第2話

 やはり仕事が上手く行くと気分が良い。

 本拠地ホームに戻るまでの間だけであっても、つかの間の充実感を維持することができた。クリーンなのにハイな状態。暗殺者である自分を誇らしく思えた。だが、この時間も長くは続かない。帰投までの間は鎮静剤が仕事をしてくれている。モラドが得ている充実感。他人の命を刈り取ることで得られる自らが生きているという実感。この心の底から湧き上がる感情は本物なのだろう。だけど、どれだけ本物だと信じていても、それはまがい物の感覚なのかもしれない。薬のおかげで、薬のせいで、得られている感覚でしかないのかもしれない。すでに帰投済みのモラドにとって、これから最も面倒な暗殺後の後始末が必要となる。憂鬱のルーティンをこなす必要があった。

 有り余る欲情を処理すること。

 これが最高に面倒な後始末であり、次の任務に向かうための至上命題でもある。一度だけホームの指示で、後処理を行わないとモラドはどうなるのか、という実験をしてみたことがある。結果として同僚が三人死んだ。モラドの手によって殺された。行き場のない欲求が、さらなる充実感を求めて、目に付いた人間を殺してしまう、ということらしい。以降、モラドの後処理は明確に課せられたルールとなった。殺人衝動ならば聞いたことがあるが、殺人後衝動というのは言葉として正しいのだろうか。そもそも、殺人に対する衝動ですらなくなっている。ただ単に抱く必要がある。それだけ。彼自身の唯一の生を感じる瞬間は、性と密接に関わってしまっているらしい。

 だとしても、暗殺後の性衝動はモラドにとっては便意と同じ感覚だった。

 排泄行為を性的な楽しみと感じられる人間は、ただの変態だろうと思う。おそらく、それは普通の感覚。だが、性行為に没頭できないということは、世の中の人から見たら異常な感覚なのだろう。彼も普段から持て余している訳ではない。任務後においてのみ、どうしようもなくなってしまうのだ。少なからず、死を目にすることで子孫繁栄の本能が働いているのだろうか。そんなことを考えたこともある。一度、自分が病気なのではないか、と恥を忍んでマザーに相談したことだってある。返ってきた答えは明確だった。

「そもそも、私たちがまともな人間だと思う方が、よほど病気だ」

 マザーの言うとおりなんだろう。

「普通を理解しようとする。それ自体は良いことさ。このまま続けるといい。だが、私たちはどうあがいたところで外側の人間だよ。はき違えないことだね。何より任務ごとに毎回部下を殺されてたら、たまったもんじゃない。お前が良い仕事をするのにセックスが必要なら大いにすればいいってことさ。好きに抱けば良い。あぁ、お前の場合は抱くのか、抱かれるのか……まぁ、好きにしな」

 いちいち、そんなことで私の手を煩わせるな、という雰囲気が漂っていたと思う。やはり、どう考えてもモラドにとって、自分を冷ますための行為でしかないのだ。より一層、火照るために、没頭するために、自ら望んで行うモノにはなり得ないのだろう。

 暗がりの自室、ベッドには横たわる女性がいる。任務後のいつもの光景であり、何ら変わらない。これから少しの汗をかき、少し吐息に熱がこもる。モラドはいつも通り、タニアに申し訳ない気持ちを抱くことしか出来なかった。


§ § §


 憂鬱だった気分が無になった。気が晴れるとも違う。プラスに転じることはなく、マイナスがなくなったのだ。ゼロになった。

「……何なんだろうねぇ……あんたってヤツは」

「何が?」

「殺しが一流の人間は、セックスも一流なのかねぇ?」

「どうなんだろうな……統計を取ったことないから」

「申し訳ないのかい?」

「……何が?」

 要領を得ない問いかけに少し口調が強くなる。

「あたしに」

 モラドは一瞬、体が硬直してしまった。タニアにはわかっているらしい。無言のまま横にいるタニアの顔を見た。子供のイタズラの瞬間を目にした母のように柔らかな笑顔を浮かべていた。

「気に病むことないじゃない? あんたには必要なんだからさ」

 胸の奥に何かしらの異物が生まれた。だが、その異物が発する痛みを持ってしても、申し訳ないという気持ちに変化はなかった。タニアは笑顔を見せると、ベッドから立ち上がり、着替え始めた。ここでベッドの上に彼女を引き留めたいと思う気持ちは優しさでも何でもない。単に申し訳ない気持ちを時間がどうにかしてくれないだろうか。モラド自身のワガママでしかなかった。どうして良いのかわからない右手がシーツに拳一つ分の皺を作った。そして、モラドは毎回、この後の記憶があやふやになる。眠ってしまうのは確かだが、眠るまでにどれほどの時間が経過していたのか、毎回把握が出来ない。自分が眠っているのを確認できるのは、決まって同じ夢を見るからだった。


 広い草原の中、モラドは目の前を走る小さな女の子を追いかけている。

 安っぽい絵画のように晴れやかな草原をただひたすらに走り、目の前を行く少女を追いかけ続ける。どんなに走っても少女との距離は縮まることはなく、等間隔が続いていく。待ってよ。そう声を出した時に見える自分の手は、少年の手をしている。

 心地よい風が吹き、太陽の下で彼女を追いかけ続ける。いつまでも縮まらない距離が徐々に不安を掻き立てる。目の前の光景は穏やかなまま、暗闇一つない草原のまぶしさが、これ以上ない不安を痛みに変えてしまう。待ってくれ。再び声を出した時に見える自分の手は、血に染まっている。

 真っ赤な手を確認すると、必ずモラドは振り返ってしまう。そうするように夢が仕組まれているのかと思えてくる。振り返ると走り続けた草原に無数の人々が立ち尽くしている。無表情の人もいれば、断末魔のような顔もあるし、穏やかに微笑みかける顔も見える。感覚が告げてくる。顔などいちいち記憶していない。それでも間違いない。

 この人たちは俺が殺した人たちだ。

 感覚がそれを理解したとき、血に染まった右手が握られていることに気づく。すると、顔を認識できない彼女が手を握っている。追いかけていた、あの子だ。不安げな力で、小さな左で、血まみれの手をキュッと握りしめる。こんなに小さかったのか。先ほどまで追いかけていた彼女は、過去の記憶のように思われた。彼女の前に膝をつき、髪を撫でてから抱きしめる。もう大丈夫だ。そう声をかけると視界が赤く染まり始める。小さな体を抱きしめたまま、彼女の肩越しに見える人影に、俺は銃を向ける。俺はその人影に対して、何か言葉を発した後、引き金を引く。言葉はわからない。何かを告げる。そして、弾丸が飛び出すところで必ず目が覚める。


 今日も同じ夢を見て、目が覚めた。時計に目をやると五時間は寝ていたらしい。そして、体を起こし、頬を伝う涙を拭った。

 

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エンジェルズ・フォール 村田掏摸 @bullshit

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