第8話 お国歌舞伎
秋が来て、冬が来た。
そして厳しい寒さを経て梅が都のあちこちで深い薫りを漂わせる頃にお国は四条河原に帰ってきた。
帰ってきて、興行にかけた茶屋遊びはあでやかにかぶいたお国の若衆姿と柿丸扮するおかかの丁々発止のやりとりが面白いと評判になった。
堺で見つけてきた声のいい三十郎という若者に隆達節をうたわせ、踊り上手な采女に茶屋の場面で踊らせたのも当たった。
連日の大入りで五月には北野天満宮で大きな興行をうつことも決まった。
一方の又兵衛の方はお国ほど劇的な変化は見られなかったが、兆しは現れたようで、桜の蕾が膨らみ、春めいた頃に久しぶりに俵屋を訪れた左門に宗達が開口一番に
「又さん、変わったな」と言った。
「そうか」と左門は喜んだ。
土佐派を学んだことが又兵衛にとってよかったのなら亡き村次も喜ぶだろう。
「変わった、なんとのう絵に色気が出てきた。内膳さんもそう言うてないか」
「さあ、このところ忙しくて又平衛に会ってないんだ」
戻ってきたお国達と合流した左門はここ数日、お国と共に北野天満宮にかける新作を練っているのだが、これという案もなく、四条河原に出ている他の出し物を見たり、古い書物を当たったりしている。
「それじゃあ、そろそろ又兵衛もあたるかな」と左門は扇を眺めながら何気なく宗達に話しかけた。
表から笛太鼓の賑やかな音が聞こえてくる。
春も近いと人も浮かれるのか、このところ都では、笛太鼓や鉦を賑やかにならしながら趣向を凝らした装いで踊りあう風流踊が流行っていた。今も大きな絹張りの傘を先頭に色鮮やかに着飾った男女が踊りながら通り過ぎようとしていた。
賑やかなのが好きな宗達はそっちに気をとられながら
「それはどうやろな、都では無理かもしれん」と答える。
左門は驚いた。
「あんたは又兵衛をかっているんじゃないのか」
「そうや」
しれっと宗達は言うと左門に扇子を開いてみせた。
「又さんがおさめてくれた小野小町や」
豊かな頬に長い頤の姫が描かれていた。
「ええやろ、気品はあるけど俗っぽい」
「俗っぽい?」
左門は扇子の姫を見つめた。
「そうや、俗っぽい。わしはたまらんほど魅力的やと思う。わしにはこんな姫は描けん。けど俵屋の客のお公家はんや坊さん、京の金持ちや京風にすれたお武家はんにはこの魅力が分からんやろ、だから又さんの先は厳しい。等伯はんのように自分で知恵を絞って売り込めればまた違うけど不器用やしな。織田信雄はんに屑侍とさんざん言われて今更本人も侍にごまをする気はないやろし、気悪うせんといてな。これは悪口やないで、又さん」
宗達の最後の一言に左門が振り返ると青い顔の又兵衛が立っていた。
「又兵衛」
又兵衛はそのまま踵を返すとふらふらと店を出ていく。
左門は追った。
「又兵衛」
又兵衛は逃げるように早足で歩く。左門は駆けよると又兵衛の前に回りこんだ。
「宗達さんはお前が駄目だと言っているんじゃない。好みが分かれると」
青い顔の又兵衛は俯いたままぽつりと言った。
「千がもう長くないと」
千は又兵衛の乳母の名だった。
「なのに俺は千を安心させることも出来ない」
「描くしかないさ、又兵衛。絵は良いと宗達さんも言っている。後はお前の魅力が分かる客が現れるまで描くしかないだろう」
「いつまでだ」と、又兵衛はかみついた。
「分からぬ、分からぬがそのうちお国が盛り返したようにお前だって」
左門は大した慰めになっていないことを知りながら又兵衛に語りかけた。
又兵衛もそれがわかっているから言い返す。
「お国はもともと人気者だ。一緒にならん」
左門が言葉に詰まっていると
「又兵衛様」と一人の娘が甲高い声で又兵衛の名を呼び、駆けてくる。
又兵衛は顔をあげて娘の名を呼んだ。
「園」
十五、六のその娘は乳母の縁者で半年ほど前から看病をするために里から出てきていた。
左門も又兵衛を訪ねた折に、乳母の使いできた彼女を何度か見かけていた。
「千様が」と言うなり園は涙ぐんだ。
又兵衛は顔色を変えて走り出した。
園は息を切らせながら又兵衛の後を追おうとして足をもつらせて転んだ。
左門は慌てて手を貸し、助けおこした。
「大丈夫か」
園は左門を見上げた。
「すみません」
「又兵衛の乳母殿はそんなに悪いのか」
うなずく園の目から涙がこぼれた。
「私、行かなくては」
園はそう言うと又兵衛を追いかけた。
左門は暗澹たる気持ちで園を見送った。
その日の晩、千は亡くなった。
城から乳飲み子の又兵衛を抱えて逃げ、必死の思いで本願寺にたどり着き、ただ又兵衛の成長を楽しみに生きた。道薫の理不尽な勘当にうろたえ、信雄の元に仕官を願って又兵衛を送り出しながらも、又兵衛の辛い境遇に誰よりも胸を痛め、涙を流した。だから又兵衛が侍になることを願いながらも絵の道を進むことを許し、その行く末を案じ続けた千は又兵衛の母同然であり、それ以上であった。
