二章 君子を人を以て人を治む その②

 三重のじようへきに囲まれた都の中、一番内側に築かれた城壁は、皇帝の住まいを守るぼうぎよかなめ

 水運を発達させた藍陽には、古都のようなじようぼうかべはない。その代わり、血管のように張りめぐらされた水路と橋が大小いくつもあり、皇帝の住まう居城の周辺には大きなほりと半円をえがく白い橋が造られていた。

 比して宮城は伝統的に造られており、左右たいしようで整然と官庁が並んでいる。

 中でも宮城の中央に位置し、金色にそうされたかわら屋根がうでを広げるように天へとび上がる建物はようほこった。こうていしつせいの場であるきゆう殿でんは、紅、あい、金とさいしきあざやかにぜいらしたそうしよくが目立つ。

 そんなな宮殿の中、たんに座る朗清は、落ち着かない様子で座り直した。

「まだ慣れませぬか、陛下?」

 必要な書簡を、山と積まれた巻物の中から探す安世の問いに、朗清はしようを返した。

「使えればいいというていで、こわれてもいいような家具しか使ってこなかったからな。どうも武骨な俺には心地ごこちが悪い」

 材料も装飾も造りも、全てが一級とわかる調度に囲まれ、安世と故国から共に戦った側近しかいない気安さにそう心中をした。

 朗清のに、安世も皮肉なみをかべて応じる。

「先帝のしゆで、調度はほぼ一新されていますので、文句ならばどうぞ先帝へ」

 決して調度の趣味が悪いというわけではない。どころか、一級品とひと目でわかる確かな芸術性と統一感は、皇帝の執務室としては文句のつけようがない。

 問題なのは、これだけの調度をそろえるために、先帝が国庫をろうしたという事実だった。

「こんな物に金をぎ込むくらいなら、国軍に回して反乱や異民族のしんこうを止める一助にでもすればいいだろうに」

 朗清は今、地方の軍から送られて来たちんじように目を通している。何処も物資が足りないこと、士気の低下がいちじるしいこと、兵のろうが激しく防衛さえままならない苦境がつづられていた。

「改革が動き出す前に、国土は三分の一消失するんじゃないか?」

 朗清はあえて他人ひとごとのようにじようだんめかすが、あまりの笑えなさに本人もじゆうめんとなる。

 何処どこひつぱくしている。先帝の悪政を乗り切った今、もはや地方は体力の限界だ。中央から地方へとえんを行い助けるべきだとわかっているが、中央にもそんなゆうはなかった。

ろうえきめんじよ、納税の免除、かいこんしようれい、防備かくじゆう、国軍のけん

「どれも、先立つものがありませんな」

 つまりは、金だ。

 そうして愚痴は、最初の調度への文句にもどる。

「いや、問題はこの藍陽から動けない現状、か……」

 朗清は進退きわまった地方の戦線の様子に目を落とし、めるようにつぶやいた。

 将としての経験を積んだ朗清なら、きゆうおちいった地方へ軍を率いて支援に向かえる。じかに目で見れば、戦場における一番の問題点を洗い出すこともできるだろう。

 芸術的な机に向かって文字を追うことの、なんともどかしく雲を摑むような実感のなさか。

 そんな摑めないものの最たるものとして、のうに浮かぶ人物がいる。

「…………ようりん……」

 本心の見えない笑みを浮かべた先帝の子息を思い描けば、安世も苦々しげに言った。

「全くめんどうですな。まさかしやおぼれた葉氏で、科挙に合格できる頭脳の持ち主がいるとは」

 安世が顔をしかめるのは、おのれよりも若く、一度の受験で科挙という難関をとつした相手へのしつ以上の感情による。それはえんこんだ。

 地方で暮らした朗清も葉氏に対する思いは同じで、苦々しげに口角が下がっていた。

「政治の中心に葉氏が残るのも面倒だが、地方に出して勝手をされるのも困る。その上、この人手の足りない中で能力だけはあるから、使えないことが腹立たしい」

 朗清が己の心中を口に出せば、安世も同じ考えであるらしく、さらにいやそうな顔をした。

「あれはとんだどくへびですぞ。大人しい今は暗がりにかくれてものねらっているにすぎません。陛下のそくからすぐには、めつしそうな旧臣たちもいたというのに。あの葉士倫がきゆうだいしてから、明らかに動きが変わりました」

