第3話 お国と又兵衛
お国のいる神子舞の一座は出雲大社の勧進の名目で全国を回っている。お国は小さい頃からこの一座に加わり、幼い女の子の踊るややこ舞を踊っていた。
由己は一座が天満宮に来た折に踊るお国を見てから、一座に対する援助だけでなく、座の暇な時にはお国を天満宮によんで読み書きは勿論、古今の舞や謡の話をくわしく語って聞かせ、お国が踊りの名手に育つのを楽しみにしていた。
由己が見込んだだけあって、お国は踊りの振りの覚えも早く、幼いながらも花があり、活発で大きな瞳をきらきらさせながら踊る姿は可愛らしいと評判だった。
二人はすぐに打ち解け、由己はお国がくると左門も呼んで、一緒に芸能の話を聞かせ,気に入った田楽や能を見せた。
時には左門がお国の手習いの師匠となり、時には遊ぶこともあった。左門より一つ年下のお国だがおませで気も強く、左門はいつも振りまわされっぱなしだが、それでも左門はお国といると楽しく、時折踊り以外のことで頼られると嬉しかった。
ある時「狂言綺語の戯れも讃仏乗の因」という言葉を由己がお国と左門に教えた。
「狂言綺語」
お国は小首をかしげて由己を見上げ、それから左門に聞いた。
「知っている?」
左門も首を振った。
由己は膝の上で丸くなって寝ているかたりの背をなでながら説明した。
「狂言綺語とは仏の説いた実語に対して道理に合わないことを巧みに飾った言葉を言う。
中国の白楽天が、狂言綺語の誤りをもっと翻して到来世々讃仏乗の因、転じて法輪の縁にせむと、書いた。
まあ、わかりやすく言えば、ただただきれいな言葉や面白い話を綴ることで、世間を騒がせて犯した過ちを反省し、来世では正しい仏法を讃える縁としたいと言っているのだが、これが我が国では美辞麗句、謡や歌でも仏法を讃える縁になるとなった。能の東岸居士にあるだろう。いつものごとく歌うて御聞かせたまえ、げにげにこれも狂言綺語をもって讃仏転法輪の真の道に入るなれば」
左門が思わず口をはさむ。
「東岸居士に旅の僧が言うんですよね、そう言えば曽我物語の最後にも、かようの物語聞かん人々は狂言綺語の縁により、荒き心を翻し真の道に赴き菩提を求める頼りとすべしとありますね」
「でも神様はそんな難しいことなしでも踊りが好きよ」とお国が口をとがらせた。
「なるほど、天岩戸を開かれたものな、さすがに出雲の子だ」と由己は笑った。
お国は出雲の鍛冶屋の末娘だった。
得意げな表情のお国の横で左門の顔はうかない。
左門は主人というより、師であり親代わりである由己を心底敬愛していたが、ただ一つ不満があった。それは由己が書いた秀吉の一連の伝記物だった。秀吉に対する美辞麗句が並んだそれらは残念ながら、あまり評判が良くない。一部の人々には見えすいたお追従、それこそ文字通りの狂言綺語だと陰口をたたかれていた。それを聞くたびに左門は悔しかった。
悔しかったが、その左門ですら関白任官記で、秀吉の母大政所が公家の出で、秀吉が帝の落とし胤らしいというくだりはさすがに馬鹿馬鹿しく、なぜ由己がこんなものを書くのかと秘かに腹を立てていた。
由己がお国から左門に目を移す。
左門は思わず目をそらした。
由己は左門を微笑みながらのぞきこむ。
「何か言いたげだな、左門」
左門は黙っていた。頭の中でどう問うか考えているうちにお国がくるくると扇を弄びながら、ついさっき天満宮に来ていた田楽能の一節を口ずさむ。
「夢の戯れいたずらに
朝顔は日にしおれ、野草の露は風に消え
かかる儚き夢の世を」
「ほう」と由己は感嘆の声をもらすと、目を細めてお国を見た。
お国は踊りや謡の覚えがひどく良い。一度見れば少々長いものでもあらかた覚えた。
今も田楽能の振りをうろ覚えながら舞いだしたお国に
