轍を蹴る

ゆう作

轍を蹴る

 気がつくと、暗闇の中を歩いていた。


 何故歩いているのか、そもそもどれだけの時の間を歩いていたのかも、皆目見当がつかなかった。延々と歩みを進めてここまで来たような気もするし、つい先刻、歩み始めたような気もする。


 そんな事を彼是あれこれ考えている内に、暗闇にも目が慣れてきた。歩きながらぼんやりと周りを見回すと、二人の少年が僕を挟むように両隣を歩いている事に気がついた。右の少年は僕の左肩を、左の少年は僕の右肩を掴んで、つまり三人で肩を組んでいる異様で滑稽こっけいな状態で歩いていた。


「違うよ」


「え?」


「ほら」そう言って、左の少年が足元の白くおぼろげに光る線を指差す。「駄目じゃないか、左に曲がらないと」


「本当だ、ごめん」


 こんな線あったかなと首を捻りつつも、僕は枝分かれになっている右の線に踏み込んでいた足を一歩戻そうとして、何故だか戻せなかったその足を、そのまま斜め前に持って行き、左の線に進路を変更した。


「いいじゃないか、右に曲がったって」


 左の軌道に乗ったところで、今度は右の少年が割って入る。


「またかよ」左の少年は、大きな憤りと小さな失望が混じったような溜息と共にそう吐き出したかと思うと、震えて破れそうな声で続けた。「君は直感的で危ない橋を渡るような事しか脳に浮かばないのかい?」


 僕は早鐘を打つ心臓に押されて、それが好奇心からなのか、はたまた恐怖心から来るものなのかは知り得なかったが、とにかく淡い期待にも似たものを胸に抱きながら、右の少年をじっと見つめた。


「君だって、常に理論的に物事を考えて、ひどく現実的な結論しか出せないじゃないか。そんな石橋を叩いて渡るような人生、なにが楽しいんだか」


 この右の少年の嘲笑うような鮮やかな挑発は、左の少年が振りかざす諸刃もろはの正義を強く押し返し、彼の逆鱗げきりんに切り込みを入れた、ようだ。なんにせよ、僕は嬉しかった。


「何回同じ事を言わせるんだ君は! 君のその非現実的な思考のせいで幾度となく僕達は損をして来たじゃないか! その度に君は反省したような素振りを見せるが、結局毎回なにも変わらない! 一体いつになったら学習するんだ!」


 左の少年は息急き切りながら、まるでマシンガンの様に罵詈雑言ばりぞうごんを口に装填して連射した。彼の僕の肩を掴む力が、口調に比例して強くなる。つまり、僕の身体の右側を刺激が駆け巡る。


 その刹那、今まで僅かに右寄りの傍観者だった僕の思考が、石橋を叩いて渡るようなひどく現実的な思考に移り変わった。いや、流れ込んで来た。


 そうなると、僕のすぐ右隣で聞こえる彼の哲学じみた怒りの指導などまるで聞こえなくなって、むしろその場凌ぎの狡猾な言い訳にしか見えなくなって、彼への好奇心も期待もすっかり無くなってしまって、代わりに彼に対する侮蔑ぶべつにも似た怒りが、僕の全神経を支配した。


 それでも、石橋を叩いて渡るような思考のお陰で、僕は冷静に、落ちついて、慎重に、慎重に努める事が出来た。


「まあまあ。彼もこう言っていることだし、今回は左の線をなぞっていこうよ」


 今にも食ってかかりそうな右の少年を、僕は割れて尖った鋭利なガラスを触るように、丁寧にたしなめた。


「そうは言ってもさ、お前よ。これ見てみろよ」そう言って、怒りを鎮め切れずに顔をトマトのように真っ赤にした右の少年は、後ろを振り返る。肩を組んでいるので、必然的に僕と左の少年も後ろを振り返る。「毎回、そんな曖昧に判断しちまってるからさ。大分左側に来ちまってるぜ」


 言われて僕は、今までに歩んで来たあみだくじの様に枝分かれになっている線達を見渡した。


「本当だ……」


 確かにあの初日の出のような、地平線の彼方から目が眩む程の強い閃光を放っている所がスタートならば、僕達は大分左側に寄ってきているようだ。


「もういいだろう」


 左の少年が憤りを感じているような、それでもそれを必死に噛み殺したような、ひどく歪んだ表情を浮かべながら前を振り向く。必然的に僕らも前を振り向く。そして、僕は、息を、呑んだ。