 科挙とは、生まれのせんかかわらず、誰にでもかんりようへの道を開く登用試験だ。もちろん元宗室にも科挙を受ける権利はあり、科挙で合格したからには登用しなくてはならない。

「これでは、なんのために葉氏をはいしたかわからないな」

 一将軍である朗清が王に望まれるほど、地方はれていた。

 故国を守るには皇帝という上位者に問題をきつけ、改善を強要しなくてはならない。そう思い決めて朗清は軍を起こした。

「俺は故国を、いてはこの国を救うために軍を発して藍陽を包囲した。結果、こうして己の手で国を導けるようになったはずが、ままならないな。……だが、この程度で国を、たみを、命を諦めるつもりはないぞ」

 朗清は宙に伸ばした手を、決意と共ににぎり締める。

 るがない決意に、安世も強くうなずいた。

 とは言え、事態は深刻だ。冬に悪政をいた葉氏をはいじよし、春に即位してからは改革に突き進むつもりだったが、秋を前にした今、現状を打破する手が打てなくなっている。

 足並みを揃えた旧臣は、よりによって改革の準備をする安世のじやを始めたのだ。

 一人ずつが勝手に動くなら切りくずすのも楽で、じゆう人員の確保も少しずつでいいが、団結されてはそう簡単に排除もできない。

 先日の朝議では、安世が提出した改革のための法改正の草案を、誤字があるというだけでしんきよをしてたたき返した。

 安世の後ろには皇帝がいるので、やっている邪魔は改革をおくらせる程度のもの。ただ、地方がいつたおれるかわからない現状、改革のえんは朗清の治世を揺るがす可能性も十分にあった。

「勇将である陛下が自ら兵を率いて地方へ向かえば、戦意こうよう、地方の活性化、治安回復など解決できる問題は幾つもあるというのに」

「それをさせないために、宮城の中におん分子をしていると考えるべき、か」

「さらに面倒なのは、都の人間の度しがたさですな。わたくしは葉氏の悪政が身にみておりますが、ここは先帝がおりました。住む場所にまで無体を働くほどではなかったのがなんとも」

 先帝の悪政は疑いようがない。ただ、そのがいった者はだれかと言えば、地方の民なのだ。わかりやすく言えば、藍陽のような大都市などは先帝の悪政によるえいきよううすいまま今に至る。

「地方では反乱が起こるほどえんの声が上がっていたにも拘らず、藍陽は俺が軍で包囲を敷くまで日常が保たれていた。藍陽の人間からすれば、俺はならず者なのだろう」

 先帝の悪政による反乱のうわさは都にも届いている。ただ、実際被害に遭っていない藍陽の人間は先帝をうらむ気持ちなどなく、朗清という新帝に対する不信の声さえ聞こえるほどだ。

「……いっそ、道理をわきまえない旧臣が、陛下にけんを売ってくれませんかね」

 安世の冗談に、朗清も室内にいる側近も笑った。

「その時には喜んで買ってやろう。うるさい旧臣も排除できて、家財を押収、国庫をてん。こちらとしては何も困らない。いや、人手が足りなくなるのは問題か」

「改革の足を引っ張ることに心血を注ぐ害悪は、いなくてよろしいかと」

 目をわらせる安世は半分本気だろうが、理性的な意識の半分ではそうなった時、自身が過労で倒れることもわかっているのだろう。

 ここのところ安世はまともに食事の席についていない。腹持ちのいい小麦粉の焼きを合間に食べているだけだと、朗清は知っていた。

「あんなのでも、旧臣たちは国を運営するためには欠かせない人手だ。今切り捨てては傾きかけているこの国が立ち行かなくなる。……とは言え、現状を維持するだけでは、近い内にまた農民反乱が起こるだろう」

