七蓮ブルーマー

@mifan

第1話墨蓮編

約350年前、怪生物の出現が全世界で同時多発的に確認された。

モノノケと呼ばれるそれは、人から産まれ、更に交配を繰り返す。大部分のモノノケは人の力では到底及ばない。人は餌と成り果て、いくつもの都や集落が滅びていった。そんななか大陸では七蓮教という密教集団がモノノケの増殖に歯止めをかけていると伝わり、有能な密教者が秘術の修業のため大陸へ数百人送られた。しかし秘術をモノに出来るのは甚大な負荷に耐えうる肉体を有し、かつ特殊な才能を持つ極限られた者だけであった。

七蓮教では人の肉体は3層からなるとされ、肉体、幽体、霊体から成っているとされる。真ん中の幽体は肉体と霊体をつなげる流動的な接着剤のような役割をしている。

霊体には性質の異なる七つの幽田があり、そこから幽を産生している。その幽は万能物質とされ、西洋ではエクトプラズムと呼ばれるものに近い。七蓮教の秘術をマスターしたものは、その幽を体外に放出したり、体外に物質を形成する事を可能とした。

秘術をマスターした際には幽田に蓮の花ような物が形作られるため、マスターしたものは開花者(ブルーマー)と呼ばれた。


賀茂大観は幽田のうちの一つ、雷の特性を持つ黒幽田に黒い蓮を咲かせる事に成功し、出生地である蝦夷の北城京に戻ってきた。

そしてこの地は墨蓮京と名を変えモノノケを排除するシステムを300年かけ作りあげていった。

ここ墨蓮京のカーストは長命を得た賀茂大観を頂点として墨雷僧、玄武隊、賀茂家、その他の民と続く。

墨雷僧と玄武隊の成員は賀茂の血筋である。

七つある幽田のいずれかに蓮を咲かせた者の血を引く者は、産まれながらにその蓮の特性を受け継ぐという。その為賀茂家は特別であった。身体能力も明らかに人の領域の外にある。

しかし、しかし何なのだ賀茂家でもないにこの女は。

美哉毘(みやび)の鞭のようにしなる左足のローリングソバットが側頭部めがけて飛んできた。既に満身創痍の賀茂楽弥(かもらくや)はバックステップをとろうにも足が動かない。


墨術院の卒業前に2日間かけて行われる玄武隊の入隊試験の準決勝である。戦闘における適正を確認するためのものであり、必ずしも勝敗に重きを置く訳ではない。入隊試験だけを目的とした場合には、既に数試合勝ち抜いている賀茂楽弥と安倍美哉毘(あべみやび)は、消化試合としてもよいのだが。

楽弥は美哉毘のローリングソバットを右腕でガードし、その腕を左手で支えた。しかし、防いだのは彼女の膝の裏。そこを支点にひざ下はL字に曲がり。楽弥の後頭部に強烈な打撃を与えた。脳味噌が顔面を突き破るかと思った。楽弥は片膝を突き、模造刀を地に刺し、上半身を支える。

眼振が強い。世界が一点に定まるのを待つ。その間に一撃でも喰らえばもう終いだ。

幾重にもなった彼女の姿がようやく像を結ぶ。頭を丸め、道衣に袴姿。真夏なのに綿入れを着ている。美哉毘は楽弥と同じく薫陀裏丹(くんだりに)寺で一緒に育った孤児である。そして楽弥は数日前、美哉毘に不器用な愛を告げた。「一生守ってやる」と。彼女がこんなに強いとは知らず。

賀茂家のみが修練出来る墨術院で学んでいたのは楽弥の方である。寺の坊主と修業していただけで、血の恩恵にもあずからぬ美哉毘が、賀茂家を次々と打ち破り、守ってやると恥ずかしい事をほざいたガキを打ち負かそうとしている。

「なんでそんなに強うなっちょる。何をした」

「賀茂家だけが特別じゃないの」

「美哉毘も特別なんか?」

「そういう事じゃない。賀茂を特別だと思っている事がまずムカつくの」

「どうしたって賀茂の血は特別じゃろ」

「他の民が賀茂様々の為に血を滲ませ尽くすのが当たり前で半奴隷的な扱い。絶対おかしい」

楽弥は震える膝を押さえつけ、「わしだって同じ孤児院にいた。非道な労働が課せられている事は痛いほど知っちょう。じゃけど、この国の治安を賀茂が守らんかったら、みんな生きていけん現実はあるじゃろ」

「賀茂は賀茂の為にモノノケを駆除しているだけ。私達が襲われていても、私達ごとモノノケを駆除している」

「それは・・、そうかもしれんけど・・、美哉毘、どうしたんじゃ」

「当たり前でしょ、周りを囲う賀茂家。特別に私を参加させた事への後悔と憤怒ともどかしさの入り混じる鋭い視線が身体を突き刺さる。早くあんたを仕留めたいけど、雷術を使わなかったから負けたと言われるのはイヤ。さっさと使いなさい」

「ゴム防具をを身に付けんやつに雷術など使えるか」

ゴム防具は身体のラインが出るため美哉毘は装着しなかったのではないか。心当たりがある。楽弥が美哉毘に告白をしたとき、成長期による美哉毘の身体の変化を褒めようとして失敗した。何を言ったのか思い出せないが、妙ちくりんな事を口走り、耳をじんじんさせたのを覚えている。その日から美哉毘は身体のラインを隠すためか綿入れを身に付けるようになった。

「雷術なんか使わずにあんたに勝って、守れるっちゅう事を証明しちゃる」楽弥は裏拳や手刀、蹴りなどを繰り出すも、すんでのところでかわされる。

「まだそんな事を言ってるの?私の事を好きなんていう趣味の悪い男とは、趣味が合わない。絶対イヤ」

「めちゃくちゃじゃ」

左方の闘技場が目に入る。試合は既に終わっており、芽崑(めこん)はゴム防具を脱ぐ手を止め、楽弥を見ている。決勝で芽崑と相対する事が一番の恩返しであると思った。父の罪で一旦賀茂家から切り離された楽弥を墨術院で学べるよう取り計らってくれたのが幼なじみで親友の彼だ。ブルーマーの一人である大観様の最後の子である芽崑に勝てるとは思ってはいない。でも芽崑は何度も決勝で拳を交えようと言ってくれた。

しかし、この器に力が残っているのか。美哉毘に啖呵を切ったもののもう指を曲げるのも億劫だ。身体が動かない。

美哉毘は息一つ切らしていない。美哉毘の視線の先追うとテーブルの上の砂時計。よく見ると残りの砂が落ちていない。何か細工がしてある。審判が砂時計を手に取り、懐へしまった。このまま試合を終わらせるな。賀茂でない女の快進撃を何としても止めろ。そんなところか。

美哉毘は連続攻撃をしかけながら、

「これ以上賀茂様が負ける訳にはいかないのよね。雷術っていう大道芸があるならさっさと出したら。イタチの最後っ屁もガス欠かしら」美哉毘は楽弥を蹴り倒し、地に這う楽弥の側頭部をふみつける。楽弥は美哉毘の足を掴もうとするも美哉毘はすり抜け、楽弥の腹部を蹴り飛ばす。吹っ飛ぶ楽弥は片手を突き、方向を変え何とか両の足底を着地させる。すかさず美哉毘の掌底が飛んで来る。攻撃をいなすのに精いっぱいである。

「墨術院のレベルもこんなもの?賀茂の強さに民はひれ伏しているけど、メッキはこんなに簡単に剥がれる。大衆が見てたら不満を孕む尊厳がどうなることか」

楽弥は息を切らすばかり。焦点も定まらない。

美哉毘は舌打ちし、「最後に一発くらい出ないのかな。イライラする。禁断のワードをぶちこまないと引火出来ない?『お父さん』のこと。偉大にして悪の権化。裏切りによる重罪で玄武隊を除名。何をしたんだっけ?」

