第7話 堺

 都を出るのは久しぶりだった。

 由己に仕えていた頃は大坂天満と都の往復はもちろん、お供で奈良や堺にも足を伸ばした。

 淀川を舟で下り、八軒家の船着き場で舟を降りた。ここから大坂城下へ行き、住吉街道を下がるのだが、左門は立ち止まり、目の前の大きな長い橋を見上げた。大坂天満宮が管理するこの天満橋は、亡き大村由己が太閤能の吉野詣を書いた褒美に架けることを許された橋でこれが出来たことでそれまで舟で渡るしかなかった北の大坂側と南の天満宮側の両岸は行き来がかなり便利になった。

 天満宮に寄りたくなった左門は橋を渡る。今は小太りの宮司もあの頃の連歌所の人々もいないかもしれないと思いながらも、ふと目をあげると、見覚えのある老人が肩をいからせながら橋の向こうから歩いて来た。

「太田様」と思わず左門が声をかけると太田又助はつかつかと歩み寄り

「かたりを抱えた男が逃げてこなかったか」と厳しい口調で尋ねた。左門は思わず首を振りながら

「かたり?一体どうなされたのです?」

 又助は橋の欄干をこぶしで叩き、

「売りやがった」 

「は?」

「腹いせにかたりを売りとばして逐電しやがった、又次郎め。自分も伝記が書きたいから弟子入りしたいと来たくせに真面目に務めもせず、書いたから見てくれと持ってくるものは嘘八百の作りごとばかり、あげくにこの俺にどこかに売りこめと、おい、何がおかしい」

 左門は懐かしさと共にこみ上げてくる笑いをかみ殺し頭を下げる。

「すみません、でもかたりなら大丈夫でしょう。あれは化け物です」

 又助では左門を見てひと息ついた。

「まあ、そうだが」

「相変わらずのご活躍、噂に聞いております」と左門は言った。

 七十五になる太田又助は太閤の伝記を書き上げ、秀吉が亡くなったあとは秀頼に仕え、今は関ヶ原の軍記を書いているという噂だった。

「なんだ、わしの弟子になりに来たか」

 左門は首を振った。

「私ごときでは務まりませんよ」

 又助はふんっと鼻を鳴らした。

「お前はかたりと話が出来る、後はわしが仕込んでやるさ」

「又次郎とかいう弟子はかたりと話せないのですか」

「話せるわけないだろう、あんないい加減な男」と吐き捨てるように言った。

「万が一話してみろ、化け猫扱いで見世物に売り飛ばされるわ」と言って又助は

「いや、話せぬでも売り飛ばしたか」と付け加え、左門は笑い出した。つられて又助も笑い出す。

「嘘は由己様もつきましたよ、もう少しおおめにみてあげたらいかがです」

「由己とは違う」と又助はきっぱりと言った。

「又次郎は面白ろおかしく書きたいだけだ。由己には太閤への気持ちがあった、この橋もそうだろう。かつて聚楽第の落書き事件で天満の町の衆は太閤から理不尽な目にあわされた。由己はだからこの橋を架けることを願いでた。橋で少しでも天満の衆の太閤への気持ちが和らげばと。まことにあれは愚かしいほど太閤一途であった」

と又助は言い、いとおしむように橋の欄干を撫でた。

 左門は橋の欄干に背を向け、橋を渡る人々を眺めた。

 かつて橋が出来たばかりの頃、由己とこうして橋の上で二人、ただ橋を渡る人々を見ていたことがあった。大方は天満宮の参詣の人々や寺院に行く人だが、行商人もちらほらといた。由己の安堵したような優しい横顔を思いだす。

 今、橋を渡る人々はもっと多い。

「まだお国らとつるんでいるのか」と又助が川を眺めながら聞いた。

「はい」と左門は答えた。

「かたりはお前と何を見たいのだろうな」

「さあ、もしかしたら由己様や又助様の花だったのかもしれません。あれからかたりは私の前には現れませんから」

「だとしたらやはりお前はわしのところにくるべきじゃないのか」

 左門は俯いた。

 かたりは由己は物語の種をまくさだめだと言った。そして自分もたぶん又助も見るだけで参加は出来ぬ。

「気はないようだな、ならばいいわい」と又助はぶっきらぼうに言った。

「すみません」と左門は頭を下げる。

「何かあったら来い」というと、背を向けて又助はスタスタと歩き出す。

 眩しい夏の日差しの中、橋の向こうに消えて行く又助を見送りながら左門はもう一度深々と頭を下げた。大村由己は太閤贔屓が過ぎ、死後の世間の評価は決して高くはない。だが太田又助だけは由己を正面から誰よりも厳しく批判しながら誰よりも理解し、一流の文人と認めてくれる。それがありがたかった。

 橋を渡ると、ほどなく天満宮についた。

 鳥居をくぐると南北に広がる松林から時折優しい風が吹いてきた。足は自然とかたりと由己に出会った大将軍社へ向かう。

 大将軍社の脇の梅林の青葉の木陰でくぐつ使いの芸人らしい一団が休んでいた。

 お国の一座は今どこにいるのだろうと思いながら、彼らを避けて明星池へ向かう。途中、連歌所が見えた。蔀が下りているところを見ると今日は誰もいないのだろう。あの中で由己と過ごした日々を思いながら左門はしばらく立ちつくした後、池に向かって再び歩き出した。