 軍を率いた朗清は、戦争で最も死にやすいのがちようへいされた民だと知っている。その民が守られもせず死ぬだけだと現状を悲観すれば、死ぬ気で国にきばくことも知っていた。

 この都で生まれ育った先帝は、そうした決死の民に追われたと言ってもいい。

 皇帝を守るはずの国軍が、地方で続発した農民反乱をちんあつするためへいしていたのだ。

 すぐれた将軍とは言え、朗清が連戦連勝を続けられたのは、戦った時すでに国軍の機能が低下していたことによる。

「明日は我が身、か……。藍陽では最初からあまりかんげいされていないというのに、みような噂が聞こえるのは、俺への不満の表出だろうか?」

 人手が足りず、皇帝自ら物資補充の優先順位を書き出し清書に回しながら、朗清は呟く。

「噂? あぁ、あの陛下の兵がろうぜきを働いているというものですな。しかし、あれは実のない噂ではありませんでしたか」

「そうだ。配下はすべて調べた。噂の元にならぬよう、宮城からのみだりな外出も禁じている。夜市でのさわぎに関わった者がいなかったのは確かだが、何故なぜか噂は消えない」

 新帝に対する不満を、実のない噂で発散しているのかと考えた朗清だったが、安世は厳しい表情を浮かべた。

「確か、調べを行った結果も、夜市には通達したはずですな? それでも消えないとなると、何者かが故意に噂をしている可能性がありましょう。新手の改革ぼうがいかもしれませんぞ」

 朗清の周囲にいる者の評判を落とし、朗清自身にさえ不信感をいだかせる。回りくどいが、改革を遅延させ、先帝時代から続く賄賂わいろの供給源を保ちたい旧臣からすれば悪い手ではない。

 要は、また農民反乱が起こって朗清の治世を揺るがすまで時間をかせげればいいのだから。

 その後、国がほろびるようなせいさんじようきようおとずれることなど想像しない、現状を維持できればいいという、発展性も危機感もない旧臣なら、やりかねない手だと思えてしまう。

「頭の使い方を、ちがっているだろ……っ。いったいやつらはなんのために士大夫になった? 民草の死に絶えたこうの国になんの意味がある」

 思わずき捨てた朗清に、その場の誰もが頷く。

「はぁ…………、みなには苦労をかける。これも、俺の人徳のなさか」

 皇帝となった今、朗清は切実に能力のある人間をほつしていた。

 戦う能力ばかりを見て周りに人を集めていた過去の自分を、非難したくなるほどだ。

「陛下、胸中察して余りあることではございますが、お言葉はお選びくだされ。決して、現状は陛下の不徳などではございませぬぞ」

 しんらいできる文官がいないため、一番のしわせを食っている安世が、責めるでもなく窘める。

 朗清は今さら過去をいる不毛さにしようし、げんづけに似合わないあごひげを生やして、なおも旧臣たちに立ち向かう安世を見た。

「安世、改革は、お前がたよりだ。この国を死なせないため、やりげるぞ」

「わかっております。わたくしも陛下に上奏した理想を現実にするためいるのです。まだ準備段階。こんなところで折れるわけにはまいりませんぞ」

 戦場に立ったことはないと聞く安世は、それでも目にとうたたえていた。

 こうていとなった朗清は、政治を任せられる人材がおらず、のうつのった。

 科挙に合格した士大夫なら、中央地方を問わず、いんきよした士大夫にまで広く上奏を募って選び出したのが安世だ。

 安世は地方官吏で、先帝の悪政に各地が荒れる中、かんかつ地域を荒らすことなく守った実績があった。何より朗清が目を留めたのは、改革の断行を強くし、必要な道筋と何故必要であるかを地方にいるからこその経験で説得する、文面からさえ感じられる熱意のためだ。

「今が苦しくとも、これも天命でしょう。陛下こそ、皇帝となるべきお方と、天が助けたあかし。そうでなければ、皇帝の悪政で国軍が疲弊し、大臣は権力を失い、側近さえも発言権をくすなどというふざけた事態にはなりませぬ」

