第6話 七年

 それから七年の時が流れた慶長七年。

 秀吉が亡くなり、その後の関ヶ原の戦いで西軍が敗れ、栄華を極めた豊臣家の衰退が誰の目にも明らかになった慶長六年から徳川家康は自身が受ける征夷大将軍の宣下のために都に二条城を築きはじめ、この年いよいよ天守造営にかかった。

 応援に駆けつけた東軍の侍達の荒々しい先勝気分と負けた豊臣方の豪奢だが退廃的な気分が混じり合い、都には独特の雰囲気が満ちていた。

 真夏のその日、二十五になった左門は又兵衛と扇絵俵屋の奥座敷にいた。

 目の前に冷えびえとした冬の景色が広がっている。

 岸辺に群れていた数羽の鶴が飛び立つ。

 体をほぼ銀泥で足と尾羽のみが金泥で描かれた影のような鶴達がはじめはばらばらに、川岸高く舞い上がり、やがて大きな群れとなり逆巻く川を越えていく。岸辺に近づくと群れの数は徐々に減り、ゆっくりと旋回する。

 佇む、あるいは飛翔する姿の美しさに加え、配置の絶妙さが深い奥行きを与えていた。

 茹だるように暑い夏の昼下がりなのにこの料紙を見ている間は、料紙から漂う冬の寒々とした冷気に左門も又兵衛も汗がひく。

 画面を食い入るように見つめる又兵衛の横で左門はうめくように「見事すぎる」ともらした。

 宗達が本阿弥光悦のために用意した料紙、金銀泥鶴図。

 これにあの名筆と言われる本阿弥光悦の書が入るのかと思うとその豪華さに息がつまりそうだった。

「そうや、これがあの本阿弥兄さんを唸らせた代物」と、宗達が得意そうに笑みを浮かべた。

「まさに天才だな」と左門は思った。

 俵屋宗達、扇屋俵屋の主人であり、絵師である。

 扇は日常で使用する他、贈答用に使われることも多く、海外との交易で輸出もされた。

 このため十六世紀頃から京の町には多くの扇屋が存在し、そこにはあらかじめ制作された多種多様な商品が並べられ、町衆も公家もそこから選び楽しむという、発注されてから描くという襖絵や障壁画とはまた違う絵の文化があった。

 やがていくつかの扇絵を屏風に張り、鑑賞する扇面屏風も出現し、大きな店では扇のみではなく、絵屋として短冊の下絵から料紙、屏風までそろえるところが出てくる。その中で当代随一の人気を博しているのが俵屋宗達であった。

 主宰する俵屋宗達は平家納経の修復で頭角を現し、戦乱の終焉と共に着実に財力をつけてきた町衆と商売上縁の出来た公家衆を後ろ盾に、障壁画や寺院の大がかりな襖絵を手がける狩野派や長谷川派とは明らかに違う形で台頭しつつあった。

 ただ宗達本人はいたって気さくな男で

「わしは町絵師で十分や、お抱え絵師何ぞ窮屈なだけや」と客や扇子折の娘達と談笑しながら扇絵をさらさらと描いているかと思えば

「あかん、泥臭い」「これはおもしろい」と工房で使っている絵師達を前に扇絵を厳しく選別し、商売に身を入れる一方で都で三筆に入る本阿弥光悦に頼まれた仕事もこなすという自由ぶり。

 とにかくしゃべりで絵筆を持っていても一向に口は減らないのだが、その筆先からはあのしゃべりの一方でいつ考えているのか瀟洒で大胆な意匠をほどこした絵が次々と生み出される。

 天衣無縫な天才としかいいようがなかった。

 この天才に紹介してくれたのは狩野内膳である。

 ののしりながらも又兵衛を度々呼び出していた織田信雄は息子が関ヶ原の戦いで石田方についたために改易になり、ついに縁が切れた。

 これを機会に絵師として独り立ちしたかった又兵衛だが、絵の腕は上がったとはいえ、内膳の個人的な教えを受けたにすぎない又兵衛にはなかなか客もつかず、内膳の仕事の手伝いをするくらいしかない。