 かつて星が降りたという大きな松の根本で左門は又助との遭遇は生き方を変えよという亡き由己の導きなのだろうかと夏の陽射しに光る池の水面を眺めて考えた。

 だがそれはお国との別れになる。

 やはりお国が百まで気持ちよく踊り続けることが出来るように力になることは自分には無理なのだろうか。 

「相変わらずのぼんやりだ」

 聞き覚えのある声が上から降ってきた。

 驚いて見上げるとかたりが松の太い枝に太めの体を乗せて眠たげに左門を見下ろしている。

「かたり」

 左門は立ち上がると猫に手を伸ばした。

 三毛猫はするりと左門の腕の中に滑りこむ。見た目より軽い、その体を抱くと、左門は出会った時の感触を思い出した。

「売り飛ばされたんだって。又助殿が心配していたぞ」

「売り飛ばされてやったのさ」と猫は言った。

「又次郎は金に困っていたし、叱るばかりの又助を憎みはじめていた。あのままだといずれ厄介なことになる、だからかわいがっていた三毛猫を売り飛ばさせてやったのさ」

「なるほど」と言いながら左門が苦笑し

「しかし大した金にはなるまいな」というと

猫は金色の目で左門を見上げ

「知らぬのか、三毛猫は幸運を運ぶと珍重される、特に雄は海難を防ぐと船乗りに大切にされるのだぞ」と言った。

 化け猫が幸運を運ぶというのも妙な話でこの気まぐれ猫が狭い船中で辛抱出来るのか甚だ疑問だが久しぶりにかたりの蘊蓄を聞くのは楽しい。

「なるほど恐れいりました」と左門は頭を下げた。そして猫を抱えたまま

「太田様のところに送るよ」と言った。

 すると猫は金色の目で左門を見上げ

「いや、いい。わしは花を見にいく」と言った。

「花?」

 左門は辺りを見回す。夏場に花は少な

い。近くの松はもちろんほかの草木も青々と茂る葉ばかり。

「どこの花だ」

「相変わらずのぼんやりだ」とかたりはもう一度言った。左門がなんだと問いかける前に「ああ、おった」と声がした。

 左門が振り返ると十徳姿の老人が立っていた。その姿が一瞬由己に見え、左門が言葉を失っていると、老人は左門を驚かせたことを詫びながら猫を指し

「驚かせてすみませんな。それはうちの猫でして」

「ああ、そうでしたか」

 かたりは少し得意げな顔でみゃあと小さく鳴いた。

「探したやないか、みけ」と老人はかたりに手を伸ばし、撫でた。

「ほな、一緒に堺に行こか」

「堺の方ですか」

 左門はかたりを見た。堺に何があるんだろうか、と不思議に思う左門の肩にかたりはするすると登り、耳元でささやいた。

「つぼみさ」

 左門はかたりを見つめた。

 老人は猫が左門になついていると思ったのだろう。

「猫は好きですか」と聞いてきた。

「いえ、好きとか嫌いというより」と左門は言いながらかたりを肩から下ろして老人に渡そうとしたが猫は嫌がった。

「なるほど、そちら様が猫に好かれるたちらしい」

 左門はかたりを睨んだ。

「ほな、堺まで一緒に来ていただけませんか。なにせ気まぐれな子ですぐにいんようになる。何人人をつけても駄目で難儀していたところです。もちろんただでとは申しません。それなりにお礼はさせてもらいますが」「いや、私もちょうど堺に行くところです」「それはよかった。私は堺で商いをしている日比谷家の者です。三毛の雄を乗せた船は沈まぬと聞き、金十枚でこれを買うたので是が非でも連れて帰りたいのです」

 金十枚。

 左門は口を開け、得意げにごろごろとのどをならすかたりを見た。

 紀州、熊野、竹内、長尾街道の交点で文字通り摂津と泉州の境の町だった堺が大きく発展したのは応仁の乱のために日明貿易の拠点が兵庫津からこの町に移ってからである。

 中国からやがて東南アジア、ポルトガル、スペインと交易の手を広げた商人達はこの地に環濠で囲まれた「東洋のベニス」と宣教師に称された豊かな町を作りあげた。誰の支配も受けず、納屋衆とよばれた豪商達の自治で治められた貿易都市は茶の湯、三味線、のちに小唄のもとになる隆達節、日本ではじめての医術書、謡曲の新流派喜多流、宮尾流と次々と新しい文化を生んだ。

 左門はその堺に向かって、老人とその供と歩く。今宮を過ぎ、森を抜け、住吉に着いた。

 ここから海沿いの松原を横目に下る。

 老人は山三を蒲生氏郷に仕えていた頃から見知っており、山三が今日か明日にも藩の商用で日比谷家の屋敷を訪れるのだと話してくれた。

 老人の先代の主人で熱心なキリシタンである日比谷了慶も茶人として有名な今井宗茂も優れた文化人である一方で南蛮貿易で巨万の富を築いたしたたかな商人でもあった。その商いの中には鉄砲や火薬の原料で輸入品に頼るしかなかった硝石や、鉄砲玉に使用され国内産だけではまかないきれない鉛があり、これらは堺の繁栄に大きく貢献していた。

 そして山三の用もたぶんそれだった。

 関ヶ原で石田三成が破れても、依然豊臣は存在し、三成に組みしなかったものの豊臣よりという大名は多い。徳川はいずれ豊臣を潰して天下とりに動くと見られているが万一老齢の家康が亡くなれば情勢は変わり、再び戦乱の世になる可能性もあり、どの藩も有事の備えに余念がない。