ささやかな野辺送りには左門も加わった。 泣きもせず虚ろな目でうなだれる又兵衛が哀れだった。
お国もしきりに又兵衛のことを心配したが四条河原での興行だけでなく、あちらこちらから踊りにきて欲しいと声がかかり、とにかく忙しい。それに加えて北野天満宮での風流踊りまでのあと一月をきり、早く振り付けを考え、娘達に稽古をつけなければならない。
それやこれやでお国が左門と共に又兵衛をようやく訪ねることが出来たのは野辺送りから三日後のことだった。
「又さん、大丈夫だろうか、ちゃんとご飯を食べているかな」としきりに気を揉むお国に左門は苦笑した。
「お前こそちゃんと食べているのか、痩せたのじゃないか」
お国は疲れてやつれたように見えた。
「あたしは呼んでもらった先でご馳走をいただいているからいいんだよ、ほら」
お国は懐から小さな袋を出した。
「昨日堺のお大尽からいただいた金平糖。甘いものは元気が出るからね、又さんに」と言いながら、又兵衛の住む長屋に目を向けたお国の足が止まった。
戸を開けて出てきたのは狩野内膳でそれを送りに出てきたのは園だった。前掛け姿の園はしきりに内膳に頭を下げた後、再び中に戻って行く。初々しいその姿はまるで女房のようだった。
内膳が左門達に気づいて手をあげる。
「左門さん、お国さん」
又兵衛よりも八つ上の内膳は又兵衛がかつての父の主というだけで最初は若様と又兵衛のことを呼んだ。さすがに困ると又兵衛が呼び捨てを望み、それは内膳が出来かねると揉めた末ようやく「又さん」で落ちついたが、内膳は又兵衛の知り合いの左門までさんづけで呼んでくれる。
年上で豊臣の絵事まで務める大絵師にさんづけで呼ばれることに左門も当惑したが律儀な内膳は若様の知り合いを呼び捨てには出来ないらしい。
その内膳に園は国に帰ったものだとばかり思っていたと左門が言うと
「私がいてくれるように頼んだのです、どうにも又さんの様子が心配なので」と内膳は言った。
内膳の話だと、又兵衛はひどくふさぎこみ、食事どころか、筆さえも手にとらないという。
乳母の死と最後まで心配をかけたことがこたえているらしい。
それにしても絵も描けないとは
「又兵衛らしくない」とつぶやいた左門は、横で黙って話を聞いていたお国がふらっと向きを変えて帰りだしたのに驚いた。
「おい、お国」
お国は左門の呼びかけに答えず、すたすたと歩く。左門は慌てて追いかけた。
「どうした、又兵衛に会わないのか」
「絵も描けない又さんに会ってどうするのよ」
「お前、あれだけ又兵衛のことを心配していたじゃないか」
お国は俯くと立ち止まり、左門に菓子の入った袋を押しつけた。
園のことがひっかかっているのだろうと察した左門は
「あの娘は乳母殿の流れで又兵衛の世話をしているだけだ」
「わかっている、だけどあたしには出来ないことだ」
「そんなことを又兵衛がお前に期待するものか、お前は踊る、それで十分だろう」
お国は俯いたまま、又兵衛への思いを確かめるように懐の扇子にそっと手をやるのを見て、左門は胸がちくりと痛んだが続けた。
「昔、北野天満宮でお前が小栗を踊って又兵衛を慰めたことがあったろう、あれでいいんだよ」
狂言綺語も讃仏乗の因、由己に教わった言葉が左門の脳裏に浮かんだ。
お国はそれを体現するさだめで、たぶん又兵衛はお国に会うことでしか絵の道に戻れない予感がする。だが今度もお国に救われたら又兵衛の中で何かが変わり、二人は男女の仲になるのではないか。
「なあお国、なにがあっても絵を描くことで己を守ってきた又兵衛が今度ばかりは乳母殿への罪悪感で筆がとれない。その苦しみから救ってやれるのはお前しかいないじゃないか」
それだけか、その後はどうなる、心の中で何度も、もう一人の左門が問いかける。
「だから」と言いよどむ左門の視界の隅を三毛猫が通った。
「かたり」
ゆうゆうと往来を歩いていくかたりの向こうから入れ違いに笠をかぶった一人の僧侶が経を唱えながら歩いてきて、お国と左門の前で立ち止まると二人に声をかけた。
「左門とお国ではないか」
お国は笠の中をのぞき込み、驚いたように言った。
「宗彭さまじゃないの」
大徳寺で山三をかわいがっていた宗彭だった。宗彭は山三が寺を出てからまもなく師と共に石田三成の招きで佐和山に行き、関ヶ原後は三成を弔った後に堺に移ったと聞いていた。
「お久しぶりです」と頭を下げる左門に
「おぬしらに会えるとはやはり山三の導きなのだろうな」とつぶやいた宗彭の目は赤い。
「やだよ、泣くことないじゃないの、いくら懐かしいからって。でも大変だったねえ」とお国は宗彭をねぎらう。
だが左門は悪い予感がした。
山三はお国が四条に戻ってきても顔をみせていない。ちょうど主君森忠政が暮れに川中島から美作に転封になり、忙しいとは聞いていた。
