キミが死のうとした理由
元真ヒサキ
キミが死のうとした理由
キミが、ふぅ、と湯気の立つシチューに息を吹きかけて恐る恐る口に含んだ。二、三度具を噛んでから飲み込んだキミが微かに笑ったから、僕は絶対にバレてはいけない安堵感を胸の内に押し隠した。
「美味しいだろ。ちゃんと作れば手料理だって美味いもんだ。これからは僕が作るから、毎日ちゃんとご飯食べような」
甘すぎたシチューのクセに自信満々な声音で言えば、キミは少しだけ首を傾げてから言葉を探すように黙った。視線を彷徨わせてテーブルを一周し、夕暮れの窓の向こうの建設中のビルに行き着く。
「毎日ご飯が出てくるなんて、幸せなことだね」
それを食べるのはキミだというのに、その口ぶりだと他人事に聞こえる。今は口元だけで微笑むキミの、本当の笑顔を見たのは、もう何年も昔の話だ。
***
キミ……つまるところ、彼女と僕は幼馴染である。小学生を裸足で駆け抜け、中学生を思春期で塗りつぶし、高校生を学業で終わらせた至って普通の幼馴染だ。そこに特別な恋愛感情はなかったが、僕たちは仲のいい幼馴染として小さな地元じゃちょっとした有名人だった。
誰にでも、というのに一切誇張のない優しさと、活発すぎる行動力を持ち合わせた彼女を頼る人は少なくなかった。しかし誰かの助けになることが彼女の喜びであることは僕も知っていたし、その結果得た達成感や幸福感を糧にしていたことは目に見えてわかることだったから止めることはしなかった。そして人助けが過ぎて抱え込みすぎた彼女の尻拭い ―― 手助けをするのが僕の役目だったのだ。彼女が笑ってくれるなら、僕はどんなことだって手伝った。僕は彼女の笑顔が好きだった。もちろん、幼馴染として。
そんな彼女と高校卒業後、それぞれの道を選んだ結果疎遠となったことは、ちっぽけな地元で少しだけ話題になった。僕は就職で地方への転勤を繰り返し、地元に帰るのは身内の不幸があったくらいか。あとから聞いた話だと、彼女は都内の芸術大学に進学し、さまざまな舞台で賞をもらったという。一人暮らしだった彼女の部屋の床に転がっていた写真立ての中に、仲間の輪の中心で真夏の向日葵のように輝かしい笑顔を見せる彼女がいた。きっと幸福だったのだろう。手に持ったトロフィーを握る手に強い力が込められているのが写真越しにでもわかった。
そんな彼女がひと月前に自殺を図っていたなど、誰が想像できただろうか。ゴミ溜めのようなワンルームで、輝かしい過去の思い出と共に床に倒れ伏した彼女を見た時は、そこが世界の終わりかと錯覚した。あの日たまたま僕が、本当に偶然に彼女の部屋を訪れていなければ、あの笑顔を見ることが二度とできなかったと、誰が想像できただろうか。
誰かのために、他人のために頑張り過ぎた彼女はいつしかうつ病と診断され、部屋に引きこもっていたのだ。病院で出された睡眠薬を使って自殺を図るなど、ドラマの中だけだと、少なくとも彼女に限ってはありえないと幼かった頃の僕では予測できなかった。
***
「クリスマスだから、ケーキがたくさん食べたい」
耳に飛び込んだおねだりに、読んでいた本を投げ出しそうになった。いつのまにかゲームのコントローラーを手放し僕を見つめるキミがいる。さっきまで大量に迫り来るゾンビを撃ち倒していたというのに。
「チョコとか、苺とか。……チーズも食べたい。抹茶のケーキなんて、もう何年も食べてない」
「……それ全部、食べたいの?」
かつての行動力を実は隠し持っていたのか、コートとマフラーを引っ張り出して財布一つ手に玄関まで大股で歩き出す。余程、余程食べたいのだろう。クリスマスにケーキすら用意しなかったのは僕だが、食べたいからと化粧もせずに飛び出そうとするなんて予測していなかった。
「公園の近くにケーキ屋、あったよね。行ってくる」
「わかった、ちょっと待ちなよ。食べたいもの全部買ってきても冷蔵庫入らないだろう」
「でもひとつなんて選べないよ」
「ひとつだなんて選ばなくていいさ。……食べに行こう、ケーキバイキングだ。それでいいだろ?」
バイキング、という言葉にキミの瞳がほんの少し煌めいたのを見逃さなかった。ごくりと生唾を飲み込んで、キミの言葉を待つ。僕の提案はキミのおねだりを叶えてることが、できる。
「……うん、行こう。連れて行って」
ちゃっかり渡された免許証と車の鍵を、僕はもちろんと受け取った。。
車を走らせ辿り着いたのは新宿駅西口にあるちょっとしたケーキバイキング。数日前の予約が必須の人気店だが、ちょっとしたコネのあった僕は電話一本で十九時から二名で席を取った。あれやこれやと皿に積んだケーキを頬張り目尻を垂らすキミを見ると、なんとも温かい気持ちになる。ああ、こういう時のためにオーナーに恩を売っていて良かった。キミが喜んでくれるなら、過去の僕の苦労が報われる。