 やがて一行は堺の北之橋についた。すでに秀吉により環濠は埋められていたが大道筋とよばれる大通りが南之橋まで町を貫く。

 莫大な富を持つ納屋衆の大きな屋敷が並び、海岸には彼らの交易の品々を納める倉庫がずらりと並ぶ。そしてよく手入れされた堀割と小道で区切られた町屋の店先には南蛮渡来の珍しい品をはじめとする様々な物が並ぶ。更紗、壺、銀細工、天正カルタ、孔雀の羽、南蛮風の帽子、檻に入った麝香猫にオウム、珍しい南蛮風の菓子、さらに鍋、鋤、鍬、刃物もあり、左門の目を楽しませたが、驚いたのは一尺もあろうかという細棒を口に加えて煙を吐いている男達の姿だった。

「鼻から煙が」と目を丸くする左門に老人は平然と

「キセルで煙草を吸っているのですよ」と答えた。

「たばこ」

「ええ、南蛮渡来の薬草です。煙を吸うと長生きが出来ると太閤殿下もご愛飲されていたと聞いております、都ではまだ流行っておりませぬか」

 老人の問いに左門は首を振った。

 この後煙草は京で流行し、またたく間に全国に広がり、左門もこの恩恵に与るのだがこの時はまだ珍しかった。

 やがて三階建ての塔のある大きな屋敷の門をくぐる。

 かなり遠くでも目立つその塔をあ然と見上げる左門に老人は説明した。

「これは聖堂です。明日の夜にはこことこの前の庭でパードレとイルマンの方々によるデウス様のありがたい話があります」

 ポルトガル語でパードレは司祭でイルマンは修道士である。パードレは伴天連と書きキリスト教徒の俗称となった。

 塔は都の四条にかつてあった南蛮寺に似ていると左門は思った。天正十五年に秀吉によるバテレン追放令が出てから、南蛮寺は破壊され、さらに長崎で二十六人殉教と不幸が続き、多くのキリシタンは影を潜めた。

 しかし秀吉が南蛮貿易は重視したために派手な布教活動はなくなったが細々とした布教は続いていた。

 左門は由己が元は僧で天満宮の別当といったこともあり、この異教に特に関心はなかったが塔の前の中庭で南蛮人と日本人数人が芝居の稽古めいたものをしているのが興味深く思わず足を止めた。

「大ヤコブの話を信者達に芝居でわかりやすく伝えるようです。よろしかったらおいでになりませんか。珍しい南蛮の楽器の音色も聞くことが出来ます」

「そうですか」

「山三郎殿もおいでになられますし、ぜひ」と熱心に勧めるところを見ると老人もキリシタンなのだろう。

 左門はふとお国に見せたら何か新しい趣向のきっかけになるかもしれないと思った。

かたりもその思いに賛成するかのようにニャアと小さな声でなく。

「じゃあ、あと二人ほど連れてうかがいます」と左門が答えると

「その方はもしや荒木様のお身内ですか」と老人が尋ねた。

「ええ」とうなずきながら

「でもどうしてそれを」と聞くと

「山三郎殿から依頼がありました」と老人は微笑みながら答えた。

 もう村次のことを頼んでいる山三の手際のよさに驚く左門に老人は続けた。

「ならば山三郎殿にお伝えください。村次様のご縁の方も今宵こちらにおいでになると」

 左門は驚いた。

「村次殿をご存じなのですか」

 老人は肯く。

「ええ、生前はわが主人とも親しくされて」

「亡くなった?」

「はい、もう五年になりましょうか。書画骨董に精通された物静かな方でした。絵も時々嗜まれていたようですが、そうそう今宵お見えになるその方が、明日土佐光吉殿の屋敷に村次殿のお身内を案内いたすと、これも山三郎殿に伝えていただけると助かります」

「はあ」と言いながら左門は余計なことだと思いながらも老人に尋ねた。

「村次殿はお身内のこと、あの、又兵衛という弟のことなど話されましたか」「さあ口の重い方でしたから。それに摂津やお身内については特別な思いもおありになったようで自ら語られることはほとんどありませんでした」

 村次はもともと父村重の謀叛に反対で、そのために居城であった茨木城から伊丹城に移された。あげくに逃げ込んできた父に巻き込まれた形で毛利に落ちたと聞いていた。そんな事情もあって村次は妻を戦の前に里に帰している。おかげで彼女は又兵衛と同じようにあの虐殺を免れている。のちの賎ヶ岳の戦いでは村次は大岩山砦を守る中川清秀の元にいた。この中川清秀と隣の山に陣を張った高山右近は共にかつて摂津で村重を裏切り織田に寝返った家臣であった。それぞれに事情はあり、村重も息子を中川清秀に預けているからには、過去は過去として納得していたのだろう。

 この大岩山砦が兵八千を率いる佐々盛政の猛攻を受けた時、中川清秀の元には兵わずか千人足らず。清秀は援軍を隣の高山右近に求めたが、右近は多勢に無勢であるとして動かなかった。結果、中川軍は壊滅。清秀は息子共々戦死、村次も大怪我をおい、武将としての道をたたれた。

 確かに大岩山砦が急ごしらえであったこと、右近が清秀に共に本陣のある賎ヶ岳まで下がろうとよびかけたのに清秀がそれをよしとしなかったのだが、非情といえば非情であった。だがそれでも高山右近は世間では温厚で義にあついと評判である。

 それまで頻繁に茶会に出ていた道誉が出なくなったのは秀吉の前で高山右近を悪し様に言い、秀吉の不興をかったことが一因と言われるが、道誉にしてみれば言わずにおれなかったのではないか。