「ほれ、そこはこうではなかったか」と由己も立ち上がり振りを直す。
ひざからおろされたかたりは、とりのこされた形の左門にすり寄ると金色の目で見上げ、左門の思いを見透かしたようにささやいた。
「仕方がないことだ」
「どうして」と左門も声をひそめて猫に聞いた。
かたりは答えずにゆっくりと伸びをする。
左門はその尻尾をぐっと掴んだ。
「言えよ、でないとお国にお前がしゃべることを言うぞ」
勝ち気なお国のことだ、由己と左門だけにかたりが口をきくことを聞いたらなにがなんでもかたりを喋らせようと無茶をするだろう。かたりは目を細めて左門を見上げた。
「由己は物語の種をまく定めなのさ」
訳のわからない答えにいらついた左門はかたりの尻尾を引っ張った。かたりは左門の手を引っ掻くと庭へ逃げた。
小さく声を上げた左門が振り返ると由己は気づかぬ素振りでお国に田楽能を教えている。左門は気まずい思いで、血筋のついた手の甲を舐めた。
その一年後、秀吉が京に聚楽第を建て大坂からそちらに移ると、由己も京に出ることが多くなり、左門も度々共をして京に出た。
季節は秋。
その日、由己の供をして訪れたのは見事な紅葉の古木のある公家の邸だった。
出迎えた邸の主は由己が連れていた左門を見て思わず呟いた。
「はてはて昨今幼い若衆を供に連れて歩くのが流行りと見える」
由己は苦笑した。
「これはまた妙な物言いをなさる」
「いや失礼、つい先ほどまで織田信雄殿がおりましてな。年の頃なら同じくらいの供を連れていらしたので」
「ほう」
「面白い絵巻を借りうけたので披露するとこれがまあ」と困惑した様子で言葉をにごらせると、二人を手招きした。
二人はそのまま主について邸の奥に行った。
奥の一室に絵巻が広げてあり、一人の少年が身を乗り出してそこに描かれた得体のしれない化け物に見入っていた。
「あれは」
「信雄殿の供でござる」
「置いていかれたか」
「なにせあの通り、絵巻に夢中でなにを言っても聞く耳持たぬ。癇癪を起こされて手をあげられたが、絵巻に類が及んではことなので」
「先に帰っていただいたのですね」と由己は苦笑し、主はため息をつきながら肯いた。
主人が先に帰ったというのに、少年は夢中でなにやら得体のしれない物の怪の描かれた絵巻に見入り、時折笑みを浮かべては指で宙に絵をなぞって飽く様子もない。なまじ秀麗な顔をしているためにその様子は狂気じみて薄気味悪い。
「あの絵巻は」
「土佐光信の百鬼夜行」
「なるほど」と由己は肯いた。
土佐光信といえば室町幕府の絵所を勤めて土佐派を確立し、今や大名達にひっぱりだこの狩野派の祖狩野元信が婿入りしたという伝説の絵師である。百鬼夜行絵巻は青鬼にはじまり、様々な妖怪達が生き生きとした跳梁跋扈を見せる傑作だった。
「もう一刻もあの様子で一向に帰る気配もない。なんとかならぬだろうか」と主に泣きつかれ、由己は尋ねた。
「あの子は織田家のお身内ですか」
主は首を振りながら答えた。
「道薫殿の遺児の又兵衛ですよ」
由己も左門もへえっと驚いた。
道薫の息子又兵衛の噂は由己が大坂で親しくしていた公家の山科言経からよく聞いていた。
山科言経は天皇の勅勘を受けて家領を失い、妻の縁者のいる本願寺を頼って大坂に出て医業で生計をたてていた。そのために彼は本願寺の内情に詳しい。
道薫こと荒木村重はもとは播磨を治めていた大名で猛将として知られていた。茶の湯にも造詣が深く、信長の信頼も厚かったのだが、又兵衛が生まれてまもなく本願寺や毛利と手を組み、突然信長に反旗を翻して三木戦の最中に自身の城の有岡城に帰ると籠城した。
謀反の理由は信長の部下への冷酷さへの不安があったといわれるがはっきりしない。
