春霞瑞獣伝 後宮にもふもふは必要ですか?/九江 桜

九江 桜/角川ビーンズ文庫

一章 爵禄も辞すべきなり

「このきゆうしゆんきゆうは取りつぶす。よってしようこうしゆ、そなたにはそく退去を命ずる」

 顔をうつむけていた昭季公主ことようさいは、新たなこうていとなったこうろうせいの宣告に顔を上げた。

 白粉おしろいほどこされた彩華の顔の中で、ひとみは黒くはっきりしており、視線一つにかれるような印象強さがある。い上げてなお、背に流すゆうがあるほどに豊かなかみは、こうたくが白くえるほど黒々として美しく、左右に並んだ皇帝の兵たちは彩華のれんさに息をめた。

「お……っ、お待ちくださいませ」

「ならん。これは決定こうだ。元より、葉氏はもはや宗室ではない。ゆえに、葉氏の王には領地と身分をへんかんさせている。公主も例外ではない」

 れいたんに言い放つ朗清は、淡々とせいふく者としての決定を告げるのみ。

 日に焼けたはだこしに差したけんつかの使い込まれたぜいが、皇帝となって半年った今なお、武人としてのたんれんおこたっていないことを物語る。

 皇帝のみが着用を許されたべんぷくまとう姿はじゆうこうにしてそうごん

 他人に命令し慣れたしさのある朗清は元もと、けいと呼ばれる小国の王だ。いや、元はと言えば、啓王から王位をゆずり受けた有徳の将軍だった。

 真っぐにびたまゆ、はっきりした目鼻立ちが、意志の強そうな朗清の顔貌をさらにきわたせている。

 ただ纏う空気に張りつめたきんちようかんが強く、あつ的でさえあった。

 彩華は、今すぐにてつかいを申し立てたい気持ちがのどもとまでせり上がるが、明確に撤回を要求する言葉はかばない。そんな状態で口を開くのは不敬だとわかっていても、おさえつけようと必死になればなるほど、心中の混乱はいや増した。

 そう思えば、人慣れない彩華がどうようおもてに出さなかったのはめられたにんたいだと言える。

 生まれて十六年。春霞宮からほとんど出たことのない彩華でも、皇帝が禁止したこうを強行すれば、左右に並んだ兵が剣を抜くのは想像がついた。

 それでも言わなければならないことがあり、彩華は目が回りそうな緊張をしてくちびるを動かす。

「へ、陛下のご決定に異議を申し上げるつもりなど、ございません」

 王朝交代という事態を考えれば、朗清の命令は当たり前であり、公主も例外ではないという主張に異議はない。

 それでも、彩華には今の朗清の言葉を受け入れられない理由があった。

 だからこそとつぜん百を数える兵士を招き入れることになった今日、きようと混乱を押し込めてこうして新帝をむかえ入れたというのに。なんとかそう言い訳を口にして、彩華は必死で会話の糸口を探す。

「一つ、一つだけお答えください。何故なぜ、接収ではなく、取り潰しなのでございましょう?」

 接収ならまだ、この皇帝の離宮、春霞宮にいる者たちはえ置かれる。公主としての彩華が春霞宮を有していたのであって、春霞宮に暮らす者たちは春霞宮に属しているのだから。

 新たな宗室に接収されるというのなら、公主である彩華が住むこんきよくすだけ。春霞宮が存続するなら、受け入れられもした。

 それを朗清は取り潰すと告げたのだ。

 春霞宮自体がなくなるのなら、春霞宮に生きる者たちはどうするつもりなのか。追い出して終わり、で済まされる話ではない。

 先帝であった叔父おじは、朗清率いる軍に包囲される直前げ延びたため、都は無血開城で戦乱にれることはなかった。

 その後、先帝は逃げた先で生活のあんを条件に帝位のじようぜんじようを行ったがゆえに、葉氏によってたいけいらんようと名づけられた都さえ捨てた、おのれのみが可愛かわいこしけと悪評が立っていた。