 思わず、朗清は笑ってしまった。

 安世の言葉は、まるで先帝が望んで国を滅ぼそうとしていたようにさえ聞こえる。

 皇帝となる準備が不足していながら、朗清が皇帝となれたのは、先帝の周囲にぜんじようを止めることのできる者がいなかったからだ。そうした者たちを、先帝は悪政によって疲弊させた。

 帝位を望む葉氏の王も、先帝以上に力を持つ後見はおらず、先帝の独断で禅譲は行われたのだ。だからこそ、先帝は己のみが可愛かわいいとされる。

「葉氏などに天下の裁量を任せるのは、もはや天にそむく行いですぞ」

 安世が葉氏をきらうのは、地方官吏をしていた時分にしんさんめさせられた実体験からだ。その分、せいれんであろうとする意志が強く、ひるがえって発言がいやみにもなる。

 ふと、朗清は昨日会った公主を思い出す。

 朗清にはきよぜつするようなかたい表情しか向けなかったが、ちんじゆうれている時には、じゆんすいな少女らしく目元をゆるめていた。

「そうか、従兄弟いとこ同士か」

 士倫と彩華の関係を思いえがき、朗清は苦笑する。

「葉氏はくせが強いな」

「そんな可愛いものではないでしょう。陛下もあのきゆうに飼育された珍獣のめい簿をご覧になったではありませんか」

「あぁ……、あれか…………」

 げんなりとした安世の声に、朗清も目を通した時には頭をかかえた文字のれつを思い出す。

とらに、に、くまに、おおかみ……。しかも狼以外はつがいけんじようされていたとは、なんのじようだんだ?」

「都でもうじゆうはんしよくしていたとは、いやはや……。すでに番は三、四十年の月日で寿じゆみようきていたのが幸いですな」

 彩華が提出した記録には、いつ繁殖行動があったか、何頭が生まれ、何頭が育ったかという観察記録もあった。

 先帝の時代に番が献上された記録はなく、今いる珍獣で打ち止めとは言え、猛獣が都のじようへきの中に暮らしていることは変わらない。

「さすがに公主自身が猛獣の相手をしているとは思えないが、あそこで暮らしていてなんともないのか?」

「そう考えると、あの老人たちのだれかが猛獣を? 元公主さまを後宮入りさせる際には、世話係として引きいたほうがいいかもしれませんな」

「なんだ、安世。あきらめていないのか?」

びやつに百獣の王ですぞ? これほどしようげき的で見るだけでも印象強いいつざい、使わぬほうがどうかしております」

 人の悪そうな顔で笑う安世は、きっと足を引っ張ることにいつ団結する旧臣たちのきようおののく姿を思い描いているのだろう。

 朗清としても、珍獣のきようれつな印象で旧臣が足並みを乱すなり、小うるさい言いがかりをもくさつできるなりの大義名分になるなら、猛獣くらい宮城に招き入れてもいい。

「最初から準備不足で打てる手は少ない。ならば、使えるものはなんでも使わなければということか。となると……、あの公主のかたくなな態度をどうにかするしかないな」

「わたくしとしては、陛下が珍獣をなずけるほうが早いかと」

 自身は動物を得意としていないというのに、安世は難題をってくる。

 ただ、朗清も珍獣を相手にしているほうが楽かもしれないと、考えなくはない。のうに思いかぶのは、冷たく従順さなど感じさせない彩華の表情。

「……身内を追った相手だ。反発があるのも当然、か」

 受け入れられない心中は理解するが、朗清も国を背負うからには引けない信念がある。

 朗清と安世がするどく視線をわすと、皇帝のしつの間に飛び込んでくる無礼者がいた。

「陛下、大変です! 葉士倫が春霞宮の公主とせつしよくしました!」

「なんだと……?」

あやしいですな。事前の調べでは交流はなかったはず。水面下でつながっていたのやも?」

「あり得ることではあるな。もし、俺が直接公主に会ったことで、葉士倫のどうようさそえたのだとしたら?」

「なるほど。となると、やはりあの元公主さまのもとずいじゆうを置いておくのはもったいない」

「瑞獣を手懐けられるかは後だ。今は、葉士倫の尻尾しつぽつかまえに行くぞ」

 朗清はびんな動きでたんから立ち上がる。