ビビチと楽弥の目前の空気が黄金に弾ける。

美哉毘は続ける。「玄武隊を大量虐殺。そんだけの偉大な悪魔の遺伝子があんたの中にあるなら」

「黙れ!!」

噛みしめ発した言葉が怒声をはらみ、奥歯で火花が散る。

「あの人を知らんやつが何を!父ちゃんは・・何かの間違いなんじゃ!」

耳の奥でビチビチと火花の弾ける音がする。心臓が血を噴き出す程おぞましい記憶がまぶたの裏にフラッシュバックする。幼い楽弥には処理しきれず、防衛本能が魂の奥底へ封印したあの記憶。断片的な父のやさしい顔や仕草の奥に黒光りする血なまぐさい記憶。轟音のイカズチが耳の奥でスパークする。楽弥の模造刀が黒光りし、バッチンバッチンと火花が散る。

楽弥は高速で地を蹴りありったけのエネルギーで雷刀をブン回しブン回しブン回し続けた。しかし美哉毘にかする事なく脳内に走った一閃とともに気を失いばったりと倒れた。

######

遠くで聞こえる歓声が楽弥の意識に一石を投じ、まどろみ始める。

楽弥の手先が白いシーツに触れる。救護室のベッドの上であった。

ボコボコと煮えくり立つ腹の中の赤黒いマグマは消失し、妙にスッキリした気分でいた。

・・・今考えると、雷術を引き出すため美哉毘はあえて挑発したのだろう。元々気の強いところはあるが、子供の頃から一線を越える言葉を発した事などない。今回の試験は、美哉毘はともかく雷術の精度も審査の対象であった。墨術院卒業レベルでは雷術は1日1回程度しか使えない。楽弥は前日にも使用しておらず、あのまま雷術を披露せず試験を終えていたら不合格になると考え美哉毘は必死にあおったのだと思う。

彼女は彼女で、賀茂だけが特別な世界に不満を持っており、勝ち進む事には特別な思いがあった。

幼い頃は美哉毘との身体能力に差異はなかった。その時点で美哉毘は特別だったのかもしれないが、墨術院で学ぶ楽弥は美哉毘と大きく差をつけたと思っていた。特例で玄武隊の選抜試験を受けると聞いた時も美哉毘が怪我をしないか心配に思った程であった。薫陀裏丹(くんだりに)寺のクソ坊主が何か秘術でも伝授したのだろうか。

第一闘技場では、美哉毘と芽崑が試合をしている。

美哉毘は武器を使わず、体術だけで二刀流の芽崑と互角の戦いをしている。

芽崑はまだ雷術を使った様子はない。賀茂の威信にかけて体術で差を見せつけ、最後に雷術を披露し勝利としたかったのだろう。しかし美哉毘の体術が上回る。左右の拳が続けて芽崑の脇腹と顎をとらえ、ぐらついたところを右膝が芽崑の鳩尾に突き刺さる。

芽崑は後方へ跳びのき距離をとるも、くの字に腹を押さえ、血液混じりの唾液が糸を引く。美哉毘はすかさず間合いを詰め、追撃する。たまらず、芽崑は抜刀の構えから模造刀に閃光をまとわせ、刀を左から一閃放つ。美哉毘は右手刀で光る刀を弾く。と同時に美哉毘の身体は弾け左方へ態勢を崩す。美哉毘は雷術に接触したのに何故か通電しない。

お互いに距離をとる美哉毘と芽崑。2人とも顔面は紅潮し、ドッと汗が噴き出す。雷術を使用すると体力の消耗が激しい。美哉毘も相殺するほどの何かをしたはずである。必死で呼吸を整えながら「もう雷術は使えない筈」とハヤブサの低空飛行のように地を駆け、回転踵落としを放った。

芽崑は左右の刀をバッテンにかかげ防御するも美哉毘の踵が芽崑の頭頂部にゴスと鈍い音をたてる。その刹那芽崑の雷術が発動した。芽崑の身体は崩れながらも模造刀がスパークし、美哉毘の身体が逆回転に弾け飛んだ。

双方とも倒れ、何とか痙攣の残る身体で片膝をついたものの、立ち上がるまでには至らない。

「それまで」審判の声が響く。判定の結果勝者は芽崑であった。

美哉毘の奮闘に一族の総てが肝を冷やしただろう。かろうじて面目は保たれた。試合後美哉毘への称賛の声はなく、墨術院卒業前に雷術を2度も使うという離れわざをした芽崑への賛辞がさざめいた。

その後、玄武隊には芽崑や美哉毘を含め560名の入隊が決定した。選抜試験受験者の全員が合格した。賀茂楽弥を除いて。

受験者の玄武隊所属を記した立て札の隅に『墨産局種別院 賀茂楽弥』とひっそり記してあった。

楽弥は寺の連中とどんな表情で会えば良いか分からず、日暮れを待ち薫陀裏丹(くんだりに)寺へ戻った。しかしまだ寺の裏庭では修業に励む子供達の声がする。物陰から覗くと大小の坊主達が3列になり、掛け声とともに正拳突きをしている。子供達は炭鉱の重労働のあと、希望者が坊主に修業をつけてもらっているのだ。子供達にとっては賀茂氏のみが通える墨術院で学ぶ楽弥が誇りであり、楽弥が玄武隊の隊員となる事に疑いを持たなかった。こいつらにこの結果をどう説明すればよいのか言葉が思い浮かばない。

楽弥が寺から出ると、芽崑と鉢合わせた。楽弥が歩くのに合わせ、芽崑が並ぶ。

「芽崑、お前はやっぱり凄ぇんじゃな。短時間に2回も雷術を使いおった。そんなん玄武隊でも上の方じゃろう」

「あぁ、自分でも驚いている。美哉毘の踵落としでバグって何かでた。そんな感じかな」と頭頂部をさすり笑う。

「あぁ、あれな」

「思い出すだけで涙が滲む。あそこで雷術が不発だったら、両の目ん玉と入れ歯が吹っ飛ぶとこだった」

「入れ歯なんか!」

芽崑は両の目玉と入れ歯をパコッと元に戻す仕草をして笑う。

「わしん時もあのソバット、目と口から脳味噌がポップコーンするとこじゃった。しかしお前をあそこまで追い詰めるんじゃ、美哉毘、凄ぇんじゃなぁ」

「あぁ、あの賀茂を上回る体術。一体どんな修業をしてたんだ?」

「さぁ。クソ坊主の修業は受けた事ぁないもんで。じゃが、大した修業なぞしよらんようじゃし、あいつが特別なんじゃろう。あいつから赤い『幽』みたいなんがうっすら出ちょるような気がした事がある」

「やっぱりそうか。試合中もうっすら赤いモヤのようなものが出ていたような気がした。賀茂家の黒い『幽』みたいなものなのかな」

「どうじゃろう。他のブルーマーの血筋でもあるんかね。その美哉毘じゃがどこにおるん?」

「玄武隊のとこ」

「何しに?」

「お前の落選」

「その事か」

「雷術が失敗して暴発したやつでも合格になっている。明らかにおかしい」

「隊に選ばれんかったんは、試合以前の問題じゃろう」

「あぁ。雷術だって使ったし上位4位には入っている楽弥に落ちる理由は見当たらない」

「父ちゃんのことじゃろ。玄武隊は父ちゃんのせいで大勢が犠牲になったと思っちょる」

「楽弥の父さんのことは詳しく知らないけど、俺もこれから色々動いてみる」

「すまんのいつも、芽崑からの恩で押しつぶされそうじゃ。早ぅ軽ぅなりたい」

楽弥はおどけて見せた。とはいうものの、状況から考えて玄武隊入隊の可能性は限りなくゼロに近い。そうなると種別院に配属か。

賀茂上層部からの指示は絶対である。断れば投獄もありえる。墨蓮京より南、海峡を越えた地に他のブルーマーの国があると聞いた事がある。壁の外を死なずにたどり着く事は可能だろうか。壁の外を見てから判断してもいいのではなかろうか。

