白いクレヨン

ろくなみの

第1話

「あなたの絵はとても上手だと思うわ」

 母はリビングの机の上に置かれた一枚の百合の絵を見てそう言った。作者は私。採点者は母だ。褒められてはいるけれど、次に来る言葉は賛辞でないことは何となくわかった。

「でもね、うちの店にこれは飾りたくないな」

「なんでよ」

 特別自分の絵に自信を持っていたかといわれれば、それほどでもない。けれど中学高校と美術部に所属していた私からすれば、その感想は屈辱でしかない。悔しくて唇をぎりりと噛みしめ、膝の上に置いた拳に力を込める。

「なんかこう、違うのよね」

母は頬杖をつき、缶ビールを一口飲んで言葉を続ける。

「うちのカフェって植物とかたくさん飾ってるでしょ?」

「うん。だから花の絵を飾るのもいいかなって」

「悪くないわ。けれど店に植物をいくつか飾ってるってことは、もうリアルなものはいらないのよ。あなたの絵は上手いわ。本当にもう、写真みたいで。でも、それだけなの」

 母は残った缶ビールを一気に喉に流し込み、強く音を立てて机に置いた。

「あなたのクラスにいい子いないの? 探してみてよ。こっそり写真撮ってさ」

 そう言って母はテレビの電源を消し、寝室へと向かった。たまらない悔しさに襲われ、衝動的に自分の絵を真っ二つに破る。ビリッと心地よい音が快感で、続けてまた半分に破る。紙の破片で床が埋まっていく。心に穴が開いた気分になり、その気持ちをごまかすようにさっきまで作品だった紙屑を裸足で蹴り上げる。紙ふぶきのようにその日はそのまま眠ることにした。

 次の日、美術の時間が二つのクラス合同で行われることになった。自分のクラスにはあまりピンとくる絵はない。というか、母が何かの絵に満足することなんてあるのだろうか。母は何を求めているのだろう。休憩がてら他の人の絵を見る。今日は果物の写生だ。やはりどれもこれも似たようなのばかり。取り立てて母に報告するほどのものもない。

 そう思っていたら、一つ奇妙な絵を見つけた。歪んだ線に歪んだ図形。乱暴な筆圧。それは適当に描いたという代物ではなかった。何かをあきらめた、すべてを放棄したようなそんな印象だった。

 見ているのが不快で自分の席に戻ると、ドタドタと子供のように走って近づいてくる足音が聞こえた。

「上手いね、これ。写真みたい」

 足音の主はそう言う。振り返ると、屈託のない笑みを浮かべる一人の男子生徒がいた。見たことがある。隣のクラスの、活発な男子だ。名前までは思い出せないけれど。少なくともあまり明るい方ではない私とは無縁のタイプだ。

「おい橘画伯の絵が今日もすごいぜ」

 隣のクラスと思わしき男子が別の絵を見てはしゃいでいる。

「どうだ。絵は心なんだよ!」

 私の前で彼は振り返り大きな声でそう言う。どうやら彼が橘画伯と呼ばれているらしい。

「あれ、あんたが描いたの?」

 彼に私はそう尋ねる。男子生徒が群がっていた絵は、私が不快に思った絵だった。

「そうだよ」

彼は誇らしげに笑ってそう言う。あの絵に何の誇りがあるのか。

「ひどいね、あれ」

 別に気を使う必要もないと思い、ストレートに思いを伝える。

「面白いだろ?」

 へらへらといたずらをした子供のように彼は言う。この男があの絵の作者だとわかると無性に苛立つ。この筆を目に差し込んでやろうか。

「全然面白くない」

 私の返答に対して彼は口元をゆがめた。別に罪悪感はない。本当のことだから。それから彼は自分の席に戻り、椅子に深くもたれて座る。つまらなさそうにぼんやりと天井を眺めていた。

 母はリアルな絵はいらないって言っていた。ということは、もしかして彼の絵が? いや、まさかな。そう思いながらこっそりポケットに忍ばせていたカメラのシャッターを押し、誰にも見られないようポケットに突っ込んだ。

