待っていてくれ、そうまさん。僕はまだキミに何も伝えていない。もっといろんな話がしたいんだ。屋上まで、あと一階、半階、扉一つ分。

「達也、待ってくれ!」

 息を切らせながら僕は屋上のドアを開けた。最初に視界に飛び込んできたのは西陽、次にそうまさんの泣き顔。そうまさんは膝から崩れ落ちていて、その体を達也がのしかかるようにして支えていた。

「遅かったな」

 達也が笑った。その顔を見るなり、僕は達也に向けて渾身のタックルをぶちかました。

「そうまさんに何をした!この野郎!」

 完全に頭に血が上っていた。自分でも何をしているのか、何を口走っているのかよく分からない。達也はそうまさんを放り出すと、もんどりうって倒れた。僕は達也の上に跨って胸倉を掴む。

「桐一、落ち着けって」

「そうまさんを泣かせやがって」

「桐一くん、どうしたの?」

 いつものようにそうまさんが耳元で囁いた。鼻をスンスン鳴らしながら、いつの間にかそうまさんは僕の横に立っていた。涙目ではあるが、キョトンとした表情で僕と達也を見比べている。その顔があまりにも平和そのものだったので、僕は毒気を抜かれた。沸騰した頭が急激に冷めていくのが分かる。

「えっと……達也に何かされたんじゃないの?」

「何を?」

 そうまさんは目をパチクリさせている。

「あの、そろそろどいてくれませんかね」

 達也が上半身を起こしたので、僕は慌てて飛びのいた。倒れた拍子に頭を打ったのか、苦痛に顔をゆがめている。

「……お前、本当に何もしてないのか?」

「当たり前だろ」

 達也は苦笑いしながら後頭部を撫でている。

「そうまさん、本当に何もされてないの?」

「ハンカチを貸してくれた」

「そ、そうか。それは良かったね」

「むしろされたのは俺の方だ。この子、俺の顔を見るなりわんわん泣き出すんだもん」

「……そうまさん、本当なの?」

 そうまさんはこくんと無言でうなずいた。そうしてまた目から涙がじわーっとあふれ出すと、しゃくりあげはじめた。

 僕はバツが悪くなり、起き上がろうとする達也から顔を背けて手を貸した。

「……悪い。早とちりしたみたいで」

「いいって。思惑は殆ど成功したし」

「どういう事だ?」

「この子とイチャついている所にお前を呼び出そうと思ってたんだ。そうすりゃお前も本心に気づくだろうってな。ま、結果オーライだったわけだ。たんこぶが出来ちまったのが唯一の誤算だ」

 どうやら達也は、僕自身でも気づいていなかったそうまさんへの想いに気づいていたらしい。これが恋愛経験の差か。してやられた。

 ふいにスマホの着信音が鳴った。最近ではおなじみになったメロディーが達也のスマホから流れてくる。

「俺はもう行くよ」

 達也はスマホの液晶を眺める。「実はさっき、そうまさんとの事を彼女に見られちまってな。誤解されたみたいで」

「……重ね重ね、すまん」

 深々とお辞儀をする僕に向けて後ろ手で手を振りながら、達也は階下へのドアの向こうへと姿を消した。

 僕は結局、一人相撲しただけだった。

 勝手に誤解して達也にケガをさせて。

「僕は本当に馬鹿野郎だな」

 自嘲気味に呟いたとき、背後から胸へと両手が回された。白く細いその指は、紛れもなくそうまさんのもの。柔らかい感触が背中に当たっている。そうまさんから僕にスキンシップしてくるなんて、初めての事だった。