「山三から便りはありましたか、噂では美作では森忠政公お国入りに際して大きな一揆があって大変だと聞いて心配していたのですが二月にきた手紙では無事にお国入りが済んだ、忙しいが元気にしているとだけで」と左門がたずねると宗彭の目に涙が溢れた。
「宗彭様ってば」と苦笑しながら腕に手をかけのぞき込むお国に宗彭は言った。
「山三は六日前に死んだ」
二人は息をのんだ。
「藩の古参の家臣と斬りあい死んだと」
左門もお国も黙って宗彭を見つめた。
「せっかくの蒲生の殿の願いを無にしおって、あの馬鹿者が。せめて成仏出来るようにわしはあいつのいたところを回って経を唱えてやっている」
そう話すと宗彭は鼻をすすり、数珠を握りしめた。
「そんな、あの山三が斬られるはずが」
真っ青な顔で今にも倒れそうなお国を支えながら左門は呻いた。
「相手には弟が二人が加勢についていたそうだ。いずれも百戦錬磨の侍で、いくら山三でも三人の猛者相手では敵わず、相手と相討ちで果てたと」
「美作から来た者に直接聞いたのですか」
宗彭は涙ながらに肯いた。
「昨日美作から堺に商用できた者が城下は大騒ぎだったと話してくれた」
お国が気を失った。
左門はお国を介抱しながら宗彭の話が信じられなかった。信じたくなかった。
宗彭に助けてもらいながらお国を一座の小屋に連れかえったがお国はしばらく伏せたままだった。
名古屋山三郎の死は瞬く間に京の町に広がり、噂になった。
左門は再び又兵衛を訪ねた。
応対に出た園が左門を奥に通す、といっても安い長屋で板間の座敷は二間しかない。その隅で膝を抱えた又兵衛が虚ろな目で小さな庭を眺めていた。
「よおっ」と声をかけた左門に
「山三さんのことなら聞いた」と又兵衛はぼそりと言った。
「そうか」
それきり二人は黙りこんだ。
向かいの壁に寄せた文机の上いっぱいに置かれた絵道具が埃をかぶっていた。それ以外のところは綺麗にしているのを見るとたぶん又兵衛がそこだけは園に触らせないのだろう。
「お国が寝込んだ」
又兵衛は肯き、顔を膝に埋めてしぼり出すように言った。
「分かる、死なれると辛い」
左門は何も言えずに黙っていた。
しっかりしろとも、いい加減にしろとも言えない。左門自身がお国や又兵衛の面倒をみなければならないと思うからうろうろ動いているだけで、それさえもよく分からない、立ち尽くしてただ泣きたかった。
山三ならこんな時どうしただろうとつい思い、胸が痛い。
あれから山三は新しい主のために元気にやっているのだと左門は思って、いや思おうとしていた。山三のことだから元気にやっていたはずだった。
斬りあいの相手の井戸という家臣は藩主の縁戚で何かとうるさいことを言い、藩主に煙たがられていたらしい。それで井戸を討てと密命が山三に出た。ところがその密命が漏れて三対一の対決になったらしい。やはり派手な新参者を妬む者がいたのか。だからあれほど目立つなと言ったのに、と左門は悔しかった。いや、山三は胸の中にある鬱屈した思いから逃れるためにあえて派手な行動をとっていたのではないか。
だからお国は「本当にそう思うの」と聞いたのだ。そして自分もわかっていた。わかっていながら何もしなかった。
いろいろな思い出や堺での別れ際の寂しい後ろ姿が去来し、左門はつらかった。
結局俺は皆が家族のようなものだと言いながら山三を見捨てたのだ。
又兵衛とはその後も大した話もしないまま小屋に帰ると柿丸が青い顔で左門を迎えた。
「どうした」
「お国が狂った」
左門は怪訝そうに柿丸を見た。
「なんだって」
「そうかて」
そこに派手な化粧に若衆姿のお国が来て、待ちかねたように左門の腕を掴んで言った。
「左門、北野に山三を出すよ」
「何を馬鹿な」「馬鹿なものか、北野では山三を呼んで念仏踊りをするって決めた。筋は今日中に書いておくれ、明日振り付けて十日後の舞台に間に合わせる」
まくしたてるお国の胸には形見の金の十字架が揺れている。
「山三は死んだ」
「わかっているよ、だから弔ってやる。あたしが舞台で踊る、そこへ山三が笛を吹いて出てくる。そして一緒に念仏踊りを踊るんだよ」
熱に浮かれたように話すお国が哀れで左門は抱きしめた。
「早く書いておくれ、あたしは山三を探さなきゃ」ともがきながらお国は言った。
「山三は死んだ」と言い聞かせる左門にお国はいらついて言った。
「わかっているよ、左門。だから山三役の男を探すのサ、笛が上手くて背格好の似ている奴をね。柿丸、早く皆を集めておくれ、また興業をはじめるよ、寝込んでいたらおまんまの食い上げだからね。忙しくなるよ、それが終わったら稽古だ、山三も探さなきゃ。ちょっと離しておくれったら。あたしは忙しいんだよ」
お国は左門の腕を乱暴に振りほどいた。
柿丸はあきれたように首をふる。
「面白えじゃねえか、念仏踊り」と端で見ていた三十郎が言った。