壁は頑強に造られており、高いところで、30mはある。しかし、モノノケの襲撃により破壊され、仮の補修しかなされていないところがいくつかあった。以前は不安に思えた破壊の跡が、今はそこからしか希望の光が漏れだしていない。

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薫陀裏丹(くんだりに)寺。月の光が堂内を照らす。蚊帳の中には大小坊主頭の男女子供たちが眠っている。指をしゃぶる幼子、片腕や片足のない子、胸のふくらみはじめた女子。大人のような体躯の少年など、年齢も性別もバラバラの子供達。いびきをかき放屁し寝息をたてている。ここ薫陀裏丹寺は皆モノノケに親を殺害された孤児ばかりである。

楽弥が蚊帳を開けると月の光が射し込む。月の光にくっきりと美哉毘(みやび)の半身が切り取られた。額には汗の玉が浮いている。無防備な胸元につい目がいく。「試合ん時とは別人みてぇじゃな」楽弥はひとりごち目を細める。この暑さのなか厚手の布が腹にかかっている。

美哉毘の身体を漂う『幽』が以前よりはっきりと赤く見える。楽弥は蚊帳を閉じる。

部屋の入り口では、日栗(ひくり)という若い坊主が片膝を立て涎を垂らしている。

普段はモノノケに襲われぬよう本堂の地下に雑魚寝しているが、なんせ風の通りが悪い。こんなうだるような夜には蒸し風呂状態となる為、大人が見張りにつき、上で寝る事がある。

この薫陀裏丹(くんだりに)寺は、玄武隊の施設と隣接しており警備重点地域となっているため、玄武隊の見回りが頻回であり、坊主も安心しきっている。見回りに来る玄武隊のレベルは駆け出しで、何かあれば上司に連絡するだけのおぼつかない連中である。しかし人々は玄武隊という名に複雑な思いはあるものの、モノノケを駆除するという一面にだけは頭が上がらない。

楽弥は渡り廊下を過ぎ、本殿へと入る。中央に鎮座する如来像の丹田は空洞となっており、黒い蓮の花が活けられている。楽弥は3歳でこの寺に預けられ、12年間毎日見続けてきた。たいして信心深くもないが、何やらこの仏像の加護があったような気もする。モノノケが寺に近づいた事はない。

「わしはどっちにせよ寺から出にゃならん。あいつら、血のつながりはないんじゃけどかわいいやつらじゃ、守っちゃってくれ」


墨蓮京西門から壁伝いに3キロほど歩いたところに楽弥の目的とする一部壁の崩落した箇所があり、大小の石を積み上げて穴を塞いである。楽弥は石をずらし隙間をくぐる。ランプをかざすと壁の中は空洞になっており、地面には石がごろついている。ここの壁幅は15メートルくらいあり、壁上のどこかでは玄武隊が警備をしている筈である。

外へ通じる縦割れの穴は上部の補修が済んでおり、下は鉄板で塞がれ、その手前に石を積み上げ、モノノケの侵入を防いでいる。一度塞いだ穴に再度侵入されて簡易的に閉じたのだろう。楽弥は鉄板の手前の石をどかし終えると分厚い鉄板に手をかける。さすがに重量があり、数ミリずつしか動かない。身体中からとめどなく滲む汗が不快で仕方ない。ようやく頭が入るくらいの幅を作り、外を覗き込む。月が隠れているのか闇でしかない。「何も見えん。薄闇を待つか」鉄板を閉じようとするも、「やめじゃ」と座り込む。

ガササと外で音がした。楽弥は足元のランプを掴み、隙間へかざした。何も見えない。ランプを外へ突き出す。小さい黒い影が横切るや、ランプを掴む指に激痛が走り、思わずランプを落とした。屈み、扉の隙間に身体をねじ込みランプに片手を伸ばした。その刹那、首に鋼線が巻かれ、凄まじい力で引き倒される。「ぐわっ」引きずられ、身体が外の草原へと引きずられる。楽弥は首元の鋼線を両手で掴み、抗う。

楽弥が苦し紛れに立ち上がると二本指程度の生き物が甲高い声で叫びながら何匹も這い上がってくる。背に羽がついているのか、時々バササと不随意運動のように動く。袴の中から外から吸着姓のある四つ足のものが這い上がってくる。払いのけようにもなかなか剥がれない。こいつらの頭部に鋭角な骨のような物を感じる。角だろうか。そいつらは一斉に噛み始めた。カジカジカジカジ。身体中の肉が食い破られるのを感じる。楽弥はたまらず全身からイカズチを放出した。焦げた肉の臭いが鼻をつく。しかし数匹は噛みついたまま剥がれない。別の巨大な何かがうごめく気配を感じ見上げるもよく分からない。上衣の中では皮を食い破り、頭をめり込まそうとしている。このままでは内臓へ到達する。楽弥は上衣を片方ずつ抜き、脱ぎ、身体についた鬼虫をいくつも払い引きちぎる。鬼虫は首から下がもげても、頭だけはしっかりと残っている。「くそ。まだおる」

甲高い鳴き声と羽音がうじゃうじゃと足元にうごめき、ひっきりなしに両足に跳びついてくる。そのたび楽弥は引き剥がすがきりがない。気づくと背中のあたりにまた数匹いる。いつの間にか鋼線が手や首、足に巻かれ、再度ひき倒された。楽弥は地に用意された板の上に倒れ、鋼線が板に打ち付けられる。カンカカカと響く音は素早く、思考を与える間もない。身動きをしようにも鋼線が食い込み激痛が走る。口の中にも何かが詰められている。口内に青臭さが充満する。草団子が唾液を吸い膨張してゆく。顎がはち切れそうだ。息苦しく声を発する余地もない。口角から苦い汁が伝うのを感じる。毒液が含まれているのか口内がピリピリと痛み始める。んごもごむぐ・・。急激に眠気が襲ってきた。板の下で揺れを感じる。運ばれている。角度がついた。頭から傾斜し突き進んでいる。巣穴へ連れて行かれる。

と、誰かが楽弥の左足を掴み、凄まじい力で引っ張り上げた。鬼虫達の断末魔が連続的に耳元をつんざく。板の下の鬼虫が引き剥がされていく。身体に食い込む鋼線がブッツンブッツン弾け千切れる。

「大丈夫?」女の声。美哉毘か?と発しようとしたが、声が出ない。美哉毘は口の中にクナイと思われる物をぶっ刺し、取り除いた。カィヒョッ、イショッ、ピャッと緑汁を吐き出す。喉の奥が恐ろしくしびれる。「ヒヤヒハ?」美哉毘か?と聞きたいが呂律が回らない。

「こっちよ」美哉毘は楽弥の手を引き進む先には、明かりが見える。壁穴の先に松明の火が揺らめいている。美哉毘に続き、壁穴に滑り込み、2人で鉄板をスライドさせ、穴を塞いだ。

