珷玞

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※2022/4/25 補記:モニク・アース〔Monique Haas〕による「グラドゥス・アド・パルナッスム博士〔Doctor Gradus ad Parnassum〕」(クロード・ドビュッシー〔Claude Achille Debussy〕作曲、組曲『子供の領分〔Children's Corner〕』第一曲)の演奏音源を「王水アクア・レギアの雨」演出時の劇伴とする。



〔場 面〕

象牙の塔エルヘンバイン・トルム〉と〈高踏パルナスの山〉とのあはひ横臥よこたはる〈玉響エフエメラ谿たに〉、及び其のうちなる〈キセキには〉の泉水に浮かぶ八阿亭ガゼボ



〔人 物〕※視認性の便宜のため【 】で括った。

侏儒ひきひと博士はかせ鍛冶かぬち玉造たまつくりを究めむとせる学匠たくみ

憶念おもほゆ太母はは】〈キセキには〉の女主人

讃頌ほぎうた処女むすめ憶念おもほゆ太母ははせし処女むすめ



〔第壱幕〕-------------------------------

(〈象牙の塔エルヘンバイン・トルム〉よりとほざかること頃之しばらく高嶺土カヲリンの成せる白堊しろつち嶮崖きりぎし懸垂下降ラペリングして降り立ちし琥珀こはくの澤で、神泉みたらしきくしててあらくちすすぎ、下方したへぶる変若水をちみづ河床かはどこはうむらるとされし舊文明いにしへ変色硝子ヴヱル・デコロエをば侏儒ひきひと博士はかせは、何時いつしかみちまよつかれ、かは中途ちゆうとなるあはら樹蔭こかげ彾跰やすらふて仮寝うたたねしてゐる。

 禽獣きんじう一声いつせいだにとよもす無き幽谷いふこくには唯々ただ〳〵布引ぬのび垂水たるみ喧豗けんくわい淡烟うすもやを籠めて谿水たにみず潺湲せせらぎと奏づる水音みのと清き愔愔いんいんたる緑陰りよくいんの拡がるのみ、其の淡烟うすもやの散じてあはらなかばに浮島と其処そこしつらふる八阿亭ガゼボやうや出現あらはる)


侏儒ひきひと博士はかせ仮寝うたたねの積もりが寐穢いぎたなうなつて仕舞しまふた……(淡烟うすもやの先に浮島の八阿亭ガゼボを見付く)、むむれはなんぞ?


博士はかせいぶかちかよりて、八阿亭ガゼボわた伝橋つたひばし目方まへにす。

 爾時じじ八阿亭ガゼボうち霓裳げいしやうまとひし老若二人ふたたり女性によしやうも又、伝橋つたひばしの奥に博士はかせの影をば見留みとむ)


憶念おもほゆ太母ははおや、此の〈キセキには〉に賓人まれびととは。

讃頌ほぎうた処女むすめあなたふと御一方おひとかた此度こたみ武夫ぶふわう武夫ぶふにございませうや?

憶念おもほゆ太母ははずは此処ここまで伝橋つたひばしわたおほせるかであらうな。すればすみやかにわからう。……おや凌霄花のうぜんかづらの者にいらへて耀かがやいてをるよ。

讃頌ほぎうた処女むすめああ凌霄花のうぜんかづら欄路らんろに錦織るらうたき欄路錦のうぜんかづらよ! 其方そなたぢりてかざ日陰棚パアゴラかげぶるは狭長ほそなが濃緑こきみどりみち此処ここに繋がるよすがみち、其の天井にぬひとられし光の絲模様いともやうなんうるはしきことかな丹色にいろの花はなかすでつれど其のこそ、あるいは仄闇ほのやみみちに敷く絨毯に色添へ、あるいはこなみの揺るる水面みのも舟游ふなあそびしてただようてゐる、其の丹色にいろの星々!

憶念おもほゆ太母ははおやわたおほせむとするか、翛然しうぜんとして面白きことよ、さて武夫ぶふあらざる御仁なめり。

侏儒ひきひと博士はかせ】(八阿亭ガゼボに辿り着きて)し。亡状ばうじやうをばおゆるし下さりませ。小生それがしは怪しき者にてはござりませぬ。(かへりみし彼方かなた靉靆たなびく雲をつらぬ尖塔せんたふを指差しながら)彼方あちら、〈象牙の塔エルヘンバイン・トルム〉にて鍛冶かぬち玉造たまつくりとにいそしめる者、いま不見みぬばかりのものを此の〈玉響エフエメラ谿たに〉にぎゆく者にて。

