二章 君子は人を以て人を治む その①

 皇帝である朗清たちが帰り、彩華は庭園の奥、生活の場である内院でちようたんそくした。

「……泣きそう…………」

 いしだたみかれた内院は、北に春霞宮で最も大きな殿てんを有し、そそり立つようにわんきよくした屋根ののきかざりも優美。庭園とは白いへいによってかくぜつされ、春霞宮のふうさをとどめている場所だ。

「だから言ったんだ。皇帝がわざわざ来るなんて、いいしらせのはずがないって」

 屋外にえられたせきたくそろいのに座る彩華の前には、おさなみであり武官のちようそうしんが立っている。

 相真はこの春霞宮に仕える老趙の孫で、幼いころは老趙と共に珍獣の世話をしてくれていた。

 今は大人となり武官として宮城に勤めているが、時間があるとこうして顔を見せては昔のように手伝いをしてくれるのだ。

「その上、こいつらが悪戯いたずらしてかんぬきと戸をすべて開けるなんて、あり得るってわかってただろ。皇帝と直接会うより、まず文面でめたほうが良かったんだよ」

 彩華から成り行きを聞いた相真は、ふんまんやる方ないと言わんばかりにいきり立っている。

 そんな相真の片手にはあらなわにぎられており、その先にはげんそうに荒縄につめをかけるあかぎつねがいた。

 珍獣に与えたいもぬすんで追い詰められていたところを保護した元の狐で、今回珍獣たちの飼育部屋の戸を開けた悪戯者である。

 野性の荒波にまれて育ったためかしこく、その賢さ故に閂を外すことを覚えてしまっていた。

 いちいちもつともな相真のてきに、彩華も嘆息するしかない。

「そう、ね。お持て成しをするつもりでえんせきも用意したのに、になってしまって……」

 相応の準備をしたつもりだったのに、何一つ上手うまくいかなかったような気がする。

 目をうるませうつむく彩華に、幼馴染みの気安さで苦言をていしていた相真も視線を泳がせると、なぐさめるように声をかけた。

「えっと、ほら。彩華さまが気合い入れてこれだけめかし込んだから、後宮入りなんて話も、出たの、かも? そ、それがどうしたってわけじゃないけど、えっと」

 朗清が帰ってからまだえていない彩華の装いは、伝統的な礼服であるじようであり、女性の基本形のじゆくんまとっている。

 そでのないうちかけであるはんうすももいろで、表面には金糸の色取り。上衣の襦はたいこうしよくえりと袖のふちりに入れられたすいりよくしよくは、下裳である裙と揃いの色だ。うでにかける帯状のうすりであるはくける黒。白い大帯の上から巻いた黒い布帯が全体を引きめ、まえけのへいしついろと、半臂のすそからのぞひもかざりであるじゆの緑が装いのはなやかさを引き立てながら、伝統的な落ち着きを与えていた。

 ふと彩華は、纏まりのない言葉を連ねる幼馴染みを見上げて朗清の言葉を思い出す。

「それより相真、戦場で陛下と出会っていたなら、教えてくれても良かったと思うの」

「それよりって……。いや、出会ったなんてもんじゃないだろ。こっちは必死で敗走してんだぞ? 星斗見るとさわがしくなるのは知ってたけど、りゆうの将なんて呼ばれてたのも初耳だ」