「お国さん、どれだけ似ているかは知らねえが北野の梅が山三郎似の若い浪人をかわいがっているって噂だぜ」
「お前、また余計なことを」と柿丸が咎めたがお国は三十郎の話に食いついた。
「北野の梅って六条柳町のかい」
「ああ、ただその若いのが山三郎のように年増好きかどうかはわからねえが」
若い三十郎は斜に構えるところがあり、口が悪い。それがもとで隆達節の師匠のもとを破門になってお国一座に拾われたのだが、本人は声を妬まれたのだと言っていっこうに反省する気もなく、度々その言動で回りと揉めた。
お国は熱のこもった大きな目で三十郎を見、にやりと笑った。
「試してみようじゃないか」
「馬鹿なことを」と止める左門をお国はきっと睨む。
「左門、今日中にいいね、山三の弔いなんだから。大筋はこうだ、あたしが法衣姿で念仏踊りを踊ると客の中から血まみれの山三が立ち上がり笛を吹く」
「なんとえげつない」と柿丸が顔をしかめた。しかし三十郎ははしゃぐ。
「いいねえ」
「それから山三を舞台にあげて皆で念仏踊りを踊る、そんな具合にしておくれ」
「神社でそないな気色悪いこと出来るかいな」と柿丸が言い、左門も
「そんなものは書けぬ」と首を振った。
お国は左門の襟をぐっと掴み、顔を寄せて言った。
「げてものになるかならないかはあんたの腕次第だよ。やるよね。あんたもあたしも山左を救えなかったんだから」
左門は目を見開いてお国を見た。お国の大きな目がかつて見たことがない冷たさをたたえていた。
左門はへなへなと座りこんだ。
お国は冷ややかに左門を見下ろしていたが娘達の賑やかな声が聞こえてくるとさっさと衝立の向こうに消えた。三十郎が愉しそうに後を追った。
「完全に狂ってもうた」と柿丸が呻くと左門を気づかった。
「大丈夫か、左門」
左門は無言でよろよろと立ち上がるとよろけながら小屋を出た。
ふらふらと歩き続け、気がつくと松婆の店の前にいた。
又兵衛を担ぎ込んだあの日から十二年の歳月がながれていたが松婆はまだ店をやっていた。
さすがに耳も遠く足腰も弱くなり、店の切り盛りは若い者に任せて、店先で居眠っていることが多くなっていたがそれでも左門に気づき、立ち上がり迎えてくれた。
「山三は可哀想に、まだ若いのになあ」と泣いて、
「お国と又兵衛はどうしている」と尋ねた。
しかし左門が青い顔で黙りこんでいると、松婆はその背中をいたわるようにさすりながら言った。
「奥で泣いておいで、辛い時には泣くのが一番」
左門は言われるままに奥に行くとかつて又兵衛が処刑場の惨状を描いた暗い板間の部屋に転がった。
あふれ出る涙を拭いながら左門は山三の死を聞いてからお国の涙を見ていないことに気づいた。
「泣かなきゃ心が冷えてしまう」
少女の時にそう言ったくせに泣きもせず、全てを踊りに押し込めようとしているお国が哀れで、そんなお国にも又兵衛にも、そして亡くなった山三にも何も出来ない、出来なかった自分が惨めで左門は泣いた。
泣くしかなかった。
一晩泣いて明け方に左門は外に出た。
松の間を抜け、土手に座ると辺りをボンヤリと見回した。
河原にも橋にもまだ人影はない。白々と明けかけた空の向こうに見える山々は桜よりも若々しい緑が増え、春の終わりを示していた。
呆けたように座りこんでいる左門の耳元で
狂言綺語の戯れも讃仏乗の因
という由己の声がした。
狂言綺語も、と続けながら左門は思った。
お国はお国のやり方で山三を送って慰めてやりたいのだ。踊ることでしかお国は山三を送れないのだろう。
ならば自分もお国と山三のために出来ることをするしかない。由己のような才能はないが知っている限りの美辞麗句を並べてお国の気がすむように山三を送ってやろう。
左門はふらりと立ち上がった。
とにかく書こう、お国のもとに戻るのはそれからだった。きっとお国は三十郎の言っていた若い浪人に会いにいっている。北野の梅のお気に入りを一座に引っ張り込むのはそう簡単ではないだろう。浮舟は山三がお国を思っていたことは知っているだろうし、年増の踊り子の頼みを聞いて都一の美女の機嫌をわざわざ損ねる男もいまい。お国がその若い浪人を一座に引っ張り込むためにどんな手を使うのか、ろくでもないだろうそれを左門は考えたくもない。
とにかく今は書く。
左門は松婆の店に戻った。
書くこと、それから又兵衛にもやらせることがあった。たぶんそれが又兵衛の立ち直るきっかけにもなる。誰かのために何かをすることで救われるのはお国も自分も又兵衛も同じなのだから。
翌日、左門は一座に戻った。
お国が連れてきた右京と名乗るその浪人は笛が吹け、背格好こそ山三に似ていたが顔立ちも雰囲気も遠く及ばず、どうして浮舟がこんな男に関わったのか、誰もが不思議に思った。何より態度が大きく、上目遣いに人を睨む目が貧相だった。
だがお国は猫なで声で右京の機嫌をとった。