鉄板を背に座り込む楽弥と美哉毘。

楽弥は荒い息のなか口の中を整え発した。

「美哉毘、どうして?」

「変だったから寺から後をつけてた、変な邪魔が入っちゃって遅くなったけど。怪我はどう?」

美哉毘が松明を楽弥に近づけると、美哉毘は小さく悲鳴をあげた。楽弥が自分の体を見ると、いくつもの小さな人の頭が楽弥の皮膚についている。先程の鬼虫の正体である。長い黒髪で、2本角を生やし、楽弥の体の至るところの皮膚を噛んだまま恐ろしい形相でこと切れている。楽弥の体中、鬼虫のものか楽弥のものか分からない血にまみれている。

「気色わる。人とおんなじ顔しちょる」楽弥は急いで鬼虫の頭を払おうにも外れない。「待って。取ってあげる」美哉毘は鬼虫の頭を左右から圧を加えつまみ、鬼虫の口が開くと取り外す。一つ一つ丁寧に取り除いてくれる。

「楽弥。あんた一人で他の国に行けると思ったの?」

「分からん。じゃから見てから決めよう思った」

「こんなの重罪よ」

「じゃけど、重罪か。父ちゃんとおんなじじゃな」

「ごめん、あそこまで言うつもりはなかった。楽弥が雷術を使わないと試験落ちると思って」

「あぁ、分かっちょる。玄武隊に入って情報集めて、父ちゃんの汚名を晴らしたい。それだけが目的じゃったからな。種別院に務めるとなると人を殺めにゃならんし、都中の嫌われものになる。寺の子らが肩身の狭い思いをさせるかもしれん」

「種別院の事は噂が先行しているのかもしれないし」

「そうじゃろうか。この国の秩序を守る必要悪を一手に引き受けるという事には間違いなさそうじゃが。美哉毘」

「うん?」

「わしの代わりに玄武隊で活躍せぇよ」

「・・・うん」

「美哉毘、それにしてもあの強さは何じゃ。寺ではそんな特別ん事しよらんようじゃったけど」

「この近くに修業寺があったの覚えてる?」

「この辺じゃったか、小さい頃行ったきりじゃから場所は覚えちょらんけど、空飛ぶモノノケに襲撃されてつぶれたじゃろう」

「そう、そこの地下でお師匠さんと修業してた。楽弥も何度か誘ったでしょ、でも寺の修業、バカにしてたでしょ」

「そうじゃな、賀茂の血には物足りない修業だと勝手に決めこんじょった。じゃあ子供らも強いんか?」

「強いよ。私ほどじゃないけど」

「かー、人生間違えちょった」

「でも賀茂の雷術は教えてないから」美哉毘は最後の鬼虫の頭を外し「これで全部かな」

「ありがとう」

美哉毘は楽弥の目を覗き込み「楽弥、種別院に行かなくていい方法があるかもしれない」

「本当か?」

美哉毘は頷き「見せたいものがある。一緒に修業寺に行こう」

「あの寺に何が?」

「行けば分かる」

「あぁ、そういえば外に坊主がおるんか?」

「いないけど、どうして?」

「わしを追うときに邪魔が入ったって」

「・・・・誰かが通報したみたい。種別院に追われた」美哉毘の声が曇る。

「種別院って、モノノケを宿したんか・・?じゃ、じゃから最近身体を隠すようなもの着て」

「分からない。でもお腹がおかしいのは確か。そうだった場合種別院に殺される。怖くて。せっかく玄武隊にも入隊出来て、これからだってのに。悔しい」美哉毘の涙が頬を伝う。

「何とかならんのか」

「ここ、墨蓮京にいては何ともならない。でもお師匠さんと私の故郷ではある秘術の噂があるって」

「じゃ、美哉毘もここを離れるんか?」

「それが出来るか修業寺に行って確かめるの」

松明の火が大きく揺れた。風である。どこからだろうか?扉である鉄板にいつの間にか隙間が開いており、太い樹の根のようなものが挟まっている。

「ちゃんと閉めたはずじゃが」強い霧雨が風に流れ、顔をはたく。

楽弥が樹の根を押し出そうと掴むと先端がひくつく。生き物である。

直観とともに、「閉めんぞ」と叫び跳びのき、鉄板を2人でスライドさせ、象の鼻先のようなものを押し潰しにかかる。

鼻先はたまらず、引っ込んだ。すかさず扉は閉じ、壁にめり込むように押し込んだ。

2人はまだ扉を押し込み続ける。

同時に視線をぶつけ頷くと、「走れ!」弾かれるように扉を背に踏み出す。

大股で数歩のところ。突然後方で轟音と圧風と立体的な地鳴りが同時に襲撃する。

2人は反射的に屈むと、扉であった鉄板が4方の壁に衝突し弾かれながら、2人の間を分け、斜め前方に突き刺さる。

楽弥が振り返ると、象鼻が迫っており、先端の左右の巨大な鼻腔のうちの右側から半裸のしわくちゃの女ゾンビの半身が飛び出し、楽弥をがっちり捕らえる。凄まじい力で鼻腔の中へ引きずりこんでいく。鼻腔の中より更に別の手が伸び、抗う楽弥の下肢は完全に呑みこまれた。

象鼻は左右に揺れながら戻っていく。目の端に捕らえた美哉毘は後方で楽弥を追っている。ゾンビ女は必死に楽弥の眼球を舐めようと閉じた瞼をこじ開けようと舌をねじ込もうとする。楽弥は鼻をすすると滴る女の涎を吸い込んでしまう。酷い酸臭に嗚咽し咳き込む。

壁の外は豪雨であった。鼻腔からは楽弥と女ゾンビの顔だけが出ている。

「楽弥!」

激しい雨音に混じり、追う美哉毘の足音が聞こえる。

美哉毘は凄まじい跳躍を見せ、象鼻へ飛び乗り、楽弥の方を向きまたぐと、女ゾンビの頭を両手で挟み、ねじりながら前転し、飛び降りた。女ゾンビの頭部が引きちぎれる。圧から解放された楽弥はもがき象鼻から抜け出た。

稲光りが閃き雷鳴が轟く。モノノケの全体像が瞬間的に露わとなる。巨大なカメレオンのようなフォルムであり、象鼻は尻尾の部分であった。カメレオン型の身体にはいくつかのゾンビの半身が生えている。ゾンビ達が一斉に2人に首を向ける。稲光りが断続的に閃く。数匹のゾンビが水中に潜るようにカメレオン型の身体に潜った。カメレオン型の頭部は壁の上方を見ている。

見回りの玄武隊が3名左右からカメレオン型に気づき、集まってきている。

「楽弥、急いで」

「わーっちょる」

壁穴へ向かい駆けだすも、カメレオン型の尻尾は二股に分かれ楽弥を絡めとる。楽弥に続いて美哉毘も巻かれる。カメレオン型の尻尾はターンし、右臀部に運ばれる。稲光りが閃く。ゾンビ8名の上半身が臀部から突出し、腕を伸ばしている。美哉毘の左右の手が紅い光を帯び、掌底突きとともに、紅い光が放たれる。

ゾンビ2体の頭部が吹き飛ぶ。しかし、2人ともゾンビのうごめきの中に捕らえられた。

もがくも、ゾンビに引っ張られ、カメレオン型の表皮の蠕動運動によりゆっくり呑みこまれていく。

「畜生、畜生、何故こんな奴らがおる。あぁ、もう終わりなんか」

「諦めんなバカ!」美哉毘は楽弥の頭をはたく。

「どうすりゃええんじゃ!畜生!」

見上げていたカメレオン型の頭部はゆっくり開口すると、びゃんと舌を発射する。舌は三又に分かれ、玄武隊の頭部を痛打する。それぞれ脳震盪を起こし白目を剥く。舌先に貼りついた3名はカメレオン型の口腔内へ勢いよく引っ張りこまれた。

