栗棘蓬

ひい様、とくと御覧ぜられませね」

 御廚子所みずしどころ飲食おんじき下拵したごしらえをする乳母ばあやが水を張った玻璃ガラス大鉢ボウル蕃紅花サフランあか花柱かちゅうあそばすと、其の夫夫それぞれからうっすらとして色莟いろつぼんだ黄が、透徹した水のうちあたか紙巻煙草シガレットけぶりくゆる如くにき、やがて黄からだいだいへとやや色添いろそうて大鉢ボウルの水を染める……いとけなき時分に「ひい様」が見た此の光景と、時経ときへて今や貴淑女きしゅくじょとなりし其の「ひい様」に現前する光景とが、奇妙な符合を見た。彼女の諸手もろてひた琺瑯ほうろう大盥おおだらいうちしろいから、小刀ちしゃがたなきずつけた手頸たなくびよりづる赤血せっけついよよあざらかなる赫赫あかあかとした靉靆たなびきを水中みななかあらわしていたのである。赤羽衣あかはごろもように、そして昔日せきじつ乳母ばあやの蕃紅花サフラン水のように……稍暫ややしばらくあって大盥おおだらいの水はれた葡萄酒ワインの如く色濃くとろんだ。

 琺瑯ほうろうしろにも劣らぬ彼女の皓潔こうけつなるはだへうちに、斯程かほど血汐ちしをみなぎっていたとは彼女自身も想到おもいいたらなんだろう。平生へいぜいならばがんとして閉じて遍身へんしんめぐはず血脉ちのみちに、にわかけ口の出来しゅったいするや、赤血せっけつは其れにたかった。しびえつつある諸手もろての痛みを彼女は最早感じ得ぬ。彼岸ひがん此岸しがんとのあはいに在って、眼霧めぎり、耳げきとして久しきがゆえに……。

 歳を重ぬるごと塗鏝ぬりごておのが身に塗抹とまつしてきた分別ふんべつが弾け飛ぶ程の道ならぬ恋路の果てに、こひじの如く蕩蕩とろとろとした赤血せっけつは、粼粼りんりんたる水中みななかほとばしる時をみそかにっていたのやも知れぬ。

栗棘蓬りっきょくほう……」

そう独語ひとりごちて後、遠退とおのく意識の中で、何処いづこ悠遠ゆうえんよりかおのが名を呼ぶ誰人だれびとかの声があった。其れを聞きながら彼女は気絶けだえた。彼女が再びおどろくのは、其の声のぬしたる想人おもいびとの腕の中であること、この時はだ知るよしもない。


※『日本国語大辞典〔第二版〕』(小学館)は「栗棘蓬りっきょくほう」に就きて「(「栗棘」は、くりといばら。とげがあるもののたとえ)どうしてものみ込むことのできないもの。受け入れたり納得したりすることのできないもの」とし、用例に『元亨釈書』(二七・諸宗志)の「其道難容受也、謂之栗棘蓬」を引く。

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