憶念おもほゆ太母はは其方そなた様、此方こなたへといざな宝玉糸線細工フイリグラアナみちとほり来たるとは、武夫ぶふならぬ博士はかせ殿であらう。〈キセキには〉にくこそ参られた。

侏儒ひきひと博士はかせ】是は有り難き御詞おことば、ご皎察かうさつの通り、然様さやうにござりまする。にしましても〈玉響エフエメラ谿たに〉に斯有かか幽邃いうすいにはのございませうとは……吃驚きつきやう致しました。成る程、〈キセキには〉、まさしく此の谿たにこそ貴石、奇石の宝庫に相違ござりますまい。

讃頌ほぎうた処女むすめ】仰せの通りですわ、博士はかせ殿。此の八阿亭ガゼボ御入おいりあたふる御仁は極々限られておりますのよ。とくと御覧じ遊ばしませ、此処ここより覩見とけんせらるる限りの四方よも耀かがや地上つちのへ星羅せいら……、珷玞ぶふ璞玉はくぎよく渾金こんきん碁布きふして燦爛さんざめく此の貴石、奇石のつどあつまりし奇蹟の、〈キセキには〉を!

侏儒ひきひと博士はかせ】(一斉に光凞こうきせる四周ぐるりみまわして) 眼も綾なる光耿こうこうなんと美しきことかな……、吾が眼路めぢ仄打ほのうらす淡烟うすもやは今しも何処いづくにか霧消せしぞ……、むむ(と、憶念おもほゆ太母はは頸飾紐ラリエトに垂れてくす耀かがやきを見留みとめ、是を凝視みつながら)、奥方様、其の耀かがやきは吾がもとめしサフヰレトではござりますまいか?

憶念おもほゆ太母はは】是かえ? 音のみにてはわからぬよ。如何いかなる字をつると?

侏儒ひきひと博士はかせ小生それがしにもわからぬのです、造り方さへも……只、くすみてなほ美妙びめうなる灔光シラアたたふる其の耀かがやきこそ、見紛みまがふことなきサフヰレトの証!

憶念おもほゆ太母はは】是を生みいだせし一族のみこはな断系たえいよよ久しきゆゑ如何いかなる意味かもわからではときあかして宛字あてじすることとて叶わぬか……然様さうよの、精々せい〴〵、saphiretとでもするほかあるまいぞ。

侏儒ひきひと博士はかせ】saphiret……然様さようにござりまする、小生それがしが此の谿たにもとめて這回はいもとほろひ、変若水をちみづ水辺みなべに辿り萍寄ひやうきせる此のにはにてく邂逅せるとはなんたる僥倖げうかう小生それがしは其の変色硝子ヴヱル・デコロエの美をたくこしらふる、うしなはれしとをよみがへらさむと思ひ定めてをるのです。

讃頌ほぎうた処女むすめ久遠とこしなへながらふらむサフヰレトの美、こしらながらも今や久遠とこしなへうしなはれしうしなはれし

憶念おもほゆ太母はは】時に博士はかせ殿。〈象牙の塔エルヘンバイン・トルム〉の最頂にいたる〈きざはし〉は幾段いくだんあるかえ?

侏儒ひきひと博士はかせ然様さうへばかずへしこと今にありませなんだ。何故なにゆゑ然様さやうなることをお聞き遊ばしまするか?

憶念おもほゆ太母ははPièce montée小さな断片を積み上げる……、も、階梯きざはしを一段々々積み重ぬるものであらう。れど美は一時いちどき天翺あまかくるもの、の〈高踏の山パルナソス〉の絶巓いただきまでも……跬歩きほするや完歩くわんほせる其の和合、其れこそ五感をべし第六感、すなはAesthetica美覚作用はたらきほかならぬゆゑぞ。然有らむとて、は美をつかみ得るや、作麼生いかが

侏儒ひきひと博士はかせ陳者のぶれば、仰せごもつとも。たしかに美なるは見るときんば聞くときんば、立ちどころにして其れとわかるもの、其処そこつひ階梯きざはしいたらぬやも知れませぬ。れど小生それがしに、美はわかりて、わからぬものにござります。

憶念おもほゆ太母はは】美がわからぬとふは、言の葉の上の些事さじに過ぎぬ。御辺ごへんにはすでに美がわかはずぞ。

侏儒ひきひと博士はかせれど、れど、わかるに飽き足らずげてわからむとするは吾が積痾ながわづらひにござりますれば……。

讃頌ほぎうた処女むすめ】(博士はかせの言を遮りて)博士はかせ殿、母上も瞻仰あふぎみ遊ばせ、耳をお澄まし遊ばせ。此の瞬霎しゅんしょううちにも怡雲いうん奔雷ほんらい諧音シンホニヤまとうて此のには迫近さしせまつてをりますわ。ああそら蛋白石オパルスの遊色にあざやぎめて……。

憶念おもほゆ太母ははおや王水アクア・レギアの雨がちかい。おいそぎ召されよ。う間もう来ますぞえ。

侏儒ひきひと博士はかせかなひますれば此処ここにてしばし雨宿りをばこひねがひたく。

憶念おもほゆ太母ははおそきに失することにならうぞ。


(劇伴、流る)


侏儒ひきひと博士はかせ如何いかなるゆゑにてありませうや?