 まさに、断崖絶壁。振り向いた僕らの視界に飛び込んで来たのは、見慣れた線達ではなく、血の気の引くような、切り立った崖だった。


「何だ、これ……」


 僕はこの、一歩でも踏み外してしまったら奈落の闇に呑まれてしまうような、殺戮的さつりくてきなまでに禍々しい崖を前にして、前々から大事に抱えていた悩みを、何故だか今、まさに今解き放たねばならない衝動に駆られて、口を開いた。


「一体、僕って何者なんだい?」


 刀身の長い沈黙の刃が、不快な冷たい脂汗と共に背中をじわじわと撫でる。僕は、嵐のような悔恨かいこんの念に体を揺さぶられていた。小刻みに震える重い唇をこじ開け、訂正と取り消しの言葉を述べようとする僕よりも、先に口を開いたのは左の少年だった。


「何を言っているんだ。君は君だろう」


 当たり前だと言わんばかりにシナリオ通りの決め台詞を豪語して、彼は半ば強引に僕の右肩を左側に向かせた。その左側を指して、彼は言う。


「だから、あの石橋を渡って、向こう岸に行こう」


 その指の先には、頑丈そうな石橋が両岸の間に掛かっていた。崖かと思っていたそれは峡谷だったようだ。先程まで、見えない程随分遠くに在るように感じられた向こう岸も、こうして見るといやに近く感じられた。


 なんにせよ、安全に安心にこの峡谷を渡るに越したことは無いので、僕の足は軽やかに、スキップをするように石橋に向かって行った。しかし、やはり、その足は重くなった。


「おい、本当にそれでいいのかよ」


 貫くような真っ直ぐな声でそう聞こえたかと思うと、僕の左肩は勢いよく引っ張られた。しかし、これを想定していたのか、左の少年が待ってましたと言わんばかりに真っ直ぐに放られた想いを大振りで打ち返した。


「またお前か! 何度も何度も凝りもせずに突っかかってきやがって! いい加減に」


「いい加減にするのはお前の方だ!」


 先程よりも更に鋭い声で、右の少年が僕と左の少年の胸をつんざいた。真っ直ぐに放られた想いは思っていたよりも速く、左の少年の大振りは見事なまでの弧を描いて空を切った、ようだ。


 面を食らって呆然と立ちすくんでいた左の少年だったが、しばらくの後にはっと我に帰り、噴火寸前の火山が起こす地響きのような声で、ずしりずしりと口を開いた。


「なんだと? いい加減にするのはお前の方だろう? 荒唐無稽こうとうむけいな事しか発言せず、僕達を惑わすのはいつだってお前じゃないか! そんなお前に数多あまたの先人達が築いてきた、正解の道を愚弄ぐろうする権利は微塵も無い!」


「誰にとっての正解だ!」


 左の少年のえぐるような猛撃を物ともせず、右の少年はまたしても貫き通す声で、僕達の胸を刺した。


「それは、その道は、誰にとっての正解なんだよ! 今この道を歩んでいるのは、その先人とやらじゃあないだろう! 他の何者でもない、僕達だろう!」


 右の少年の口調が、その思いに比例して強く、激しくなっていく。やはり、それに比例して、彼の僕の左肩を掴む力も強くなっていく。そうして、またしても僕は抵抗の出来ない意志の侵入に襲われてしまった。


「確かに」


 そう口を開いた瞬間、左の少年が巨大な金槌のような視線で僕を殴打したが、強い意志に突き飛ばされた僕にとってはそんなもの、毒にも薬にもなりはしなかったので、僕は構わず続けた。


「確かに、先人達が定めた正解の道も、今この瞬間にこの道を歩んでいる僕達自身にとっては不正解かもしれない。どの道が正解かは、他の何者でもない、僕達が決めるべきだ」


 右の少年がうんうんと、少し大袈裟に首を縦に振る。左の少年もどこかに落ちないような素振りを見せながらも、その重い首を縦に振った。


「まあ、君がそう言うのならば、きっとそうなのだろう」


 あんなに頑なに、頭ごなしに否定していたのに、随分呆気なく折れるんだなと、部屋の隅にある取り損ねられたほこりのようなわずらわしさを胸の隅にそのままに、僕は右の少年になされるがままに、今にもほころびてしまいそうな立ち腐れた吊り橋に足を向けた。