 少しでも早く、国のあんねいを得るため、じっとしてはいられなかった。


    〓


 新帝が訪れた翌日、人の通わぬはいえんも同然の春霞宮に、また訪れる者があった。

 切れ長の目に、うすくちびるものごしやわらかく、せんしゆは白く優美で、何処どこか女性的な美しさを持つ。

 文人風のしんまとっている人物の名は、ようあざなを士倫という。先帝の十一子にして、初めて顔を見る彩華の従兄いとこだった。

「はぁ、はわわわ、世、世の中にこんなに美しい生き物がいたのですね……っ」

 士倫は今、感きわまった様子で、彩華のかみかくれるそうとうを見つめている。

 目はらんらんと光り、唇は戦慄わななき、双頭蛇に向けてばしかけた繊手は、触れれば消えてしまうことをおそれるように体の前で止まっていた。

 当の双頭蛇は、片方の頭は完全に彩華の後ろに隠れ、かくてきこう心の強いほうの頭が身を引きながらも士倫を見つめて細い舌を出し入れしている。

 朗清たちのようにさわがないのは、委蛇の伝承を信じていないか、単に隠れているため双頭蛇だと気づいていないのか。

「あの、このそうせきおくびようなので、あまり近づくとげてしまうかもしれません」

「はぁ、はぁ、それはしい。なめらかで愛らしい姿を少しでも長く見ていたいというのに。あぁ、触れたいのに触れられない。もどかしい二律背反……。けれどそれも、またいいですね」

 興奮のためか息があらくなり始めた士倫は、先帝のことづけでやって来たのだとか。都に取り残されることになった彩華の様子を、わざわざ見に来てくれたという。

 士倫本人も生活が変わり、この半年おとずれることができなかったことを最初に謝られた。そんな相手を、少々取り乱したからと言って彩華は無下にはできない。

 双皙に夢中な士倫を横目に、老趙が彩華の後ろで老女とささやき合い始めた。

「いったい、この方は何をしに来たんだ? 彩華さまのことなどそっちのけではないか」

「いえ、この勢いで彩華さまにせまられても困りますよ。けどこの方、科挙に一発合格なさった才人、のはずでしょうに」

「なんとかと天才はかみひとと言うしなぁ。頭のできと性格のできは、必ずしも等しくはない」

「珍獣に興味を持ってくださる様子にうそはなさそうですし。葉氏のお血筋らしいとも?」

 背後の会話を否定できず、彩華はしようした。その間に士倫の熱視線にへきえきしたのか、完全にえりからうちかけの背子の中に逃げ込む双皙。士倫は残念と言わんばかりに息をいた。

 悲しげにかたを落とす士倫に、彩華は見ないふりもできずに声をかける。

「士倫さまは、ちゆうるいに興味がおありでしょうか?」

「そうですね。考えてもみれば、へび蜥蜴とかげたぐいを見たのはこれが初めてかもしれません。知識としては知っていましたが、これほど繊細な形に心おどる動き、あでやかな色つやをしているとは思いませんでした」

「でしたら、庭園にある爬虫類の飼育場所へご案内いたしましょう」

! 彩華どのは名のとおり見目もうるわしいですが、そのこころえが最も美しいのかもしれないですね」

 最初の印象は物静かそうだった士倫の興奮した声に、思わず笑ってしまう。その感情表現のわかりやすさに、彩華はあまり士倫を相手に硬くならずに済んでいた。

 比して、昨日に引き続き様子を見に来ていた相真は、金烏館のはしで顔をしかめている。

 幼いころから知る彩華は、相真が気に食わないとばかりに士倫を見ていることに気づいた。

 目顔で何かねんがあるかと聞いても、相真は少し唇をとがらせるだけで首を横に振る。

 彩華は気にしつつも、士倫を庭園へと案内した。

「これはなんともしゆあふれる。ふむ、もっとがんの類を増やして、厳しい自然の風景を再現してもいいかもしれませんね」

「まぁ、士倫さまは造園に興味がおありですか?」

「芸術品はなんでも好きなのですよ。少々口うるさいと言われるくらいです。父の絵画のうでは当代ずいいちですし、それを見て育ったためか求める基準が高いようで。僕のしんがんを満足させる作品には、あまり出会えなかったのですが」