 相真はしい顔つきを不機嫌そうにしかめて言った。

 首の後ろまで長く布の垂れたふつきんかぶる相真のかみは赤みが強く、とくちよう的な模様のある星斗に乗っていれば印象にも残るだろう。

 龍馬、てきと呼ばれた星斗を借り、戦場に立った武官はこの相真だ。朗清が皇帝となった後も、国軍はそのまま残されたので、相真は今も宮城に仕えている。

「武官って言っても、軍事の文官でしかないから、戦場には立たないなんて言っていたのに。どうして相真と星斗が見覚えられるようなことになったの?」

「……俺が管理するひようろうも、せんとういんも全て置き捨てて、将軍がげやがったからだよ」

 彩華はくわしく聞こうと見上げたが、じゆうめんになった相真のほうが先に言葉を発した。

「もう終わったことはいいだろ。それより、彩華さま。春霞宮も地位も据え置きになったはいいけど、このままってわけにはいかないぞ?」

「えぇ。陛下は、私がいなければ珍獣を、いえ、ほつするずいじゆうぎよしきれないと見て、はいえんにすることを保留なさったにすぎないのよね」

 春霞宮を存続させる理由が朗清にはなく、公主として与えられていたろくがなければ彩華も春霞宮を維持できない。

 このままなら、いずれ珍獣の飼育はたんする。

 幼馴染みであり二つ年上の相真は、職を得て春霞宮をはなれた今も、彩華のなやみに耳をかたむけ、共に解決しようと親身になってくれていた。

 彩華はそんな相真を見上げて、自らも成人した大人として判断すべきだったとこうかいする。

「…………いっそ、後宮入りを受けていたほうが良かったのかしら」

「はぁ……? なんでそうなるんだ?」

 声を裏返らせる相真の激しい反応に、彩華はほおに手をえて考えを伝えた。

「後宮に入れば、ひんとして禄がもらえるでしょう? 生活の保障がされるなら、禄は全て春霞宮に残す珍獣たちの世話にててもらったほうが、良かったかと思ったのだけれど」

「いや、ここはどうあってもつぶすって話だったんだろ? だったら延命にしかならないし、だいたい、瑞獣だけ後宮で飼うなんて無理だってわかってるだろ」

 共に珍獣を育てたからこそ、相真は朗清の提案の問題点を指摘する。

「……瑞獣と言えばびやつも、そうよね」

「あと、百獣の王と言われるな。瑞獣しか受け入れないなんて言うなら、もうじゆう従えてから言ってみろって。ま、珍獣のめい簿わたしたなら、なんで宮城じゃなくきゆうかくしたか理解して、いまごろかかえてるんじゃないか?」

 いい気味だと言わんばかりに、相真は笑った。

 朗清たちが聞いたとらの声は、四神とも呼ばれる白虎なのだ。

 実は庭園の中にはあの時、虎と獅子が逃げ出していた。

 たとえ生まれた時から世話をする彩華であっても、猛獣におそわれる可能性はある。春霞宮でことなきを得ているのは、彩華が珍獣と暮らす中で確立した飼育方法をじつせんしているため。

 この春霞宮でなければ猛獣を御しきれないと知らず、朗清は命じていたのだ。

「ちゃんと説明ができたら良かったのだけれど、あわててしまって……。びようもりなんて言い訳しか出てこなかったの」

 とつのこととは言え、何故なぜ祖廟守なのかと、今さらながら彩華はおうのうする。

 もちろん、祖廟守になりたいという彩華の意志表明に対しても保留が言い渡されていた。

「いや、それは断って正解だ。使えそうだから後宮に入れてやるなんて、そんなふざけた申し出、叩き返してり入れてもいいくらいだ」

「相真、そんなことを言ってはいけません」

 だんよりも激しい語気に、彩華はたしなめるが、相真はこぶしを握って反論する。

「いいや、彩華さまは春霞宮から離れたことがないから、危機感うすいんだ。ぜんじようこそ無血で済んだが、まだ乱世は終わってない。武装を解かない小国もあれば、禅譲を不当と非難してを表明する国もある」