「楽しいだろうなぁ。スリル満点!」


 まるで遊具を前にしてはしゃぎ回る子供のように、右の少年は一片の恥ずかしげも無く興奮をあらわにしている。


 いや、実際僕達は、まだ子供か。それならば、これは、少しの不自然も無い必然的な現象だ。割れたガラスの破片を素手で掴むと血が出る、と同じ程に必然的だ。と、言い聞かせていたが、いざこの崖を前にすると、どうしようもなく足が竦んでしまった。


「大丈夫!」そんな僕を知ってか知らでか、右の少年は僕の左肩を掴む力を強めてから、言った。「さあ、行こう!」


 すると、やはり、僕の体をあるはずのない勇気がなみなみと満たした。その体から零れ落ちそうな勇気を、足裏からジェット機のように噴出して、僕達はこの一歩踏む度にみしみしと揺れる吊り橋を駆け抜けた。


「ひゃっほーい!」


 その姿は、まるで韋駄天いだてんのよう。先程までの鉛のような足は何処へやら。軽い。体が羽のように軽い。その風のような勢いをそのままに、僕達は一気に向こう岸まで駆け抜ける。筈だった。


「あっ」


 確かに、壊れやすく危ない橋だという事は重々理解していた、つもりだったが、まさか本当に壊れるなんて思わないじゃないか。そんな言い訳の弁明を不思議な程に冷静に考えている僕を、闇は無慈悲に呑み込んだ──


「おい、大丈夫か」


 そう聞こえて重いまぶたを開くと、右の少年が僕の体を激しく揺さぶっていた。


「すまない。僕の決断のせいで君を危険な目に遭わせてしまった」


 そう言う彼の目は、少し潤んでいた。


「いや、君のせいではないよ。僕が調子に乗って橋を強く踏み抜いてしまったのがいけなかったんだ。本当に、ごめん」


 そして僕はもう一人の少年に謝罪をしようと辺りを見回して、戦慄した。辺り一面が、おびただしい数の黒い棘で覆われていたのだ。


 そして僕はある事に気がついて、もう一度戦慄した。この棘の草原に、あの見えない程の高さから落ちてきて、体は無事なのだろうか。いや、無事な訳がない。恐る恐る視線を落とし、自分の体を見つめる。


 僕は、戦慄する間も無く、絶句した。長さ三十センチ程の無数の棘が、僕の体を串刺しにしていたのだ。


「大丈夫だ!」


 右の少年が今度は確信を持って、絶叫しそうになった僕を鼓舞する。が、その想いとは裏腹に、僕の体は棘の刺さった所から順に絶望の色に染まっていった。痛い。痛い。途轍もなく痛い。痛すぎるせいか、体の末端から痛覚が薄れていった。


 もう、無理だ。この痛撃は、僕には耐えられない。そして、辛さのあまり、目を閉じようとしたその時、体の一箇所だけ痛みが抜けていくのを感じた。僅かな希望を手繰たぐり寄せるように、僕は閉じかけた目を薄っすらと開ける。すると、黒い液体のようなものに塗れた棘を手に持って、右の少年が優しく微笑んでいた。


「ほら。こうすればもう大丈夫だ」


 どうやら彼は、僕の体から棘を無理矢理引き抜いたようだ。そんな事をしたら、更に激しい痛みに襲われると思っていたが、全くそんな事はなく、嘘のように忽然こつぜんと、激しい痛みは棘と一緒に抜けていった。


「しかもさ、たった今思いついたんだけどさ」


 そう言って、彼は向かいの崖の壁に近づいて、手に持っていた棘をその壁に力一杯振りかぶって突き刺した。


「これを続けて、この棘に足を順に掛けて行けば、いつかは上に戻れるかもしれないよ」


 なるほど、上手い事を考えつくもんだ。と、そんな事を考えながら、僕はおもむろに自分の体に刺さった棘を引き抜いて、彼に渡した。


「幸い、材料は沢山あるみたいだしね」


 笑いながらそう言う僕を見て、彼は安堵あんどした様子でにかっと歯を見せて笑った。


「もう大丈夫そうだな。よし、行こうか」


 つい先刻まで確かにあった鋭い痛みがすっかり抜けた体を引きずり、僕は壁に向かって歩いた。


 しかし、何故だか何か胸に引っかかるものがあり、立ち止まって振り返った。成る程。どうも円滑に事が進むなとは思っていたが、こういう事だったのか。どうやら謝罪をする必要な無くなったようだ。僕は前を振り向き、力強く突き刺した棘に手を、足を掛けて行きながら上へとよじ登っていった。


