第2話 かたりという猫
杉森左門がその奇妙な猫に会ったのは八つで大坂天満宮の下働きをしている時だった。
梅が散り、こぶしの木も柔らかい白い花びらをいくつかその根元に落とす早春の昼下がり、境内を掃いている左門を大将軍社の階のところで日向ぼっこをしながら大きな三毛猫が薄目を開けて眺めていた。
三毛猫は近くまできた左門に声をかけた。
「書物は好きか」
左門は辺りを見回した。
「由己に紹介してやろうか」
左門はじっと息をつめて猫を見た。
その大きな三毛猫は天満宮別当の大村由己の飼い猫で、いつも境内を我が物顔にうろうろしている。
晩飯の目指しの頭を分けてやってからはいつも目のつくところにいるが、だからといって身を擦りつけてなつく様子もない。大抵少し離れたところから左門を眺めていた。
猫は金色の目で左門を見つめてさらに言う。
「そんな仕事、何十年したとてらちがあかぬ。面白いものを見たくはないか」
左門は不安げに回りを見た。誰もいない。
「ただし見るだけ、加わることは出来ぬ」
左門は竹箒をゆっくりと振り上げた。
こいつは化け猫だ、化け猫に違いない。
猫は逃げもせず、左門を見つめている。
その金色の目に吸い込まれそうで慌てて目を閉じ、竹箒を振り下ろそうとした瞬間、竹箒を誰かに掴まれた。
見上げると大村由己が竹箒を掴み、険しい表情で左門を見下ろしていた。
「これ、猫をいじめてはならぬ」
そう言う由己の足元に階から降りた猫がゆっくりと擦り寄ると、喉をならす。由己は竹箒を離し、猫を抱き上げた。
左門は慌てて平伏した。
近くの天珠院の僧で天満宮の別当もつとめる大村由己は、ここにある連歌所の宗匠でもあった。だが左門はほとんど話したことはない。もっぱら小太りの宮司に命じられるままに境内を掃いたり、薪を割ったりと雑用をすることで社宮の馬小屋に寝場所をもらっている左門は、時折その宮司に言われて近くの船着場に届いた書物を連歌所まで運ぶことがあり、その際に見かける程度だった。
一度だけ、社務所の裏で落ち葉やたまっていた塵を燃やしていた時になにやら難しそうな冊子が紛れていたことがあり、よけておいたところ、程なく連歌所から出てきた者がひったくるように持ち去ったことがあった。
そう言えば、あの時も近くにこの猫が、と左門が猫を見る。猫はにんまりとして由己に言った。
「許してやれ、由己。驚いたのさ」
左門は由己を見上げた。
大村由己は驚く様子もなく、猫を見下ろしている。
「おい、この子をお前の書庫番にしてやれ」
「珍しいではないか」
大村由己は猫に語りかけた。
「お前は花を愛でるだけではなく、子供の世話もやくのかね」
猫は答えず、ごろごろとのどをならした。
由己は左門を優しい目で見るとたずねた。
「読み書きは出来るのかね」
左門は肯いた。孤児になり天満宮に転がり込み、下働きをしているが、もともとは小国の侍の子である。国は滅び、家族は離散したが、小さい頃に母に読み書きは教えられた。
由己はニコリと笑うと猫を左門に渡す。
猫は柔らかくて思っていたより軽く、落とさないようにおっかなびっくりで抱きかかえる左門の様子に微笑みながら由己は言った。
「この猫はかたりという。いわゆる化け猫だが人をとって食うことはしない。ただ長生きがすぎてね、一人で眺めるのが寂しいから誰かしら仲間を募るのだよ」
「仲間」
「ああ」
由己はそう言いながら左門の肩を抱き、歩き出す。
「花見も一人ではつまらぬのだろう」
もとは摂津の寺の僧侶だった由己も左門と同じようにある日突然かたりに
「面白いものを見たくはないか」と言われたのだという。驚く由己にかたりは
「これから訪ねてくる男に仕えるがいい」と言い、それが三木攻めにきた木下藤吉郎、のちの豊臣秀吉で、会って話すうちに秀吉に惚れ込んだ由己は還俗して仕え、今は秀吉の御伽衆の一人として秀吉の軍記や能の新作を書く一方でここの別当をつとめていた。
好奇心旺盛で書物、事象で興味があることは調べてみないと気がすまないために、博学で知られ、穏やかで誠実な性格のために交友関係も広かった。
左門を引き取ったからには責任があると四書五経に書道、歌論、和漢の故事から行儀作法まで広く教えた。左門はかたりが言ったように、由己の膨大な蔵書の管理の手助けをするために熱心に学び、おかげで一年もすると簡単な使い程度もこなし、少しは由己の役に立てるようになった。
かたりは由己が言ったように特に悪さはしなかった。由己や左門の周りをうろうろしていたかと思うとしばらく姿を消して、ふらりと戻ってきて、他国で誰がどうしていたの、名所を見てきたのと土産話を聞かせてくれる。
かたりが口をきくのは由己と左門、そして由己の友人で時々訪ねてくる太田又助だけだった。
太田又助、のちに信長公記を残した太田牛一である。もとは足軽で織田信長に得意の弓で仕え、今も丹羽長秀に仕えている。生来筆まめで主の信長のことも折にふれいろいろ書きためていたのを今はまとめようとしており、由己とかたりを訪ねてきては書き上げたものを読み上げ、感想を聞いた。