「あんたはいいの、何もしなくても。いい男は立っているだけでいいのさ。そうだ、酒でも買ってこようか、ほかに欲しいものはないかい」
ベタベタと右京の世話を焼くお国から目をそらしながら左門は舞台の準備に明け暮れた。お国らしくないと訴える采女や柿丸をなだめ、すっかり右京に骨抜きになっているかのようなお国を軽蔑して稽古に身の入らない娘達や三十郎を叱る。
お国とは必要以外話さないし、お国も口をきかない。それでも稽古の支度が出来ればお国は左門が呼ばなくても来たし、左門が眉を顰めればお国は的確に直した。
ようやく舞台を明後日に控えた日、右京が着るものがないと騒いだ。
「肝心の俺の着るものがないとはどういうことだ」
特注で誂えた艶やかな小袖を娘達が嬉々としてまとい、柿丸がおかか用の派手な打ち掛けの古着を羽織るのを横目で見ながら右京は左門に詰め寄った。
「血染めの帷子は今晩お国が俵屋に取りに行くことになっている」と左門は答えてお国を見た。
お国は一瞬左門の顔を怪訝そうに見たが
「血染めだと、おまけに扇の俵屋なんぞに頼んだのか」と憤慨する右京と左門の間にすべり込むと右京をなだめる。
「いいんだよ。宗達さんは元々唐織屋の蓮池の人なんだから。あんたのはその俵屋さんに特別に手配してもらったんだ。それに天下一の俵屋宗達が関わった着物となればそれだけで評判じゃないか」
右京は渋々引き下がるが、ぐずぐずと言った。
「そうかい。唐織か、なあお国、前にも言ったろう。金糸銀糸で派手な竜虎を描いてくれって。槍の山三が帷子に血だけなんて地味なのは御免だぜ。俺はそんなものは着ないからな」
悪趣味なこだわりに采女や柿丸は眉を顰めたがお国は愉快そうに笑った。
「いいなあ、あんたのそういう派手好きなどころは山三にそっくりだ」
左門はその笑い声を背にその場を離れた。
小屋を出て、足は又兵衛のもとに向かう。
又兵衛は青い顔で酒をのんでいた。嗜みはするが強くはない。壁に斜めにもたれ、だらしなく足を投げだし、あごをつきだして酒をすすっている又兵衛の頭を左門ははたく。
「園さん、金輪際こいつに酒を飲ませたら駄目だ」
左門はそう言うと涙を浮かべて肯く園を尻目に又兵衛を無理矢理立たせて表に引きずり出した。
「お前は今までどんなことにも耐えてきたのだろう」と左門はふらふらの又兵衛を引きずりながら怒鳴った。
「なぜ今になってこんなだらしがない逃げ方をする」
「まるで山三だな」
そう言って又兵衛はへらりへらりと笑う。
「俺は千を泣かしたくなかっただけだ。なのに山三は俺に等伯のようになれと言った。俺に期待すると面と向かって言ってくれたのはあの人が初めてだ。だけど死んじまった。千も死んだ。皆、俺の駄目っぷりに呆れたまんま」
左門はくらげのように力のない又兵衛を支えながら腹を立てた。
「それが情けないなら一人前になれ」
「なれないから親父も見限ったのだ」と又兵衛は言い返すと今度はべそべそと泣き出した。
左門は又兵衛を見つめた。
今まで追いつめられると又兵衛は無表情の下に感情を隠し、黙りこんだ。二度、確かにお国に救われて泣いたがあれも何を言い訳するでなく押し殺したような泣き方だった。
つかみ所がなく、それが山三や左門を苛立たせもしたがあの無表情は又兵衛なりの気概ではなかったか。己への蔑みの言葉を平然と口にし、ぐずぐずと泣くだらしなさはそのままこの男が崩れていく予兆だった。
「じゃあお国はどうなる」
「お国には踊りがある」
「お前にだって絵があるだろう」
「お、俺の絵なんざ落書きだ」と又兵衛は自虐的な笑みを浮かべ、ろれつの回らない口で言った。
「織田の殿の言うとおり、下手で下品。宗達さんや内膳さんを見ろ、上手い奴らは早くから成功している」
「だが等伯は諦めなかった」
又兵衛は答えずに涙で汚れた顔でまたへらへらと笑う。
こっちもお国同様壊れていると左門は泣きたくなったがとにかく俵屋へ引きずっていく。
「なんや」と驚く宗達に
「空いている土蔵でも納戸でもいい、これを押し込めて酒を抜く場所をかしてくれ」と頼みこんだ。
そしてぐずぐずになっている又兵衛を宗達に案内された納戸に放り込むと宗達に頭を下げた。
「申し訳ない、迷惑ついでにもう一つ頼みがある」
その晩、酒の抜けた又兵衛を納戸から出した宗達は言った。
「あんた、絵をやめるらしいな、それでこれからなんで食べていく気や」
又兵衛は生気の抜けた虚ろな目でうなだれたまま答えない。
「侍は無理やろ、いっそ寺に入って坊さんになったらどうや?乳母や山三の菩提を弔うのもええわな、そうや坊さんになんなはれ」
宗達はまくしたてた。
「なんにしても今日は左門に泣きつかれたから面倒は見たが次は堪忍や。飲んだくれの面倒みる義理はないし、俵屋にも傷がつく」
宗達はそう言うと厳しい目で又兵衛を見た。又兵衛はいっそううなだれた。