 そう言って士倫は、ざとく彩華のそでかららんかんへ逃げようと頭を片方伸ばす双皙を見る。

「自然のまま、ありのまま、生まれたままで美しい。そんな生き物がいるとは……。僕もまだ、視野がせまかったようです」

 あわてて袖の中に隠れる双皙に苦笑し、彩華は二門閣からかいろうを進み、庭園で一番立派なそうしよくほどこされた、かんえん殿でんという殿てんに至る。

「この御殿は、正面にあります真円の池をながめるために造られており、観円殿と名づけられております」

 この庭園は、本来相当ぜいらした造りとなっており、建造当時の姿をできていたなら、見て回るだけでも目を楽しませるはずの物だ。

「この観円殿からの眺めは、せんてい陛下もお気にしていたのですが……」

 母が存命の頃には、まだきゆうしゆうぜんてるだけのろくがあった。その頃は少ないながらに先帝が訪れることもあったのだ。

「父は、直接ここへ来ていたのですか?」

「はい。と言っても、数えるほどですし、私が最後にはいえついたしましたのは、母がくなったそうの折です」

「……春霞宮にこれだけらしい生き物がいるなら、父も言ってくれれば」

 思わずといった様子でらす士倫に、彩華は足を止めた。

「士倫さまは、この春霞宮にちんじゆうがいることをご存じなかったのですか?」

「えぇ、ほかの兄弟も知らないのではないでしょうか。彩華どのの母君にこの春霞宮があたえられたことや、祖父が動物愛好家だとは知っていても、珍獣の飼育場になっていることまでは」

 士倫はほおにかかるしなやかな髪をけつつ、苦笑する。

 春霞宮で育ち、珍獣たちを育てた彩華は、知られていないという事実に言葉もない。

「彩華どの、父は珍獣に対してどのような感想をいだいていましたか? あの方のことですから、画題になりそうな珍獣を探したのでは?」

「いえ……、そのようなことは。あまり珍獣をご覧になっていなかったようにおくしております。お話しされていたことと言えば、建物についてでしょうか?」

 思い返してみれば、先帝は士倫のように飼育場所を見たいと言ったことはなかったように思う。特別興味を示した珍獣もいたようには思われない。

 先帝と会った時分は幼すぎて、彩華も今まで思い出しもしなかったことだ。最後に会った時も母を亡くした悲しみで、なぐさめの言葉をかけられたというあいまいな記憶しかない。

「彩華どのは父とどんな話をしたのですか?」

「……あまり。先帝陛下は母とお話しされるばかりで、私には一言二言お声かけいただくのみで」

 ここ何年も会っていない上に、先帝が春霞宮にやって来た時、相手をしていたのは母だった。まだ幼かった彩華は、あいさつだけをしてすぐに下がっていたのだ。

「そう言えば…………、直接お声かけいただいた折、父の大事な珍獣を大切にしてほしいとお願いをされて……」

「なるほど。彩華どのに任せていたから、安心だったのでしょうね」

 ふと思い出したことを口にすると、士倫は微笑ほほえみながら、目はしっかりと背子の袖から顔をのぞかせる双皙をとらえていた。

「そうだと、うれしく思います。私も、今までお声かけいただいたことを忘れておりました」

 言いながら彩華は、先帝にそう声をかけられてから珍獣の世話に手を出し始めたと気づく。

 一つを思い出すと、ひもつながっていたように次々と忘れていた幼い日がよみがえった。

「母は、私が直接世話することに反対で。初めて爬虫類の世話をしたと知られた時には、とてもおこられました」

 母は爬虫類と言うより、食虫動物が得意ではなかったのだ。すぐさまに入れられ、母に手ずから洗われた記憶に思い出し笑いが漏れる。

 反対する母が亡くなってから、彩華は珍獣の世話を本格的に始めた。それまでも老人たちを手伝いれる機会はあったが、世話に明け暮れる今では、珍獣が家族のようにさえ思える。