織田の弓張り三人衆の一人と称されただけあって大柄で屈強な体つきの又助が一匹の猫に屈みこんでブツブツと話しかけている様子は妙で左門はおかしくてたまらない。しかしあるとき書庫で、かたりがいつになく嬉々とした調子で「あれば見事な花散らしであった」というのを聞いて振り返った左門は、金色の目をらんらんと輝かせるかたりとそれを土気色の顔で睨みつける又助のいつもとは違う気配に思わず身をすくめた。
傍らで調べ物をしていた由己を見上げると、由己も気がついたとみえ、
「どうやら本願寺の話のようだ、向こうへ行こう」と左門の背を軽く押し、書庫蔵から出た。
「本願寺とは信長公が亡くなられた」と左門が聞くと由己は重々しい顔で肯いた。
そうかと納得しかけた左門は、ふとあることに気づいてぞっとした。
かたりの花見とは人の死ではないか。
由己に連れられて歩く初夏の庭の明るい日差しが不安で一気に暗く陰る。思わず由己の着物の袖を握ると、振り返った由己は青ざめた左門の顔を見て思いを察したのか、ゆっくりと首を振った。
「かたりの花見は死ではないよ」
「でも」
由己は傍らの山吹に手を伸ばして
「花は桜だけではない。山吹も美しい」と言いながら、今度はしゃがみこみ、足元の白い綿毛のたんぽぽを摘むと日にかざし、
「しかしこれとて負けてはいない」
左門はけげんそうに由己を見た。
「かたりはこんな風に人の生き様を愛でているだけなのだよ、何も散り際を好んで見ているわけではないのだ」と由己は諭すように左門に話した。
「お前も知っての通り、信長公は美濃の小大名から天下取りに駆け上がった。派手な人生を生き、散り際も派手だった。魅惑的な花を咲かせたと言える。だがそれはかたりがどうこうしたものではない。かたりはいつも見ているだけさ、そして美しいものを見て思わず誰かに話したくなるように、かたりも誰かと話したいだけなのだよ」
左門はしばらく山吹とたんぽぽを見つめていたが
「太田様はいつからかたりと」と聞いた。
「又助殿は信長公が亡くなられてからかたりに出会ったそうだ。信長公を思いながら書きものを整理している時に現れて、随分と面白いものを見たなあと言ったらしい」
「太田様は怒らなかったのですか」
太田又助は左門にも信長公の話を延々と聞かせてくれたが、その時には必ず左門に正座をさせた。それだけ信長公を尊敬もし、心酔しているわけで、その人生を面白いと言われたら当然腹を立てたのではないか。
「最初は腹をたてたが、かたりがあまりにくわしく信長公のことを知っていることに驚いたらしい。織田家の家臣もばらばらになり、秀吉様や新しい主に対する遠慮もあって心ゆくまで信長公の話が出来る相手がいなかった又助殿はいつしかかたりが来るのを待ちわびるようになったようだ」
左門は少し安心した。どうやらかたりは由己のいうように人の生き様に興味があるらしい。すると今度は別の疑問が生じた。
由己とはいきさつを考えればたぶん秀吉公を愛でたいのだろうが、じゃあ自分は、自分はどうしてかたりに選ばれたのだろう。
由己は不安げな左門の頭に手を起いて微笑んだ。
「かたりがなぜお前を選んだのか、それはわからない。案外お前自身が大きな花を咲かせるかも知れない」
左門は首を振った。
「かたりは見るだけで加わることは出来ないと言いました」
由己は少し驚いたように左門を見た。
「でも私は由己様のお側で働ければそれだけでいいのです」と左門は訴えた。
由己は微笑んだ。
「なるほど、だが人は皆大なり小なりの花を咲かすもの。かたりが興味を持とうと持つまいとな。たとえたんぽぽ程度の花でもこれはこれで愛らしい。お互い、よい花を咲かせるように精進しようぞ」
そう言いながら左門の肩を抱いた時、
「精進ってなんの精進」
明るい声が二人の背後でした。
振り返ると一人の少女が立っていた。
左門と同い年くらいの肩までの切り髪に瞳の大きな少女で驚く左門にかまわず、二人の前に回り込むと無邪気な笑顔で由己に抱きついた。
「来たよ、由己様。お久しぶり」
「おお、お国。奈良や堺はどうだった」
「桜が綺麗だったよ、由己様に見せたかった。この子は誰?」
少女はまっすぐに左門を見た。町の子にしては少し派手な赤い着物が背にした山吹の黄色に映える。
「杉森左門、わしの書庫の書物の整理の手伝いをしている。これからもっといろいろ勉強してわしの役にたってくれる子だよ」
左門は思わず俯いた。由己の言葉は照れくさかったし、少女に見つめられるのはもっと照れくさかった。
だが少女は俯いた左門の顔を遠慮なく覗き込み、
「学問が好きなのね、仲良くしてね。私はお国。ややこ踊りを踊っているの」と言い、ニッコリと笑った。
それが左門とお国の出会いだった。
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