 その日のうちに写真屋さんで印刷を終え、夜に母へ見せた。

「この絵は小学生のやつ?」

 母は悪びれもせずにそう言った。まあ、こんな奇妙な図形が並んだ絵ならそう判断して当然か。

「ううん。高校生。一応果物の写生」

「あちゃー、なるほどね」

 何かを納得し、お母さんはじっと写真を見つめる。

「なんでこうなってると思う?」

「ふざけてるだけでしょ。すごい不快」

 最後の言葉はありったけの毒を込めるように吐き捨てた。

「じゃあどうしてこれを選んだの?」

 母そう言うとリモコンを持ち、テレビを消した。静寂が部屋を包む。いつもより母が食い下がって聞いてくる。

「リアルなのが嫌なんでしょ? あの中ではこれが一番リアルじゃなかったから」

「なるほど」

 嬉しそうに母はうなずく。

「でも彼、本気じゃないね」

 母は面白そうに写真を人差し指と親指でつまみ、ひらひらと弄ぶ。なんであんな奴に興味があるんだろう。

「あっそ」

 そう言い捨てはするけれど、確かに言われてみれば気にはなった。

 なんとなく、彼がどうしてあんなに絵でふざけてしまうのか。

 次の日、彼がどういう人間なのか昼休みにちらりと隣の教室をのぞきに行こうとすると、教室の入り口からロケットのように飛び出す男子生徒に出くわす。

「おっと」

 お互いぶつかりそうになり、後方へよろめく。昨日の、橘くん、だっけ? 名前を覚えるのは苦手だ。橘くんは苦笑いしながらそそくさと私の横を通り過ぎた。

 まるで逃走する万引き犯のような足取りだ。どこに行くのだろう。

足音を殺して、彼の進んだ方向に向かう。校舎の端に行き、今は使われていない三階へと続く階段を昇る。

 こんな人気のないところに一人で。何を企んでいるのだろう。やがて彼は古い音楽室の入り口で立ち止まる。見渡されたら見つかる。そう咄嗟に判断したため、階段の横にある壁に身を隠す。錆びついた引き戸を開ける音がキイイと聞こえる。慎重に入っているのだろう。足音を殺して姿勢を低くしながら忍者のように教室の窓に近づく。スカートに埃がついてしまうのが気になって、両手で裾を持ってしゃがみ歩きで動くことにした。バランスが思ったより悪く、まるで空気椅子をしているような気分だった。

教室の入り口を通りすぎ、部屋の横にある窓から、腰の高さを上げてそっと中を覗き見る。中では一本の煙が天井を這う蛇のように漂っている。

「……たばこ?」

 ピュアそうな顔をしてあの男は。その子供じみた行動にため息を吐く。いつか子供ができたとしてもたばこだけには気を付けてほしい。

 教室後方に詰め込まれるように置かれた机の上に彼は胡坐をかいて白いタバコを咥え、煙をふかしていた。しかしそのタバコを吸う彼の表情はどこか虚ろで、まるで世界のすべてに絶望しているような顔をしていた。窓の外に見える建設中の新校舎を一瞥しながら学ランのポケットに手を入れる。中から手のひらに収まる程度の金属でできている折り畳み財布のようなケースを取り出した。あれが噂に聞く携帯灰皿か。実物は初めてみる。そこにタバコをしまい、彼は座っていた机の中にある教科書などを入れるスペースから一冊のノートと鉛筆を取り出した。

 ノートを開き、胡坐をかいた膝の上に置く。左手で頬杖をつき、鉛筆を右手でくるくると回していた。何かを書きだすのかと思って、じっと見る。しかしいつまでたっても彼の手はノートに伸びることはない。その眼差しは苛立ちにも似たじれったさを訴えている。昨日の美術の授業で見せた快活そうな彼とはまるで別人だった。

 ぱたんと窓越しに聞こえるほど大きなお音を立て、彼はノートを閉じた。そのまま机の中にノートを戻す。やばい、戻ってくる。慌てて窓の下の壁のスペースに張り付き、身を隠す。忍者の気分が再来だ。壁の木のカスが制服についていないか心配だ。