ただすぐに来るかと思われた援軍はなかなか来ず、信長の巧みな切り崩しにより配下の高山右近、中川清秀が離反し、追い詰められた村重はわずかな手勢と共に援軍を求めて城を出る。
主を失った有岡城はほどなく落ちた。
信頼していた村重の裏切りに信長の怒りはすさまじく、残された一族郎党のうち主だった者は六条河原で処刑され、それ以外の家臣も磔や小屋に押し込められ火をかけられて焼殺という無惨な仕置きとなった。
又兵衛は落城寸前に秘かに乳母と城から逃れて本願寺にかくまわれたが母多子は十九の若さで六条河原の露と消えた。
一族の非業の死を知りながらも長男村次と毛利に落ちて生き延びた村重は本能寺の変による信長の死後、秀吉に召し抱えられて茶人道薫として再び世に出た。そして荒木の家の再興を村次にたくす。
だが村次はほどなく起きた賎ヶ岳の戦いで足に重傷を負い、武将の道をたたれてしまう。このためか道薫は長年本願寺に預けたままだった又兵衛に会いに来た。
そこで道薫は幼い又兵衛に何を好むかと尋ねたらしい。
少年は無邪気に門説教の小栗だと答えた。
説教と言っても門説教はいわゆる門付けで僧形の芸人がささらなどを伴奏に物語る芸能である。小栗は超人的な力を持つ小栗判官が一度は殺され地獄に落ちるが仏の加護と恋人の照天姫の尽力あって蘇る冒険譚である。
能楽、田楽などの芸能に理解をしめし保護もした本願寺には彼らの出入りも多く、門前では、数多い信者の投げ銭目当てに門説教やくぐつ使いなどが芸を披露した。
親身に世話をしてくれる乳母はいても母のない子は門前で語られる艱難辛苦を乗り越える小栗の話に強く惹かれたのだろう。
しかし道薫は激怒した。芸能なんぞにうつつを抜かす愚か者は荒木にいらぬとその場で縁を切った。
「武家の考えることはようわからん。おのれのしたことを思えば門説教なぞとるにたらぬ。それを家の未来も息子の未来もバッサリ断ち切るとはむごいことよ。可哀想に乳母殿は寝込む、又兵衛はそれ以来一切笑わぬ子になったという話で」
山科言経はそう話しながら膝の上のかたりを撫でた。
噂好きのかたりは話の続きをせがむようにごろごろと喉をならして甘え、言経は促されるように、その道薫も去年亡くなり、又兵衛は今年の夏あたりから織田信雄に本願寺から引っ張りだされ連れ回されていると話してくれた。
信長の次男の信雄は長兄信忠が父と共に亡くなったために本来なら織田家の、いや天下の継承者であった。だが信忠の幼い遺児をかついだ秀吉にいいようにあしらわれて天下をもっていかれた。
血筋だけでなくそれに伴う器と力がなければなんともならないのが下克上の世のならいとはいえ、鬱屈した思いは残った。その思いは国も持たぬのに大きな顔で政治の場でもある茶会をとりしきる千利休をはじめとする茶人に向かい、彼は当てつけに道薫の息子を連れ回すという行動にでた。
それというのも最初の頃は年に数十回も茶会に出た道薫が一度秀吉の機嫌を損ねてからほとんど茶会によばれることなく亡くなったからで、これは所詮茶人の立場など権利者の気まぐれに左右されることを世間に知らしめた。又兵衛を見れば、多くの者が道薫の不遇を思い出し、茶人らもおのれの立場の危うさを知るだろうということらしい。
また又兵衛は父に捨てられて以来、表にも出ず絵ばかり描いていたために子供離れした絵を描いた。この才能と不遇な生い立ちと武骨な父ではなく哀れな母譲りの秀麗な容姿は、信雄が連れて行く先々で格好な話の種となった。
度々呼び出されて連れ回される又兵衛はいい迷惑である。
