雨と宝石のラグランジュ

鍋島小骨

雨と宝石のラグランジュ

 人工太陽の稼働周期を計算するように、と中学校の教師が言った。わたしは月の光が好きだと思った。

 綺麗な計算式は水のようでもあった。わたしは割り算を間違え、教師に注意力が足りないと言われた。


『注意が足りないのは、貴方の方じゃないですか』


 わたしはそう呟いて呼び止められ、教師の憤慨した顔を見た。


『もう一度言ってごらんなさい。貴方、先生に向かってその口の利き方は何なの』


 彼女の余裕のない顔は見飽きてしまった。彼女にはコマンドがひとつ欠如している。

 諦めるという選択肢を何故持たないのだろう。

 その答えもわたしは知っている。諦めれば自分が惨めになると思っているからだ。

 彼女は多分、世間を敵だと思っている。

 わたしも、そうだ。


『ちゃんと注意していないから、年上の女に盗られちゃうんですよ……先生』


 彼女の手が集めた答案を握り潰すのを、わたしは夢のように見ていた。

 そして知っていた。

 これは十年も前の夢だ。

 彼女はわたしの父親に捨てられた。

 後にわたしは、父親を捨てた。

 ……十年も前のことだ。




   ◇◇◇




 軌道上住居島オービットシリーズはことごとく失敗に終わったが、それが共同宇宙機関の下らない私益の為だったことは、今では有名な話だ。最後のオービット11のみが別の財団によってほとんどミスなく創り上げられ、天に掲げられた。

 わたし達はこの途方もなく巨大なコロニーの中で、宇宙線を避けながら生きている。


 日刊紙『ラグランジュ・ガジェット』のトップページが手元の情報端末に表示されている。どうということもない日常が満載で笑ってしまう。今週の空気圧経過。各ブロックのメンテナンス情報。リッター幾らの酸素を巡る住人同士のトラブル。人工太陽の周期ミスによる若年性仮性熱射病のニュース。

 コントラストのよく調整された半透明の画像を見出しだけ読みながら、思わず微笑む。それから、こんな些細なことで笑えるのはいつまでだろうか、と思う。


「ミス・ストーン、診察中に新聞は無いでしょう?」


ストーンって呼ぶのはよして」


 そう言って、わたしは新聞を閉じた。ストーンはわたしの本名から連想でつけられたあだ名だ。呼ぶ者は数人しかいないけれど。


「結果だけ言ってよ、感情的なのは苦手なの」


「ねえ、休暇取ってるんでしょ」


 質問に答えない理由も特にないけれど、それはそれとしてこの医者はあまりにも人の話を聞かない。わたしは苦笑して脚を組み替える。


「どこから仕入れたの、藪医者」


「藪なら他所に行って戴いても構いませんよ? ……あ、さっき西でヒータトラブルがあって、また子供が火傷したんだって。たまんないよね、スパンの短いこういう多発、オレ大嫌い。丸焦げの子供も嫌い。つらい」


 彼の場合、こうして話があっちこっちに飛んで行くのは結果の開示をはぐらかしている訳ではない。まったく素のままでこうなのである。だから十年来の知人にまで、何を考えているか判らないと言われるのだ。