 左門はかたりを見た。

「お前の好む派手な花見の裏には多くの闇があるのだな」と小声でささやくと

「だが夜桜が人を酔わせるのもまた事実」とかたりはうそぶいた。

 何にしても又兵衛は兄の死さえ知らされずにいたわけで、この町に連れてくるだけでも大変なのに、このことを知ればいよいよ荒木の家に捨てられた思いがつのり、土佐の屋敷に行くどころではないのではないかと左門は心配になった。

 左門はかたりを老人に渡すと屋敷を出た。

 山三の言っていた大小路近くの宿はすぐに見つかった。

 宿の傍らにひょろりと立った槙に凌霄花がからみつき朱色の花をたくさん咲かせていた。

 左門は槙を見上げた。

 凌霄花はお国の好きな花だったが、槙と一体となり、まるで槙自身の花のように賑やかに花を咲かせている様子は華やかで美しいがどこか奇妙で、地面にいくつも落ちた朱色の落下は無残だった。

 やるせなくなり、足元の花をひとつ、ふたつと拾っていると

「あら、左門」というお国の声がした。

 振り返ると、お国の顔が思いがけず間近にあり、左門は驚きながら朱色の花をお国に渡す。

 お国は若い頃のように髪に挿すこともなく、手の上の花を愛でた。

「宿に着いたのはいいけど、一人じゃ手持ち無沙汰で。よかった、左門が来て」

「一座は」

「柿丸に任せてきた。金岡の小さなお社で祭礼があってね、そこで踊らせてもらえることになった。采女の評判がよかったら一座をまかせようかな」

 お国はそう言いながら、槙にからみあがった凌霄花を見上げた。

 だが驚いて返事が出来ない左門の顔をちらりと見ると笑い、手の花を左門に投げた。

「うそ、うそ。左門は子供の頃と同じだ、何でも本気にする」

 左門は苦笑いをした。

「天満によってきたから子供かえりしたのだろう」

「あらやだ、あたし達もよったのよ、だけど戎かきに先をこされちゃって。まあ天神さんも終わったばかりだし、大した稼ぎにならないだろうけど」

「そうか」

「宮司さんも代替わりしてね、昔は無理を聞いてくれたのに」

 お国はそう言いながら再び凌霄花を見上げた。

「三毛猫がいたよ」

 左門はお国と昔話をしたかった。

 だがお国は朱色の花に見入られたまま、左門の言葉を聞いていない。まるで自身の踊りのこれからをただひたすら上に伸びていく凌霄花に問いかけているようなその様子に左門は取り残された寂しさを感じた。

「よおっ、待ったか」と朗らかな声が上からふってきた。

 振り返ると馬に乗った山三が左門達を見下ろしている。後ろでずり落ちかけていた又兵衛が真っ青な顔で馬から転がり落ちる。

 お国が笑いながら又兵衛に手を差し伸べる。

「ようこそ堺に」

 又兵衛は不機嫌な顔でその手を振り払った。

「あら、機嫌の悪いこと」

 お国は肩をすくめながらももう一度手を差し伸べた。

「だらしのない。一族の荒木元清殿は優秀な乗り手で知られたものを」という山三を又兵衛は睨みつけ、ついでに左門も睨む。

「俺はこんなところに来たくなかった」

「安心しろ、村次殿は五年前に亡くなっている」と左門は又兵衛に告げた。

 又兵衛の顔から表情が消えた。相変わらず何か激情に駆られると己の思いを閉じ込めるらしい。

 左門はそんな又兵衛の腕をとり、肩を貸して立ち上がらせると宿に向けて歩きだした。足元の朱色の花を踏みながら又兵衛はよろよろと歩いた。

 その夜、四人は日比谷了慶の屋敷に向かった。

 左門も山三も村次の縁者が屋敷で待っていることは又兵衛に告げず、南蛮の芝居を見に行く名目で又兵衛を引っぱりだした。

 それというのも又兵衛が石のように黙りこんだままなので、これ以上のことを聞かせても無理だろうと山三が判断したからであった。

「だが屋敷で素直に会うだろうか」と左門は後ろでのろのろ歩く又兵衛にしきりに話しかけてかまうお国を横目で見ながら山三にささやいた。

「会ってもあの調子では」

 明日、土佐光吉のもとに行くかどうかと危ぶむ左門に

「行くさ。あいつは信雄にののしられようと、親父に捨てられようと絵だけは捨てぬ、いや、辛ければ辛いほど絵に逃げる奴だ。俺に考えがあるからお前、お国といてやってくれぬか」と、山三は言った。

「それから日比谷の屋敷の帰りに話がある」

 左門は肯いた。

「わかっている、お国のことだろう。だが」

 踊りもそうだがあの様子でお国が山三の話をまともに聞くだろうかと左門が言うのを聞かずに山三は振り返るとお国と又兵衛に声をかけた。

「そろそろ着くぞ。屋敷は広い、信者も集まる。はぐれぬようにしろよ。お国、その木偶を引っ張るのはお前には無理だ。俺が追い立てるからお前は左門と前を歩け」

 しぶるお国を左門の横に追いやると、山三は又兵衛の横についた。

 すでに信者とおぼしき老若男女が屋敷の門をくぐっていく。

 左門達もその後に続いた。

 信者達は隠していた十字架を懐から出し、幸せそうな表情を浮かべ、中庭の奥の聖堂にすいこまれるように入っていく。

 その前の中庭では篝火がいくつも焚かれ、南蛮人が丸帽子、赤い袢纏に白い肌着、胸元には金銀の十字架、革の腰帯、縞のズボンといった服装で笛や小ぶりの琵琶のような南蛮の楽器をつまびいていた。