宗達はそんな又兵衛を睨んでいたがしばらくすると黙って又兵衛の腕を掴み、屋敷の奥の工房に使っている蔵まで引っ張っていくと中に又兵衛を押し込んだ。
四隅に煌々とつけた蝋燭のもと、部屋の真ん中に白帷子が広げられ、お国がその手前に座っていた。
思わずたじろいだ又兵衛が振り返った鼻先で宗達が戸を閉めた。
宗達はそのあとにこっそりと裏の出だし窓の下にいる左門の元に行った。
「ありがとう、世話をかけて本当にすみません」と頭を下げる左門に宗達はにやりと笑う。
「あんたも物好きやな、もっともわしも」
左門は宗達を目で制すと中をのぞく。宗達も隣で覗きこんだ。
中では着物を背に手をついたお国が又兵衛を見上げていた。
「又さん、お願いだ。山三の血帷子を書いておくれ」
又兵衛はお国から目を背けて首を振る。
「どうして」とじれったそうにお国は聞いた。
「出来ない」と消え入りそうな声で又兵衛は言った。
「山三の弔いの念仏踊りにどうしてもいるんだよ、又さんだって山三には世話になっただろう」と、たたみかけるお国に又兵衛はもそもそ何か言い、そして黙りこむ。
しばらく続いた沈黙に痺れを切らしたお国は立ち上がる又兵衛に詰めよると、叫んだ。
「あたしに踊りしかないようにあんたには絵しかないじゃないか」
又兵衛は追いつめられ、部屋の隅にしゃがみこむと頭を抱えて呻いた。
「俺は千を不幸にした。山三にも何もしてやれなかった」
お国は哀しげに吐き捨てるように言った。
「してやるなんておこがましい」
又兵衛がお国を見上げた。
「生きている、それだけでいいんだよ。千さんは又さんが生きてりゃそれで十分だったはずさ。あたしも山三が生きてりゃそれでよかった。本当に大切ならそれだけでいい、もしそれ以上を望むなら相手が幸せそうならもっといい。だから千さんや山三はあたしらに踊りや絵を許したのだろう」
そう言いながらお国は又兵衛ににじり寄るとその膝を叩く。
「違うかい、違うかい」
そう言いながらに泣き出した。
山三の死を聞いてからお国がはじめて流す涙だった。
それはだんだん激しくなり、終いには又兵衛の膝に突っ伏して泣きじゃくる。
最初はお国の剣幕に押されていた又兵衛もお国の背にそっと手をおき、やがてさすり、それから抱きしめた。
左門は目を背け、窓から離れた。
やはりお国は又兵衛のもとでしか泣けなかったのだと思うと切ない。
「帰ります」と、左門は宗達に言いながら頭を下げた。
宗達は左門を気の毒そうに眺めて聞いた。
「なあ、なんでわしがあんたの力になったと思う」
「さあ」と左門は宗達を見た。
「わしには幼なじみも友人も仰山おる。おるけどあんたらみたいなぐずぐずと面倒くさい者はおらん。光悦兄さんは大人やしな」
左門は思わず苦笑いをした。
町衆と公家という都の瀟洒な文化で磨かれた人付き合いの中で育った宗達から見れば自分らのような仲は確かにぐずぐずと面倒くさいのだろうが、そう言いながら宗達は少し羨ましげでもあった。
「本当に面倒くさくて辛いばっかりだ」と左門は言った。
「まああんたの家族みたいやもんやから」とからかうように宗達は言った。
左門は少し驚いたように宗達を見た。
この意匠の天才は人を見抜く力も卓越しているらしい。
「けど無理しなはんや」
月が雲に隠れ,辺りは急に暗くなり、そう言った宗達の顔は見えない。左門は闇の中で黙っていた。
その晩に又兵衛の描いた血染めの帷子は左半身を真っ赤に染め、残る白地には腰から裾へ血飛沫と見まがう曼珠沙華が荒々しく咲き乱れ、右肩に小さな黒揚羽が一匹舞うというものだった。
翌日の昼過ぎに左門が様子を見にいくと蔵の外に出した衣たけに掛けたそれを地べたに座りこんだお国がうっとりと見上げていた。
左門は帷子の出来もさることながら、晩春の眩しい日差しの下、やつれた頬をわずかにほんのりと赤く染め、熱でもあるかのようなうるんだ目で帷子を見上げるお国の儚げな美しさに息をのみ、声をかけそびれて立ちつくした。
「天下一の絵師におなりよ、又さん」と、お国は左門に気づかずに蔵の中の又兵衛にうたうように話しかける。
「あたしは先に天下一の踊りを見せるから」
中から又兵衛が何か言ったが聞き取れない。ただお国は満足げに微笑んだ、それで十分だった。
左門はわざと大きな声をかけた。
「帷子は出来たのか」
お国が驚いて振り返り、又兵衛が蔵の中から顔を出した。
「左門」
二人がともに一瞬浮かべた申しわけなさそうな表情が左門を孤独にした。
「見ておくれよ」とお国は嬉しそうな笑顔を左門に向ける。
久しぶりに見るお国の笑顔よりも先ほどのあの顔をずっと見ていたかったと思いながら微笑んで左門は肯いた。
そして迎えた初日、五月の空は真っ青だった。
お国が死んだ名古屋山三郎を舞台に出すらしいと噂はすでに都中に広がっており、竹矢来の中は筵敷きの席も両脇に設けられた桟敷席も人で溢れていた。