引き戸が開いた時心臓が止まるかと思った。見つからないかと息を殺し、存在感を消す。彼は私のほうを見ず、幸い来た道を戻っていった。

彼は廊下を曲がり、階段を降りていく音が聞こえた。その足音が少しずつ小さくなって、聞こえなくなった時ホッと胸をなでおろす。

 乱れた呼吸を整え、心を落ち着ける。そして、さっきの光景を思い出した。

あのノートは何なのだろう。誰もいない音楽室の引き戸をゆっくりと開ける。錆びついた音は嫌でも出てしまうようだ。その音が不快で鳥肌が立つ。中にはタバコの残り香が漂っていて、思わず息を止めた。品はないかもしれないけれど、彼のノートが気になるあまり、机の上に乗ってノートを見ようとした。、彼が胡坐をかいていた机の中から青いキャンパスのノートを取り出す。しわくちゃだらけのノートは叩きつけられたような跡もあり、あまり丁寧に扱われていないような印象だ。

とりあえずノートを開いてみた。



午後の授業は前回の美術の授業の続きだった。

「橘君、これはふざけているの?」

先生が彼の絵をみてそう言う。

「別にふざけてないです」

彼の言う通りである。彼はふざけているわけではない。ただ恐れているだけだ。先生から怒られている彼を誰もかばおうとも、同情しようともせず、笑い物にしていた。くすくすと笑うその声が不快で、耳をふさいだ。

その日、結局彼は放課後残って真面目に描いたやつを再提出するということになった。

美術部の活動は休止日ではあるけれど、私も授業中に完成させられなかったため、放課後自主的に美術室に向かった。

 彼と対面するのは今日の昼休みの出来事を思い出すため罪悪感がよぎる。が、変に態度を変え、勘ぐられても困る。ドアを開けようとした時、彼は教室の端に並べられていた画用紙に手を伸ばしていた。そこには今日の美術の時間に描いた作品が並べられている。

 それを彼は両手でそっとつかむ。そこにはリンゴのスケッチが白黒で描かれていた。それは紛れもなく私が描いたものだった。

 見惚れているのかと思った。しかし彼は次の瞬間、それを両手で真っ二つに割いた。

 がらりとドアを開ける。

 彼は青ざめた顔で私を見る。両手を後ろに回して紙の残骸を隠そうとするが、犯行現場は見ているため、もう遅い。

「えーっと」

 目を泳がせて、天井や壁など目線の適切な位置を探っている様子だ。そんなものはどこにもないのに。

 まあいい。私もムシャクシャしていた。ため息をつき彼の横を通りすぎる。彼は体を私から遠ざけるように腰を引く。

「え?」

 彼の後方にある作品が並べられている机の前に立つ。とりあえず誰のでもいいか。手始めに目の前にある佐藤さんの絵をつかみ、真っ二つに破り捨てた。きれいな音を立てて、紙の破片は床に落ちる。やはり破る音は気持ちがいい。

「え、な、なにしてるの!」

 彼はどもりながらそう叫ぶ。

「声が大きい。誰か来たら困るでしょ」

 私は彼をかばうつもりも同情するつもりも、ましてやチクッて晒し者にする気など毛頭ない。あくまで私のストレス解消だ。

 二枚目の絵を手に取る。それも真っ二つに破く。無残に描かれたりんごは離断される。こんな場面見られたら卒業まで孤立するだろう。人として最低な行為だ。

 だが、悪い気分じゃない。

 三枚目。四枚目と続けて破り続ける。彼も恐る恐る私に近づく。そして彼も一枚手に取り、破り始めた。

 そのまま二人そろって絵を破り続ける。特別言葉が必要だとは思わなかった。野球部のランニングのかけ声と、ただ破り続ける音。不思議な一体感だった。

 ひとしきり作品を破り終わる。美術室の床は紙の残骸で白いカーペットのようになっていた。最後に残ったのは彼の作品だった。

 お互い手に取ることをためらった。てっきり彼は迷わず破り捨てるのかなとも思ったけれど。

「どうしたの?」

 床に落ちた絵の破片を拾い、さらに細かく破りながら尋ねる。

「いや、なんだろ」

 彼は紙を持ったまま硬直する。そのまま彼の言葉を待つが、出てこない。

 たぶん彼は、自分の絵は破れない。そんな気がした。

「橘くん。持って帰ろうか。それ」

 ポケットにあった髪ゴムを彼に渡す。「これで丸めなよ」

 彼は私の行動に戸惑ったのか、あたふたとゴムを手に取ったはいいが、床に落としてしまう。拾おうとして前かがみになるがバランスを崩して床に倒れた。その間抜けな姿に思わず声を出して笑った。