 そこで絵屋という市場でこつこつと描いていれば、見こまれて発注もあろうということで交友関係の広い内膳が紹介してくれたのだった。

 お国の一座の手伝いをしながら、賭け連歌や紙屋で絵双紙の文などを書いて糊口をしのいでいた左門もいつからか又兵衛と共に俵屋に出入りするようになっていた。

「なあ又さん、これがわしの得意や」

 又兵衛は顔を上げて宗達を見た。

「わしは扇屋やから物の配置の妙と形の捉えようは誰にも負けん自信がある。狩野にも長谷川にも土佐にもや、あんたには何がある」

 又兵衛は虚をつかれた顔をし、それから唇をかみしめ、視線を膝に落とした。

 庭の蝉の賑やかな声が二人を一気に現実に引き戻した。宗達の口調は軽いが目は厳しい。

「絵で食べていく気があるならそろそろあんたもそれが見えてきてもええのと違うか」

 又兵衛はうなだれたままだった。

 ここ一年、又兵衛は何を書いてもぱっとしない。

 乳母の病がその不調に輪をかけた。というのもいまだに又兵衛を武将に出来なかったことに己を責めている乳母にせめて絵師として一人前の姿を見せて安心させてやりたいのだが日々の暮らしさえやっとという有様が又兵衛を焦らせ、その焦りが又兵衛の筆を鈍らせた。

 宗達は又兵衛の腕をそれなりに認め、仕事をくれた。

 別に内膳の紹介だから特別扱いをしているわけではなく又兵衛の絵に何かを感じているようで同じ絵師として又兵衛に接し、又兵衛の仕事に遠慮なく物を言う一方で時々こうやって自分の仕事を見せて意見を聞く。

 そんな宗達だからこそ、最近の又兵衛の様子がはがゆくてたまらないのだろうが、又兵衛も自分の行くべき道が見えていれば悶々とすることもないわけで、俵屋からの帰り道、左門はさすがに又兵衛が気の毒になった。

「なあ又兵衛」と、左門は又兵衛に話しかけた。

「うむ」と又兵衛。

「お前の一番好きな絵はなんだ」

 又兵衛は左門を見た。

「俺のか」

「お前は本願寺や信雄殿に連れられていった先々で沢山の良い絵を見たのだろう。その中で一番心ひかれたのはなんだと聞いているのさ。ほら、好きこそものの上手なれと言うだろう。悶々としているより、好きなものを目指して夢中になって絵を描けばなにかひらけるかもしれないじゃないか」と左門に言われ、即座に又兵衛は答えた。

「光信の百鬼夜行」

 思いもかけない答えに左門は絶句した。 

 信雄に連れられて数々の名品を見ているはずがよりによって妖怪絵巻とは。

 又兵衛は左門のそんな思いを察したのか哀しそうにうなだれた。

 左門はあわてた。

「いや、悪いとは言わない、あれはあれで」と、左門はしどろもどろになりながら知恵を巡らす。

 少年の又兵衛があの絵巻を食い入るようにように見ていた情景が蘇り、左門の混乱に輪をかけた。

「そうか、光信の百鬼夜行か」

「……あんなに生き生きした跳梁跋扈は」と又兵衛は小さな声で言い訳をする。

「ない、と思う」

「なるほど」

 左門の生返事に又兵衛はため息をついた。

「俺の答えはいつも人を失望させる」と呟いて黙り込む。

 何か言わなければと焦った左門の頭でひらめいた。

「それなら土佐を学ぶのはどうだ」

 又兵衛は不満げに左門を見た。

「絵巻物を描くならやはり土佐だろう」

「狩野元信だって酒呑童子の絵巻を描いている」

「だが今のお前に絵巻を依頼する者はいまい」

「……しかし別に絵巻がやりたいわけでは」

「新しい手法を学ぶいい機会じゃないか。つてはそうだな、今回はさすがに内膳殿に頼みづらいだろうから、そうだ、山三に頼め。大徳寺はもともと堺の豪商と関係が深い。堺は今の土佐派の活動の中心だからきっといい師を」

「嫌だ」

 又兵衛がこの男にしては珍しくきっぱりと断った。

「俺はあんなところへ行かぬ」

 左門は驚いて又兵衛を見た。又兵衛の顔が青ざめている。

 商人の町堺は茶人の町でもあった。あの千利休の出身地であり、又兵衛の父道薫も堺で亡くなっている。月日が流れたとはいえ、茶人仲間で道薫のことを覚えている者はまだいるだろうし、なにより又兵衛の兄村次がまだいるはずだった。

