第40話 見知らぬ天井と、生きて帰った男の子
『国境の長いトンネルを抜けると雪国であつた』という有名な文がある。
『トンネルのむこうは不思議の町でした』というのもある。
しかし契汰の場合は、見知らぬ天井だった。
「ここ、どこだ?」
本当に知らない場所というところは、戸惑いより先に恐ろしさがくる。しかしこの空間は不思議と、そんな恐怖心を感じさせない。
清潔な白いカーテンが揺れる、和のしつらいが施された広い部屋だ。広く取られた窓から、朝の陽光がたっぷり流れ込んでいる。室内には契汰が横たわるベッドの他にも、いくつか寝台が据えられていた。
高度な設備から推測するに、どうやらここは病院らしい。
「……ああ、生きてる」
契汰は溜息をつきながら茫然と室内を、ただ眺めた。今ここにいるということは、初めてこの世界に来た時と同じように、再び鎮守の森から生還したということだ。しかし契汰にはまだ信じられなかった。
(俺は、長い夢でも見てるんじゃないか)
契汰はそんな疑念を拭いされなかった。その時だった。
カサ、カサカサ……。
契汰の目の端に、白い紙きれがひらひらと映り込む。
「わっ、なんだ?」
驚いて動く紙きれに、布団を覆いかぶせる。
モゾ、モゾ……。
「虫?」
目を凝らす契汰の布団の下からペラリと抜け出てきたのは、人の形に切り取られた紙だ。胴には「医」と毛筆で書きこまれ、赤い染みがちょっぴりついている。
「人形!」
以前契汰を親身に治療してくれた、けなげな人形だ。「看」と「薬師」も枕元から飛び出してきた。契汰が目を覚ましたことがよほど嬉しいらしく、ひらひらと飛び跳ねている。
「久しぶり」
契汰がニッコリ笑うと、「薬師」が猛スピードで部屋から出て行った。
「あれ、どこいったんだ」
残った人形が(気にするな)という手ぶりをする。契汰の状態を確認した後、水を飲むよう勧めてくる。だがその容器は、ジョウロのようなへんてこな物だ。
「いいよ、自分で飲むから。コップでくれないか」
「……それは吸いのみだ。今身体を起こさせるわけにはいかないからな」
女性の声が響く。部屋の入口に、白衣を纏った人物が寄りかかって立っていた。
「飲まないのか?」
気だるそうな口調の女性は、スミレ色のベリーショートの中性的な容姿だ。余裕を含んだ薄い唇に細い煙草を咥え、ゆっくりと契汰の寝台の側まで歩み寄る。
「え、いつの間に」
「人形が慌てて呼びに来たんだ、君が起きたってな」
「ああ、さっきの」
「何が気に入らんのだ」
「ああ、なんか変な容れ物だなと思って」
「そいつは動けない重病人にも水を含ませることが出来る、れっきとした医療道具だ」
「はあ。あの、ここって典薬寮ですよね。貴女はここの人ですか?」
「薄情なヤツだな、前にも会ったことがあるだろ?」
「覚えがありませんけど」
契汰は女性の咥え煙草が気になって、話が入ってこなかった。
本当に医療機関の関係者なら、考えられない行為だ。いや、もしかしたら典薬寮は、喫煙オーケーなのかもしれない。だが、関係者を騙った人の可能性もなきにしもあらずだ。
契汰の疑りの視線に気がついて、女性は不機嫌な顔になった。
「会ったよ、あのいけすかない生徒会室で。ま、あんときは人形の姿だったからわからなくて当然かもな」
「まさか、華岡さん!?」
「御名答、一年君。よくできました」
華岡はわしゃわしゃと契汰をの頭を撫でた。契汰の髪からぴょこんとした寝ぐせが立つ。
「ごめんなさい、俺すぐにわからなくて。それに……」
「それに、なんだ?」
「いやその、まさか責任者が喫煙者と思わなかったので」
「あ、これか。なんだそんなこと考えてたのか」
華岡は大笑いしながら煙草を口から抜き取った。そしていきなり、煙草をポキッと齧る。
「煙草なんて食べて大丈夫なんですか!」
「一年君、良く見ろ。煙草がポキッと折れるもんかね」
華岡の差し出したモノを良く見ると、煙草の形をしたラムネ菓子だ。
「し、シガレットラムネ?」
「その通り。真面目はいいことだが、視野がちと狭いな」
華岡はまるで本物を嗜むかのように、二本目を颯爽と取り出してまた咥える。
「ややこしいことしないでください!」
「一年が勘違いしただけだろう。これはいいぞ、ウマいし、適度にカッコもつくしな」
「はあ」
「景気づけに一本、とくれてやりたいが、まだラムネは早いな。とりあえず水からだ」
今度は素直に水を飲んだ。ツツーッと食道を伝い、胃の中に液体が流れ込む。冷たいスライムが、腹の中に溜まる様な感覚だ。人形が心配そうに見守る。
「どうだ、不快な感覚はないか?」
「ちょっと胃がびっくりしてるみたいです。俺、何日眠ってたんですか」
「先週の日曜からだから、まぁざっと一週間か」
「一週間も!?」
「たった一週間、だ。これで済んだのは奇跡」
「皆は、皆はどうなりました? 永祢、永祢はどこですか!」
「おいおい……」
「後、猫もいたはずなんでず。黒くてずんぐりむっくりな猫が」
「落ちつけ、全員無事だ。ちゃんと救出された」
「本当ですか!?」
