自分の在り方を試す少女

 峠を越えたような気がする。

 下り坂。

 長い下り坂を下って、下って。

 一番下まで下って。

 それから?

 それから、どうしたんだっけ?

 あれ?

 どうやら眠っていたらしい。

 ここはどこだ?

 今度は知らない天井だ。いや、今は記憶を失っているから知ってる天井は一つもないのだけど。

 とりあえず、室内だ。屋根はあっても動力は無い。自分の体を揺さぶるものは無いが、寝心地は最悪だった。

 自分の体を支える物体に布という布は何一つ無かった。

 段ボール。大小異なるいくつかの箱の上で自分は目覚めたようだ。

 段ボールに自分の体重を支える力は無く、尻は箱の中に沈み込んでいた。 脱出しようにも重心の進退が極まっていて、手足の稼働幅も制限された状態で思うように動けない。

 どうしてこうなった。

 たしか、政府によって情報遮断された町へ隔離だか保護だか研究対象とかわからないけど送迎されたらしい。新しく住む家に案内されるかと思ったら、そこはバスで進入できない丘の上に存在していて、麓から歩かされて数十分。

 外の天気は灼熱だった。

 お天道様の笑顔を遮るものは何一つ無く、紫外線を照り返すアスファルトの上を冷房のよく効いた車内から歩いて体調を崩したといった感じか。

『これでも君が思うよりも都合のいい世界にはなっているんだよ。これでもね』

 バスから降りる時の男の最後の言葉はこれだった。

 嘘だろ、お前。

 暑い中をわざわざ歩かせて倒れる事態は回避可能だったじゃないか。

 うぅ、ダメだ。頭が痛くなってきた。

 というか、それなら目覚めるのは病院が相場じゃないのか?

 ここはどこだ?

 室内は狭い。圧迫感こそ無いが、広いとは言えない。

 足が向いている窓の外は明るい。まだ昼のようだ。いや、丸一日以上寝てたって可能性もあり得るが。

 カーテンはかかっておらず、いかにも入居直後という雰囲気だ。

 何も飾られていない部屋に段ボールだけの状況。

 え、引っ越しの送迎にしては随分手荒過ぎやしないか?

 ガチャ。

 部屋の外でドアの開く音が聞こえた。それに続く足音が一人分。

 誰かが来る。

「うわああぁぁあぁあ!?」

 思わず悲鳴に似た声が出た。

 頬に得体の知れない冷たい感触。視覚情報がないだけで体感する全てが恐怖に置き換わってしまうだなんて、疲弊した今の身で味わう事じゃないな。

 というか、今何が起こった?

「あ、ごめんなさい」

 自分の顔を覗き込んで、そう言ってきたのは少女だった。

「自分も急に悲鳴を上げてごめんなさい」

 とりあえず、脱出の助けを求め手を差し出す。

 が、

「ひゃあぁ!」

 その手は叩き落されてしまった。

「痛ってえ!」

「あなたは変な人ですか?」

 待て待て待て待て。

「この状況を見てくれ! 動けないんだ! 助けてくれ!」

 身振り手振りで自分の身に起こっている状況を精一杯伝える。むしろ、伝わってくれないと自分の棺桶が段ボールになってしまう。

「あ、ごめんなさい」

 しかし、再び差し出した手を取ってもらえることは無く、自分の側面にしゃがみこんだ。

「え、ええっ!?」

 ひっくり返した。尻の沈み込んだ段ボールを。

 軸を掴まれた全身は簡単に横回転し、フローリングの上に投げ出されるように脱出成功した。腰の打ち所が悪かったら、今度は車椅子に腰を沈める所だった。

 なんか、思ってたのと違う。

「ありがとう?」

 腑に落ちない返事をしたが、相手は恩人だ。

「ございます」

 軽く頭を下げる。 

「もともと私があなたを倒しちゃった訳だし?」

「え?」

 頭の中で思った時には既に口から出ていた。

 ……え?

 そして、熟考を試みて、やっぱり同じ言葉に行き着いた。

 一つ思い至ったのは、この少女には深刻なツッコミが不足している。

 起承転結を結から語る回りくどい面倒なタイプだぞ、これ。

 どうやって、この少女と向き合っていけば良いのか、その方向性が自分の中でカチリと音を立てて決まった。

「知らない男の人が私の家に押しかけたのだから当然の対応じゃない?」

 そうだ、思い出した。

 男に指示された丘の上の建物は五階建ての集合住宅。その最上階に位置する『501号室』にいる女の子から『502』の鍵を受け取るのが自分の目的だった。

 それがどうしてこうなる。

「もしかして、君に失礼な態度を取っちゃってた?」

 あぁ、敬語ってなんだっけ?