「……で、休暇取るのはいいんじゃないの。あなた最近イライラしてたしさ、忙し過ぎたんだよ。タスク無し生活おすすめだね」


「各ポイントは合ってるけど、微妙にズレた話」


 くすりと笑って、彼はようやく写真を呼び出した。それでも画質調整をしないから、まだ完全に意識がそっちに向いていないらしいことが分かった。


「ええと、ミス・ジュエル。難しいな、患者さんになると『ミス』つけなくちゃいけないんだから」


「いいよ、別に」


「そう? じゃジュエル、休暇取ってどうするの。一日トランス聴きながら牛乳飲んで寝転がってる?」


 わたしが牛乳ばかり飲んで生きていることを知っている。彼と話していると苦笑続きだ。


「意識を持ったことを後悔した」


 いつも唐突な彼に、わたしも唐突に言った。


「何かのミスだと思ったの」


「あなたにもあるんだね、怖いもの」


 笑われたので、少しむきになろうかと思ったがやめた。彼相手に虚勢は通じない。どうしてやろうかと思っていると、不意に深い表情をして、


「それ、多分オレと同じものだ」


 ……そう言った。


「レイン――」


 一週間振りに彼の名を呼んでみた。普段、わたしは人の名を呼ぶことがあまりない。

 彼が恐れるものを、わたしは知っている。


「――また、夢を見るの?」


「夢の蝶々の夢の蝶々の夢だよ。最近とくに区切りがつけられない。もう、区別するとしたらその世界にあなたがいるかいないか、それしかなくなった」


 酷い世界だこと、とわたしが言うと、彼はうなずいて。


「生まれた時から薄々感じてはいたけどさ」


 そう言って、脚を組む。


「オレ生きてる自分が怖いんだよね。だって、生きてるってことは死ぬから」


 そう。それこそが、わたしの言いたいことだ。彼は何時もわたしの先回りをしてくれる。

 生まれた時から、彼そのものがわたしの予言だったのだろうか。そんな、らちもないことを思わせるほどに。


「死ぬのが怖い? 生きてるのが怖い?」


 答えの見えた問いを、わたしは唄ってみた。分かり切った形式の応答で美しいのは数学と音楽だけだ。

 彼もまるで遠い昔からの約束を果たすかのように答える。


「生きてるのが怖い。死ぬのは、だって死んだ時には怖いとか思うこともないし、思わないということも認識できないし、自分が認識できないということも……」


 笑いながら、言葉を切って。


「あなたって性格の割に子供みたいだ」


「なに、それ」


「だって子供は、同じ絵本を何度でも読んで貰いたがるでしょ? あなたはこういう問いと答えを何度も繰り返して、何かに安心する」


 そうかもしれない。わたしはそう言って、彼の言葉がまだ続くことを予感した。

 彼は、今度はまるで人殺しのような顔をする。


「だけどそれは、あなた一人じゃ出来ないことだ。あなたには答えを返す相手がいなきゃならない」


「答え」


 わたしは急速に自棄やけのような気持ちになる。

 彼は、いつでもわたしを乱す。


「答えをちょうだい。写真は撮れたんでしょう? 結果は判っているけどね」


 さっき包帯を外したばかりでまだ少し乾燥の足りない右手を、わたしはシャツの袖口からするりと出した。


「……この具合じゃ、申し開きのしようがない」


 手首から親指の先までが、毒々しい色に変わり始めてもうしばらくになる。赤紫、ベルリン青、エメラルドグリーン。それらは何か有機的な組織の切片を思わせるグロテスクな模様を描き出し、わたしの親指はおかしなタトゥーを入れたようだ。

 もちろん、タトゥーなどではない。これは『ルシィ』と呼ばれる骨の発生が原因で起きると言われる有名な症候だ。――死病の。


「あなたはつくづく、綺麗な名前に縁があるんだな」


 彼は悲愴感もなくそう言って、わたしの手をしげしげと見つめた。


「きれい? 『ルシィ』が?」


「そうだよ。あ、ジュエルあなたクリスチャンじゃなかったっけ」


「わたし宗教は持たないの。それに、血縁者はみんなブッディズムを信仰してたから……知らない。『ルシィ』のことは」


 そう、と頷いて、彼は写真を一旦隠し、別のデータを呼び出した。


「これ見て。天使のヒエラルキーだ」


 ごちゃごちゃとして、判りにくい。上から順に偉い天使なのだろうか。ミカエルやらラファエルやらという名前を、どこかで聞いたような気がする。その下には何十もの名が連なる。

 彼は画面を下にスクロールした。速くて見えないが、解説文だろうか。そういえばヒエラルキーの図の上に、天使概論、とか何とか書いていたようだ。

 やがて、彼はあるところでスクロールを停めた。


「L……ucif……ルシフェル」


 ひどく短い文章が、その名の下に書いてある。

 神に弓引いて墜とされた者。


「彼の名に因んで、ルシィって名前がついたんだ。元々は仮骨過多B症とか破骨細胞異常症βとかいう普通の名前がついてたんだけどね。オレもちっとも詳しくないけど、天から墜ちた彼が遺した、かつての記憶のあらわれっていうことらしい」