はじまりの刻限が迫る。
右京はぎりぎりまで金糸銀糸も竜虎もないとごねていたがそれまで優しかったお国に舞台に立てと一喝されて大人しくなった。
左門は一通りの用意が出来たのを見届けるとその場を離れ、あらかじめとっていた桟敷の奥に座った。これからはじまる舞台を前に大きく息を吸って吐き、辺りを見回すと少し離れたところにいるひときわ艶やかな娘達が目についた。容貌も秀麗で着物も町娘にしてはかなり贅沢なものを見につけていた。
「そろそろはじまりますよ」
「右京のうらなり、どこまで化けられるやら」
小声で囁きあい、笑う娘達の中心には表情は固いが際だって美しい娘がいた。
「お国も馬鹿な女」
「浮舟があんな男に本気になるわけもないのに、必死の色仕掛けで口説き落として」
「あげくに土下座までしたらしいよ」
「本人ばかりの山三様気取り、鬱陶しくてくれてやったとも知らずに」
浮舟は黙りこくったまま物憂げに舞台を見ている。
太鼓が鳴り、興行のはじまりを告げた。
賑やかな笛と鉦の音、赤いユライをつけた娘達が出てきてややこ踊りを踊りを華やかに踊る。
その後に茶屋遊びがはじまった。
髪を高く結い、赤い袢纏に革の細紐をきりっと締め、胸には金の十字架のついた水晶の首飾り、金細工の柄拵えの瀟洒な細い刀を差した艶やかな若衆姿のお国と鬼瓦のような厳つい顔にどぎつい化粧で古着の派手な打掛を羽織り、女将に扮した柿丸が登場し歓声がわく。
茶屋遊びに来た田舎の若様とやり手の女将の丁々発止のやりとり、間に三十郎がよい声で謡う隆達節と遊女に扮した采女の可憐な踊りがはさみこまれ、茶番劇に花をそえた。
ただしこれは短めに終わり、舞台からいったん人が消えた。
しばらくすると黒い着物の三十郎が出てきて隆達節を謡う。
「牡丹は紅白、松は緑、一期の夢の色は濃きにて候」
ひときわ高く笛が鳴り、それを合図に華やかな着物に金銀の扇を手にした娘達と赤い絹貼りの大きな傘を担いだ黒衣に黒頭巾の柿丸が出てきた。娘達は柿丸を囲むようにして輪をつくり、うたいながら風流踊りを踊る。
「さく華も千よ 九重八重さくら
なむそ我が身のひとはなこころ」
娘達の扇がひらりひらりと舞い、彼女たちが袂から時折まく花が舞い上がり、赤い傘がくるくる回る。
「面白の花の都や 筆でかくともおよばじ
東には祇園 清水 落ちくる滝の音羽のあらしに地主の桜は散り散り
西は法輪 嵯峨の御寺 回らば回れ水車」
どこからか、凛としたうた声が聞こえた。
「げに何事も一睡の夢」
娘達はうたい返す。
「なればこそ浮世は夢よ ただ遊べ」
凛とした声はうたい返す。
「桜花いまぞ盛りと人は言へど 我は寂しも君としあらねば」
桜の花は今が盛りと人は言うけどあなたがいないので私は寂しいという万葉集のうたと共にそでから大きな黒い傘が客の方に向けられたままくるくると回りながら出てくると舞台の中央でぴたりと止まる。
笛、鉦、太鼓の音がぴたりと止まり、娘達と静かに後ろに下がると傅く。赤い傘を閉じた柿丸が黒傘の裏に立つと蔭に隠れ、代わりにすっくと立ち上がったのはお国である。
お国は先ほどの艶やかな若衆姿とは一変して髪を下ろし、白の帷子に黒の法衣姿でただ胸には金の十字架を下げていた。
お国一人を舞台に残し、黒い傘が回りながら舞台から引け、娘達も続く。そでに控えた三十郎がうたう。
「からすだに浮世を厭いて 黒染に染めたるや 身を黒染に染めたるや」
お国は扇を手にゆっくりと舞う。
「はかなしや
かぎにかけてはなにかせん
弥陀の名号
なむあみだぶつ なむあみだ
光明遍照 十万世界 念仏衆生 摂取不捨」
その舞にひかれるように筵敷きの見物席の奥にいた深い網笠をかぶり、黒い着物を羽織った侍がすっと立ち上がり、見物客を驚かせた。
侍がはらりと肩から落とした黒い着物の下は血染めの帷子。
右肩から半身は真っ赤に染まり、背中から裾にかけての血飛沫のように荒々しく咲き乱れた曼珠沙華に客は息をのむ。
三十郎がうたう。
「念仏の声にひかれつつ、罪障の里を出でふ」
お国は侍に問いかける。
「思いもよらずや 貴賎の中にわきて誰かと知るべき いかなる人におわしますぞや」
侍は答えず、黙ってゆっくりと舞台に歩みよりながら懐から笛を取りだすと唇にそっとあてた。
もの悲しくも流麗な音が流れだす。
回りの誰もが息をのんだ。
笠の下からわずかに見える面影も笛の音もまさに山三郎その人だった。
ああ、と左門は気づいた。あの男は依りましだったのだ。
娘達の言うとおり、右京は山三気取りのどうしようもない男だった。少しばかり笛は吹けたが品もないうぬぼれやのあの男にお国はただ立ち上がり、笛を吹いて舞台に向かって歩けばいいとしか言わず、柿丸や左門を不安がらせた。
だがはじめからお国は山三をあの世から呼び出すつもりだったのだ。