「又兵衛」

「今は俵屋だけで手一杯だ」

 又兵衛はそういうと足早に歩き出した。

 言い訳だった。宗達は確かに又兵衛のことを気にかけてはくれるが仕事には厳しいから近頃不調の又兵衛に忙しくて困るほどの仕事は回さない。

 左門はため息をつきながら又兵衛の後を追う。

 又兵衛はお国の小屋のある四条河原を目指していた。この頃の又兵衛は仕事をしているより四条河原で見世物を冷やかしている方が長かった。

「待てよ」と左門は又兵衛の腕を掴んだ。

「逃げていても道は開けないだろう」

 振り返った又兵衛は左門を睨んだ。

「人のことが言えるのか、お前だって由己様に仕官出来るだけのものを身につけてもらったのにふらふらと俺やお国におせっかいをしているだけじゃないか」

 左門は言葉をなくした。

 又兵衛は一瞬気まずい表情を見せたが左門の手を振り払うと歩き出した。

 夏の強い日射しの下で左門は立ちつくした。

 確かに又兵衛の言う通りだった。蔵書の整理の後、武芸こそ出来ないが由己に仕込まれた作法の心得や連歌、書の腕前をかわれて、仕官の誘いがないわけではなかった。だが結局、左門はお国や又兵衛、山三の周りにいることを選んだ。

 お国や又兵衛の力になりたかったし、なっていると思っていたが、離れるのが寂しかったのも事実で、おせっかいでうろついていると言われれば返す言葉はない。

 うだるような暑さの中、どこかで猫の声がした。

 久しぶりにかたりに無償に会いたくなり、声の先に虚ろな視線を向けた左門の前に山三がいきなり現れた。

「よおっ、どうした。情けない顔をして」

 数年前に還俗し、今は織田九衛門の名で森忠政に仕えている山三は黒綸子に背中から肩にかけて大きく赤と青の筋の入った羽を持つ黒揚羽が染め上げられた小袖に海老茶の大紋の袴というあでやかないでたちで左門の前に立っていた。

「派手だな」と左門は思わずもらす。

 森家への仕官は忠政の継室になっている山三の妹のつてと世間ではやっかみ半分噂されていたが真相は藩の外交に役立つと踏んだ忠政が山三を召し抱えたのであった。

 山三、山三と気安く左門らに呼ばれているが名古屋山三郎は信長の遠縁のいとこである。忠政の室になった妹ももとは豊臣秀長の嫡男の許嫁で、その嫡男が夭折したために秀長の養女となり、忠政の元に嫁した。

 はじめは信長の弟に仕え、その後蒲生氏鄕の小姓を経て一番槍の巧妙を上げた山三郎自身も氏郷と大徳寺で培った教養を持ち、多くの大名家公家との面識があった。勇猛ではあるが武骨者揃いの森家としては外交役として五千石の破格の扶持を払っても惜しくない。

 関ヶ原で豊臣が敗れたとはいえ、依然豊臣は大坂にいる。

 豊臣恩顧の加藤、浅野、池田といった大名も三成憎しで東軍についたが豊臣を守りたいという思いは強い。だが徳川は豊臣を潰したい。秀賴が父譲りの大将になるのと家康の寿命が尽きるのとどちらが先か、遠からず天下分け目の戦が今一度起こる予感は誰にもあった。その時に最善の道をとるべく、どの大名も情報収集と軍備に余念がない。

「いいのか、森家は鬼武蔵の異名を持った長可殿にあの蘭丸殿と、忠政殿のお身内は皆討ち死にという剛毅で厳しい家だ。噂ではうるさい家臣もいると聞いている。少し自重したらどうだ。男のやっかみは女のそれより恐いというぞ」と左門が言うと山三はちらりと憂いた眼差しを見せたがすぐに笑い飛ばした。

「相変わらず人の心配ばかりだな。それよりお前はどうなのだ。お国の一座の客入りは少しはましになったのか」

 左門はため息をつきながら首を振った。行き詰まっているのは又兵衛ばかりではなかった。

 お国の一座の客入りもこのところがた落ちでひどい時には客が一人もいない時もあった。一時はその集客の多さで太閤秀吉の大仏参詣の邪魔になるから五条から四条の河原に小屋が移されたと噂されたほどだったのが、由己の死後、次第に演目に目新しさがなくなったこととお国の女としての盛りが過ぎつつあることで客は離れた。