ここコロニーが神の領域だっていうの? それは……地上人アースリングに対する無駄な優越感に過ぎないと思うな」


「うん、それはオレも同感。でも、通用名から最近では学名扱いされちゃってるのも事実なんだ。とにかく古い名前で呼ぶなら、仮骨過多B症、だよ」


 天使の論文は消え、先程の画像がまだ未修正のまま出て来た。彼は少し真剣そうにその絵に手を加えて行く。


「……綺麗な名前だと思う?」


「思うよ」


 画面に微笑んで、彼は答える。


「かつて天使だった存在の名残り。彼は天から墜ちる時、一度死んだんだ。そして世界の最も低くて暗い、悪魔の領域に生まれ変わった。でも天界に彼の記憶が残って、小さな形を取ったとしたら――凄く綺麗な仮説だと思うけどな」


「わたしの指に古い天使の記憶が生まれた?」


「そうそう、その言い方も凄くいい」


 本当に嬉しそうに言って、彼は頷く。


「……はい、天使の出来上がり」


 モニタに映ったわたしの両手。外形の輪郭だけで自分の手と判るのが少し不思議だ。開きかけた両翼のように見えなくもない。

 その親指の真中の骨、基節骨。地上人アースリングでは一本しかないこの骨が、何代もコロニーに暮らす宇宙移民イミグラントで二本見られるようになってきたのは随分と昔の話だ。


「見て分かるように、左手は正常だ。親指基節骨のこの細い方の骨、これはコロニーの人間に特有のものなのは知ってるよね。これが仮骨過多A症または破骨細胞異常症α。今ではもう異常ではないと考えられていて、軌骨オービット・ボーンと言われてる」


「知ってる。おかげで親指の関節が地上の人達よりほんのちょっと柔らかいんでしょ」


「そう。そのうち六本目の指に分化するかもなんて与太もある。……ま、いいや。で右手なんだけど」


 彼はそして、指差した。今見たのとは逆の右手。その親指の、基節骨と軌骨の間を埋めるように存在するもの。


「中等度に進行した『ルシィ』だ。それもすごく稀なケース。神経症状が一つも出てない。ジュエル、あなた天使に気に入られたよ。これは死のお告げじゃない」


 細い人差し指の爪のような形をしたそれ。

 一つ余分な、ちいさな骨。


「ああ、この肌の模様が告死斑デスシグナルなんて言われるのも、『ルシィ』の天使からの連想?」


「そう。普通、皮膚の変色が始まる頃には認知症ディメンチアとか双極性障害バイポーラに似た症状が出て、そのうち身体機能にも不具合が出てくるんだけど、あなたの場合そういった症状が全くない。調べたら過去に十二例、同じケースの記録があって、それに従うなら多分ずっと出ないと思う。通常の『ルシィ』と違ってすぐ死ぬこともない。つまり普通。ただ微小な骨の欠片がひとつ多いだけ。それはそれで健常体なんだな」


 死なないと言われると、つまらないような気もした。身勝手だけれど、でもこの模様を初めて見て以来、わたしはあんなに死を恐れたのに。発症から今までのストレスゆえの、歪んだ喜び方なのかもしれなかった。


「だけど、」


 彼はデスクに頬杖をついて、ぼんやりとした口調で続けた。


「『ルシィ』は一般的には死病として有名だし、相関があるかどうかは未確定ながら、未治療患者の凶悪犯罪者が多いのも有名だ。療養しに地上に降りることは勧められない。コロニーでも差別はある。あなたは社会的なハンデを背負うことになるよ」


