菟裘

 不眠症ハイポソムニアあらず、はしくもおどろいて其儘そのままねぶられぬある深更よふけ緘黙しじま漆闇しつあんとに耳目じもくふさがれて精神ヱスプリの研ぎ澄まされて行くは詮方せんかた無いとして、しか為出しだす研摩は大都おおよそ度過ぎて己自身を害し毒する性質たちのものであったから、怠惰と貪婪どんらん振幅しんぷく甚だしきなりまぐれなるうらとを飼いらすすべけたる老婦人は、悠然やをら臥榻ベツドステエド空蝉うつせみのこしてで、操觚そうこ生業なりわいとした亡きおひとの書斎に移って、彼が珍玩ちんがんした欅造けやきづくりの机に桌燈テエブルラムプとぼした。老鶴おいづるごと痩身そうしん寝間着ねまきの上から撫でる夜気やきかね睡袍ガウンを羽織ると、老婦人はやうや桌椅子チエエア御居処おゐどを沈めた。

 桌燈テエブルラムプもと温湿度計サアモハイグロメエタの針は初め摂氏十七度を差していたが、やが半時はんじずして廿五度になんなんとする。

嗚呼ああ然様さうだった)

 あきれの今日けういな昨日きそ昼日中ひるひなかに、老婦人は電球を發光二極管エルイイヂから白熱球に取り替えていたのだ。現代のたくみが創りいだしたる物質マチヱルの文明の精華、ちいさやかなる電力ヰレキテヱルにても光量を極大さする發光二極管エルイイヂ光耿こうこう清冽せいれつながらも熱をたぬ。ゆへにこそ、終夜よすがら書き物をした良人おひとさむもといささかなりとも暄煦けんくしてぬくもらするよう、季節の老来おいらくに電球を替えるらいは菟裘ときゅうもとめた蓬屋ほうおくに数年來続く年中行事ルウチンであった。

良人おひとの遺灰にづんだ潜熱せんねつと、何方どちらぬくいかしら……不可知わからないわ)

 満面朱をそそいでほとほる白熱球の燠炎いくえんは、きさうるわしき木組みに楮紙こうぞがみを張った灯罩ラムプシエドを通して柔婉にゅうえんやすらい、これに触れた老婦人のたなひら煦煦くくとして迎え、彼女のおよび積痾ながわづらリウマチスやはらげた。案上のかたほとりには確乎かっこたるぬくもりがきざしてまさっていた。

あら其方そなたもね、Lichtmühleリヒトミウレ

 誰人たれひとに向けてかことうた眼路めじの先では、さときことかな輻射計ラヂオメエタ羽根車インペラが、あきらかなる浄玻璃クリスタルの真空の円球たまうちにて輪舞ロンドはじむ。光源よりの輻射ふくしゃれば、玻璃ガラス工藝品オブジエは半永劫にまわるのをめぬ。光さへ有らば、光さへ。

其方そなた轔轔からからでも転転ころころでも音を鳴らしてよ)

まわ羽根車インペラみまもながら、寂寞じゃくまくを耳より引き剥がす蟲のたたきのごとかすかな音だに有ればいのに、と老婦人は可惜あたらしく思うたが、彼女の耳はげきとして緘黙しじま服従まつらうたまま……。

 かがるか、日香有ひかあるか、陽気張ひけはるか。てて加えて、日陽ひなた無き夜にもはある。くらがるへやとぼれは原初、洞穴どうけつ濃闇のうあんやぶあかりであったろう。火がる、ひかある、ひかる、ひかり、光……其の光塋こうえいこうまばゆさと気温けぬくさを目方まへに、老婦人はいなやをしょうするあたはずして、にし時の褒讃者《laudator temporis acti》と成らざるを得ない。

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