 お国は立ちどまり、興味深げに彼らを眺めた。

 京でバテレン追放令が出てから南蛮人を頻繁に見ることはすくなくなった。

 南蛮の風俗を取り入れたかぶき者は多いのだがお国は久しぶりに直に見る彼らの服装に惹かれたらしい。

「いいね、あの赤」

 お国は特に篝火の炎の明かりに映える真紅の袢纏に心を惹かれたようでしばし見とれた。

「ねえ、又さん。あの赤」とお国は振り返り、又兵衛を探す。

 又兵衛はここに来る少し前の分かれた小径の先の戸口の式台で蝋燭の灯りにボンヤリと照らされた屏風に目を奪われ、ふらふらと惹かれていったのに左門は気づいていたが、お国には黙っていた。

 なるほど絵で釣るわけか、と山三を見ると山三は行けと言うように手を振った。

 それを知らず

「山三もあてにならない、はぐれた」とむくれるお国に左門は

「又兵衛は村次殿の縁者と会うのさ」と左門は話した。

「村次って又さんの兄さんのこと?今さら何の話」

「さあ、ただ又兵衛も親父殿とのことにけりをつけるべきなのさ。俺達ももういい年なのだから」

 お国は鼻で笑う。

「左門らしくもない。山三の受け売りかい」「別に俺は」

「左門はさ、山三みたいに昔にとらわれてないし、あたしや又さんみたいに行き詰まらない。先のことで悩まないし、昔を偲んでばかりいても仕方がない。とりあえず今を皆で生きるために智恵をしぼる、それがあんただろう」

 お国はそう話しながら微笑むと左門に顔をよせてささやく。

「ねえ、左門。あたしや又さんはいつか花を咲かせるよ。大きいか、小さいかは分からない。だけど左門は鶯でいつだってあたし達を見守って励まして元気をくれる」

 つまりはいてもいなくても同じではないかとつまらなくなった左門だが言い返す言葉もなく、口に出たのは山三の名だった。

「じゃあ山三は」

 お国は顔を曇らせ、左門から離れる。

「山三は分からない。頼りにしてるし、いい奴だと思うけどどこかあぶなかしくってこわい。だって山三の心の底にはずっと蒲生の殿様がいて山三をあっちへ引っ張っているのだもの。侍はおかしいよ、あたしも左門も由己様に可愛がってもらったけどあとを追いたいなんて思わないのに」

「蒲生の殿様だって山三にあとを追わせたくないから寺に入れたんだろう」

「そうね、だけど山三は殉死からいつまでも離れられないのよ。あたしだってなんとかしたいし、はらはらしながら見ているのは辛い。だけど山三の心底からどうやって蒲生の殿様を引っ張り出せるか分からないし、肝心の山三が後生大事に抱え込んでいるのだもの」

 南蛮の楽器の音色がもの悲しく響く。

 お国がどうすれば山三が一時でも救われるかははっきりしていた。だが左門はそれを口にせずに弱々しく抗議した。

「でも山三は前向きだろう、仕官もした。藩の仕事にも熱心だ」

 お国はじっと左門を見つめた。篝火の明かりがお国の大きな瞳の中で揺れる。

「本当にそう思っているの」

 昼の暑さは夜になり、ましになったとはいえ、まだ蒸し暑く、篝火の熱がそれに輪をかけているというのに左門はぞくっと背筋が寒くなった。 

「だったらなおのこと、山三をなんとかしてやらないと」と左門は呻くように言った。

「なんとか出来るの」と、お国はきつい調子で尋ねる。

 お国が山三の女房になればいいのだがそれはお国に死ねと言うのに等しく、またそれで山三の危うさが完全に解消されるかはわからず、悪くすると共倒れになる。

「だから」と左門は口ごもる。

「だから」とお国が聞く。

「だから」山三の女房になれとは左門は言えない。

 左門はそびえたつ聖堂を見上げた。動かしがたい壁のようにそれは見えた。

 ふとお国に目をやると答えは得られないと見切ったのか、南蛮人に近づき見るだけで飽き足らずに着てみたいと交渉をはじめている。

 左門はため息をついた。

 お国は首尾よく袢纏を着せてもらい、革の腰紐をきゅっと結ぶと左門に得意げに振り返る。あでやかな赤がよく似合い、南蛮人達も左門も見とれた。

「左門、思いついたよ」と、お国は目を輝かせて声をあげた。

「春先の狂言、あれを練り直そう。あたしがこれ着てかぶき者をやる。柿丸に女郎屋のおかかをやらせようよ」

「なるほど」

 それまでは柿丸は田舎者の客でお国は女郎屋の主だった。

 女郎屋と声高に言うお国を振り返り、顔をしかめる信者達もいたがお国は左門にまくしたてた。

「女郎屋のおかかは欲張りだよ、あの手この手で金を持っていそうなかぶき者から金を巻き上げようとするのさ。かぶき者はのらりくらりとそれをかわす。ええっと、これにあった踊りも考えて、うたはあんたにまかせる。それから、隆達節、あれが欲しい。誰か歌い手を探して。なんか新しい感じがするじゃない、それから」

 お国は懐から扇子を取り出すと宙を睨む。

「これって、それはまずいだろう」と左門は隣で所在なさげに立っている南蛮人を見て言った。

「ほら、困っている」

 お国は振り返ると南蛮人達を見た。

「ああ、貸してくれただけなのね。左門,、売ってくれないか聞いて」

「買う金はあるのか」

 お国は首を振った。

 左門はあきれたがお国はすでに振りを考えている時の癖で扇子をひらひらと舞わせながら

「じゃあどこで売っているか聞いて。あとでお金の都合をつけて買いにいく」

 左門は苦笑した。 

 結局自分の無力感も先々の不安もお国が舞台に向けて動き出せばどうでもよくなる。大して頼りにされている訳でもないのに、あの大きな瞳で頼りにしていると言われたらその気になる自分がつくづく愚かだと思うのだがそれでも心地よい。