「クソッもっと強くなって全部ぶち殺しちゃる。動け。動け」ぎらつく楽弥の目から涙がこぼれる。

「あー」美哉毘が吠える。

モノノケの臀部表面、楽弥と美哉毘の顔のみが残り、呑みこまれつつある。

豪雨に紛れ、壁の上から何かが落ちてきた。それは動物の頭骨を誰かが投げたものだと思った。

稲光りが閃く。それは人型の何かが一角の骨を被っている。黒マントにより、体型は不明である。

潜っていたゾンビ達は、カメレオン型の背に続々とせりあがり黒マントに手を伸ばす。

黒マントはカメレオン型の背に降り立つとゾンビの頭頂部を左手で掴み、右拳で顔面を破壊すると、手を突っ込み脳味噌を引きずり出し、次々とゾンビ達の身体を引きちぎっていく。背部からモノノケの舌が3方から襲うも、担いでいた長刀で切り刻み、頭部へ跳びつき刀で目玉をえぐり、その中へと潜りこむ。

カメレオン型の体内から稲光りがいくつも閃く。カメレオン型の腹部が一直線に斬られるとドシャとゾンビであったものと内臓のちゃんぷるがこぼれ落ちる。その中に意識を失った楽弥と美哉毘の姿があった。

######

胸に重みを感じた。さっきから「楽弥」と名を呼ばれ続けていたような気がする。

まどろみを押しのけ開眼すると、松明の先に鉄板の扉が元通り閉じられている。モノノケの気配もない。

胸の重みは美哉毘が楽弥の鼓動を確認したのだと思い至った。

「美哉毘」

入り口の方に歩いていた美哉毘が振り返る。苦痛に顔をゆがめている。

「来ないで!」

美哉毘は腹部を押さえている。

「ごめん、やっぱり宿しているのかもしれない。一人で行かせて。あんたを殺しちゃうかもしれない」

「どうしたんじゃ」

「ここを出られるかもしれないって話、お師匠さんに話してみて」

美哉毘は前を向き、弾かれるように駆け出し、入り口の積み上げられた石を越えていく。

「待て、何が何やら」

楽弥も駆け出す。

入り口の積み上げられた石の隙間から、外はぼんやりとした薄闇へと色を変えている事が分かる。

美哉毘から目を離さず、感覚で石を乗り越える。美哉毘は正面の貧民街の方へ消えていく。

楽弥が地に降り立つと、右方から何かが近づいてくる。

「貴様、ここで何をしている」

鋼鉄の戦闘用の車椅子がザザと泥を撥ね止まる。赤髪の目つきの鋭い女である。種別院の職員であると直感した。

「家出じゃ」

「夜中にここらをうろつくのは生餌でしかない。モノノケ以外にも飢えた人は人を喰らう。まぁ貴様の命などどうでも良いが。そんな事より貴様くらいの齢のおなごがここらを通らなんだか?」

「あっちの方に人影じゃったかな。何かおったような」

楽弥は北部を指さす。

「そうか」種別院の女はその方へ進みながら、「道でくたばられるとこいつが走りずらい。ここでは死ぬな」女は壁沿いに北へ車椅子を加速させる。スピードが異様である。

楽弥は足音を立てず、小走りで美哉毘の後を追う。

貧民街には以前迷い込んで来た事があるが、朽ちた死体がいくつか転がっており、腐臭を放っていた。それ以来避けてきた。足元で何かゴロつきつんのめるも、それが何であるか確認はしない。修業寺へ昔行った時には別の道からだったような気がする。

薄闇のなか美哉毘らしき姿を認める。美哉毘?黒いシルエットのそれはヘソの辺りからヘソの緒のようなものが伸び、その先端から嘔吐するようにズチャ、ズチャと連続的に落ち形を成していく。しぼんでいく美哉毘。

「み、美哉毘!」

後ずさりするそれのへその緒の先に美哉毘の抜け殻が引きずられている。

美哉毘でなくなったものが元に戻る姿が想像できない。茫然と立ち尽くす。

モノノケとなったそれはヘソの緒からストローでも吸うように残りの美哉毘をすすった。

30メートル先のおぞましい何かは眩しい日の光に逆行となり浮かび上がる。

人の体を中から裏返したような内臓の化け物である。いくつもの巨大なヒダや臓器が薄紅色にテラテラと光り始める。

頭部には頭蓋を抜いた老女の頭部のようなものがついており、動きに合わせグデンと前や横、斜め後ろに移動する。

それはいつの間にか楽弥の数メートル先にいた。ヌッチェヌッチェと歩み寄る。「ア・・グヤ・・グヤ」と声とも判別のつかない音が聞こえる。

楽弥は全身が剛直し動けない。

モノノケの冷たいヒダや臓器は楽弥を押し倒し包み込む。

死の温度であった冷んやりしたそれらがじんわりと温かくなっていく。何かを分泌し始めた。熱い。熱い!強酸である。

ヒダを押しのけようにも力がグニョグニョの中に吸収され底なし沼にはまっていく感覚である。酸が熱い!このままでは消化吸収されてしまう。

食虫花に溶かされていく虫はこんなだろうか。

意識が遠のいていく・・・・。

######

楽弥の自我は、意識の奥底からゆっくりと小さな光に向かいせり上がっていく。

猫がピチャピチャとミルクを舐めるような音とともに。

脳味噌の様々な部位が舐められているようなイメージと重なる。ピチャピチャとした音の度にその部位が刺激され奥底の記憶が閃く・・・。

ピチャピチャ・・。赤子であった楽弥をあやす父と母の微笑む顔。

ピチャピチャピチャ。楽弥は肩車をされ、親子3人で野原を散歩している。穏やかな陽の匂いが鼻をくすぐる。少し離れたところには尻尾を揺らす牛の姿も見える。

ピチャピチャ。地響き。遠方から狂犬病にかかったような騎馬隊が突進してくる。黄色い閃光。仲良しのおじさんや優しかったお姉さんの首が飛ぶ。血しぶきが楽弥の顔に飛び散り必死に拭う。父や母を探し不安で胸がはち切れそう。あっ、父を見つける。楽弥の名を呼びながらこちらへ駆けつける。父が右腕を伸ばし楽弥を抱き寄せる。その刹那、剛刀が父の右腕を切断した。父は騎馬戦士に引っ掴まれ、抱えられ離れていく。父を追う楽弥。父の右腕は楽弥の肩を掴んだまま離さない。父の姿は戦士に紛れ見えなくなった。赤黒い憎悪が抽象化する。楽弥の爪は尖り、皮膚が剥け、黒い腕が現れる。

ピチャピチャ。楽弥の左目がこじ開けられ、キリの先端が近づいてくる。奥の暗闇には誰かがいる。反射的に防ごうにも四肢が抑制されていて動けない。と、左手の抑制が外れ、キリを弾く。左横を見ると見えずらい角度に鏡がある。よく見ると、3才の頃の楽弥の口はヒモで縫い付けられている。外そうと口元に手をやると、いくつもの針が口に刺さった。両手の爪先には総て針が深く刺さっている。激痛が脳を貫く。

充血した目を見開く。


楽弥の意識は急速に表層へ達した。

楽弥の見開いた両の目が捕らえたのは、しゃがみ込んだ少女の後ろ姿であった。横たわる男を抱き寄せている。男が息絶えているのは様子で分かる。

しんとしている。薄暗い部屋。

大切な人を失ったのだろうか。口づけをしているようにも見える。

白いものが視界を邪魔している。どけようと視界を遮った楽弥の手は包帯に包まれていた。顔全体も包帯で巻かれているようだ。目の包帯をずらす。体動によりかすかに音がした。