「笑うなよ」

 少しムッとした顔をして、彼は体を起こした。

「ごめんごめん」

 そのまま私たちはまた喋ることなく、破った残骸を拾い集める。証拠隠滅とまではいかないけれど、大騒ぎは避けられるはずだ。二人で破片を半分に分け、お互いのカバンに詰め込んだ。

 カバンの中が埃で汚れるのが気になったが、まあ致し方ない。

「共犯者だね」

 冗談ぶいて私は言う。彼は恐る恐る口を開く。

「なんでやったのとか、聞かないの?」

 聞いたところで興味がないから。そう言ってやろうかとも思ったけれど、そこで彼が動揺して言い訳をする見苦しいところも見たくなかった。

「帰ろうか」

 だからとりあえずそう言うことにした。あまり友達も多いタイプではなかったから、人と下校するのは新鮮だった。彼は慌てて私に着いてくる。半歩ほど後ろを歩かれているためまるで付き人のようだった。

 下駄箱で靴を履き替え、夕日の照らす通学路を一緒に歩く。帰り道は一緒なのだろうか。とりあえずついて来ているということは一緒なのか。振り向くと彼は気まずそうに下を向いていた。

「絵描くの、実は好きでしょ」

 ふと彼に尋ねる。

「……好きでも、駄目だ」

 暗く、沈んだ声で彼は言う。

「ふーん」

 彼の描いたノートを思い出す。まあいいか。話しても。

「三階の音楽室に、ノートがあったの」

「えっ!」

 わかりやすく驚きの声を上げる。リアクションのでかい男だ。

「あれは、教室の絵?」

 線は歪み、形はわかりずらかったが、黒板や机が並べられているのはなんとなく理解できた。彼は、ふざけていなくても、ふざけても線が歪むのだろう。たぶん模写は困難だ。

「……そう言われるのが嫌だから見せないようにしてるんだよ」

「もうあれは生まれつきだね。あと、タバコはやめた方がいいよ」

「勝手だろ」

「まあ、そうか」

 わざとふざけなければ、実力以上に下手に描かなければ傷つかない。そう彼は考えたのだろう。真剣に描いた絵のレベルが、みんなには届かない領域なのだから。

 けれど、たぶん。

「ちょっと文房具屋寄っていい?」

 彼は間違えているだけだ。やり方を。

 文房具屋で購入したのは一本の白いクレヨンと、黒い画用紙だった。

「それ、何に使うの?」

「ナイショ」

 ついでにサボテンの売り物が置いてあった。立方体で透明の入れ物に、小さな植木鉢があり、その中に三つのかわいらしいサボテンが植えられている。

「ああ、それは最近人からもらってね。よかったら安くしとくよ?」

初老の店員からそう言われる。ちょうど部屋に観葉植物を置きたかった。

「じゃあこれも買います」

 それにお題としてもちょうどいいだろう。そのまま彼と近くの公園に赴く。日も傾き始めているが、そんなに時間もかからないだろう。

「あんた、今日急いで帰る用事とかある?」

 唐突な質問に彼は目を丸くする。

「い、いや、特に」

「そんなにびびんなくていいから」

 公園には大きな木の下に、木製の机と椅子が置かれていた。そこに今日買った画用紙とクレヨン、そしてサボテンを置く。彼は何が始まるのか理解していないようで、ただ茫然と立ちつくしている。

「これ使ってこれ描いてみて」

「え、こ、これ? どれ?」

「見りゃわかるでしょ? クレヨンでサボテン描いてよ」

「え、え、な、なんで?」

「たぶん、あんたこっちだわ」

 筆圧のコントロールが難しい。それならばその強い筆圧で、歪んだ線でも出来栄えがよく見えるもの。

 試してみる価値はあった。

 彼は渋々クレヨンで画用紙にサボテンを描く。描き始めるポイントも目についたところから描いている様子だ。大きさのバランスも悪いし、外のケース部分と中のサボテンの採寸が合わず、歪な形になっている。