「でしょうね。特にわたしは――今の仕事は続けられない」


 オービット11公安委員会特別調査室。それがわたしの職場の名だ。

 ただでさえ難しい職場である上、上司が非常に偏見の強い人物と来ている。彼は障害者も病人も出来損ないと思っていて、百点満点の健常者でない人間をあからさまに見下し落伍者扱いする。いつも彼の命令を無視してスタンドプレイを繰り返していたわたしを辞めさせるには、『ルシィ』は格好の理由だろう。多分、身体的特徴が任務のステルス性を妨げるとか何とか言って、わたしの排除にかかるはずだ。

 狂いもせず死にもせず、これから普通に数十年を生きるとしたら、わたしはどうやって生活して行けばいいのだろう。


「で、話、戻るけど。休暇取ってどうするの」


「辞表でも書くつもり。休暇明けに出す」


 はは、と短く笑って、彼はその顔のまま、その後は? と言った。

 わたしは答えられなかった。

 わたしには帰る場所がない。母親がわたしを捨て、わたしは父親を捨てたからだ。


「どうするか、決まらない。だって死ぬものだとばかり思ってたし」


「だろうね」


 ぷつん、とかすかな音がした。彼がモニタをスリープに戻したのだ。ノイズが出るなんて、機械が古い。

 話が終わったサインだった。


「じゃ、説明終わり。皮膚の変性しか症状がないなら、治療も要らないし。今日のあなたの診察はおしまい」


「時々検査した方が良いの」


「うん、まあ半年に一度も調べればいいんじゃない? ただ珍しい症例だから念のため、三ヶ月くらいはまめに通ってもらって本当に症状がないか様子を見ようか。最初は二週間後にしましょう。帰りに診察予約して行ってね。『ルシィ』のことを考えるのも、そのくらいの頻度で良いと思うよ」


 それは無理だな、とわたしが言うと、彼は、今だけだよ、と答えた。

 そんなものなのだろうか。

 少し寂しいような空虚な気分で立ち上がり、わたしは診察室を出ることにした。

 背後でキーボードを叩く音がし始める。次の患者のカルテを呼んでいるのだろう。

 わたしはとても孤独な気持ちになった。




   ◇◇◇




 病院を出ると、作られた冬の乾燥した匂いが鼻についた。

 バスには乗らず、一時間近く歩いて自分のアパートに戻ると、認証パネルの横のメッセージウィンドウに空調の停止を示す文字が点滅していた。壊れたのだろうか。ロックを外して区画に入り、リフトで自分の部屋に上がると、部屋は恐ろしく冷え切っていた。ここまで下がるということは、朝のうちに壊れたのだろう。今日は特別冷えるのに、これでは冷蔵庫いらずだ。

 それから、わたしはキッチンのデリバリーシステムに何か届いているのに気がついた。

 今日はなにも頼んでいないのに……?

 近寄ってログを呼ぶと、届いたのは一時間ほど前になっている。不審に思って開けてみると、届いていたのは牛乳だった。大きな家庭用のサイズと、三百ミリリットル壜との二本がしんと冷えてそこに納まっている。

 そっと取り出してみると、小さい方の牛乳は冷たい壜の中で半分凍っていた。

 微笑んだ。

 届けたのはレインに決まっている。

 話が散らかっていて、変なところで怖がりで、そのくせいつも安心させてくれる、わたしの。

 わたしの。

 わたしの?



――区別するとしたらその世界にあなたがいるかいないか、それしかなくなった。



 夢と現実の感触を失いかけながらわたしを見ている、レイン

 それぞれのやりかたで死を恐れている、レインジュエルわたし

 わたしたちは、恐怖という悪夢を共有して生きている。たかだか百年の、短い短い夢を共有している。


 休暇取ってどうするの、と聞いたレインの声が耳の奥に甦り、わたしは、答えがもう決まっていることを悟った。

 レインと夢の話をしよう。

 お互いの怖いものの話をしよう。

 そして、いつまでわたしの怖いものの話を聞いてくれるか、いつまでわたしに怖いものの話をしてくれるか、初めて尋ねてみよう。

 早くしなければ短い悪夢は終わってしまうのだから。



 ねえ、いつまでわたしで世界を確かめてくれる?






〈了〉


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

雨と宝石のラグランジュ 鍋島小骨 @alphecca_

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説