「嘘をついてどうする。心配するな、このアタシが治療の指揮を執った」
「良かった、一時はどうなるかと」
「ああ、想像以上にとんでもない物の怪だったな」
華岡は嫌な残像を振り払うかのようにラムネを食べきると、三本目に手を出した。
「典薬は基本、討伐隊もしくは生徒会からの要請がないと動かない。この前もそう考えていたのだが、勝手に森に急行したヤツがいてな」
「華岡さんに無断で?」
「コイツらだよ」
華岡は呆れ顔で、契汰に寄り添う人形を見た。
「腹が立って、燃やしてやろうかとも思ったんだがな」
人形たちは逃げるように、契汰の背中に隠れた。
「フン、いたく一年を気に入っているらしいな」
「なんでそんなことしたんでしょう」
「アタシも訳がわからなかった。しかし人形が誤作動を起こしているとすれば、術者として処理しない訳には行かねえ」
「確かに」
「そこで渋々追ってみたら、羅城門の前で扉を叩いてやがる。アタシも嫌な予感がしてな。森に入ったら、あの有様だ」
華岡は寝台の側の椅子にゆっくりと足を組んで、腰掛けた。
「あんな討伐隊の姿は初めてだ。隊は壊滅、珍しく同行した尾羽どもも機能してなかった」
「補佐委員のことですか?」
「全く情けない、大失態だ」
「もし人形たちがいなかったら」
「全員天国行きだ、地獄かもしれんがな」
契汰は背筋に寒いものを感じた。
「どうして人形は、わかったんでしょうか」
「それはアタシも知りたい」
華岡は契汰と鼻がくっつくくらい、顔を寄せた。契汰はドギマギして思わず目を伏せる。
「人形は単純な呪だ。霊力を込めた人の形をした紙に、それぞれ仕事を与えてやる」
「まるで人間みたいですよね」
「それは一年がコイツらしか見ていないからだ」
「他は違うんですか?」
「人形に求められることは、人間の代行。そこに感情など持ち合わせる必要はない」
「そんなものですか」
「というより、感情を持たせるなど……不可能だからだ」
「え」
「少なくともアタシはそんな呪は知らない。あったとしても、どれだけ複雑なことか」
「じゃあこの人形たちは……」
「コイツらの身体の赤い染み、君の血か?」
華岡は瞳だけを、人形たちに向ける。
「ああ、たぶんそうです。この前治療してもらったときに、何かの拍子でついたんだと」
「ははあ、これで合点がいった」
「何がですか」
「君の血の力だ。凄まじい霊力が血を経由して人形に宿り、それがコイツらに人格を与えたんだ。恐ろしい威力だよ。そう言えば一年君、聞いたぞ。あの総極院永祢にも霊力が宿ったんだとな」
「……はい」
「どうやった、血を飲ませたか?」
「まあ、そんなところです」
契汰はさすがに、血の契約のキスのことは気恥かしくて言えなかった。
「量はどれくらいだ」
「滲む程度、かな」
「なんて野郎だ、君の血は霊力の塊だな」
契汰は苦笑いした。やはり契汰の血は相当の力らしい。しかしここで一つ疑問が浮かぶ。
「でも、異能は血に宿るんですよね?」
「確かに異能は血継が全てだ」
「だったら俺の血が特殊ってことはないんじゃ」
「まさか」
華岡はシガレットラムネを、またポキリと折った。
「いいか一年。お前の血はたった一滴で人形を、そしてあの総極院永祢を変えた」
華岡は契汰の首筋に触り、身体に流れる脈を感じるかのようにゆっくりと圧迫した。
「一年の霊力量は、もはや才能の域に達している。あの一ツ目が君との融合に固執したのも頷ける」
「俺、何度も飲みこまれました。その時にアイツと会話した」
「精神汚染を狙ったんだろう」
「汚染されるとどうなるんですか?」
「物の怪の瘴気による、精神の異常が起きる。人を得体のしれない幻覚に巻きこみ、発狂させ、最悪の場合は」
華岡は天井を仰ぐと、短くなったラムネを咥えたまま溜息をついた。
「死ぬよりもっとひどいことになる」
「どんなことに?」
「やめろ、もう聞いてくれるな。そんな患者は二度と診たくない」
「……すみません」
「一ツ目は一年の全てを、自分と融合させたかったんだろう。精神汚染はある種の洗脳。君を養分として、更なる増強を図った」
契汰は一瞬でも、一ツ目の胎内を『快適だ』と判断した自分の脳を恐ろしく思った。
「そこから察するに、あの一ツ目は身体になんらかの欠陥を抱えていたのだろうな。強大な霊力を持つ一年を取り込むことで、それを補完しようとした」
「だから俺以外の異能を喰おうとしなかった?」
「妙なことだ。ハナから人喰いなどする気は無くて、一年君が欲しかっただけかもしれん」
「……まさか」
「だが良かったじゃないか。結果的に君も君以外も、死ななかった」
「いいえ、俺見ました。烏の尾羽の女の子が、死んでたのを」
「ほほう」
「その女の子の身体を使って、一ツ目は俺をおびきだした。救出は……間に合わなかった」
「なるほど。話は変わるが、チョコは好きか?」
華岡はおもむろに、契汰のベッドの脇に備え付けられている棚を開けた。
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