夢幻泡影

破瓜

 万神殿パンテオン地階ちかいなる深宮おくつみやしつらえられし洞房どうぼうの一つが、仄闇ほのやみ没薬ミルラの香気とで横溢おういつするはず平居へいきょさま相応ふさわしからざる華燭かしょくとぼしあからみ、而巳のみならず俚言さとびごとに〈れ薬〉として名高き麝香ムスク異香いきょうほどこらせてとろんでいた。房内にはの神殿につかうる二人ににんの影りて、は片や神殿のおびとたる最高神祇官長ポンティフェクス・マクシムス此方こなた石壇に円臥まろぶせる末嫩うらわか巫女かむなきであった。香鬟こうかんほどきしよはい十六の麗容れいようは、粗くもじり織られたるしろうすぎぬのみを羽織っていた。霞むうすぎぬけて、ふさと成りおおせぬなまれの双丘そうきゅうが一つずつとぼ乳暈にゅううんあわ褪紅たいこう、そのまなかつぼ春芳しゅんぽう蓓蕾はいらい下肢かしの狭間に萌ゆる御青みさをの芝生の如き恥毛を見留みとめし神官長は総身を強張こわばらせた。巫女かむなきかほばせ麝香ムスクの明効なるらん熙怡きい気色けしきたたえて上気じょうきし、怳怳うっとりしていた。

 何時いつぞや親臨しんりんありし舞楽ぶがくの宴にて老王に見初みそめられ、間もなく椒庭しょうてい玉楼殿ぎょくろうでんみめとして納めらるべき巫女かむなきに施す秘儀の掉尾とうびすなはち王と臥所ふしどを共にするに先立ちて、慈容粛穆じようしょうぼくむねとする神妻かづまとして志操しそうせる彼女のけうらなる未破瓜ヴェルジヌを、手にした象牙ぞうげづくり陽根リンガムにて貫征つらゆく任を神官長は担うていた。

 当朝歴代の王達はおのねや御血みあせの流るるをいとい、こと妃嬪ひひん月事げつじ御血みあせにも増して破瓜はか御血みあせをこそおそれた。れど、しゅ畏怖いふは往々にして憧憬しょうけい裏面りめんでもあり得る。〈聖体の具現ハイエロファニ〉と称してこしらえし神の陽根リンガム破瓜はかすることであせきよめ、りて神婚しんこんおおせたと見做みなされし女性にょしょうは、ひるがえって身に霊妙れいみょうなる力を宿すとして尊崇そんすうされ、彼女の所生うむところにもの聖性を及ぼし、王家に豊穣をもたらすと信じられたのである。

 ところが当代御位みくらゐの老君には王子女わうしじょ一所いっしょだにらず、王の閨房けいぼうはべながらも素腹すばらままほふられし妃嬪ひひんかずふるにふべからず、最早、断系だんけい焦眉しょうびの急であった。おそるらくたねたぬ王は、にもかかわらず向後きょうこうかるやくしき仕儀を続けねばならぬ宿世すくせにあった。王なるがゆへに。

(神など不在いないのだ……)

誰人たれひとか、王を、巫女かむなきを、そして何より、神婚しんこんなるまいごとことせて幾人いくたりもの未破瓜ヴェルジヌを手づから奪いし罪深き己自身を救ひたまへと神官長は庶幾こひねがふた。

 爾時じじいつわらざる〈聖体の具現ハイエロファニ〉が神官長の面前に忽然こつねんとしてあらわれた。逡巡しゅんじゅんながらも神官長が破瓜はかの儀にまさに及ばんとする様態ようだいを物陰よりのぞき見するわか男子なんし出其不意ゆくりなくもあっと声を漏らしたのである。彼は巫女かむなき金蘭きんらんちぎわしたる幼馴染おさななじみであり、神官長も面語めんごの機会を持ちし、矢張やはり神殿につかふる夢占ゆめうらおのこみこであった。見目みめかたちたへなるのみならず能知までたぐひ無きこと自他共に認むるおのこみこは、おの寝目いめに映じたいめあはする原夢げんぼうの術を用いて、此度、巫女かむなきく成りつるを予見して洞房どうぼうの陰にひそんでいたのである。あたか巫女かむなきへの想いえずして花蕊はなしべめぐる蜜蜂の如くに……。

 巫女かむなきおのこみこに気付くや、なまめかしくものうげな媚瞼びけんを彼に向けた。神官長はわか二人ににん眼逢まあひの濃密を気取けどって悉皆しっかい諒察した。

其方そなたに任せる。曙朝あくるあしたまでに済ませよ」

 如何いかなる挙動も叶わぬおのこみこ咎立とがだつること無く、神官長は彼のをもてに進み立ちてく言い残すと、扉前とまへにてうやうやしく俛伏ふふくし、去った。


 時移して王国はふくとにあいうた。くだん巫女かむなき椒庭しょうているや懐妊し、露顕ところあらはされて間もなく老王は崩じた。果たしてれましたるは王子おのこみこであった!


参考:

『大地・農耕・女性―比較宗教類型論―』(ミルチャ・エリアーデ〔 Mircea Eliade〕著/堀一郎訳、未来社、1968、初出1958)

『通過儀礼』(ファン・へネップ〔Arnold van Gennep〕著/綾部恒雄・綾部裕子訳、岩波文庫、2012、初出1909)

「李賀歌詩編」巻第三 、3121番歌(李賀著/原田憲雄訳注『李賀歌詩編2 独吟聯句』〔ワイド版東洋文庫649、平凡社、2009〕所収)

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