宣言通り、チョコも苺もチーズも抹茶も口に放り込むキミは、ひと月前と同一人物とは思えないほどだ。瘦せ衰え、ボサボサに髪を乱してすっぴんのまま、自炊すらできず睡眠薬を握りしめていた彼女も、今は小綺麗に化粧をして、フォークをしっかりと握っている。
新しく東京で借りた部屋に彼女を招いたのは二週間前である。医者からの監視の意味を含ませた頼みだったが、僕は誰かに言われずとも彼女にそれを提案しようと思っていた。残念ながら僕には精神病の専門知識がなかったが、それでも彼女の側にいることが苦になるなどありえない。僕の手料理を食べ、湯船に浸かり、洗濯された服を着ている。彼女の身体がみるみる健康体になっていくのを見るのは嬉しいものがあった。そして今回の「ケーキ食べたい」だ。あれしたいこれしたい、と彼女が言ったのはこの生活を始めてから初めてだった。これを叶えないやつがいるだろうか。現に今、こうしてケーキを頬張るキミは、あの写真の中の向日葵にこそ劣るものの、その片鱗を見せている。その姿は、いつかの日の元気な彼女と重なって見えた。
「冬だから苺フェアなんだね。たくさんある。このタルトの、凄く美味しい」
数多種類のケーキに目移りしながらも、どうやらお気に入りを見つけたらしい。苺のタルトをフォークに刺して、僕の口元に持ってくる。
「……、えっと」
「食べてみ。さっきからコーヒーばっか飲んでるじゃん」
差し出されたタルト。世間はクリスマス。人気のケーキバイキング店なんぞ、恋人で溢れかえっているのだ。店内を見回しても、どこもかしこも「あーん」でいっぱいだ。だから、普通の、よくある光景。
意を決した僕の「あーん」は、店内BGMに見事かき消された。僕がタルトを食べたのを確認したキミは満足そうに口元だけを綻ばせ、自分のケーキを食べる作業に戻った。
口の中に広がる苺の甘酸っぱさとタルトのサクサク感で脳内を支配しようとしたが、目の前のキミがあまりにも嬉しそうだから味など一瞬で忘れてしまった。それが変に意識しているようで気恥ずかしい気がして、照りを出すために塗られた蜜が上顎にくっついて取れないのを言い訳に、僕はコーヒーのおかわりをしに席を立った。
昔の彼女ほど活気はないが、確実にいい方向に動いている。そう確信できる。キミは今、死など考えていない。僕はそれが何より嬉しい。他の感情なんて考えている場合ではない。
***
クリスマスから四日が経った。世間はもう大晦日だ新年だと騒がしいが、僕らの時間は案外のんびりしていた。
夜、 眠れないと僕を叩き起こしてゾンビゲームをやらされた。僕のキャラがゾンビにヘッドショットを決めるのを、キミは羨ましそうな目で見る。僕のゲームの腕が羨ましいのか、一発で死んでいくゾンビが羨ましいのかはわからなかったが、前者であると僕は決めつけることにした。キミの視線は崩れ落ちたゾンビを見ていた。
朝方、ようやく瞼を閉じたキミに毛布をかける。規則正しい呼吸を確認して、わずかに開きかけた口を閉じる。「おやすみ」なんて言えなかった。夢に浸ると休めないのを、僕は知っているからだ。時間はかかるがやっと薬に頼らなくても眠れるようになってきたのだから、その夢が悪夢とならないことを祈るしかできない。至って順調に、キミの心臓が鼓動を続ける。どうかキミが眠ることを苦しまないように。生きることが、苦とならないように。
***
最近、というよりあのクリスマス以来、彼女はわがままを言うようになった。正月も過ぎ、世間が落ち着き始めた頃だ。テレビで新しいものを見るたびに、僕に免許証と車の鍵を差し出して「連れてって」と言う。可能な限り僕はそのわがままを叶えた。彼女は口元だけの笑みから、目に見えて笑顔が増えた。僕は彼女を幸せにできていると思った。油断した。
彼女はある朝、いなくなった。
目が覚めて、そういえばいつ寝たかもわからない記憶を手繰り寄せ、彼女が珍しく寝る前に僕に白湯を渡してきたところで、なるほど彼女の睡眠薬がまだ残っていたことを思い出した。その瞬間、全身からぞっと体温が消え去るのを感じた。指先が動かず、息を吐き出そうとする度に幸せだったなにかも逃げてしまいそうで吐き出せなくなる。
探さなくては、と体が動くまでだいぶ時間があったと思う。その瞬間にも、彼女が遠くへ行ってしまうというのに。
色々な人に聞いてまわって、泣きそうになりながら走った。近所の公園も、ケーキ屋も、彼女が記憶しているはずの思い当たるところ全てを見たがどこにもいなかった。携帯なんて持たせていない。万が一何かあっても、僕の元に連絡など来るはずがない!