 そのめいである彩華に恩情はないとは思っていたが、新帝のおとずれに際して想定していた流れとは全くちがう現状に、答えを求めて朗清を見つめた。

「口ではなんと言っても、不服そうだな」

 朗清はあきれたように言う。彩華は朗清のことを張りつめていると感じたが、己こそが緊張で表情も対応もかたくなり、内心のあせりを不満と誤解されたことに気づけなかった。

 朗清は、説明をうながすように帯同した文官を見る。

 すると官服でもある赤いはいを着た文官は、まず自己しようかいから始めた。

「わたくしはゆうみんあんせいとお呼びください。陛下のおしに従い学士となりました。さて、公主、いえ元公主さまのご質問に答えさせていただくならば、たんてきに申し上げてこの離宮の費がであるという点にきます」

 彩華と身長が変わらず、若い顔にあごひげたくわえた安世が言うには、春霞宮は広大でなため、維持しゆうぜんだけでも無駄である。先帝のろうで国庫はひつぱくしているため、経費をさくげんできるこうもくを探していたところ、この春霞宮についての記録を見つけたのだという。

 らちがいてきに彩華が目をみはっても、安世は気づかずつらつらとしやべり続けた。

「なんでもこの離宮、三代前の皇帝のころより、けんじようされたちんじゆうを飼育するために使われ、先帝の時代にあなたさまの母君がたまわり、死後はあなたさまへと領地の代わりにされたそうで」

 三代前、つまり彩華の祖父の代の記録はあっても、母に下賜されてからのまともな記録が見つからないと、安世はのようにこぼす。

「ですので、経費は建造時の状態を維持する前提で算出させていただきました。まぁ、公主の領地代わりにというのでしたら、宗室に返していただくことになりますが、返されたところでようがない。維持するだけでも金銭がかかるのなら、離宮を潰してしまったほうが土地も有効活用できます」

 一方的な言い分に彩華がほんを促すため口を開こうとすると、今度は朗清が片手をって発言をきよした。

 その姿は皇帝というには洗練された風情がない。ただ、確かに人の上に立つことを知る指揮官の威風があった。

「安世の言うとおり、無駄にく余裕はない。また、いくにんもの葉氏の王から領地安堵のたんがんを聞いた。これ以上、同じ話のり返しはいらない」

 短く息をく朗清は、心底うんざりしているようだった。

 本当に返還を拒否する嘆願にき飽きしていようと、彩華としては退けない。

 なおも発言しようとした途端、左右に並んだ兵たちがいつせいに彩華を見下ろした。

 重ささえ感じそうなほど殺気立った空気に、喉が動かなくなる。戦いの場に身を置いてきた者たちの無言の威圧が、いつしゆんにして室内を満たした。

 彩華はあまりの恐怖になみだが浮かびそうになる。

 ただでさえ、見知らぬ男性ばかりでしゆくしていたというのに、突然のはいえん宣告に話さえ聞いてもらえないのだ。

 先帝である叔父にも忘れ去られ、公主の位を失くす今になっても、守りたいもの一つ守れない。そんななさに涙を落としそうになった瞬間、背後でひづめの音がした。

「え……?」

 彩華たちがいるのは、春霞宮の前庭にあるきんかんと名づけられた建物。

 採光のため大きく開いた金烏館のとびらに、朗清のみならず並ぶ兵たちも視線を注いでいる。

「あれは……馬? 白馬、ではないですな。何やら模様が、あしの馬ですかな?」

 いぶかる安世の言葉で、彩華は馬の判別がついた。同時に、どうしているのかという疑念が口をいて出る。

せい、どうして……?」

 さそわれるように振り返った彩華は、見知らぬ人間たちの姿に身を固くし、動きを止めた立派なたいの馬を見つけた。

 馬体には黒い肌がけ、白や灰色の体毛が規則的なまだら模様をえがく。額から鼻筋には星のような十字の模様があり、そこから彩華が名づけ育てた馬だった。

 彩華を見つけ近寄ろうとした星斗は、突然のごうにも似た混乱の声に大きく身をふるわせる。

「りゅ、りゆうだ! 龍馬がいるぞ!」

「おい、あいつ絶対そうだって! あの龍馬だ!」

 龍馬とは龍と馬の間に生まれるようかいであり、龍と馬の混じったような姿であると言われる。

 星斗の斑模様は確かに遠くから見ればうろこに見えなくもない。たてがみは良くうねり、ほおから生えた龍のひげのようにも見えた。

 口々にさけんだ兵と共に、朗清も高い位置に据えた平座から身を乗り出し星斗をぎようしている。

 じようきようがわからないのは彩華だけではなかったようで、安世は朗清へと説明を求めた。

「陛下、陛下。いったいあの馬がどうしたというのですか?」

「あれを、見たことがある。都藍陽包囲前の戦場だ。へいした国軍など敵ではなかったが、敗走時に必ず、あの龍馬に乗った将がこちらのついげきをかわし、見事なてつ退たいを繰り返したのだ」