少女はゆっくりとこちらを振り向く。

口の周りにはべったりと黒っぽい血がついていた。

死体の男は片頬の肉が無く、奥歯が見えている。少女は咀嚼しながら、音の元を探っている。

楽弥は目をそらし、部屋の様子に目を走らせる。

いくつもの死体が整然と並んでいる。楽弥は鉄製の台の上に安置されていた。

肉のうまさに少女の顔はほころんだ。並びの良い小粒の歯は血にまみれている。彼女は再び向きなおりピチャピチャと死体の頬を舐める。

ピチャピチャ?さっきから聞こえていたこの音、死体を舐めずる音であったのだと思い至る。

あの少女の顔、何かが引っかかる。目が大きく黒目がちで、整った鼻梁の形、芽崑に似た・・、昴(こう)!芽崑の双子の妹、昂である。墨術院で共に学んでいたが、8歳の時、急に姿がみえなくなった。芽崑に問うと病気になったという。昴(こう)の話題を出すと芽崑は困惑した様子で、話題を変えたがった。楽弥は昂に密かな恋心もあり、しばらくは様子を心配していたが、いつからか話すのをやめた。

こみ上げる懐かしさが嘔気へと変わる。

昂・・、どうしてしまったのだ。

後方に気配を感じたのか昂は耳をそばだて、立ち上がり、振り返る。

楽弥は息をひそめる。

昴(こう)は何か匂うのか、鼻をひくつかせ楽弥の方へ歩をすすめる。息を止める楽弥。

昂は楽弥の前で立ち止まった。楽弥の顔の包帯をずらし、楽弥の頬に顔を近づけ匂いを嗅いだ。

口を開いたのか、生暖かい息を感じる。

と、部屋の外から潜めた声で「昂姫、昂姫はおられますか」

楽弥の頬を濡れた舌がすべる。冷たく温かい。

昂の気配が離れた。スと鼻腔をかすめた匂いは、血と甘やかな花の匂いであった。

扉の開閉の音がして、昂の気配は消え去った。

楽弥は大きな鼓動を聞きながら深呼吸をした。多数の死の臭いがした。

楽弥は死体達から目をそらそうにも目の端に入る。再び目をつむった。

「ここは、どこじゃ・・・美哉毘が・・なっちまって」

変態した美哉毘の姿が鮮明に脳裏をよぎる。美哉毘・・・・。

楽弥は首を振り、あの醜い記憶を追い払う。今は美哉毘にまつわる事を排除し物を考えないと前に進む事が出来ない。

美哉毘を追っていた種別院の女に助けられたのだろうか?

彼女は楽弥を連れ帰り治療したが死亡したと判断され、死体安置所に置かれた。とするとここは医術院だろう。安置所は医術院の地下にあった筈である。

廊下からタイヤのゴム音が近づいてきた。やはりそうか。あの赤髪がくる・・・。

楽弥は目を細める。

扉が開かれ、入ってきたのはやはり赤髪の女であった。戦闘用の車椅子がいかめしい。

楽弥は起き上がり、「やっぱり助けてくれたんはあんたじゃったか」

赤髪は楽弥の姿を認めると「チッ。目覚めやがった。貴様が死ねばもうちょっとマシな奴に交換願いを出すことが出来た。モノノケにくっついていたから仕方なく引きずってきたが。ついて来い賀茂楽弥」来た道を方向転換する。

楽弥はヨタヨタと台を降り後に続く「わしの名前、何でしっちょるんですか?」

「貴様、一部では恨みを買ってるらしいな」

「医術院でも嫌われちょるんじゃろうか」扉を出て廊下を左に折れる。

「医術院?医術院は後ろだ。こっちは種別院につながっている」

「種別院?種別院で何を?」

赤髪は凄まじい形相で楽弥を睨めつける。

「安置所へぶち込むぞ。今度は魂を引きちぎった状態でな。貴様の配属先はどこだ」

どうやら行き着く先は強固な決定事項らしい。横道にそれようとも神の手につままれ、必ず軌道修正させられる。

######

廊下は薄暗く、廊下の側面上部から地上の光が入り込む程度である。

突き当りは洞窟のようになっており、地下壕病棟と札がある。病棟?

1階から松葉杖をついた男がスロープを降りてきた。右膝から下がない。男はブツブツと独り言を話しながら薄笑いを浮かべ、地下壕病棟へ消えていく。

「医術院の別館じゃろか」楽弥は赤髪を刺激せぬようあえてひとりごちた。

スロープを登る赤髪のあとに続く。タイヤを回す赤髪の上腕筋。腕には一生ものの傷がいくつも盛り上がってる。

「そこは精神科病棟だ。医術院と連携をとりながらも種別院の管轄となっている。賀茂家の精神症状が活発なやつらを力づくでコントロールできる職員は医術院にいないからな。賀茂の戦闘要員は問題がなければ玄武隊に行く」

問題があって玄武隊に入隊出来なかった楽弥。

医術院も指示系統は賀茂家で揃えられている筈だから、ある程度の雷術や体術はある。しかし種別院の職員の方が戦闘能力は高いという事か。

1階には車いすに乗った職員や松葉杖をつく職員、どこかしらが欠損した人が目立つ。

もしかして「種別院の職員も皆、賀茂じゃろうか」

「あぁ、ここは賀茂のレールから転げ落ちた者のクソ溜めといったところか。モノノケや何かしらの理由で身体の一部を失い、欠陥品と見なされた者。加えて性格的に癖があり扱いに困った奴ら。あとは精神疾患を患ったもの。他には凶悪な犯罪を犯し、死罪クラスであったが、幹部に近親がいて、かろうじてここに踏みとどまっているクソも数名いる」

職員の異様な面相の悪さも納得がいく。

受付けの痩せた顔色の悪い男が赤髪を見付け、手を上げる「紅璃(クリ)殿、新しい手配書が届きやした」男は楽弥に鋭い視線を向けると、「このミイラ坊はモノノケですかい?」

楽弥は自身が包帯に包まれている事を思い出す。

紅璃は手配書を受け取り「例の新入りだ」

「こんなちんけな坊っちゃんがあの?普通過ぎて湧き上がる感情が何もねぇでやんす」と痩せ男は鼻で笑う。楽弥は視界が悪いので頭部の包帯を外す。

「それより与志蔵、引き渡したモノノケの金は貰ってないが」

「そりゃ、すみません、会計に声をかけときます。まだそれ(戦闘車椅子)を改良するんですかい?」

「魔兎じぃが最新の義足を開発したらしい。前のはケチったらポンコツを渡しやがって。棍棒を蹴り飛ばしたくらいで破損しやがった。その義足をブン回してモノノケ共をベッコンベッコンにして最後に上からぶっ刺してやった」

「紅璃殿の義足も不憫でやんすね」

楽弥は笑い、「あんた暴れ馬みたいじゃな」

紅璃は舌打ちをし「貴様のベビーキャロット齧り捨てるぞ」

「怖いでやんす」と楽弥は与志蔵のマネをする。

「そんな事よりこの手配の、どんな女だ?」

「へぇ、辰巳絹(たつみ きぬ)22歳、西城区に両親と3人暮らし、付き合っていた男はいなかったそうですが、みるみる腹が膨れているという情報が土門一家からありやした。彼らからの情報なんで間違いないと思いやす。本日両親とともに姿をくらましやした」