 左門の案で春先に、踊りの間に一座で働く猿楽師の柿丸演じる田舎者が遊びに来る寸劇を取り入れたがはじめこそ笑いをとリ、客が戻ったがもう飽きられている。

「いい加減あきらめて仕官しろ、なんなら俺が推挙してやろうか」

 山三の言葉に左門は自嘲気味に笑った。

「お前も俺はただのおせっかいだと言うのか」

 山三はけげんそうに左門を見た。

 左門は又兵衛との件を話した。

 話を聞いた山三はしばらく考えていたが

「まあ逃げてはいるのだろうが、おせっかいだとは言わぬ」と言った。

「だがお前はさっき」

「おせっかいがどうこうではない。お前も又兵衛もお国ももう二十四、五だろう。そろそろいろんなことに見切りをつけるべきじゃないのか。お前がお国に踊りを続けさせたいためにいろいろと知恵を絞るのはわからないでもないがああいう商売だ、引導を渡すのも親切だろう」

「ああいう商売か、お国が聞いたら激昂ものだぞ。それにお国に踊りは捨てられぬ」

「捨てて得られるものもある。又兵衛も親父殿へのこだわりを捨てればもう少し楽に生きられると思ったからお前はあいつに堺行きを勧めたのだろう」

「山三は蒲生様へのこだわりを捨てて何か得られたのか」

 山三は暗い目をしてしばらく黙り込んだが、ふうっと息をはき、言った。

「やれやれ、気配りの左門にしては今日は誰彼無しにつっかかる。その調子で言われたら又兵衛も切れるしかない」

 左門はすぐに謝る。

「すまぬ、口が過ぎた」

 亡き蒲生氏郷に心酔していた山三が新しい主に仕えるにあたって無理をしていないわけがなく、自分もそれを感じていたからこそ、山三のやけにも見える派手な振る舞いを危惧していたのにわざわざ古傷に触るような問いかけをしたことを左門は後悔した。

「前に進まねばはじまらぬ」と山三は半分自分に言い聞かせるようにつぶやくと道先の人だかりに目を向けた。

「なんだあれは」

 やんややんやの歓声に混じって女の金切り声が聞こえる。

 左門も目を向け、首を傾げた。

 人ごみの中から見覚えのある一人の男が転がり出てきた。

 四十がらみのその男はお国の一座で働く柿丸だった。例の茶屋芝居で田舎者を演じた猿楽師である。

「柿丸」と呼んだ左門を見つけ、柿丸は二人の元に駆けつけた。着物の袖はちぎれかけ、袴から半ば出た状態の柿丸に山三は笑い出し、「お安くないな、女と痴話喧嘩か」と言うと柿丸は首を振り

「それどころやない、お国があの女と大喧嘩で」と息をきらして訴えた。

「早う止めてくれ」

 左門と山三は顔を見合わすと人だかりに向かって走った。

「女の喧嘩だ、引っ込め色男」

「負けるな、おばはん」

「いいぞ、もっとやれやれ」と興奮した野次馬達の歓声が聞こえる。

 その野次馬をかき分けて中に入ろうとした二人は背後から肩を掴まれるとがらの悪そうな男達に囲まれた。

「こっからは見世物だ。ただ見はいけねえ。お代を出しな」

 そう言って手を出した男の手を山三は払いのけてねじ上げた。左門はその隙に人をかき分け中に入る。

 お国が若い女と取っ組み合いの大喧嘩の最中だった。

 どちらも着物の前ははだけ、帯も解けかかり、あられもない姿になっている。

 先ほど先に行った又兵衛が止めようと二人の間に入り、叩かれ、ひっかかれ、蹴られ、その姿がおかしいと回りの野次馬は大笑いした。今も若い女に蹴転がされた又兵衛に左門は駆け寄る。