ことに信雄は秀吉と違い、石山本願寺攻めに直接関わっていたから寺の中にも反感を持ち、又兵衛や乳母に露骨な嫌がらせをする者もいるらしい。しかしそれでも又兵衛の仕官を考えた乳母は一縷の望みを信雄の呼び出しにかけた。又兵衛もそれがわかっているから黙って信雄に連れ回されて「これがあの道薫こと村重から二度捨てられた」と嘲りをうける。その時の又兵衛の奇妙さが人々の間で評判になっているのだと言経は話した。
「奇妙さ」
「薄気味悪さともいいましょうか。先ほど人形のように笑わぬと言いましたが、どれだけ嘲りをうけようとののしられても泣きもせず怒りもせず、表情を変えぬのです。それは誰かが哀れに思うて手を差し伸べても同じで笑うこともない、まるで心をどこかに置き忘れてきたような子でしてな。綺麗な顔をしている分気味が悪いと」
その又兵衛が妖怪達を見つめて微笑んでいる。背後に開け放たれた縁側の先の庭の紅葉の真紅が又兵衛から立ち上る妖気のように左門には見えた。
隣で言経の話を思い出したのであろう由己が
「気の毒に」と呟くと主は吐き捨てるように
「気の毒どころか気味が悪い、武芸は駄目でも絵は好きだときいたので見せたらこの有様で」と言った。
その様子に無表情な又兵衛を怖がらせようとした主の意地の悪さが見てとれて左門は子供ながらに不愉快に思った。由己も同じだったらしく、なんとかしてくれと言う相手を「まあ飽いたら帰るでしょう」と軽くいなす。そのまま別室に主と由己はいき、左門は又兵衛の様子を見ているようにとその場に残された。
又兵衛の視線は嬉々として絵巻の妖怪達を行きつ戻りつし、やがて巻末の妖怪達を逃げ惑わす朱の玉に移った。笑みも消え、ただ呆けたようにしばらく赤々とした朱の玉を見つめる眼差しの空虚さが痛ましい。
やがて又兵衛は黙って立ち上ると帰っていった。左門は声もかけられずに茫然と見送った。
その晩又兵衛のことをかたりに話すとかたりは金色の目で左門を見上げ言った。
「縁のはじまりだな」
「知り合いになるってことかい」
かたりは答えない。
あの暗い若君とはあまり嬉しくない予言だと左門は少し憂鬱になりかたりを睨んだ。
だがほどなく予言どおりに左門は又兵衛に再会する。
場所は北野天満宮。
趣向を凝らした茶湯小屋が千五百ほども並び、押し寄せた茶の湯好きは二千人にも及んだという北野大茶会である。
由己は前々からお国に茶湯を教えたく、ここにも嫌がるお国をなだめすかして連れてきたのだが、やはりお国は気がのらないのか、何度作法を教えてもあれだけ踊りの飲み込みはいいのに覚えられない。
天満宮拝殿近くの茶席で今もうわの空でお国はよそ見をし、左門は隣ではらはらしていた。
お国の視線は向かいの通りの先に陳列された茶道具の名品の前にいる少年と主らしい男に向いていた。
「お前の父はこんなものを後生大事に抱えて逃げて家族も城も捨てたのじゃ」
かんのきつそうな主が声高に言って指さす先には古びた壺が紫の布団の上にうやうやしく置かれている。少年は無表情に壺を見ている。
「これがどういう由来のものか知っているか。漁師が拾ったものだ、拾いものよ」
主の男は反応のない少年にいらだっているようだった。
「どう思う、お前どう思うよ」
少年は虚ろな目で男を見上げたが、すぐに俯き、何も答えなかった。
「お国、お前の番だよ」
お国は由己にうながされ、前に置かれた茶碗を手に取ると申しわけ程度に頭を下げ、二人の様子を横目でうかがいながら茶をのむ。
と、少年が男からぴしりとよろめくほど強く頬を叩かれた。
「あっ」とお国は思わず声をだすと、腰をうかべて茶碗を落としかけ、左門や由己のみならず座の皆が息をのんだ。
茶湯小屋の主の苦虫をかみつぶしたような顔から逃げるように小屋を出ると左門はお国に文句を言った。
「興味がなくてももう少ししようがあるだろう。由己様の顔に泥を塗るようなことをして」