紅璃は正面玄関へ方向転換し、「西城区だと四条林あたりに身を潜めているか・・。他に情報を知っているやつは?」

「紅璃殿が初めてでやんす」

「与志蔵、これからも情報は一番に持って来い」

「へぇ。もちろんでやんす」

楽弥は紅璃の背中に声をかける。「わしも外について行ってええんじゃろうか」

「貴様、邪魔以外に何が出来る?」

「邪魔はせんよ、外に出してくれんかな。薫陀裏丹(くんだりに)寺に美哉毘の事を伝えんといけんし」

「そういえば貴様、あの女の行き先嘘をついたな」

「当たり前じゃ、大切な幼馴染みを売る事は出来ん」

「まぁいい。罰として玉々は摘出させた」

「玉?」慌てて包帯の下の股間をまさぐる楽弥。

「あー、何しおんじゃ、わしの子孫達を。あっ、こっちも!」

「貴様も欠損者の仲間に入れてやったんだ、ありがたく思え。ベビーキャロット」

「べ、ベビーって、わしはまだ15歳じゃ。ほんで返してくれ」

「返してもいいが、機能を取り戻す術はあるのか?」

「ひ、卑怯じゃぞ。くそ、趣味が悪い」

「ここにまともな奴がいると思っているのか、しばらくの間の人質だ。また壁外へ逃げるかもしれないからな」

「そんな事はせんよ」

「どうかな。貴様が金の玉にどれほどの重きを置いているのか測れんうちは、ここを出す訳にはいかない。仮にも今は貴様の管理者は私という事になっている。この煩わしい役割を誰かに押し付けるまではここにいてもらう。与志蔵」

「へい」

「ガマにでも続きを案内させておけ」

与志蔵は気弱に眉間をしかめ、「牙松(がまつ)・・副院長・・・?」

「何か?」

「今は治療ちゅ・・・」

「落ち着いていると聞いたが」

与志蔵の額を幾筋もの冷たい汗が滴る。「聞いてやせんが・・」

「ヤツにどっか捥(も)がれたら魔兎じぃを紹介してやる。義手やら義眼やら義頭やら作ってもらえ」

「紅璃殿、冗談じゃないですぜ。色々ブスでやんすがそれなりに愛着はあるんで」

紅璃は軽く笑い出ていった。


楽弥と与志蔵は地下へと下り、地下壕病棟へと入る。ごつごつとした岩肌が剥きだしの洞窟を進むとその先に鋼鉄の扉があった。開錠するとその先に更に鉄格子の2重扉がある。鉄格子は押し広げられたような箇所や、破損し捻じ折れている箇所が散見される。楽弥は与志蔵に続き入棟する。楽弥は扉を触った手を見ると何か黒い粘液がべったりとついており、腹の包帯にこすりつける。

与志蔵は施錠しながら、「この扉はボタンを押すとと電流が流れる事になっているでやんす。高等な雷術使いは電流を逃がす術を知っているからやっかいだと聞きやした」

「ここの患者が逃げ出そうとするっちゅう事じゃろか」

「あっしはただの事務受付けですから、詳しい事はここの副院長に聞いてくれでやんす」

楽弥は手についた粘液の臭いをかぎ、顔をしかめる。

更に洞窟を進むと厳重な事にまた鋼鉄の扉がある。表面はボコボコに歪んでいる。鍵がバカになっているのかうっすらと開いている。扉の隙間からはうっすらと煙が漏れており、甘くスモーキーな匂いがする。そして酷く騒々しい音がする。叫び声のようなものも混じっているが何かを演奏しているように聴こえなくもない。

与志蔵が扉をノックする。もちろん返答はない。与志蔵が扉を開けると、真っ白な煙に包まれ、騒音で唇を震わせむず痒いほど。拡声器を使用し何かを演奏しているようだ。酷い。

真っ白い煙はゆっくり流れると、男が2メートルのところに座っている。男が何か吸っているのとは別に、四方から煙が焚かれているようだ。楽弥はほの白く恍惚とした意識がゆらめき、身体の重みがふんわりと気化し、煙と同化してゆく悦楽に身をゆだねる。

「手弐谷(てにたに)殿、副院長殿はあっちでやんすね?」騒音にかき消され身振り手振りであるが、与志蔵は男にそう訊ねたようであった。

手弐谷は口から白い煙を吐きながら、後方を指さした。

手弐谷という男、先程ブツブツと独り言を言いながら、病棟に入っていったあの男である。

与志蔵は鍵を受け取り、楽弥を伴い男の指差した方へ進む。左右に牢が連なっているが、それぞれの牢の中でも煙を焚いており、中の様子は窺い知れない。

一つの牢の前で立ち止まった。この牢が音源となっている。ドスの利いた獣のような重低音で咆哮する歌声に、高音のヒステリーのようなシャウトが絡みつく。三味線と数種の太鼓、チャッパ、チャッチキなどの打楽器で呪術的なリズムを刻んでいる。

与志蔵は鍵を開ける。

いくつかの松明が煌々としており、噴射のごとく煙を吐き出している。煙と紅い炎の中で奏でていたのは3名。スラッシュメタルのように三味線を奏でるのは長髪にツーブロック、黒皮の着物を身に付けた男。ヒステリーシャウトもこの男だ。

打楽器を滅多打ちにしているのは露出部が入れ墨に覆われた黒皮の着物の女。

真ん中の重低音咆哮男は、鋼鉄のベッドに手、足、胴、首と縛り付けられている。上半身は裸でハーレイのような身体つきをしている。

下半身も裸なのかタオルがかけられている。頭髪は剃り上げられており、右耳から左口角近くまで、皮膚が削り取られており、歯茎は剥きだしになっている。噛み付くように咆哮している。拡声器の調整がされておらず、いびつに音が響く。