「又兵衛」

「お国を頼む、俺はあっちを抑えるから」と息も絶え絶えに言う又兵衛に

「お前がお国を抑えろ、俺がこっちを抑える」と言うと若い女を後ろから羽交い締めにしようとした。

「ばばあの取り巻きか」と女は吐き捨てるようにいうと左門の足を思いきり踏みつけ、ひるんだ左門に向き合うと腹に思いきり頭突きをくわせた。

 思いきり胃の腑を突き上げられて吐きそうになりながら見たその顔に見覚えがあった。

 確か一時はお国の一座にいたが稽古に熱心ではないことと素行の悪さでやめさせられたお鈴という娘だった。

 最近はわざわざお国の一座の近くでお国の振りを真似て半裸で踊り、これがなかなかの評判でお国を苛立たせていた。

 たぶんお国の堪忍袋の緒が切れたのだろう、なぜこんなところでかは解らないがと、お鈴に再度向き合った左門は今度はいきなり頭を後ろから殴られてうずくまった。

 振り返ると髭面の大きな浪人が立っている。

「女の喧嘩に男二人の加勢は卑怯ゆえわしも助っ人に立つ。ただし若い方のな」

「よっいいぞ。色男」とヤジが飛び、お鈴もしなをつくって浪人に笑みを見せる。

「見世物じゃない」と呻く左門を盛り上がる野次馬に煽られた浪人は何度も蹴った。

 わあわあという歓声の中で「左門」と呼びかける又兵衛の声を聞きながら気が遠くなりかけた時、その髭男が上に降ってきて左門は下敷きになった。

「女の喧嘩をはやし立てるなぞみっともないと思わぬか」

 山三の怒号としんと静まりかえった野次馬達の気配を感じながら左門がようやく浪人の下から這い出すと、真っ青な顔のお国が又兵衛に抱き抱えられながら立ち上がるところだった。

 どこからかさっき金をせびった男が飛び出してくると、舌打ちをしながらお鈴を抱えて

野次馬達の中に消えていく。

「懲りたか、ばばあ」

 お鈴の捨て台詞に野次馬達からわずかに笑いがもれ、追いかけようとするお国を又兵衛が強く抱きしめる。

 山三は左門に手を貸すと立ち上がらせた。

「行くぞ」

 そして又兵衛の手からお国を奪い、いたわるように抱き抱えて歩き出す。

 又兵衛は息を一つつくと左門と並び歩き出した。

 見世物の終わりに野次馬達も散りはじめる。

「お前ひどい有様だ」と左門は又兵衛を見て言った。汗と土にまみれてどろどろだった。

「お前こそ」と又兵衛は言うと左門に懐から出した手ぬぐいを渡す。

 左門は顔だけ拭い、あとは手でぱたぱたと土ぼこりを払いながら手ぬぐいを又兵衛に返す。

「化け物だ」と又兵衛がつぶやいた。

 左門は顔を上げた。目の前にはやはり泥だらけのお国を抱えながら歩く山三の背中が見えた。

 野次馬の輪に入る前もひと悶着あったはずだが背中の黒揚羽にも袴にもちり一つついてない。

「山三か、やはり腕っぷしが違う」

「違うよ」と又兵衛は首を振り、言った。

「人さ」

「えっ」と左門。

 又兵衛は振り返り、散っていく人々を眺めていた。

 町人もいれば侍も、男が多かったが女もいた。年格好もばらばらな者達がさっきまで醸し出していた熱気は又兵がいつも河原で心地よく感じていたそれとよく似てはいるが狂気をはらんでいた。

「俺はお前が昔言ってくれたことがやっとわかった。あんなのを相手にしているお国は偉い」と又兵衛がぼそりとつぶやき、いつもより小さく見えるお国の背中を眺めた。

 左門は苦笑した。

「ああ」

 山三の言うとおりかもしれないと左門は思った。河原で人気者で居つづけるのは難しい。余裕のある富裕層ならば芸の深みを楽しみ、熟成を待ってくれる。しかしその日その日の楽しみにくる貧しい者達はどうしても目先の派手さや面白さにひかれる。見捨てられるだけならばまだよいが、落ち目になった者には今のような容赦ない仕打ちもある。