さすがにお国もしょげた様子で謝った。
「ごめんなさい、でもね」
「でもじゃない」と怒る左門を制して
「まあまあ、それより何にそんなに気をとられていたのかね」と由己はお国にたずねた。
お国は茶道具の並べられている先ほどの場所に二人を連れていき、壺を指した。
「この壺の前で男の子が叩かれて」
「叩かれた?」
由己の問いにお国はうなづく。
由己と左門は壺の前にはられた札に目をおとす。
「兵庫」と書かれたそれに思いあたるところがあった二人は顔を見合わせた。
兵庫は荒木村重が城を出る時に持って出た葉茶壷で茶道具の名器の一つとされていた。もとは漁師が浜辺で拾ったという逸話があり、当時から茶人であった村重は大切にしていたから城を出る時に持って出たのは、毛利に貢ぐためだったのか、それとも妻子や家臣よりも茶道具が大事だったのか、とにかくいわく付きの代物だった。
「ののしられても表情一つ変えないの、よほど強い子なのね」とお国の感心をよそに、左門は言経の話と百鬼夜行を見ていた又兵衛の様子を思い出して気持ちが暗くなった。
結局その後、左門とお国は一の鳥居の近くの影向松のところで他を回る由己を待つことになった。
「お茶なんて嫌い」とお国はむくれながら左門に言った。
「なんの役にも立ちゃしない、誰も踊りながらお茶なんかたてないわ」
「違うよ、付き合いにいるのさ」と左門はなだめるようにお国に話した。
「先々、お公家や大名に贔屓にしてもらうためにも茶の湯くらい知っておくのがいいと由己様はお考えなのさ」
「茶の湯なんて知らなくっても由己様はあたしを贔屓にしてくれてる」
「それはあの方が物好きだから」
お国はきっと左門を睨んだ。大きな目でにらまれるとこわい、左門がおたおたと言葉を探している間にお国の視線は左門の肩越しに移った。
「誰かいる」
左門が振り返ると奥の松にもたれて又兵衛が影のようにひっそりと立っていた。こちらも信雄に待つように言われたのか、あるいは見捨てられたのか、虚ろな目でぼんやりと茶湯小屋の人々を眺めている。
お国は嬉しそうに走りよっていく。どうやら同じように茶の湯に馴染めない仲間を見つけたと思ったようだった。左門は慌てて後を追う。
「あんたも茶の湯は嫌い?」と、お国は親しげに又兵衛の顔をのぞき込みながら聞いた。
「あたしも大嫌い、あんな辛気くさいこと、お菓子がついてもごめんよね」
又兵衛は黙ったまま俯いた。
左門は困惑しながらお国の手を引く。嫌いどころか、薄情な父を思いださせる茶の湯など又兵衛には嫌悪以外の何ものでもないだろう。しかし何も知らないお国は左門の手を振り払い、反応のない又兵衛の顔を無遠慮に眺めて隣で同じようにもたれるとさらに聞いた。
「あたしの名はお国。ややこ踊りを踊っているの。あんたは」
又兵衛は目をそらしたまま返事をしない。
お国はかまわずまたのぞき込む。
「あんたはなにが好き?」
しばらく黙りこくっていた又兵衛はお国の大きな瞳にうながされて小さな声で言った。
「絵が」
「絵が好きなのね」とお国はにこりと笑った。
「ねえ他には?他にはなにが好き」
又兵衛は何か口ごもっていたが不意にその目に涙が溢れた。
お国は驚いて一瞬身を引いたが「どうしたの」とさらに又兵衛の顔をのぞき込む。
又兵衛は顔を背けると松の幹の後ろに隠れた。左門は驚きながら後を追おうとするお国の手をつかんだ。
お国は戸惑いながらも怒った顔で又兵衛の隠れた松にもたれて左門が引っ張っても動かない。
「行こう」
「嫌、泣きたかったら泣けばいいの。辛かっら泣くの、こらえていたら心が冷えてひからびてしまうって一座の姉さんが言っていた。でも一人で泣かせちゃダメ」とお国は言った。
