桃花嬢

 睡醒ねざまなこ一翳いちえいあれば、暁闇あかときやみと思ふものからあらず、にも夕目昏ゆふまぐれ気取けどりて幾刻いくときか……、日曜ゾンタアク午后ごごあかるさもいよいよさらぼへて、じり気無き濃闇をもち臥所ふしどたすちょに就くらむと思ほゆる。一日ひとひ末期まつごさなが澆季ぎやうきに産み落とされしが如き心地して、暮れなづ夕暉せききの薄らぎついゆる気色けしき荏苒じんぜん臥榻ベツド寝腐ねくたれたまましほり開いた双瞳そうとううるみに滑らせながら、とは言えいまげきたる世界の無音ぶいんに堪へ兼ねて――是ではまさしく世界のをはときぞ――枕頭ちんとうなる遥控器リモコンたなひらかざすや、音頻機器アウデオより〈樹木の組曲〉がこだましてへや森閑しじま騒立さわだたす。花期はなどきならねど〔Sibelius, Jean:5 Pieces Op.75-1 七竈ピヒラヤの花咲くとき〕……。

 不図ふと近曾さいつころあがなひし立陶宛リトヴオス国の七竈ピヒラヤを料木とせる木円もくえん、今や天井より下垂したた天蚕糸てぐすつながれて縦に三つ、大―小―小とつらねられし動態彫刻モビヰル小搖こゆるぎが、仰臥あふむける余の眼路めじに映ず。出窓を見遣みやると、わつかに開きし窓の隙間より春意すのいつぼむ終冬のすずかぜの吹き込みて、蕾絲レエス窓帘カアテンを膨らませるではないか。衣尠きぬすくなに起き抜けて、窓外まどのとけゆく彩雲あやくも光華くわうくわ可惜あたらしう思ひながら、やうやの意識は真明まさやかにち返りしぞ。へば、昨宵ゆふべ此室このへやに春をもたらせる桃花嬢ミルト何処いづこきしか、敷栲しきたへの枕に甘き余味よみをば残して……然様さやう想到おもひいたりかへりみすれば、臥榻ベツドなみう生成色エクルベエジユ大海原わだのはらの先、受像機テレヰジヨン眩輝液晶グレアパネルが余の孤影こえい海市きつねのもりの如く其の漆闇しつあんの鏡に浮かび上がらする。爾時じじ、くつさめ、くつさめ、くしやみ両度ふたつたび休息くうそく万命ばんめう急々きうきう如律令によりつれう……へやの隅に明滅せる空気清浄機が、桃花嬢ミルトの置土産こそ花粉ポレンなるを告ぐるとや。窓鎖時まどさしどきは今ぞ。

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