かたり またべえのものがたり
山戸海
第1話 ども又
宝永五年(1708)の夏の宵、五十六歳の近松門左衛門は竹本義太夫と二人、道頓堀の店で贔屓の歓待をうけ、ほろよい気分で店を出た。
堀の南には芝居がはねて静まり返る芝居小屋、北には茶店が軒を連ねて賑やかな嬌声や三味線の音が漏れていた。
二人は酔いを醒ますために柳の揺れる通りをゆっくりと歩き、戎橋までくると、欄干にもたれて川を通る涼しい夜風に吹かれながら橋の下を通る夜舟を眺めた。
ぽつりと義太夫がつぶやく。
「なんでども又なんや」
門左衛門はまたかと肩をすぼめて二つ年上のこの優れた浄瑠璃語りを見た。
五月からの上演で評判のよい「傾城反魂香」。絵師狩野元信の没後百五十年をあてこんだ作品で、お家騒動に巻き込まれた狩野元信とその師の土佐光信の娘で遊女の遠山の悲恋を描いた時代物なのだが、なぜが人気は「山科土佐将監蟄居の場」のさえない兄弟子又平と世話女房お徳に集まった。
大津絵で生計をたてている又平は主役の貴人元信とは違い、貧しく吃音で不器用な性格。土佐の名乗りも師匠になかなか許してもらえず弟弟子に先を越され、窮地の元信への助太刀さえも諫められる。
己の余りの情けなさについに死を決意した又平が最後にありったけの思いを込めて石の手水鉢に絵を描くとなんとそれがうらへ抜けるという奇跡を描いたこの段には元信の出番は殆ど無い。だが人気は断トツで連日大入り、先ほどの接待の御仁も、ども又が大のお気に入りだった。
「そりゃあ、あれはええ話や。けどあれが人気では悲恋の元信はんの立場がない」
門左衛門は苦笑し、川向こうに並ぶ芝居小屋の黒い影に目をやり言った。
「まあ古今東西いつも物語は色男が中心や。たまには振りまわされる鈍くさいのが中心でもええやないか。世の中の大半は振りまわされる側なんやし」
しかし義太夫は納得しない。
「確かに現実はそうや。けどそやから、物語は英雄や美男美女がもてはやされるやないか。隣の鈍くさいおっさんに誰が興味をもつ。わからん、ほんまにわからん。何年興行うってたかて、客の好みには面食らう」
「そやな、ほんまに客は化け物や。人気をあてこんで操ってるつもりが振りまわされる。藤十郎はんもよう言っていなさった」
一時、近松門左衛門は京で歌舞伎の坂田藤十郎の狂言を書いていた。藤十郎の衰えと共に歌舞伎に見切りをつけて大坂の浄瑠璃に戻ってきた。
「けどなんでども又なんや」
義太夫のしつこい問いかけに門左衛門は苦笑しながら
「なあ、岩佐又兵衛って知ってるか」と聞いた。
「岩佐、誰や」
「岩佐又兵衛。浮世絵の祖といわれる絵師や。もともと京におって越前に移った」
「越前言うたらあんたの」
「そうや。うちの爺さんとは付き合いがあったらしい」
「へえ、じゃああのども又はほんまの話か」
と、身を乗りだした義太夫の問いを門左衛門はあっさり否定した。
「あれは浄瑠璃や。若い頃は確かに苦労しはったらしいけど最後は江戸に招かれてはるし、息子は福井藩のお抱えの絵師やからそこそこの人生と違うか」
「なんや。振りまわされるどころか、お大尽やないか」
「……そうや、振りまわされたんは爺さんの方かもしれん」
そうつぶやくと門左衛門は夜空を見上げた。
「ほんまに物知りな人でな、いろいろな話を仰山してくれはった。まあ、小さい頃やからほとんど覚えとらんけど、なんでかまたべえ、またべえいう繰り返しだけが耳に残ってなあ」
御書物方を勤めていた祖父の杉森左門は若い頃は秀吉の御伽衆の大村由己に仕え、大村由己の亡き後は一時四条河原に出入りしていたらしい。晩年は幼い門左衛門を膝にのせて古今東西のいろいろな話を聞かせるのが常だった。 長じて門左衛門が京で公家奉公しながら芸能にのめり込んだのは祖父の血かもしれぬ。ただ四条河原を出て小藩の役人になった祖父とは反対に彼は武家を捨て浄瑠璃作者になった。
これまでの人生は決して平坦なものではなかったが前年の曾根崎心中であたり、五十を過ぎてこれからは充実したものになるだろう。
孫相手では充分には語り尽くせなかったであろう祖父よりも大勢の客に己の作品をこの天才義太夫に語ってもらえる自分は幸せだ。
そう思いながらもなにかの拍子に耳底に響く祖父のまたべえの名を呼ぶ時にこめられた親しみと哀切がともすれば人気に浮き足立ち、流されそうな門左衛門を立ち止まらせた。
「またべえ、またべえ」
そうこんな感じに、と門左衛門ははっとして橋の向こうを見た。
目をこらしても闇ばかり。
「どないした」
「いや、今なんか聞こえなかったか」
「夜に橋の向こうなんぞに目を凝らしたらあかん。何かがついてくる、小さい頃に言われんかったか」
「そうなんか、はじめて聞いたで」
「そうや。わしは言われた。もっとも、白粉つけた綺麗な…」
そう言いながら義太夫は川沿いを歩いてくる芸者に目を向けてふらふらとついて行く。
門左衛門は苦笑いをすると義太夫の跡を追った。
橋の向こうで小さなため息がもれた。
「なんと左門の孫か」
橋の親柱の陰から大きな三毛猫が姿を現すと顔を撫でてつぶやいた。
「振りまわされる側を話の中心にするとはええ才能や、なんともやのう、なんともやのう。さすがに左門、お前の孫よ」
猫は金色の目で川を眺めた。
川面に半月が揺れていた。
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