左門は戸惑いながらも、幹の後ろで小刻みに上下している又兵衛の肩を見た。
泣きもせず怒りもせずと聞いていた。
それがどうしてという思いと、なまじ又兵衛の辛い境遇を知っているためにどうしたらいいのかわからなかった。
お国は八つ当たりのようにそんな左門を睨んでいたがしばらくすると松を見上げて歌を口ずさみだした。
「松にからまる藤枝の四方に海はなけれども島田の宿をえひさらえひと引き過ぎて」
門説教の小栗の一節である。
左門は仰天した。なぜよりによってこれを歌いだしたのか。
勿論お国はこれが原因で又兵衛が父から捨てられたことを知らない。
お国、と左門が止める間もなく又兵衛が幹の陰から顔を出し、お国を見つめた。
お国はにこりと微笑むと又兵衛に聞いた。
「小栗は好き?」
万事休すだと左門は思わず顔をおおったが意外にも又兵衛は濡れた目でこくりとうなづく。
「じゃあ待ってて」
お国ははりきると、近くの茶湯小屋まで駆け、無造作に壺にいけてあった薄を抜き取り、戻ってきた。
そしていたずらっぽく又兵衛に笑いかけ、薄を綱に見立てて肩に担ぎ、踊りながらうたいだした。
「照天、この由聞こし召し あまりの事の嬉しさに徒歩やはだしで走りでて 車の手綱にすがりつき
一引き引いては千僧供養 夫の小栗の御ためなり
二引き引いては万僧供養・・・」
それは殺されてあの世へいった小栗が仏により餓鬼姿でこの世に戻され、再び元の姿に戻るために熊野湯の峰に向かう途中、そうとは知らない照天姫が死んだ小栗の供養のために餓鬼姿の小栗を乗せた車を引く場面だった。
門説教に踊りはつかない。だがお国は即興で上手に振りをつけて踊った.
「引けよ引けよ 子供ども
物に狂うて見せうぞと 姫が涙は樽井の宿」
美濃の青墓の宿から大津の関寺まで照天姫が車を引く様子をよく通る声でうたいながら要所要所で絵のように綺麗に型がきまるその踊りは子供ながらに見事で又兵衛はいつの間にか左門の隣でお国の踊りに見入っていた。
お国はそんな又兵衛を励ますように時折笑みをなげかけて踊った。
「姫が裾に露は浮かねど草津の宿
野路篠原を引き過ぎて三国一の瀬田の唐橋を えいさらいと引き渡し」
茶の湯の客達も思わぬ即興に集まりはじめた。
「石山寺の夜の鐘 耳にそびえて殊勝なり
馬場松本を引き過ぎて お急ぎあれば程もなく 西近江に隠れなき 上り大津や関寺や 玉屋の門に車つく…」
「そこまでだよ、お国」
不意に由己が見物の輪の中から出てくると、お国をたしなめた。
「今日は大事な茶会の日。皆さんは茶の湯を楽しみにこられたのだ。静かな茶席に歌舞は無用。さあ帰ろう」
由己は又兵衛に微笑み、気遣う。
「すまないね、驚いたろう」
又兵衛は無表情に首を振った。
お国は残念そうに又兵衛に薄を手渡すと言った。
「またね」
踊りが終いだと知った人々が散り散りになって帰っていく。左門はお国がしきりに由己にいいわけをしているのを聞きながら振り返った。影向松の根元近くに一人きり、しゃがみこんだ又兵衛が薄の茎で地面に何か描いているのが見えた。
秋の金色の西日の下で又兵衛の背中は小さく心細げであの邸で見た鬼気迫る妖気はない。
「狂言綺語」も仏への導きとなるならば、お国は又兵衛を一時でも救ったのだろう。だが左門はそれよりもお国がやおら小栗をうたいだしたことが気になった。かたりは縁のはじまりだと言った。それはお国と又兵衛のことではないか、仲の良い幼なじみをとられる嫌な予感に左門は鬱々としながらも屋敷に帰っても怖くてかたりに何も聞けなかった。
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