「なんと、勇名をせる陛下の手からのがれるような者が? その龍馬の将は今何処どこに?」

「わからん。国軍を調べても、撤退を指揮したことになっている将は別人だった」

 思わぬ話に彩華がぼうぜんとしていると、何処か目をかがやかせた朗清が首をめぐらせてきた。

「あの龍馬は、何故ここにいる?」

「せ、星斗は、元もとこの春霞宮で生まれた者にございます。知人の武官が戦場に立つ際、貸しあたえました。陛下が藍陽へ入られる前に、もはや戦場には出ないとへんかんされたのです」

「なるほど、元から宗室に近い者か。俺が藍陽に入る前、戦場に出ることはない、そうか。あれだけのうでだ。都からとうぼうする先帝に従ったのだろう」

 彩華はこうていも否定もせず、星斗を見るように顔をらした。

 下手に答えて、今なお都にいる知人に害がおよぶのはけたい。と同時に、知人から聞いていない事実を耳にして、どう対処していいかわからなかったのだ。

「陛下、良くご覧なさい。額にある星のような白い模様。これは龍馬などではなく、てきではありませんか。乗り手を死に誘うと言われるきようなど、近づいてはなりませんぞ」

 兵の向こうで、安世が忠告の声を上げた。

 彩華は星斗を見た目で悪く言う安世に、不服を申し立てようと振り返り、柱から身を乗り出す兵たちの威容に身がすくんでしまった。

 むなもとに手をえ、彩華が不服の思いを飲み込む間も、朗清は星斗から目をはなさなかった。

「言われてみれば、的盧か。戦場では額当ての馬具にかくれて気づかなかったな。しかし、見るからに駿しゆんだ。凶馬と言われながら乗る者の話を聞くのは、良馬だからだろうか」

 忠告を聞きながらも、星斗への関心を失わない朗清に、彩華は少しだけむねで下ろした。

 凶馬を見て不快をもよおしたので、処分しろと言われても従えない。こうていの命令に従わないとなれば、廃園をはばむことさえできなくなってしまう。

 一身に注目を集めた星斗は、げんさに頭を低く据え、前足は地面を何度もいていた。

 彩華は星斗を落ち着かせるため立ち上がると、金烏館のすみひかえていた老人の一人に声をかける。

ろうちよう、すぐに星斗をうまやへ……、え?」

 背後にせまる足音に気づき、彩華が振り返ると、興味深そうに星斗を見つめる朗清が近づいてきていた。

 その上、柱の間に並んでいたはずの兵まで動き出す。黒いよろいまとった兵が、見通せないほど並んで一斉に動くさまは、金属のこすれる音も相まって圧がすごかった。

 彩華も身が竦む思いがする朗清たちの動きに、元からびんかんな生き物である馬の星斗は、けいかい心に満ちたいななきを一つ上げると、金烏館の前から走り去ってしまう。

 けた方向が廏であることを確かめて、彩華はじようである朗清にこわごわ申し入れた。

「あの、あちらでお待ちくださいませんか? 落ち着かせて、廏にもどすだけですので」

「そうか、廏があるのか。ほかにも龍馬が?」

 明らかに廏を見たいという気配をただよわせる朗清の言葉に、彩華は廏担当の老趙に目を向けた。すると、重々しく首を横に振られる。

 朗清を連れて行くのは危険との判断だ。

 彩華としてもごく当然の判断だった。どう考えても、朗清が行く所には鎧やけんそうおんを立てる兵が帯同するだろう。

「その、あのような模様の馬は他におりません。もう一頭馬を飼育しておりますが、そちらはとてもしようあらく、廏に近づくことはおすすめでき──」

 彩華はおん便びんに断ろうと、習い覚えはしても使うことのなかったれい作法を必死に頭にかべながら言葉を発した。

 そんな彩華の努力をさえぎるように、とつじよ、前庭と庭園を区切るかべの向こうから、ちようの叫びが連続してほとばしる。

「そんな…………っ」

 得体のしれないせいに、朗清たちは警戒を強める。

 比して彩華と数少ない春霞宮に仕える老人たちは、顔色をくした。

「珍獣たちが、げ出している……?」

 朗清をむかえるにあたって、珍獣はすべて飼育するための部屋に確かに収容したはずだ。だというのに聞こえた声は建物しのひびきではなかった。

 先ほどの星斗も、馬小屋につないでいたはずが目の前に現れている。庭園でも同じようにちんじゆうたちがかつしているとしたら、相性の悪い珍獣同士ではけんをしてをしてしまうだろう。