「まぁ、藍陽の外ではそんなことが?」

 彩華は生まれこそ後宮だが、目も開かない内にこの春霞宮へ母と共に移った。用件があれば人がやって来る公主という地位のため、春霞宮の外も満足に歩いたことはない。

 そんな彩華は都の様子にさえうとく、共に住む老人たちからうわさを聞くか、こうして相真から伝え聞く話でしか、春霞宮の外を知らなかった。

せんていの時から続発した地方での農民反乱は、秋のしゆうかくを前に自然終息したんだけどな。根本的な争いの火種は、王朝交代だけで消えるわけじゃない」

 皇帝を頂点とした国土の中に、自治を許された国が存在し、国には王が据えられている。皇帝の近親者は王として領地を治めていたが、王朝の交代によって葉氏の王はめんされた。

 葉氏の王がいなくなった今、王を名乗っておのれの国を保つのは、かつて葉氏が王朝を建てる際、くんこうをもって王位を得た功臣。しゆうを許され長く王として領地を守るため、一代限りの葉氏の王とちがって下手に王位をうばおうとすれば、国一つが敵に回ることになる。

「何より今地方じゃ、国境付近で異民族にせんりようされてる地域もある。このまま手を打たないと、また地方の反乱が始まるぞ。そんないつ潰れるかわからない後宮に入ろうなんて考えるな」

 強い言葉で反対する相真は、拳を握っていない片手で石卓をたたく。

「それに、無血開城って言っても、軍事力でおどし取っただけっていう見方するやつもいる。藍陽の奴らも、田舎いなかからよくわからない将軍がやってきて、先帝追いはらって新しく皇帝になったらしいなんて、あいまいなまま冬に占領、春にそくして半年だ」

「そんな……、陛下はこの半年、のうを得ようと広く採用の手を広げていると──」

「能吏を得たとして、それを上手く使えるかは別問題だ。都入りしてから、陛下が率いてきた兵の一部が、夜市なんかで乱暴ろうぜきを働いてるって噂もある。先帝の時はそりゃ、藍陽の市政に回す金しぶったなんて不満言う奴はいたけど、今の皇帝は軍を連れてるってんで文句を言うことすらはばかるようになってる」

「今日見た兵は、私語は多かったけれど陛下のもとに統制されていたように見えたのに」

そば近くに置いてるなら、それだけ陛下の息に染まってる精兵なんだろ。それより下が問題ってことだ。人を上手く使えないんじゃ、皇帝を名乗る資格自体あやしいかもな」

「けれど、地方の混乱を収めるために改革に前向きなお方だと……。だったら、時と共に兵の横暴もしずめられるのではない?」

「なんかみようかた持つな、彩華さま……」

 何処どこねたようにつぶやく相真に、彩華のほうこそこんわくしてしまった。

「……能吏の登用も、改革の動きも、前王朝からの旧臣や戦った国軍を許して今なお職務を全うさせる恩情ある指示も、すべてあなたが私に教えてくれたことでしょう?」

 朗清が皇帝として立った時、悪いようにはしないはずと言って慰めてくれたのが、相真なのだ。そう指摘したたん、相真は耳を赤くしてくちごもる。

 当時は武官である相真の身も心配だったが、彩華は都を追われ、遠くへ行ってしまった叔父おじである先帝の身も案じ、不安がきなかった。

 半年がち、葉氏には身分を失った者もいるが、葉氏であるというだけでしゆくせいされた者はいない。相真が言うとおり、軍を率いて皇帝となった朗清だが、何ごともちからくでし進めるような暴の者ではないと、彩華はなつとくし、今日をむかえたのだが。

「は……っ。相真、あなた。宮城で何か異変でもあったの? あなたの功労を何一つ評価しない上司がいると言っていたわね。あの方と何か、いえ、あの方を陛下が重用する動きでも?」