「必死の桐一くん、カッコ良かったよ」

 そうまさんは、僕に体重を預けながら呟く。

 僕は人の重みが心地良いと初めて感じた。


  「誤解だよ、あの子は友達の彼女で」

  「そんなの、信じられると思う?」

  「そりゃ、今まで俺がしてきたことを考えたら疑うのは無理もない。

  でも本当なんだ。なんなら今ここにそいつを呼んで説明して

  もらおうか」

   男はスマホを取り出したが、彼女に言われるがままアドレス帳を

  空にしてしまったのを思い出した。不精者の友人はメッセージも

  電話も寄越さなかったので、連絡を取る手段が断たれていたことに

  今更ながらに気づく。

  「もういい。もういいのよ」

   女は男の胸にもたれかかると、その身をギュッと抱きしめた。

  「良くないよ。ちゃんと説明したいんだ」

  「本当に、もういいの」

  「だって」

  「あなたを他の女には渡さない。そう、こうすれば誰にも手は

  届かない」

   不意に預けられた女の体重に、男はよろめいた。あまりに

  慌てていたため、西棟の屋上だけはフェンスが張られていない事を

  すっかり失念していた。

   女を支えきれなくなった男が、フェンスにもたれかかろうと

  したのは不幸な出来事だった。

   二人の体が屋上を離れ、空へ舞う。まるで優雅な社交ダンスでも

  踊るかのようにもつれあいながら、死と生の境にある数秒を心から

  楽しむように。


「バッドエンド……」

 ノートを持つ手が少し震えた。そうまさんの小説、いや夢日記が、意外な結末を迎えていた。

「さっき受信したの。こんなのってないよ……」

 そう言うと、そうまさんは鼻をすすった。まさか自分で書いた物語の結末に悲しんでいたのか?

「でもフィクションだったら、こんな幕切れもアリだと思うけど」

「この日記は私の夢を記したもの。それはつまり、この世界にとっての現実なんだよ。もうすぐ二人は屋上から飛び降りて死んじゃう」

 まだそんな事を言っているのか。「でも、どこの誰とも分からない人なんでしょ?」

「ううん」そうまさんは西棟の屋上を指で示した。「私の力は制限されて、身の回りにしか及ばないって話したでしょう」

「……言ってたけど」

「ほら、もうすぐ飛び降りる」

 僕はそうまさんの示す方向に目をやった。そちらには中庭を挟んで上級生の教室が入った西棟がある。傾いた夕陽が視界を遮っていてよく見えない。

 だが、かろうじて二つの人影が立っていることだけは判別できた。

 妙だな。西棟の屋上は東棟のようにフェンスで囲われておらず、立ち入り禁止になっていたはずなんだけど。

「なんでこんな人間臭い感情を持たされたの、今のわたし。あの人が飛び降りたら、桐一くんが悲しむって思ったら、なんだかとっても悲しくて」

 あの人って?誰が飛び降りるって?

 そんな、まさか。

 西棟の人影が一つに重なり合った。抱きしめあっているのか?と、よろめきながら端に向けて動き出す。

 さっき読んだ夢日記のシーンが頭の中に浮かんだ。泣きじゃくる女の子を抱きしめたイケメンの姿を目撃してしまった主人公は、イケメンを屋上に呼び出す。絶望のあまり、屋上から道連れに飛び降りてしまう。

 まてよ。泣きじゃくる女の子と、抱きしめるイケメン、勘違いする主人公。それって、

「……誰が飛び降りるって?」

 太陽が西棟の向こう側に沈み、重なり合った二人のシルエットがディテールをあらわにした。浮かび上がった姿が、思い描いた姿と重なった。

「達也くん」

 そうまさんは西棟の二人をみつめながら、再びしゃくりあげた。

「達也!おい、やめろ!危ない!」

 僕の声が中庭にむなしく響き渡る。西棟の二人は僕の必死の叫びに反応せず、フラフラと屋上の端へと歩んでいく。

「どうしよう桐一くん。わたしのせいだよ。わたしがこんな夢を見ているから」

 そうまさんが自分を責めている。この期に及んで、自分の夢だと信じきっているから。そんな事、あるはずもないのに

 なのに。

「分かっていたのなら、なぜ止めなかった!」

 いつの間にかそうまさんを叱咤している自分に気がついた。

「夢の筋書きを変えることは無理だから。桐一くんだってそうでしょ?自分の見ている夢に、自分の意思を介入できる?」

 そんなの出来るわけが無い。少し前までの僕なら、そう諦めていただろう。しかし。

「……出来るかもしれない」

 一週間前の達也の話を思い出す。明晰夢だったか、自分の思い通りに出来る夢のことを。達也は、そうまさんが見ているのは明晰夢(という妄想)だと言っていた。夢を見ているという自覚があるから。