 ふと視線を感じて振り返ると聖堂の入り口にかたりが座ってこちらをじっと見ていた。金の目がきらりと光る。

 その眼差しになにやら不吉なものを感じながらも左門はお国の勢いに流された。

 結局左門は南蛮人と話し、その後二人は聖堂の近くの東屋でミサもミサの後に中庭で行われた芝居もほとんど見ることもなくただ新作について考えることに没頭した。

「とにかく扮装は南蛮風にかぶく、堺は面白い町だよ、ここの流行りをどんどん取り入れよう」

「目新しいものをやるんだな」

「風流踊りも、派手にとにかく派手に」

「おかかに煙管を持たせないか」

「いいね、あれ驚いた」

「隆達節はなにをつかう」

「まかせるよ、あたしが流しで聞いたのは 待つ人も来もせで 月はでたよの」

 そう言いながらお国はひらりと扇子を回す。

 やがて信者達が帰りはじめる頃に山三が二人のもとに現れた。

「帰るぞ」

 篝火の明かりに照らされた山三はひどく疲れているように見えた。

「又さんは」とお国が聞くと

「土佐光吉の屏風の前から動かぬ」

 お国が不安そうな顔をした。

「何か言われたのか」と左門。

「いや、村次殿の遺言で道薫殿の描いたという鬼の絵を渡されただけだ」

「鬼」

「法衣姿のおかしな鬼だ、道薫殿が自分を描いたと村次殿は考えておられたらしい」

「今更そんなもの見せられても」とお国が口をとがらせた。

「だから父を許してやれってことさ」

「たぶん。だがあれは得意のだんまりだ」

 三人は黙りこんだ。

 山三は「帰ろう」とお国と左門をうながした。

「又さんは」

「また明日の朝迎えに来ればいい」

「おいていくの」

「一人にしてやれ」

 三人は日比谷の屋敷を出た。

 昼間の熱気の残る生暖かい空気の中、時折磯の香りをのせた涼しい風が三人の間を通り抜けていく。

 左門は空を見上げた。

 暗い空を灰色の薄雲が時折半月を隠しながらゆっくりと流れていく。

「お国」と山三が思いつめた顔で声をかけるのと、ようやく又兵衛のことをあきらめたお国が興行のことを思い出し、嬉しそうに

「山三」と声をかけたのは同時だった。

 二人は顔を合わせ、戸惑い、黙りこんだが先に口をきったのは山三だった。

「これをやる」

 山三は懐から水晶の数珠に金の十字架のついた首飾りを取りだすとお国の手に握らせた。お国は弱い月の光でも輝く十字架をまじまじと見つめた。

「それは俺が亡き殿からいただいたものだ。仏の道に入ろうという家来にこんなものを下される変わったお方だったが俺は」

 山三は言葉を切り、息を吸った。

「俺はあの方に一生ついて行こうと決めていた。だからお気持ちは有り難がったが誰かの殉死の噂を聞く度に苦しかった」

 左門は山三の言葉に胸をつかれ、お国を見、そしてまずいと思った。

 魅入られたように十字架を見つめているお国は明らかに山三の話を聞いていなかった。

「だが縁あって俺は新しい主に仕えることになった。仕えるからには心底から仕える所存だ。だからそれは手元におけぬ」

 お国は十字架にゆっくり手を伸ばした。

 きらきらとした十字架はいかにも赤い袢纏に映えそうだった。

 だがそんなお国の様子に気づかない山三は続ける。

「お国、だからこれをお前に持っていてもらいたい。大切なものゆえ」

 お国はうっとりと手にした十字架を眺めながら言った。

「なんてきれい。ところで山三、幾ら持っている」

 山三は戸惑いながらお国を見つめた。

 左門は慌てて二人の間に入る。

「お国、今はきちんと山三の話を聞け」

 だがお国はまくしたてた。

「だけど左門、赤い袢纏も革紐もここじゃなくちゃ手に入らないよ。ねえ山三聞いて。新しい出し物を思い切り派手にかぶくのさ、この町の面白いもの詰め込んで。春先にやった出し物の練り直しなんだけど、あたしが若衆をやる。真っ赤な袢纏にこれ」とお国は十字架を高々とあげた。

「これをつけるよ、ああ、なんて綺麗」

 山三はむっとした顔で遮る。

「出し物なんか無しだ。お国、俺と一緒になれ」

 お国はきょとんと山三を見た。

「一緒って」

「俺と川中島へ行こう」

「そんなところまで落ちる気はないよ。それより聞いておくれよ、あの赤い袢纏で傾いて必ず盛り返してみせるからお願いだよ、お金を貸しておくれよ、倍にして返すからさ」

「盛り返したって先は知れているだろう」と山三は怒りを押し殺した顔で言った。

「踊りなんかもうやめろ」

 お国が憤然と山三に食ってかかる。

「やめろって。あたしに踊るなっていうの」

 山三は頷き,お国は吐き捨てるように言った。

「馬鹿馬鹿しい」

 山三はかっとなった。

「本当に婆になるまで踊る気か、五条の尼どころか橋の下で物乞いになるのが関の山だろう」

 お国がきっと山三を睨む。

 もう左門にはとりなしようがなかった。

 お国と山三は激しく罵り合い、あげくにお国は山三に十字架を投げつけて宿に帰っていった。

 左門は山三の足元の十字架を眺め、深いため息をつくとそれを拾い、山三に渡した。

 山三は黙ってそれを左門に押し戻す。

「悪気はないんだ。間が悪かったのさ、お国が新しい出し物を思いついたらそれでいっぱいになるのは今にはじまったことじゃない。日をあらためたらどうだ」と左門は話した。

 山三は首を振った。

「駄目だ。俺は三日後に嫁をもらう」

 左門は驚いた。

「どういうことだ」

「殿から家中の娘との縁談をすすめられている。お前が案じているとおり、俺は目立つらしいから、殿は俺に家中の娘を娶らせることで俺の起用に何かと異をとなえる連中を抑えようというお考えなのさ」

