033 新たな旅立ち
「それで、おめぇはまたなァにをしてやがるんだ」
呆れたように、老人は振り返った。つられて、いくつもの視線が甲板をせわしなく行き来する男へむけられる。
東雲は、彼らの物言いたげな様子を気にもとめず、せっせと食料やら毛布やらを倉庫から運び出していた。当然、少女の過去の話など、これっぽっちも聞いちゃいない。
「決まってるだろう、旅仕度だ」
「……は?」
愚問だ、と東雲は荷物を絡めた。
「この船は島へ戻るんだろう? だが俺は戻りたくねぇ。時は金なりだ、このまま西大陸へ行く」
「行く、っておめぇ……」
突っ込みどころが多すぎて、なにから指摘すればいいのかわからない。
彼の言うとおり、船の進路は島へむかって逆走している。当然だ、からくも海図を守ることはできたが、赤鬼の観測艦隊はまだ生きているのだから。一刻もはやく今回の顛末を島長へ報告しなければならなかった。
この男がいくら駄々をこねようと、これは覆しようのない決定事項である。東雲もそのあたりの事情にケチをつけるつもりはないらしく、しかし我を曲げる気もないので、一方的な折衷案を提示した。
「なぁ爺さん、その女も頑張ったが、俺もすこぶる健闘したと思わんか?」
「あ? あァ、そうだな。ありが――」
「いや、礼はいらん。その代わりこの荷運び用の小船をくれ」
「……は?」
要は自分だけ小船で西を目指すというのだ。くれ、と頼みこんではいるが、彼の中ではすでに自分の物と決まったようで、意気揚々とひとまとめにした荷物を放りこんでいる。
その荷物もすべて貿易船の備品なのだが……。もはや言及する気にすらなれず、老人は眉間に寄った皺をもみほぐした。
若造の身勝手に振りまわされるのは癪ではあるが、彼の功績をかんがみれば、小船の一隻や二隻あたえたって構わない。どうせ島へ戻ればかわりはいくらでもあるのだ。
しかし、老人はこの船の航海士として、彼の離船を承諾するわけにはいかなかった。
「おめぇは馬鹿か。たった今、ワシらがなんのために争っていたと思ってやがる。この迷路海流を知識なくして抜けるなど――」
「海図なら覚えたぞ」
あっけらかんと、東雲は古びた紙の束を老人へ投げて返した。ぞんざいにあつかうな、と叱り飛ばしかけて、航海士は数瞬口をつぐんだ。
覚えた……? この膨大な記録を、彼は今、覚えたと言ったのか?
「ただ文字の意味がわからねぇ。翻訳してくれる人材がひとり欲しいところだな」
そう言って、東雲はぱちくりと瞳をしばたたかせている毛玉に目配せをした。
トトはいまだ事態をよく把握していなかったが、散歩に誘われた忠犬のごとく満面の笑みを浮かべて片手をあげた。
「もちろん、御伴いたしますぞ!」
「よし、採用」
「……もう好きにしやがれ」
やれやれ、と老人は疲れたように肩をすくめた。若者の無茶な暴走についていくのは老骨にはこたえる。ありていに言えば匙を投げたのだ。
そもそも彼らは鬼のしがらみとは一切関係のない部外者である。ここから先は、島の住民だけで解決すべき問題であった。
「あと、そうだな、旅へ出るには財布もいるな」
にやり、とふくみのある笑みをたたえて、東雲はレイラを見やった。
「銭六割、忘れたとは言わせねぇぞ」
「――……え」
まさか自分も誘われるとは思っていなかった様子で、レイラは呆然と固まった。
すると、戸惑う彼女の背中を、老人が優しく押し出した。他の青鬼たちも、彼女の旅立ちを見守るように、温かなまなざしをむけている。
彼らにはわかっていた。はみだし者の彼女には、赤鬼でも青鬼でもない、あの二人のような仲間が必要なのだと。
レイラはしばし迷うように足踏みしていたが、やがてきつく口の端を引き結ぶと、荷袋から銀色の小瓶を取り出した。あの脱色液の入った瓶である。夜空の星を砕いたような煌く液体が、とぷんと波をうつ。不思議なもので、あんなにも恋い焦がれた
レイラは吹っ切れたように笑みをひらめかせた。
目の前に悠然と立ち塞がる白濁のその先へ、挑むように銀色の小瓶を力一杯放り投げる。
「何度も言わせないで、四割よ!」
わざと小生意気な態度をとりながら、ちっぽけな小船へと乗りこんでいく。
東雲は、その姿を面白そうに眺めやり、負けじと言い返した。
「いいや、さっき俺の大事な戦利品を食わしてやったろう。その分を上乗せして、六割じゃ」
「はぁ!?」
レイラはパッと口もとを押さえた。まさかあの種が有料とは思わないではないか。
「言っただろう、タダで善意が売れるか」
「……ほんっと、アンタってサイテー」
そんなやりとりをどう勘違いしたのか、トトがころころと楽しげに笑った。
「おふたりは仲がよろしゅうございますなぁ」
「……ないわ」
「ねェな」
帆が躍るようにひるがえった。ちぐはぐな三人組を乗せた小船は、霧の海を再び進む。
目指すは一路、風光明媚な自由の大地、
― 完 ―
異賀忍地獄旅譚―アンデッド∞エイジ― 古家明依 @HuruyaAki
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