「た、大変! 老趙はともかく廏のかくにんを。みなはすぐに庭園へ!」

 彩華はもはや朗清たちのことなど眼中外に置いて、金烏館を飛び出した。向かう先は庭園と前庭を繫ぐ二門。

「さ、彩華さま……っ」

 二門を開けようとした彩華は、背後からかけられた老女のこんわくの声に振り返った。

 そこには、朗清を先頭に金烏館にいた兵も文官も全員がそろっている。

「ぁ、あ、皆と言ったのは春霞宮の者を呼んだだけで……。ど、どうぞ金烏館でお待ちください。珍獣たちが興奮してしまいます」

「何をそんなにあわてているのですかな? 元よりこのきゆうは陛下のものですぞ。見て回ることになんの問題があるというのですかな?」

 おくれたのか、兵たちの間を朗清に向かって進みながら、安世があやしむ様子で問う。

「陛下がご覧になるものはございません。何より、皆さまの身を案じてのことにございます」

「身を? 無用だ。どうするかは俺が決め──」

 朗清が何かを言おうとしたが、二門越しにも響くとおえに、彩華は珍獣が心配でもはや人間の相手をしているゆうはなくなった。

 彩華はり返らず、二門を開くと中に飛び込む。

「な、なんだこれは……」

 足をみ入れた朗清は、らちがいの光景にまどったようだ。

 二門は前庭よりも高くなっており、二門の階段を登ると庭園にあるもんかくと呼ばれる建物の内部に繫がっている。

 閣は四方に出入り口があり、庭園の景観を楽しむための建物だ。そのため壁はなく、柱が並ぶ広間になっていた。

 が、本来のようとしては使っておらず、今や珍獣の世話のための用具置き場と化しており、二門閣内部には雑多に干し草などが積み上げられ、ちくさん用具が立てかけられていた。

 におい消しで金烏館にいていたこうも二門の内部には届いておらず、隠しきれないけものくささが漂い、離宮と呼べるふうさは感じられない。

 構っていられない彩華は、庭園に通じる二門閣の戸をいっぱいに開いた。

「……………………は?」

 眼前の光景に絶句した朗清のとなりで、安世がまばたきをり返しつぶやく。

「命じずともすでに、はいえんと化しておりますなぁ」

 れいてつかつ的確な表現に、彩華のみならず老人たちも、否定できないくやしさに動きを止める。

 建造時、最もぜいしゆこうらしたはずの広い庭園は、今や見るかげもなくうつそうとしている。樹木にも建物にもひと目でわかるつめあとがあり、しゆうぜんも手入れも行き届いていないありさまだ。

「庭園の形は保っていても、もはや人の住む場所ではないのでは? 珍獣の飼育とはありましたが、いったい、どれだけの珍獣がこれほど立派な庭園をここまでらしたのですかな?」

「そうだな。庭園ではなく、もはや珍獣園と言っていいんじゃないか、これは? それに修繕費をどうやって工面しているのかと思えば……」

 朗清は別の木材でぎされた二門閣の外柱に手を添えて呟く。

 さくげんするために修繕費のかかる離宮をつぶそうとしていたのだ。元よりそんな経費など存在しないため、彩華たちが自ら修繕を行っていたにすぎない。まともな記録がないと言っていたが、出されていない経費の記録など最初からないのだ。

 言いたいことはあるが、彩華はくちびるを引き結んで庭園に目を凝らす。鳴き声はんだものの、辺りには獣が息を殺し、こちらをうかがう気配が漂っていた。

 見知らぬ人間が大勢入ってきたことに警戒し、姿を隠したのだろう。ちんもくを破るように、重い足でしげみを搔きわける音がする。次いでとどろいたのは、腹の内にまで響くもうじゆうほうこうだった。