「それならなおさらお国はまずいだろう」

「俺はかまわぬ」と山三はきっと顔をあげて言った。

「それでお役御免なら仕方がない」

 左門はこの不器用な色男の青ざめた顔を痛々しい思いで見つめ、親身になってやらなかったことをひどく後悔した。

「ここで待っていろ、もう一度お国を引っ張ってくるから」

「いや、お前のいうとおり、あれは根っからの踊り雀だ。やはり籠の鳥にはなれぬ」と山三は苦笑いを浮かべると懐から金の入った袋を取りだすと左門に渡した。

「貸してやる、大当たりしたら取り立てにいくとお国に伝えてくれ」

「山三」

「宿へ帰れ、俺はこのまま堺を出る。夜駆けも乙なものだ。悪いが明日の朝、又兵衛のところへ行って一緒に土佐光吉のところへ行ってやってくれ」

 そういうと山三は左門に背を向け歩きだしたが二、三歩歩いて振り返るとぽそりと言った。

「又兵衛とお国は似ている、だろう」

 左門はどきりとしながら言った。

「昔、由己様もそんなことを言ったよ。だからお国は又兵衛に惹かれるのだろうと」

 山三は苦笑したこと

「なるほど、じゃあ又兵衛の方は似すぎているがゆえにお国を身内にしか思って思っていないとは言わなかったか」

 左門は山三を見つめた。

 あたしや又さんは花を咲かせるとうたうように言ったお国の顔と、俺はお前やお国、山三がいてそれだけでとつぶやいた又兵衛の顔が左門の中で交差した。

「気づいていなかったのか、お前もお国に惚れているだろうに」

 左門は口ごもった。

「俺は惚れてなんぞ」

 山三は微笑んだ。

「しっかりしろよ」

 左門は胸がいっぱいになった。

「山三」

 山三は何か言いかけたがそのまま言葉を飲み込むと踵を返して早足で闇の中に消えた。

 左門はただ見送る仕方なかった。

 宿に帰るとお国は夜具をかぶって寝ている。

 声をかけたが返事はない。

 左門はお国の枕元に十字架と金の入った袋を置くと部屋を出て、隣の部屋で欄干にもたれながら暗い夜空を見上げた。

日比谷邸での高揚感とその後の苦い後悔で眠れぬままにそのまま少しうつらうつらして、気がつくと朝ですでにお国の姿は十字架と金の袋と共に消えていた。

 宿の者に聞くと南蛮渡来の着物が手に入る店はないかと宿の者に尋ねて早くに出たという。

 踊りしかないのか、踊りに逃げたのが。

 左門はため息をつくとのろのろと身支度を整えて日比谷邸に出かけた。

 もしやとわずかに期待したお国はやはり来ておらず、案内された座敷の前では朝餉の膳を持った女中が困惑していた。

 聞くと又兵衛が屏風の土佐光吉の源氏を題材にした扇絵を写すのに夢中で声をかけても返事がないという。

 左門は女中から膳を受け取ると座敷に入り、又兵衛を眺めた。

 又兵衛は左門にも気づかない様子で絵を模写している。

 お国同様、こちらは絵に逃げてると思いながら左門は又兵衛に声をかける。

「おい、飯だ」

 返事もせずに絵を描き続ける又兵衛の背後に半分破れた鬼の絵が落ちていた。

 文武両道の道薫が描いたというには拙い法衣姿の鬼は大きな角と牙を持ち、顔はおどけているようにも泣いているようにも見えた。

 かつては猛将としてならし、あの信長に叛旗を翻しながら妻子も家来も捨ておめおめと生き延び、茶人として再び夜に出ながら結局は失意のまま消えた男が自分の人生を振り返り、皮肉と懺悔をこめて描いた自分だとしたらあまりにも痛々しいと左門が膳を下ろして手を伸ばすと、又兵衛が振り返り急いでそれを丸めて懐に押し込んだ。

「なんだ、親父殿の絵を俺には見せてくれぬのか」

 又兵衛は暗く淀んだ目をして左門を見、それから膝元に目を落とした。

 ああ、昔に戻った、と左門は思いながら

「いいさ」と言うと、又兵衛の前に膳を置き直す。

「早くすませろ、じきに迎えが来て土佐光吉殿の屋敷に案内してくれる」

 俯いたまま膳に手を伸ばそうとしない又兵衛に左門は語りかけた。

「山三は晩のうちに帰った」

 又兵衛は黙りこんだまま顔をあげない。

「お国は新しい出し物に夢中で山三の嫁になる気はないってさ」

 又兵衛は無反応なままだった。

 左門はしばらく黙って又兵衛と対峙していたが、かたくなな又兵衛の態度に急に怒りがこみ上げてきた。

 又兵衛が道薫や村次のことで深く傷ついているだろうこと、その傷がふざけた鬼の絵なんぞで許せるほど甘いものでないことも、お国が山三についていける道理がないこともわかってはいても苛立ちを抑えきれずに左門は又兵衛の胸ぐらを乱暴に掴んだ。