 驚いたのはそのすぐ後だった。いきなり俺の頭上から手がにゅっと差し伸ばされたのだ。よく見ると、奥には右の青年がこちらを覗き込んでいるのも見えた。


「ほら、着いたぞ」


 着いたって、崖の上にだろうか。いや、そんな筈はない。登り始めてからまだ十秒も経っていない。だが、こうして彼が崖の上からこちらに手を差し伸ばしているという状況が、否応いやおう無しに俺に現実を押し付けてきた。俺はそれを信じるしかなった。


「ありがとう」


 そう言って、俺は差し伸ばされた手をしっかり掴み、崖の上に引き上げられた。もしかしたら、この崖は底が見えない程に高いものだ、と勝手に俺が信じ込んでいただけだったのかもしれない。そう自分に言い聞かせて、とりあえずはこの現象を飲み込んだ。


「さあ、歩んで行こう」


 俺と彼はしっかりと手を繋いだまま、また歩き始めた。歩幅が大きくなったのか、なんだか前より随分と歩くのが速くなったような気がした。そのせいか、あんなに歩いてようやく辿り着いた、定期的に道を塞ぐ峡谷に、今度はものの一分程度で辿り着いてしまった。


 それには、右側に立ち腐れた吊り橋が一本だけ、寂しく掛かっていた。すると、あの時と同じように、また抱えている悩みを打ち明けなければならない衝動に駆られた。いや、今度は、自分の意思でしっかりと打ち明けた。


「俺は、どこに向かっているんだい?」


 これに驚いたのか、彼は目をこれでもかと言わんばかりに丸くした。だが、その丸くなった目を直ぐに戻して、彼は答えを返してきた。


「どこって、あそこだよ。ほら、あの光っている所」


 そう言って彼は、どこかで見た事があるような、地平線の彼方から初日の出のように覗いている光を指した。


「そっか。あれか」そう言って俺は、少し悩んで、続けた。「それだったら、あの橋を渡るよりも、この峡谷を飛び越えて行った方が早くないかい?」


 正直、自分でも何を言っているのか解らなかった。だが、初めて感じるこの感情を、俺は心地良いと思った。この感情に突き動かされたいと、体のどこかで、確かに思った。一方たかぶる俺とは裏腹に、彼の表情は雨雲のように暗く曇っていった。


「何を言っているんだ、君は。そんな事が君に出来るわけがないだろう」


 俺は、彼の哲学に矛盾を見つけ出し、その矛盾を武器に、激昂した。


「いいや、出来る! お前は俺に自分の道は自分で決めろと言った! だから、その道が正解か不正解かは、どうだっていい! 俺は、俺が目指す場所を一直線に進むだけだ! そこに道が無ければ、そこに向かう道を創るだけだ! そして、その道を俺は、歩んでいく!」


 そう叫んで俺は、はっきりと、強く、何かに突き動かされて、握っていた手を離し、その手で彼を思いっきり殴った。


「やれるもんならやってみろよ」


 吐き捨てるようにそう言いながら、彼は殴られた衝撃で宙に浮き、そのまま奈落の闇へと呑まれていった。


「ああ、やってやるよ」


 そして、俺は、飛んで──




「おい、起きろ!」


 そう言って、先生が履いていたスリッパで俺の頭を叩く。


「早くしろ! 二者面談はお前で最後だ!」


 俺は頭を摩りながら、先生の後へと続き誰も居ない教室へと足を踏み入れる。それにしても、今の夢は何だったんだろう。なんだか凄く、凄く、凄く、嬉しかった。


「早く座れ」


 向かいの椅子に座った先生が顎で俺に指示してくる。うるさいな、わかってるよ。


「で、どうすんだお前」そう言って先生は、少し前のめりになり俺に顔を近づけて、続けた。「進路調査書。未提出なのはお前だけだぞ」


 俺は、この聞き飽きた質問に何故か、体のどこかで、反抗心を抱いた。この反抗心はなんだかどうしようもなく心地が良くて、それに突き動かされてみたくて、俺は、それに、身をゆだねようとしたが、足が竦んで踏みとどまってしまった。だが、すぐに俺は持ち直した。どこからか、確かに、聞こえたんだ。


「やってみろよ」


 ああ、やってやるよ。


 だから、俺は、はっきりと、強く、言ってやった。



「俺、小説家になりたいんです」

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轍を蹴る ゆう作 @mano3569

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