 心底心配して想像をやくさせる彩華に、相真は手で顔をおおって上を向いてしまった。

「後宮入りって、つまりは、きゆうこんされたんだろ……。そこらへん、そんなすんなり受け入れるのかよ…………。そんなに、あの皇帝、気になってんのか?」

 うめくような相真の問いに、彩華は意図がわからず小首をかしげた。

「姉上方は、十五でかんざしすと同時に結婚なさったでしょう? 私も、そういう話が来てもおかしくないとしだと、思うのだけれど」

「そうじゃなくてぇ……」

 今度はせきたくに両手をいてうなれる相真。あかぎつねが下から相真を見上げた後、づくろいをするように前足を上げる。その姿は何処か、しのび笑いをらす人間のようだった。

 彩華は気になったが、今の状態では聞いても答えてはくれないだろうとぼんやり考える。

だれでもいいのかよ、彩華さま? その、結婚したい相手の理想みたいなもん、ないの?」

「そうね、考えたことがないわ。先帝陛下がお命じになった方にこうするものだと思っていたし。相真に言われるまで、きんちようがすぎて求婚されたという意識がなかったもの。ただ……陛下への輿こしれには、今回のことで少し、おそろしく思う部分があるわ」

 残すちんじゆうへの心配もあるが、ふと見せるれいたんまなしや身にまとう張りめた空気が、きよぜつされているようで近寄りがたい。

 そう彩華がこぼすと、項垂れていた相真は途端に顔を上げた。

「うん、そうだ。どうせ彩華さまを後宮にって言ったのも、ずいじゆうを手に入れるついでだし、葉氏の妃を迎えれば、禅譲が平和的に行われたって宣伝になるし。そんな打算で命じられたこんいん、結ばないほうが正解だ!」

 一変して元気になった相真に、彩華の困惑は深まるばかり。

「そうか、結婚自体に感がないし、相手に大きく望むこともないなら、俺も…………」

 相真が口早に呟くと、音もなく背後に忍び寄る老趙が、皮の厚い手でこしを叩き払った。

「痛……っ、てじいちゃん。いきなり何するんだよ。その音消して近づくのやめてくれよ」

 孫の泣き言に、ふるつわものである老趙は鼻を鳴らす。片手には、今回の珍獣だつそうのもう一ぴきしゆぼう者である、茶虎のねこをぶら下げていた。

 許しをうように高くか細い声を上げる猫を無視して、老趙は白くなったまゆを上げた。

「なぁにを身分不相応なもうげんくか、せい。そんな夢はな、軍に趙和正ありとうたわれるくらいになってから口にしろ!」

「……じいちゃん。身分わきまえてあきらめろとは言わないんだな?」

 何やら祖父と孫で、熱く視線をわし始める老趙と相真。

 老趙の手元では、首根っこをつかまれた猫が、おこられるとわかっているらしく、子猫のような声で解放を求め続けていた。

 幼いころから男同士の話とやらをすることのある祖父と孫なので、彩華は特に口をはさまず仲の良い姿から視線を外す。

 相真の足元では、赤狐がくされた様子でせていた。

「ふふ、まるで昔の私と相真みたい」

 彩華は幼い日、一度だけ相真に連れられ大人にだまって外へと出たことがある。

 相真の友人と遊ぼうとしたのだが、それまで春霞宮から出たことのなかった彩華は、知らない子をこわがって泣いて帰ってしまったのだ。

 春霞宮からけ出した上に泣いて帰ったことで母はろうばいし、老趙はかくして二度としてはいけないとしかった。老趙のお説教を前に、相真は何も悪いことはしていないと不貞腐れ、彩華は気持ちを言葉にもできず泣き続けていたのを覚えている。

 ただ友人と遊ぶために引き合わせた相真のづかいを無下にした上に、上手うまく相真をかばえずにいた自分が情けない。

 そう思えば、昔の自分たちに重なり、赤狐とちやとら猫を叱りにくい心境になってしまった。

 彩華は過去の罪悪感と現状への気落ちをまぎらわすように、かたむき始めた太陽を見つめる。

 春霞宮の存続や公主としての身のり方、危険な悪戯いたずらをした猫と狐の叱り方など、頭をなやませる問題の多さに、彩華は一人ちようたんそくり返した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る