 人に手をあげたことのない左門のこの行動にさすがに又兵衛は驚いたのか、上目遣いに左門を見た。

「いいか、俺は山三に頼まれたから」

 左門は又兵衛の淀んだ目を睨んだ。

「だから俺は」ふてくされたお前何ぞに付き合っているのだと言いかけた時

「落ち着きのない」と背後から言われて左門は振り返った。

 かたりだった。

 庭に面した広縁で朝の日差しを浴びながら猫はゆうゆうと部屋の前を通り、ちらりと軽蔑するような眼差しを左門に投げかけた。

「あいつ」と立ち上がりかけた左門の腕に又兵衛が手をかける。

「よせ、猫にあたるな」

 左門は又兵衛を見た。

 又兵衛は左門の顔から視線をそらし、膳に手を伸ばすとぼそぼそと食べはじめる。

 左門は勢いをそがれて座りこんだ。

 庭の木で蝉が勢いよく鳴きだした。

 ほどなく村次の縁者だという老侍が来ると、左門と又兵衛を土佐光吉の屋敷まで案内してくれた。

 生前に村次と親交があったという土佐派の長老は心よく又兵衛を迎えてくれた。

 又兵衛は相変わらずの無表情で溜まりこくったまま、老侍とも土佐光吉ともほとんど会話を交わさず、その気まずさに左門の方が逃げ出したくなったが光吉は怒ることもなく、彼らを茶室に招きいれ、茶をたててくれた。

「なるほど、兄上殿によく似ておいでだ。あの方も静かだがうちに激しいものを秘めておいでだった」 

 左門は黙ったままの又兵衛の横顔をちらりと見た。

 頑固で頑なだが激しいとは思ったことがなかった。

 光吉はそんな左門の思いを察したのだろう、微笑みながら左門に尋ねる。

「この人の絵を見てそう思ったことは」

 いえ、といいかけて左門の脳裏に五条の茶屋で見た処刑場の絵が浮かぶ。執拗に描かれたあれは確かに激しいと言うべきか。

 あれが又兵衛の本質なのだろうか、だがだとしたら源氏絵を得意とする土佐派の端正な画風とかけ離れていないか。

「土佐も端正ばかりではござらぬ。そもそも土佐に限らずよい絵には激しさなり静けさなり、情念が漂うもの。それが味わいとなる。いかがかな」

 光吉は又兵衛に茶をすすめながら問うた。

 俯いていた又兵衛がはじめて顔をあげて光吉を見た。

 宗達の鶴、内膳の南蛮画、等伯の襖絵、光吉の扇絵、そして光信の百鬼夜行。

 確かにどの絵も訴えてくる、そして省みれば、技術は向上したが最近の又兵衛の絵は味気なかった。

 又兵衛は光吉の前に素直に手をついた。

「お願いでございます。土佐のご流儀、ぜひ私にも御教授ください」

 光吉はゆっくりと頷き、言った。

「よろしい。しかしその前に村次殿の墓に詣でてくれまいか」

 又兵衛は光吉の顔を見つめた。

「いろいろ思いはござろう。だがあの方も自分は何もしてやれぬと言いながら又兵衛殿のことを気にかけておいでだった。一度顔を見せてさし上げればさぞや喜ぶことだろう。のう、又兵衛殿。絵に打ち込むことはよいが、絵に逃げてはならぬ。回りが見えなくなれば己が何を描くのかもわからなくなる」と、諭すように光吉は話しかけた。

 又兵衛はしばらく俯いていたが

「はい」と答えると光吉に深々と頭を下げ、それから老侍に向き合うとこちらにも深々と頭を下げて頼んだ。

「兄上の墓所に案内をお願いします」

 又兵衛は土佐光吉のもとに絵を習うために月に二回ほど堺に通うことになった。

 帰り道、左門は又兵衛に話しかけた。

「兄上殿がつくってくれた縁だ。有り難く思わねばな」

 又兵衛はそっぽを向いた。

「俺も幼い頃に戦で一家離散の憂き目にあって親兄弟の行方は知れぬ。由己様が親身になって下さったから寂しくはなかったが」

 又兵衛が少し驚いた顔で左門を見た。

「言ってなかったか」と左門はうろたえる又兵衛をからかうように続けた。

「やはりお前は御曹司だ。いつだって自分が一番不幸だと思っている」

 又兵衛は泣きそうな顔になり、

「俺は」と口ごもる。

 左門は苦笑した。

「ずっと戦続きだったんだ。そんな奴はいっぱいいる。まあ俺はお前と違って母を覚えているし、由己様やお国、山三、お前が家族みたいなものだったから」

 左門はそう話しながらここ数日の自分の不安と苛立ちのもとがわかった気がした。

 お国や又兵衛のように目指すもののない自分は彼らと一緒にいたい、それだけだった。

 確かに自分はお国を好いているしお国は又兵衛が好きだ。だが又兵衛にその気がない以上このゆるい関係はこのまま続く。続いてほしい、山三も含めて。

「俺にだってお前は家族みたいなものだ」と又兵衛はしどろもどろになりながら左門を見つめて言った。

 だがお前には絵がある、そう思いながら左門は誤魔化すように笑った。

 笑いながらももうずいぶんと思い出せずにいた母や寂しそうな由己の背中や、昨晩の山三の様子が思い出されて胸が痛んだ



 



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