第2話

 僕が足を進めた時、ジャリっという足音がしました。奥さんは私の動きに気付いてこちらを見ました。抱っこしている子供の小さな手を、自分の手のひらで包み、子供の手のひらを親指でさすっています。埃が付いてしまっているガーゼのミトンは少し茶色になっていました。


 やっぱり止めとけばよかったかな・・・

 ヘンなことに誘ってすみません・・・


 いろいろな言い訳が思い浮かびますが、どれかを選ぶことはできず、

「じゃ、やっぱり、そろそろ。。。」

 とだけ、無難な言葉を発してしまいました。奥さんはけして怒ってはいませんが口を真一文字に結び、抱っこしている子供をもう一度しっかり抱き上げなおしました。


 とりあえず、土手を降りられる階段に向かいました。この土手には来る人が他にもいて、一度土砂で埋まってしまった階段が、獣道のように現われていました。別の人の靴の足跡が崩れながらにも残っていて、滑りそうです。僕はポケットに入れていた手を出し、奥さんが付いてくるか振り返りました。奥さんはまだ、初めの段に足を下ろしたところで、次には片足ずつ足を出して降りてきていました。ポケットから出した手は奥さんのほうに向けようと思いましたが、両手で子供を抱えてバランスを取っているので、こちらにつかまることはできないとすぐにわかりました。出した手は気付かれぬうちにすぐに戻し、下を見て僕は再び下り始めました。

 風が弱まった隙に、埃にまかれる前に車に戻ってしまおうと、車のほうを見ましたが、後から奥さんが来ていることを思い出し、足を緩めました。瓦礫から見えるセンターラインの上をなぞるように奥さんは歩いています。子供はフードの隙間からきょろきょろと周りを見ています。目だけ見えて、顔までは出そうとしません。寒いからなのか、怖いところだと思ってなのか。お母さんの手が子供の背中を強く抑えていました。


 車までもう半分のところに、前の職場だったモルタル/コンクリートの建物があります。潰れた2階の鉄筋は「く」の字に外に折れてはみ出していています。しかも網状になってしまい、窓や戸であったところも枠が潰れていて、例え天井と床の隙間に残ることができても、這い出すのには難しいだろうなと思われました。しかし、1箇所だけその網が焼ききれるように破れているところがあります。バーナーで焼き切ったのか、鉄筋の先だけ赤茶色になりまだ熱を持っているかのようです。助かった人は、そこから救出されたのです。脱出するときに使ったロープや、所どころ引きちぎられたカーテンが、そのまま地面に落ちています。端が燃えてしまったような跡もあります。建物に火災の後はないので、誰かが暖を取ろうと燃やしたのかもしれません。

 門柱の間には黄色と黒の規制線、通称「虎テープ」が張ってありました。切れて地面に垂れたテープもあり、それを戻すことなく幾重にも規制線が張ってあります。センターラインからその規制線までは瓦礫の獣道があり、あきらかに誰かが出入りした跡があります。僕は、瓦礫や釘を踏み抜かないように、つま先でちょこちょこと地面をこすり、確かめながら規制線の前まで来ました。しゃがんで少し規制線を持ち上げれば中には入れそうなので、線に手をかけて持ち上げ中を覗き込むようなしぐさを取りました。そして、足を踏み入れようとしたとき、

「え、入るのはちょっと・・・。」

と、驚いた表情の奥さんがこちらを見ていました。僕はここで働いていたことがあるので、崩れた建物に親しみはなくとも他人ではない感じがして、不意に近づこうとしていたのでした。僕が奥さんに言葉は返さずに、目を上に向け、心の中で「あーっ」と言い訳を考えていると、

「今は何かあっても助けに来てくれるかわかりませんから。」

とたしなめられるように言われ、うなだれて獣道を奥さんの立っているセンターラインのほうへ戻りました。


 センターライン、埃の道、瓦礫に囲まれた獣道、思いついたまま周囲を見渡すと、まず自分の背が高くなったのかと感じます。頭上にあったはずの瓦屋根はちょうど僕の背の高さにまで落ちていて、普段触ることは無いテレビのアンテナが目の前に横たわっているのです。2階のベランダから出入りする人もいます。しかし1階は潰れてしまって無いわけで、ベランダの手すりが目の前にある状態です。電柱も横たわっています。感電防止のために巻き取られた送電線も足元にあります。住宅街といっても耐震性の無い古い家々が並んでいたので、街そのものが1段低くなった不思議な光景です。


 奥さんはその後何も言わず、僕の後を付いてきていました。自分の車に手をかけてドアをあけると、すでにエンジンは止まっているものの、車内はほんのり暖かく、シートに背中を預けて、ふうっと息を吐きました。その後もう一度エンジンをかけるため、スタートボタンを押しました。吹き出し口からはすぐに温風が出て、ポケットから出した左手とあわせて、さっと両手をかざしました。今度は右手はそのまま、左手でシートベルトのアンカーを取るとルームミラーに奥さんが子供を乗せている姿が見えました。リアのドアを開けて、子供をチャイルドシートに乗せようとしていました。僕は車を降りて、後へ止めてある奥さんの車のところへ寄りました。

 奥さんはより深く子供を座らせた後、チャイルドシートの細いシートベルトを締めました。僕は開いているドア越しにそのしぐさを見ていました。車の中からはアンパンマンのテーマが小さく聞こえます。

「あ~ん、手は口のところに持っていかないで~」

 奥さんは茶色いミトンを外して子供に声をかけますが、子供さんはこちらをちらりと見ると、今度は自分をとめているシートベルトの端をいじり始めました。

 子供を乗せ終わると奥さんはドアを閉めて

「ガソリンがそろそろなくなりそうなんですよね~」

 と言いました。

「そんなに出かけているのですか?」

 確かに救援物資は避難所ごとに偏りがあって、必要なものを隣の避難所にとりに行くことはありました。

「広くても、避難所の中で子供が声をあげると、何だかですね・・・。車に来てちょっと落ち着かせたり、まあ、自分も少し休んだり」

「じゃあ、ガソリンが買えたらお知らせしますよ」

 僕はガソリン携行缶を持ち上げるしぐさをしました。

「あはは・・・。はい~」

 奥さんが、まあそこまでは、とは思いつつも笑っているようでした。僕も車に戻ることにしました。

「このまま、避難所にいきますかね」

「うーん、そうですね」


 僕は向かって前方にある自分の車に戻り、シートベルトをしました。ルームミラー越しに奥さんがこちらを見ているので、ウインカーを右に出しました。奥さんの車も右にウインカーを出したので、そのまま少し車を前に出しました。付いてくる奥さんの車がミラーから消えないくらいのスピードで、国道を走り避難所となっている体育館のある相追小学校へ向かいました。信号があったはずの交差点を、信号の指図が無いまま走るのは、初めはとても怖い思いでした。しかし、まだ飛ばす余裕のある人はいないようで、慎重に渡り、2台の車は連なって避難所へ向かいました。


 車の窓から見える太陽は肉眼で見てしまってもまぶしくなく、雲に丸い輪郭が見えました。

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7年待つ @prius2009

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