 もし、この世界が本当にそうまさんが見ている明晰夢なのだとしたら―――そんな事、あるわけないのに、

「この世界が本当にキミの夢なら、二人を空が飛べるようにしてもいいし、地面をトランポリンみたいに柔らかくすることだって出来るはず」

 僕はそうまさんに頼み込んでいた。

「そんなの無理……」

 搾り出すような声でそうまさんが呟く。無理なのは分かってる。でも、

「二人を助けることができたら、そうまさんの話を全部信じる」

 そうまさんは涙をボロボロこぼし、激しくしゃくりあげながらコクンと頷いた。

「頼むよ」

 僕はそう言い残して、屋上を飛び出した。そうまさんの話を百パーセント信じる事なんて、今はまだできなかったから。間に合わないかも知れないけど、いまの僕に出来るのは西棟の屋上に行って二人を止めることだけだ。

 誰もいない校舎内は薄暗く、僕の足音以外は静寂に包まれていた。一階廊下の窓から中庭に飛び出すと、西棟への最短距離を駆け抜けようとする。しかしその時、無常な光景が目に飛び込んできた。西棟屋上から二つの人影が落下し、吸い寄せられるように植え込みの向こう側に落下したのだ。ドスンという重そうな音が響き渡り、現実を僕に教えてくれた。

 間に合わなかった。足から力が抜け、意図せずその場にしゃがみ込んでしまう。

 達也を助けられなかった。

 そうまさんの話は、全部デタラメの妄想だった。

 二重の悲しみが、僕の上にのしかかっていた。

 ふいに僕の肩に誰かの手が触れる。

「ごめん、桐一くん。やっぱり無理だった」

 いつの間にかそうまさんが僕の傍らに佇んでいた。責める気力も何も起こらなかった。最初から無理だと分かっていた。勝手に信じ込みたがっていたのは僕だ。

 そうまさんが僕の頭を抱きかかえてくれた。人の温もりが心地良くて、生の感触を僕に伝える。同時にわずか向こうに転がる死が実感として湧いてきて、忘れていた恐怖が否が応じにも思い出されてしまう。僕はそうまさんにすがりついて、泣いた。

「空を飛べるようにすることも、地面をトランポリンみたいにすることも出来なかったよ」

 ぽつりぽつりと涙声で言葉をつむぐ。僕が無理を押し付けたせいで、そうまさんまで悲しい目にあわせてしまった。

「僕が全部悪かったんだ。そうまさんは何も悪くない」

「いまのわたしには、お茶と座布団を用意することくらいしか出来ない……」

 ひっく、ひっく、ひーんと声にならない泣き声になって、そうまさんは泣き崩れた。僕も泣いた。そうまさんを抱きしめて。

 と、

「勝手に殺すな……いてて……」

 ふいに、植え込みの向こうで誰かが呻いた。空耳かと思ったが違った。うめき声と共に、何かがもぞもぞ動く音が聞こえてくる。

 ……生きてる、生きてるぞ!

 そうまさんを抱きしめたまま植え込みの向こうを覗き込むと、そこにはうず高く積まれた座布団の山と、その上で苦痛に顔を歪める達也、そして気を失った女子生徒の姿があった。

 座布団がここに投棄されていたのか、誰かが置き忘れたのか、それともそうまさんが出現させたのか。確かめることはできない。誰も出現の瞬間を見ていないから。なんにせよ、こんな植え込みに大量の座布団を設置しておくような状況など、確率的にもあり得ない。

 でも、そんなものは後から検証すれば良いことだ。

 達也とその彼女、二人とも助けることができた。それが今この瞬間で一番大事だったから。

「良かった、ホントに良かったよ!」

 止め処なく流れ落ちるそうまさんの涙を、ハンカチでぬぐってやった。こんな時に限ってお気に入りのハンカチであり、また台無しになってしまうのだが、どうでも良かった。彼女の為になら惜しくない。むしろ嬉しい。

 そうまさんが何者か。ただの電波さんなのか本物の高次元の存在なのか、まだよく分からない。でも今は彼女と二人で喜びを分かち合いたかった。

 わんわん泣きながら、それでも無理矢理笑顔を作ろうとする彼女のことが、愛おしいと思った。

 今はそれで充分だ。

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二次元が好きな僕と高次元の存在な彼女 宮野原 宮乃 @yfukuzawa

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