 一同が小屋に戻ると、待ちかまえていた柿丸がすぐに濡れた手ぬぐいをお国に差し出す。

 お国は無言で手ぬぐいを受け取ると、小屋の奥に消えた。

 追いかけようとする山三を左門が止めた。

「しばらく一人にしてやった方がいい」

 山三は柿丸の方を見ると聞いた。

「あんなのに大きな顔をされるほど悪いのか」

 柿丸は肩をすくめて答えた。

「悪いですな。なんや目新しさがないというか」と謂いながら左門をちらりととみて

「いやもちろんええ踊りやと思います。けど人は集まらん」

 山三はいまいましそうな顔をした。

「天下分け目の戦からこっち、どぎついものが流行りで、あんな十六、七の娘に乳出して踊られたらとうのたったお国じゃとてもとても」

「とんだあまのうずめだ」と山三は皮肉ると左門の方を向いた。

「こっちには若い踊り手はいないのか」

「裸踊りのか」

「馬鹿、まともな踊り手だ」

「いるにはいるが」と左門は物憂い顔で答えた。

「一座を任せるところまではいかぬ」

 釆女というその娘は十六、見た目も美しく、稽古に熱心でお国も目をかけているのだが、性格が大人しく前に出るのに気をくれするたちで花がない。

 もちろん先々に大輪の話しを咲かせる素質は充分あるがまだまだ無理だった。

「他にはいないのか、あれだけ踊り手を抱えているんだ、誰かいるだろう」

 一座にはややこ踊りを踊る若い娘達が七、八人はいるはずだった。

「いない。これはと思う娘はお国がいるかぎり,ややこ踊りしか出来ないからとやめて他に移るか、羽振りの良い頃に故郷に帰った」

「よくも悪くもお国が大き過ぎてあとが育たなかったんですわ、なにせ」と言いかけた柿丸は奥から出てきたお国を見て口をつぐんだ。

 いつもより派手な化粧で顔の腫れを誤魔化したお国は柿丸に手ぬぐいを投げて言った。

「皆を集めておくれ、踊るよ」

「へえっ」と驚く柿丸の襟元をお国はぐいっと掴んだ。

「さっきまで大立ち回りをしていたお国が踊るとなればいくらなんでも客は集まるだろう。人に見せられる胸はなくてもね」

「いや、あれは」とうろたえる柿丸を突き放し、お国は山三を振り返り、挑むように言った。

「山三、久しぶりに笛を吹いておくれだよね」

「おうさ、喜んで」と山三はおどけながら承知した。

 お国はそんな山三に少しだけつり上がった目尻を下げて言った。

「また今日は一段と派手なこと」

「そうか、これでも地味な方だぞ」

 山三はそう言いながら懐から笛の入った袋を取り出す。白絹に金糸銀糸で梅の縫い込まれた豪奢な袋に左門が目をとめた。

「いい袋だ、変えたのか」

 山三は昔氏郷の伴で行った堺で買い求めた更紗の袋をずっと愛用していた。

「借り物だ、あれが破けたから代用している」と、そっけない調子で答えた山三は笛を取り出すと袋は無造作に懐に突っ込んだ。

 お国がふふんと鼻で笑う。

「なんだ」

「聞いてるよ、北野の梅の贈り物だろう」

「北野の梅?六条柳町の浮舟か」と又兵衛が驚いた。

 お国は横目で又兵衛をにらむ。

「あら、よくご存じ」

「貧乏絵師でも噂くらいは聞く。今都一の美人だろう、確か年の頃なら十六、七の」と言いかけて又兵衛は口をつぐんだ。

「その遊女の小娘が山三にぞっこんで、ねえ」とお国はからかうように山三にしだれかかる。

「妬いてくれるのか」と山三。

「別に」とお国はそっけなく言うと山三から離れ、髪を手際よく結いあげながらも言った。

「にぎやかなのを吹いておくれよね。これを限りにしばらく都を離れるからさ」

「離れる」と驚く男達を見回してお国は笑う。

「ああ、このままじゃおまんまの食い上げたしね。田舎で少し稼いでくるよ。それに由己様が昔教えてくれた。すたれる時があっても衆人愛敬を忘れずにいれば道は絶えることはないって、だろう?左門」

 左門は肯いた。世阿弥の言葉だった。

「万一すたる時分ありとも田舎遠国の褒美の花失わせずば ふつと道の絶ゆることはあるべからず」

 お国の中に由己は生きている、と左門は少し嬉しくなった。

 お国は得意げに顎を上げ、笑みを浮かべると着替えのために奥に消えた。

 逆境に負けぬというその姿に左門や又兵衛はほれぼれと見送ったのだが山三だけは違った。

「哀れだな」

 二人は山三を見た。

「とっとと俺の女房になればよいのに」

 又兵衛の目が丸くなった。左門も同様だった。

「今何と」

「お国が俺の女房になればよいと言ったのさ」と山三は左門と又兵衛を見つめて言った。

「お前達もお国を女房にしたいというならお国に選ばせるが」

 又兵衛は驚きの余り言葉が出ない。左門はかろうじて反論した。

「馬鹿を言え、無理だ」

「結城秀康公は遊女を室に迎えいれている、無理ではない」

「結城公は殿様だ、お前とは違う。第一お国に踊りは捨てられまい」

「捨てずとも嗜みとして続ければいい、それにお国はただの河原者ではない、お前同様由己殿に行儀作法一通りはしつけられている」

 無茶苦茶だと左門は思った。確かに由己はお国にもいろいろと教えた。だが興行のあるお国と自分では量が違うし、由己はあくまでお国が踊り続けるため上の贔屓を受けるための行儀作法を教えたのであって武家の妻女としてのそれではない。それでなくても目立つ山三がお国を妻にしたら大騒ぎになるだろう。山三もお国も苦労するのは目に見えていた。