 まぁいいか。

「事前に誰か来る話は聞いていたけど、あまりにも血色の悪い顔立ちたったから驚いちゃって?」

「驚いちゃって?」

「蹴っ飛ばしちゃった!」

「そんなにか!? 自分の顔は思わず蹴りたくなるぐらい血色悪い顔だったのか! ショックだよ!」

 生徒手帳にあった自分の顔写真は特別恰好のいい訳ではないが、血色悪いくらいで蹴られるようなものでもない。多分。

「まぁまぁ、元気出して?」

 と言いながらペットボトルを渡された。さっき頬に触れた感触はこれだったのか。

 なんと足癖の悪い少女だ。

 渡されたペットボトルには味が予想できないラベルが貼られていた。

 牛乳とかジュースなら飲んだことのあるものなら味を知識として思い出せるらしい。だが、その味を好きだったか嫌いだったか思い出せない。

 そして、この飲み物には何の心当たりもないということは記憶を失う前でも飲んだことが無いようだ。

 つまり、未知の塊。

「なにこれ?」

「え、知らないの? 元気になれるジュースだよ」

「その説明だけでは胡散臭すぎる」

「あ、そうか。記憶無いんだっけ?」

 この少女はどこまで自分の事を知っているのだろうか。

 あの男のことだから出鱈目なキャラ設定を植え付けてくれたのかもしれない。

「そっかそっかー」

 胸を張って両の手を腰に当て空を仰いでみせた。

 お世辞にも胸はあるとは言えない。外見に相応している。

 と、自分の泳いでいた視線に気付いていないのか右の掌を見せて来た。

「貸して」

 言われたとおりにする。

 と、流れる動作でキャップを外すとラッパ飲みを始めた。

「あ、あの?」

 一回、二階、三回、四回、喉仏が動いた。

「ぷっはー!」

「可愛げが無い!」

 いや、実物は多分可愛い。というか、幼い。

 はっきりしてきた意識で改めて少女を見ると、まず背格好が低い。自分と比べると鎖骨くらいしかない。自分の背が高いだけでは説明がつかないくらいには低い。高校一年の自分よりは年下にしか見えない。

 少し茶色が混ざったポニーテールは腰のあたりまである。

 そして、ジャージである。明るめのピンクは学校指定にしては少し派手な気もするが、部屋着なのかもしれない。

「こんな所で私を元気にしてどうする気よ?」

「とりあえず、毒物ではないとわかったよ。ありがとう」

 無駄に大袈裟な動作でペットボトルを返される。

 わざとだ。絶対わざとだ。

 最初に抱かせてしまったのは敵対心だったけど、今はもう警戒されてないのだろうか。というか、これって間接キスでは?

 毒ではないとわかったが、飲んだら毒を吐かれそうだ。などと気にしたら負けのような気がする。

「いただきます!」

 結局、この飲み物の正体はわからないままだが、この少女の勢いに屈してはいけない。本能がそう告げている。

 面倒を見てもらうどころか、一生パシリにされるまであるぞ。

 左手は腰に当て、少女と同じポーズでペーっとボトルを傾ける。

 一回、二回、三回、四回。

 まだ冷たいままだったのが喉を駆け下りていく度に自分の中の何かが解放されていくのを感じる。元気になる、ってこういう意味なのか。

 五回、六回、七回、八回。

 あーあ、何を意地になっているのだろうか?

 記憶を失くす前の自分は負けず嫌いだったに違いない。

 九回、十回、十一回。

 ちなみに、味はまったく説明できない。

 風味は花でも葉でもない、人工的に着色された強烈な甘ったるさ。その喉越しは今の自分では表現できない。

 いつか、この飲み物を理解できる日が来るだろうか?

 自分自身もだけど。

「ぶはあぁっ!」

 油断だった。

 振った状態で渡された炭酸飲料から抜ける炭酸は勢いよく鼻孔と肺を刺激する。

 が、問題はそこじゃなかった。

 無防備だった腹を指先で突くとか反則だろ。

「何を……」

 だめだ、呼吸が乱れて言葉が続かない。

 流し込んだはずの飲み物が鼻孔まで逆流し、酸素を求めても誤飲した肺からの生理現象で何がなんだかよくわからない。

「いやー、あなた芸人の才能あるよ、きっと」

 お前は馬と鹿、どっちが馬鹿か知ってるか?

「一応聞くけど、大丈夫?」

 自分が満足に喋れないのをいいことにボケ倒すつもりか。悪いが、今は酸素が品切れだ。

「大丈夫そうだから、私帰るね?」

 今まさに鼻孔で停留してるものを解放してやろうか。

 しないけど。

 焼ける胸を押さえて深呼吸をする。

「って、本当に帰るやつがあるか!」

 ちょっと目を伏した間に踵を返しているじゃないか。

「私の役目はあなたの面倒を見ることだけど、実際大丈夫そうじゃない」

 自分はこの少女に何を試されているのだろうか。

「本当はわかってて楽しんでいるだろう」

「何故?」

「だって、君は鍵を預かっているじゃないか。その鍵を渡すまで君に帰る選択肢はないはずだ」

「ここが私の部屋だとしたら?」

「この殺風景な部屋が?」

 何も言い返さない代わりに両手を上げた。降参を意味してるらしい。

「本当なら何かお礼の一つでもできればいいのだけど、知っての通り今の自分には何もない。中途半端な知恵と知識以外は失くし……」

 失くした訳じゃないんだよな。

「捨ててしまったんだ」

 溜息を吐かれた。同情というわけではなさそうだ。

「君の玩具になる趣味はないけど……」

「あーわかったわかった。意地悪が過ぎたのは謝るから」

 観念したように言葉を遮ってきた。

 そして、今度は少女が深呼吸をしてから踵を返した。

「か、鍵を」

 背中を向けたまま後ろ手を差し出してきた。

「鍵より必要なものを手に入れに行くよ」

 この少女が自分をどこへ連れて行ってくれるのかはわからない。

「今度こそ、本当にあなたの面倒を見てあげる」

 けど、自分の在り方と向き合う鍵を持っているとするなら、この少女なのかもしれない。

 根拠はないけど、そんな気がした。

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モノゴコロ @rafa_jun

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