やがて女はチャッパを鳴らす間隔を延ばしながら、静寂へと移行しつつ目をつむる。坊主頭も口をつぐみ目をつむり、三味線の男もバチをおろし目をつむる。

3人でお経のような物をブツブツ唱え、ゆっくり開眼していく。そして女が微笑み、

「待たせましたね。護摩を焚いていました」

「護摩?」

「不浄なものを滅していたのです。あなたは?」

「わしは、賀茂楽弥じゃ。ここっちゅうか、種別院でお世話になるらしい」

「あぁ、あの楽弥君。私は葡萄。ここの主任をしています」ほんわかと優しく微笑む。

「優しそうでホッとしたわ。しかしここでも知られちゅうんか。気持ち悪いのぉ」

葡萄は与志蔵に気づき「あら、与志蔵、あなたも居たのね。そんな隅っこにいないでこっちへいらっしゃいな」

「へ、へぇ、あっしは入り口が一番落ち着くもんで」

「怯えなくていいのよ。何かする訳でもないのに」

「へぇ、もちろん分かっとりやす。念の為でやんす」

「念の為?」

「い、いえ、あっし、お腹の調子が悪くてトイレに近い方が安心するってことでやんす」

「そう、そういえば、与志蔵が入院してたのもこの部屋だっけ」

「へ、へぇ」

楽弥「おっちゃんもどっか悪かったんじゃろか?」

「恥ずかしながら、あっし、アルコールと薬物中毒でしばらくお世話になりやして。あっし如きは医術院で充分な小物なんでやんすが」

「離脱症状とはいえ、随分な口をきいたもんだからつい・・・ね。覚えてるかしら」

「へぇ」

葡萄が踏み出すと後ずさる与志蔵。

「み、魅十郎殿、き、今日は何日でやんすか?」

三味線の男が陰鬱な目で見やり、「15日」

葡萄は「大丈夫よ、あの日は明日。今はとても心地よいもの。そして不浄なものは去ったばかり」

与志蔵は更に後ずさり、「やっぱし、おかしいでやんすよ。何かが・・」

与志蔵は楽弥の包帯をこっそり引っ張り、引き寄せる。

「おっちゃん、どうしたんじゃ」

「すまんでやんす。本当は何でもねぇかもしれねぇでやんすが、ここでの記憶があまりにも凄惨だったもんで、心臓がバクついてしょうがねぇ。正常に判断できねんでやんす」

「そっか、よう分からんが、病気がよっぽど辛かったんじゃろう。あとはわしが聞いちゃる」

楽弥は向き直り、「牙松さんて方ここにおられんですか?」

葡萄は拘束された巨大な坊主をみやり「ガマさんは寝たみたいだけど、何の用かしら?」

「こん人が牙松さん?」

「そう」

「こん人が?」

「そうよ」

「紅璃さんを待つっきゃないか」楽弥は与志蔵を見る。

葡萄は「もしかしてここの案内?」

「そうなんじゃ、こん人こんな動けんようされて、まだ治療中なんじゃろ?」

「本人の希望でまだこうしているけど、症状は落ち着いているから、いいんじゃないかしら?起こしてみたら?」

「症状が悪いとどうなんじゃ?」

「本人に聞いてみなさいな」

「お・・おん。どうやったら起きるんじゃ?」

「ガマさんの両の乳首に爪を立ててギュインて」

楽弥は恐るおそるベッドに片膝をつき、牙松の両乳首に力を込めていく。

牙松はスースーと寝息を立てピクリともしない。

「もっと強くギィンって」葡萄の目が血走りで口をひしゃげる。「ギィンて」

頷く楽弥。

葡萄は小声で口ずさむ「何がでるかな何がでるかな~♪」

「何じゃ?」

葡萄は口をひしゃげ「早くギンって」

楽弥は牙松にまたがり、力の限り爪を立て捻り回した。

「うるぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」野太い咆哮がこだまし、牙松の首輪に亀裂が入り弾け飛ぶ。ガバと勢いよく半身をもたげた牙松の鋼の胸板に楽弥は弾き飛ばされた。

「いっつぁ」楽弥は頭をさすりながら起き上がり、ふと左手を見ると、千切れた乳首を摘まんでいる「ぎゃあああ!」二度見すると、それは何故か干しブドウであった。「何故に干しブドウ」

牙松を見ると、息を切らし、ひん剝いた目玉は充血している。

「おんじゃら、クソガキー!!」

あまりの音圧に楽弥は少々お粗相した。

牙松は両手首を拘束していた鎖を順に引きちぎり、右手首の鎖で円を描くように振り回す。牙松は自身の顔に2度3度と鎖があたり「イダイダイダイ・・・ダイ・・」と頬を押さえ、静まる。

・・・・・・・・。

「取り乱した。申し訳ない。牙松と申す」

「当たり」と葡萄は微笑む。

楽弥は「ホ、ホントに大丈夫じゃろか」

牙松はえぐれた唇をさすり「唇が少ししか残っておらんから、マミムメモは聞き取りずらいかもしれんが、ご勘弁を」

「いやぁ、そっちは些末な事じゃけど」

「改めて、私がここ種別院の副院長にして、ここの病棟長、賀茂牙松でござる」手を差しだす。

「お世話んなります。賀茂楽弥です」握手した楽弥は悲鳴を上げ、手を引っ込めた。

手の平まで岩のようにマッチョである。凄まじい力の上、小雷を感じた。賀茂には根っからの帯電体質の輩がいる。

「ハイ、ガマさん、この前頼まれてたやつ」と葡萄が牙松にマスクを渡す。

「おぉこれが。葡萄殿、かたじけない」牙松がマスクを装着する。マスクには皮膚のつながりが精密に描かれている。唇はすぼめられ、『チュ』のように描かれている。

牙松は唇の形には気付いていない。

「私が描いてあげたの。あのままじゃ、目のやり場に困るでしょ」

「これはこれで照れるちゅうか気持ちわ・・イヤ、牙松さん、体調のほうはええんじゃろか」

牙松は「あぁ」と下半身のタオルを投げ、全裸となり、葡萄が両足首の鎖の鍵を解除する。牙松が立ち上がると、ベッドの臀部の下には穴が空いており、排泄したものがそのまま流せるような仕組みになっているらしい。トイレ一体型ベッド。

葡萄から受け取ったホースで身体を流し、「身体は見ての通り、何ともないでござるが、解離性同一障害というのを患っていて、俗にいう多重人格というやつでござる。やっかいな事に牙松の他に3つの人格がいるらしい」ふんどしを締めながら話を続ける。「ガマ凸(とつ)というのがいけない。性依存症と殺人衝動があるらしい。この人格が出そうになると、檻で縛ってもらっている」着物を羽織りながら、「さっきのような煙と注射で沈静をかけ、自傷他害のない人格が現れるのを待つ。さっきの煙は牙松を沈静させるものではなく、病棟全体をふんわりと落ち着かせる為のものでござる。そこの魅十郎がここの患者すべての薬を調合している」魅十郎はキセルをふかし、ぼんやりしている。表情から察するにいけない葉っぱがそこに詰められている。目を血走らせ歌っていた数分前との落差が凄まじい。

「魅十郎は医術院の医術師であったが、躁鬱病を発症してこっちへ異動になった。状態が落ち着いていれば、薬の調合は天才的でござる」

「調子が悪ければ?」

「劇薬を調合する事もあるが、数人しか死んでいないでござる」

「しか!」

「魅十郎が拘束されている時は、牙松か葡萄がここの薬を調合するでござる」

「お二人さんも医術師なんかで?」

「いや」

「え?調合って?」

「見よう見真似でござるが何か?」

「はぁ・・。3人とも拘束された時はどうするんじゃ?」

「それは心配ご無用でござる。最後の3人目を拘束する職員がいないから、3人目を拘束する時はないでござる」

楽弥は与志蔵にこっそり「その一人が暴れ狂ってるって事じゃろ」

「こ、声が大きいでやんす」

牙松は手首の鉄輪を小さな鍵で解除しながら「とにかく手弐谷や拘束中の職員が他にもいるが、発症した3人を止められるのは3人だけでござる」

「よう知らんかったけど、心の病ってのは大変なんじゃな」

「病なんてものは、人の個性を特徴づけただけのものでござる。みんな大なり小なり病もち。男は男という病、女は女という病なんでござる」

「どういう意味なんじゃろうか」

「女は生理中、血を流している。いかにも病でござろう。葡萄は生理時人格崩壊症候群という診断名を魅十郎がつけた。彼女は普段は色々わきまえている人だが、生理が始まって数日はホルモンが乱れに乱れ、攻撃性や衝動性を抑制するタガがぶっ飛んで天井に突き刺さるようでござる」

与志蔵は「生理の日が毎月決まって16日だからさっき、慌てて日にちを聞いていたんでやんす」

「今日は16日じゃろう」

「いやいやいや、今日はじゅう・・・・6日でやんす」

皆の顔が青ざめる。魅十郎がキセルを落とす。

一斉に葡萄を見ると、ベッドの端に座りうつむいている。皆で顔を覗き込むと、三白眼で笑っている。ぎょっとする一同。

葡萄は小声で「あはん」

「始まったでやんす!!恐怖の喘ぎ声五段活用!!」

「いひん」葡萄はいつの間にかトゲ鞭を手にしている。「うふん」

男どもは我先に檻の出入り口に詰まる。

「えへん」

最後尾の与志蔵が振り返ると後ろに三白眼の葡萄が並んでいる。

「は、早くでやんす~」男どもは檻から抜け這い出る。

「おほん」と同時に葡萄は鞭を振り下ろし、鉄格子に叩きつけ、数本が吹き飛ぶ。

勤務室へなだれ込む一同。後方では悲鳴が聞こえる。患者が被害に合っているのか、鞭のうなる音に続き、血しぶきと肉片が降ってきた。

「ひー、本日の天気は血の嵐のち、肉片の雹が降り積もるでやんす~」

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七蓮ブルーマー @mifan

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