 ただ山三はそんなことは百も承知なのだろう。山三は又兵衛を見つめて問いかけた。

「又兵衛、異存はあるか」

「俺は」と言ったきり又兵衛は当惑顔で黙り込む。

「ないのか」と山三が問い詰める。

 しばらく黙っていた又兵衛は山三の真剣な目にうながされるように

「俺…は…まだ…お国を養えぬ」

 左門はじれったい思いで又兵衛を見た。

 誰もそんなことは聞いていない。肝心なのはお前がお国をどう思っているかじゃないのか。左門が「又兵衛」と呼びかけるより先に山三が言った。

「なら異存はないんだな」

又兵衛は黙ったまま小さく肯いた。

 山三はほっとしたのか子供のような無邪気な笑みを浮かべると笛を手に舞台の袖に行く。ちょうど一座の娘達が柿丸にせかされて戻って来たので、入れ変わるように左門と又兵衛は小屋を出て桟敷にまわる。

 ぽつぽつと客の入りはじめた席で左門は又兵衛に聞いた。

「いいのか」

 ぼんやりと誰もいない舞台を見ていた又兵衛はぼそりとと答えた。

「俺は…ここに来れば…お前やお国や山三がいて……それがいいんだ、だから」と言うとあとは黙り込んだ。

 左門も黙るしかなかった。

 さっきの喧嘩がやはり呼び水となったのか、客はそこそこ入り、鉦や太鼓の音と共に強い日差しの下で赤いゆらいを揺らして娘達のややこ踊りがはじまる。

 ひとおどり終わると山三が現れ、その流麗な笛の調べにひかれるようにお国が登場し踊りはじめる。

 無心に踊るお国を左門も又兵衛もそれぞれ思いを抱えて見つめた。

 翌日、お国の一座は四条河原から消えた。

 一緒に行くという左門にお国はだめだと言った。

「あんたまで食わせてやれないよ」と言い、雑用は柿丸で足りていると言い、田舎回りは左門には無理だとまで言い、都で誰かが待っていてくれなきゃ困るとも言った。

 そこまで言われたら左門もあきらめるしかなかった。旅立ちの時にしょんぼりと見送る左門に柿丸がそっとお国が左門の同行を断ったのは兄弟のような左門に惨めな姿を見せるのを嫌がったのだと言ってくれた。だがそれならなおさら自分のふがいのなさが身にしみた。由己のようには無理でもわずかでもお国の助けに自分はなれないのか、必ず桜の咲く頃には帰るからと言葉を信じながらも鬱々と過ごしていた左門の元に山三が訪ねて来た。

「堺に行かぬか」

「堺?又兵衛のためか」

「それもある」と山三はこの男には珍しく少し口ごもる。

「これから忙しくなるからしばらくお前達とも会えぬ。お国やお前、又兵衛と親しくはしていたが物見遊山めいたことはしたことがないからたまには」

 山三らしくない感傷的な言い分に思わず笑いそうになるのをこらえながら

「なるほど」と左門は肯いた。

「お国も誘っておいた。宿もある」

 お国に嫁になれとはもう言ったのかと言いかけて、左門はこの旅で山三がお国に思いを伝えたいのだと気がついた。

 山三として結果がよかろうと悪かろうと仲間の前ではっきりさせたいのだろう。

 酷いな、と思う一方で山三らしいと冷静に思えるのは自分にお国は断るという確信があるからだと気づいていた。それはそれでどうなのだろうと思いながらも堺に行くことにしたのはやはり山三との別れを惜しむ気持ちとお国や又兵衛とも別れが近いのではないかという漠然とした不安からだった。

 山三が渋るであろう又兵衛を馬に縛りつけてでも行くから先に行ってくれと言ったので左門は一足先に都を出て堺に向かった。

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