警察に届けを出さなくては、と一般的な搜索方法を思い出したところで、一本の電話に足を止めた。知らぬ番号だった。走り過ぎて上がった息を整える余裕もなく電話に出る。女性の、落ち着いた声。聞けば家の近くの病院からだった。
僕を睡眠薬で眠らせ、家を出た彼女が向かったのは、建設中のビルで、そこから飛び降りようとしたところを作業員に見つかり保護されたらしい。彼女を初めて僕の家に連れてきた時から目をつけていたのだろうか。
僕に電話が来たのは、彼女が僕の免許証と車の鍵を所持していたからだ。そういえば車は彼女に鍵を渡された時しか使わなかった。
ベッドの上で眠るキミの胸が上下しているのを見て、冷えきっていた体温がぐっと戻る感覚がした。キミが生きていることに安堵し、それからすぐに苛立ちが胸の内を占める。キミは笑顔が増え、健康体になりつつあり、幸せだった筈だ。少なくとも、あの日ケーキを食べていた彼女は死のうだなんて思っていなかった筈だ!
彼女が目覚めるまでの二日間は、猜疑心と絶望に苦しんだ。ようやく荒れた感情より心配が勝ってきたところで目覚めたキミの第一声は、消えかけた苛立ちをふつふつと蘇らせた。
「与えられるだけで生きているのが申し訳なかったの」
与えられるだけ。
「私のせいで迷惑かけたくなかった」
窓の向こうを向いたままのキミの視線が、あの建設中のビルから飛び降りることに成功した彼女の幻を見ていることに気づいて、僕は初めて、声を荒げた。
「自分勝手に死ぬなよ! キミはいつだって、自分しか見ていなかったじゃないか! 与えられるだけって、与えたのは僕だ。いつだって僕が勝手にやったことだ! 僕の行動をキミのせいにするな。僕は僕のためにやっている。僕を理由に死なないでくれ! キミはなにも悪くないんだ。生きる理由がないのなら、生きる理由を探すくらいなら、僕が、キミを、そんな事を考える暇もないくらい楽しませるから! 明日を心待ちにするくらい幸せにするから、だからっ、キミを殺さないでくれ!」
あの日彼女の家を訪れたのは、虫の知らせでも風の便りでもなんでもなくて、ただ会いたかったからだ。いつかの笑顔をもう一度見たいというだけで、彼女の部屋を調べて行ったのだ。
僕の知らないところで僕の知るものが消えようとするのが許せなかった。だから彼女を目の届くところに置きたかったし、僕が与えるもので生きて欲しかった。二度と自殺などしないように。二度と死にたいなどと思わせないように。
それを彼女は、自分のせいだと思い込んでいたのだ。自分のせいで僕の生活が制限されているとでも思ったのか。そんなありもしない予想で、彼女は僕の前から消えようとしたのだ。
僕を見るキミは、唖然としていて、僕の言葉の半分も飲み込めていないようだった。
「……それは、つまり、プロポーズ?」
やがて発せられたキミの言葉は、僕の思い描く返答予測とは違う形で放たれた。プロポーズだと? どこにそんな意味が込められていたのだ。
「明日を心待ちにするくらい、幸せにするって……」
なるほどそこか。僕は自分の勝手さを非難されると覚悟していたが、なるほどキミはそちらを飲み込んだのか。
「ずっと、色々してくれたのって、そういうことだったの?」
流れがすっかり変わってしまった。騒ぎに駆けつけた看護師たちがドアの向こうでざわざわしている。待ってくれ、それは予測不可能な変化球だ。
「幸せにしてくれる?」
日の傾いた病室で、キミは向日葵の笑顔を見せた。そんな笑顔を見せられたら、僕は予定外のプロポーズを、プロポーズとして受け入れなくてはならない。こんなに可愛い笑顔を見せられて、そうだと言わないやつがいるだろうか。
じんわりと涙で瞳を潤ませたキミの手を取り、もちろんだと言うしかないじゃないか。
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