 彩華が思い出に意識を向けていると、士倫も思い出し笑いを漏らした。

「僕も幼い頃は、危ないことをしてはいけないと、色んなことを止められましたよ」

「まぁ、士倫さまもですか?」

 そんな話をしながら、彩華は観円殿の前を通りけて橋をわたる。真円の池に注ぐ小川を渡り、小部屋が五つ配されたかざり窓のあるろうに入った。

 飾り窓は南向きにあり、天気の良い日は秋の迫るこの季節でも暑さを感じる。

「あぁ、今日は大人しくしていたの、大蜥蜴。いい子ですね。わに蜥蜴も元気で、こくているのですか?」

 そう彩華が声をかけながら小部屋を開けると、無角のりゆうちがわれた大蜥蜴が、長い尻尾しつぽを引きりながら廊下に出てくる。鰐蜥蜴はすぐさま彩華に向かって走って来た。

 そして蜷局とぐろを巻いて寝ているのは、すみのようなこうたくと夜を切り取ったような深い黒、彩華の腕よりも二回りほど大きなどうを持つ、黒蛇だった。

「この子は記録によりますと、あみにしきへびの卵からいつぴきだけ産まれた変異種だそうです。毒はございませんが、めつけられれば骨が折れることもありますので、やみにはお近づきになりませんよう──」

 注意こうを説明していた彩華は、士倫の異変に気づいて言葉を止めた。

 士倫は両手で口元をおおい、目からはぼうなみだを流していたのだ。

「……絶美…………っ」

 苦しそうな息の下からそうつぶやくと、全身を戦慄わななかせたまま動かなくなる。老趙たちと顔を見合わせた彩華は、士倫が黒蛇にせられたことだけはわかった。

【画像】

「変なやつ……」

「相真、そんなことを言ってはいけません。きっと、泣くほど動物好きだったのでしょう」

 相真も老人たちもうなずかないどころか疑うように首をかしげる中、重い足音が廊下にひびいた。

「あ、かめが来ましたね。あれも爬虫類なのですが、士倫さま」

 を落とすのがいやらしく、あまりさわらせてくれないため亀の種類は不明だ。聞くところによると、珍獣たちを飼育する前から池の主をしていたらしい。

 亀はねんれいと共に大きくなり続ける。その大きなこうから生えた藻を引き摺るさまは、まるで成長と共に得た緑の尻尾のようだった。

 見知らぬ人物をいぶかしむように首をばす亀に、士倫はやはり、しぼり出すような声を漏らした。

「……ゆうそう…………」

「ほら、やはり動物好きなのでしょう」

 彩華が微笑む後ろで、相真たちは顔を見合わせて首を横にっていた。

 たっぷりちゆうるいを眺めた後、その日は涙で前が見えないとしみながら、士倫は帰って行く。

「結局何をしに来たんだ?」

 みなを代弁した相真の呟きに、彩華は双皙を見つける前の士倫を思い出そうとする。

「先日いらした陛下が春霞宮を取りつぶすという話をしているところで、双皙に気づかれて」

 変わったことや困ったことはないかときんきようを聞かれ、朗清のおとずれを話していた時だ。その後は、明らかに挙動がおかしくなり、双皙から目を離さなくなった。

 そうじようきようを口にしてみるものの、士倫が何をしに来たと明言することはできず。先帝の言いつけどおり、ただ様子を見に来ただけとも言える。

 こんわくしながらもあまり重く受け止めていなかった彩華は、その後、爬虫類をでるために士倫が通ってくることになると、まだ知らなかった。


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春霞瑞獣伝 後宮にもふもふは必要ですか?/九江 桜 九江 桜/角川ビーンズ文庫 @beans

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