三十郎がうたう。
「我も昔の御身の友
なれにしかぶきをいまとても
忘るることのあらざれば これも狂言綺語をもって
讃仏転法輪のまことの道にも入れば
かようにあらわれいでしなり
我が名は名古屋山三郎」
思わず左門は浮舟の方を見た。
身を乗りだすようにして山三を見つめている浮舟の表情はこちらからは見えない。ただ薄い肩が震えていた。
左門は胸が痛んだ。
恋しい思いが報われないのは左門も一緒だった。そして山三も。
それでも山三はお国がぼろぼろになりながら仕立てた一世一代の芝居にあの世から駆けつけてくれたのだ。
お国が艶然とした笑みを山三に投げかける。すると山三の笛をふく口元が微かに微笑んだ。
それは確かに山三の笑みだった。舞台で度々お国のために笛を吹きながら見せた山三の笑みだった。
左門は目頭が熱くなった。
山三やお国、又兵衛との出会いからそれぞれとの思い出に、ここ数日間感情を殺してこの舞台の準備にかけてきた左門はひたった。
「我が恋は月に群雲 花に嵐
細道の駒を駆けて思うぞ苦しき」
お国が三十郎のうたと山三の笛に合わせて舞う。
「それ吹く笛は宵のなぐさみ
小唄は夜中の口ずさみとよ
世の中の人と契らば薄く契れて末まで遂げよ
もみぢばを見よ
薄いが散るか、濃きぞまず散る
散りて後は問わずと」
山三は舞台に上がる。お国が迎える。
「世の中を思えばなべて散る花の
我が身をさてもいづちかもさすせぬ」
西行の、世の中はすべて散る花のように儚い、この身をいったいどこにおけばよいのだろうという歌を朗々と三十郎がうたいあげると、お国の扇がひらりと返り、それを合図に鉦太鼓、笛が賑やかにはやし立て、後ろに控えていた娘達も前に出て踊り出す。
「うたひていざやかぶかん
うたひていざやかぶかん
ただ人は情けあれ
夢の夢の夢
昨日は今日の古へ
今日は明日の昔」
赤い傘を開いた柿丸も出てきて懐から花を撒いては踊り出す。
一人の客が立ち上がり娘達の身振り手振りを真似て踊り出した。つられて一人、また一人と次々と人々が立ち上がり踊り出す。
「川柳は水に揉まるる
ふくら雀は竹に揉まるる
都の中は車に揉まるる
野辺の薄は風に揉まるる」
お国も娘達の中心になってはね踊る。
山三も楽しそうに笛を吹く。
舞台も客も踊り狂う。傘が回り、扇が舞い、花が散る。
ほんの半年ばかり前には客に見捨てられ、都落ちまでした女が死んだ男の笛で踊る舞台に人々が熱狂している。まさに踊り巫女の面目躍如だった。
その奇妙さ、不思議さ、哀しさで胸が熱くなった左門の膝の上にかたりがひょいと乗った。
「面白いのう、花は盛りじゃ」
左門はかたりを見た。
かたりが見たがっていた花はこれだったのか。そのためにうろうろしていたのだ。
山三がお国に振られ、死に、そしてお国が狂い、咲かせた見事なまでの妖艶な花。
かたりは金色の目で左門を見上げ、向かいの桟敷席を目で示す。
「ほれ、あそこの又兵衛のように目に焼き付けておけ」
左門は向かいの桟敷席を見た。
とたんにそれまで高揚していた気持ちが一気にさめた。
又兵衛は食い入るようにお国を、人々を見ている。その目は左門のように思い出や感傷に浸る目ではない。絵のことのみを考えている目だった。
それはわかっている、わかっていたが次に左門の脳裏をよぎったのは昨日の朝のお国と又兵衛だった。
「又兵衛も花咲くのか」と左門は呻いた。
「いつかはな」と猫は答えた。
どんなと聞く前に左門の心の中で何かが折れた。
見るだけだとかたりは言った。見るだけで参加は出来ぬと。
お国も言った、自分と又兵衛は花を咲かせる、左門は鶯だと。
笛に太鼓、鉦に鈴、そして歓声、すべてが渦となりわんわんと左門の回りをめぐる。
「うたひていざかぶかん
うたひていざかぶかん
何せうぞ くすんで 一期は夢よ
ただ狂え」
「俺は、もういい」と左門は呻いた。
かたりは聞こえないふりできらきらとした目で舞台を見つめている。
そんなかたりが憎々しく、左門が叩こうと手をあげたとたんに猫はかき消すようにすっと消えた。
呆然とした左門が舞台に目をやると、喝采の中、お国達が舞台に手をつき、客席に頭を下げているところだった。
お国の隣で笠をとり、得意げにしているのは右京であり山三ではない。
左門は興奮する人々をかき分け、桟敷を出た。
よろよろと天満宮の境内を歩きながら都を出ようと思った。
花は見た、お国は都一の花を咲かせた。
又兵衛もやがて花咲くとかたりは言う。
だがもう十分だ。
本当に大切なら、生きてさえいればそれでいいとお国は言う、だが俺は。
影向松が目の前にあった。
昔、この前で又兵衛が泣き、お国が踊った。
左門は目を背けると足早に通り過ぎた。
そのまま京を出た。
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