特別完成図をイメージできているようでもない。でも、勢いで、心のままに描くサボテンは、一種の芸術に見えた。少なくとも私には描けない。あるものをそのまま描くことしかできない私には、とても届かない世界だった。

 最初は嫌そうに描いていた彼も、次第に筆。いや、クレヨンが進み始めたのか、表情も引き締まってきた。その様子を見ているのは楽しかった。絵を描くだけで楽しかった、小学生のころを思い出す。純粋に楽しんでいたあの頃に、今彼はいるのだろう。

「うらやましいなあ」

 そう小さく、彼に聞こえないように呟いた。私も、彼のように自由に描けたら、どれだけ素敵だろうな。

 彼のノートの中の世界を、いつかどこかに表現したいなと思った。

 いつの間にか一時間ほど経っていた。

「できた、と思う」

 彼は息を一つ大きく吐いて、そう言った。

「うん」

 私は彼の絵を手に取る。

形は相変わらず歪だけれども、そこに表されている絵は、黒い舞台に当てられたスポットライトのようにどこか幻想的で、静かなやさしさが漂っていた。

暖かいな。そう思った。

「素敵だと思うよ。上手い」

 彼にそう告げると子供のように屈託のない笑みを浮かべた。

「本当? そんなこと言われたことなかった。言われることなんか、ないと思ってた」

「あんたはみんなと一緒の絵を描くのが苦手なだけ。下手なんかじゃないよ」

 私の言葉に対し、彼は何かを言おうと口をパクパクと動かしていた。けれど言葉の変わりに出てきたのは涙だった。

 彼は慌てて腕で涙をぬぐう。けれどその量が思ったより多かったのか、腕と目の隙間からボロボロと雫はこぼれていく。木の机に涙の染みがつき、雨が降ったみたいだった。

「ありがとう、ありがとう」

 かすれた声で彼は壊れたラジオのようにそう言い続けた。その間抜けな姿に思わず吹きだす。

 どれだけ認めてほしかったんだろう。どれだけ彼は苦しんでいたんだろう。人と違うことに、どれだけ打ちのめされ、心が折れそうになったのだろう。

 少なくとも、今流している大粒の涙で、彼の心の渇きが潤えば、それでいいなと思った。




 

その日から、母の経営するカフェに一枚の絵が加わった。そのどこか幻想的で、やさしい絵は店の暖かい雰囲気をより際立てている。彼はたまにうちの店に来るようになった。

自分の絵が飾られているのを知ると、照れくさそうに彼は笑った。

 今ではたまに二人で絵を描いている。場所は三階の古い音楽室だ。そこで彼は黒い画用紙に白いクレヨンで、思いついた世界を描く。

「あんただいぶ描いたよね、もう何枚くらい?」

「百は超えたかな」

「がんばったね」

 彼はあれから絵を描くことにはまったようだ。しかし、私以外にクレヨンを使っているのは見られたくないらしい。恥ずかしいのだろうか。

「それよりさ、君は何か描かないの?」

「何か、か」

 言われてみれば、私はあるものを描き写すことしかしてこなかった。自分の思いのままに絵を描くことは、妙に照れくさかった。

「やってみようかな」

 その日から、私も絵を描くようになった。キャンパスは教室の黒板だ。黒板に絵の具で、頭の片隅にあったあの世界を描く。

「それは?」

 しだいにそれは巨大な教室の絵になっていった。

「廃墟の教室。あんたのノートのやつで思いついてね」

 植物は生い茂り、机やいすはひっくり返っている。もう何百年と放置された教室。そんなイメージだ。

「なんか、見てると安心するね」

「それはよかった。そういうつもりで描いたから」

「そういうつもりって?」

「なんでもいいでしょ」

 いつか、私たちみたいにどこか息苦しさや、不満を抱えた人の心に、少しでも癒しが与えられればいいな。

 たぶん、この絵は卒業するまでに完成することはないけれど。それはそれでいいなと思った。


                                       完

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