憶念おもほゆ太母ははなにふて、御辺ごへん執心しうしんせらるsaphiretのれうには谿たにに散れるアウラム砒素アルセニカムとを要するゆゑな。雨にかされては、おそきに失するとはで何とふべけんや。

侏儒ひきひと博士はかせなんと!

憶念おもほゆ太母はは博士はかせ殿の此処ここまで直目ただめしてお出での珷玞ぶふ璞玉はくぎよく渾金こんきんおびただしき光凞こうきは、美をたなひらをさむるわうらむとして果たせなんだ武夫ぶふ達と其のしもべ達の、いまだ諦め切れぬきらめき、蔵鋒ざうほうされし才智のむくろの放つ光ぞ。差しへて他事よそごとかまければかまける程に、御身おほんみは〈高踏の山パルナソス〉はおろか〈象牙の塔エルヘンバイン・トルム〉にもとほざかりて、つひにはelfenbein……然様さやう森人ヱルフほねとして此の谿たにうづむことに成らう。珷玞ぶふあらたまの如くに……、御辺ごへん然様さうなりましやるでない。

讃頌ほぎうた処女むすめああ濡降そぼふみづかね雨粒あまつぶあつまりし、雫石しづくいし四周ぐるり銀灰色ぎんくわいしよく行潦にはたづみも雨にかされて須臾しゆゆ消殞きえはてて仕舞しまひましたわ。

憶念おもほゆ太母ははアウラム砒素アルセニカムとをはやう、博士殿。そして(にはと〈高踏パルナスの山〉とを隔つる深礀しんかんに架かる虹霓にじを指差して)の押し延べし人寰じんくわんの果てなるに負ふ此方こなたと〈高踏の山パルナソス〉とをへだつるしきみを、幽壑ゆうがくうつろを、いまだ何色にも染まりをらぬしろ虹霓にじかけはしで今こそ門度とわたるが宜しからう。御辺ごへんもとむる美のみならず、こしらふるの山にあらうて。

侏儒ひきひと博士はかせ小生それがし王水アクア・レギアの雨でなしに、思ひも掛けぬ恩澤おんたくの雨にうるおひました。御礼おんれいをば申し上げなん、憶念の太母ムネモスネ、そして讃頌の処女ポリヒムニヤよ。

憶念の太母ムネモスネおの天稟てんぴんを試すが善からうよ、博士はかせ殿。征途せいと美運びうん文運ぶぬんを、其の先に凌霄花のうぜんかづらの花言葉がちますやうに……そして忘るなかれ、濃濁のうだくせる無意味の中にこそ希微きびなる有意味の光はまたたくのですよ。

讃頌の処女ポリヒムニヤああ博士はかせ殿の美運びうん文運ぶぬんを身も至祷しとう致しませう……、ああああ風神アネモわたりしあしあとの、後白浪あとしらなみ万頃ばんけいは、曹灰長石ラブラドライトみなぎるがごと灔光シラア妖しく瀲々れんれんと、膜をば張りて鏡天そら応耀おうきす……、ああ嶙峋りんじゆんとして遙かなりし高踏パルナス杳嶺えうれいより、此の人寰じんくわんの果て、〈キセキには〉にめぐみ恵む雨の鴻霈こうはいたるや!


-------------------------------〔第壱幕 了〕


参考:

ウォルフガング・ペーターゼン〔Wolfgang Petersen〕監督『ネバーエンディング・ストーリー〔The NeverEnding Story〕』(1984、原作ミヒャエル・エンデ〔Michael Andreas Helmuth Ende〕『はてしない物語〔Die unendliche Geschichte〕』(1979))


菅江真澄「外濱奇勝そとがはまきしょう」※寛政十年三月~七月条(同著/内田武志・宮本常一編訳『菅江真澄遊覧記』3〔東洋文庫82、平凡社、1967〕所収)


『古事類苑』(金石部五・玉石下)


※なお「⿻」はIDC(Ideographic Description Character 漢字構成記述文字)の特殊文字(符号位置番号U+2FFB)であり、「キセキ」の訓みは著者の恣意による宛字なることを附言する。

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