 しゆんかん、兵たちは四方に目を配るように剣を構えた。

 その動きは良く訓練された兵士の動きだったが、姿の見えない猛獣に、切っ先が定まらない。

 朗清はかずつかに手をかけた状態で、猛獣の姿を探そうと庭園を見下ろすらんかんに寄った。応じて横に並ぼうとする安世を、朗清は片手で制す。

「安世、後ろにいろ。どうも昔一度だけ聞いた、とらの鳴き声に似ている」

「虎? 虎が都の中にいるのですか? な、なんたること」

 安世が責めるように見るが、彩華は本心から反論した。

「皆さまにおどろいただけなのです。決して悪い子ではございません」

「虎が都にいることを否定しないのですかな!」

 安世が声を高くしたたん、頭上でゆるんだかわらが音を立てた。気づいたのは、のきさきにいた朗清と安世、そして彩華だった。

へびです! けてくださいませ!」

 言うもおそく、朗清の頭上へと落下するものがあった。

「なんだと……っ、この!」

 武人としての反射か、朗清は大きなそでで身をかばいつつ、頭上でうでを大きく振る。

 途端に、しまようのある蛇がはらけられ、彩華のほうへとはじき飛ばされた。迷わず蛇を受け止め庇うように胸へとかかえ込むと、蛇もすがるように彩華の首元へと身をくねらせる。

「白黒の縞は毒蛇ですぞ!」

 かいた姿に安世が悲鳴のような声を上げた。

「おとなしい性格なので、何もしなければみません。毒蛇でもいい子なのです」

「何を言っているんだ! 危険な真似まねをするな!」

 自らが払ったためか、朗清は彩華をしつせきしながら毒蛇を放すよう慌てて指示する。

だいじようですから、どうかお静かに。げきしないでくださいませ」

 彩華がかたい表情ながら必死に願うと、朗清は険しい顔のまま口を閉じる。そんな朗清の態度にならうように、兵たちも剣を構えた姿勢で動かなくなった。

 引いた気配を察したのか、朗清を確かめるように蛇は彩華の首周りに身をこすりつけて、二対のそうぼうあらわにした。

 瞬間、朗清の目が限界まで見開かれる。

「……っ、双頭の、蛇? しかもなんだ、その色は。白黒の縞じゃなかったのか?」

 彩華は左手で双頭蛇の二つの頭をでる。本来はあんかつしよくで、安世がてきしたとおり白黒の縞のはずが、全体的に白っぽく、黒いはずの部分が茶色やむらさきに見えるほどうすい色しかない。

 生来とてもおくびようで、人間に飛びかかることなどないはずの性格をしている。それが朗清の頭上へ姿を現したことを思うと、それだけ見知らぬ人間の存在がこわかったのだろう。

 彩華が双頭蛇の心中をおもんぱかって視線を下げていると、安世がふるえる声で呟いた。

「…………委蛇いい? まさか、双頭人面、紫の蛇など、本当に存在するわけが……」

 委蛇とは、その姿を見て生きていた者は世にを唱えると言われる存在であり、せい者のきつちようとも言える。

 確かに双頭蛇は、つうの蛇に比べて目が人間のように正面を向いていた。彩華としては色がめずらしいだけの蛇なのだが、珍獣と言えば珍獣だ。いつの間にか庭に入り込んだ毒蛇が産んだ卵を、たまたまさせて手ずから育てたにすぎない。

 それでも為政者となった朗清からすれば興味深い存在らしく、双頭蛇をぎようしていた。

 伝説の獣に出会えたという夢をこわさないほうがいいだろうか、と彩華が迷う内に、珍獣たちを回収すべく、老人たちが庭園へ降りていく。

 二門閣の正面には、人工の小川をまたぐ弓なりの橋がかり、左手には閣に沿ってわんきよくしたためいけ。右手のはなれた場所には、溜池に注ぐ小川の元である真円の池があり、どちらも草木が蔓延はびこって水面みなもに影を落としていた。

 不意に、溜池のほうを指して一人の兵が声を上げる。

「おい、かめだ! とんでもなく大きな亀がいるぞ!」

「いや、あれはれいだ! 見ろ、毛の生えた緑色の長い尻尾しつぽを持っている!」

「それはただのの生えた亀です」

 ていせいしてみるが、よろいこすれ合う音に彩華の声はき消される。

「こっちの池にはさるがいるぞ!」

「なんだあいつ? ひざからつめが生えている?」

 亀がいる池とは別の真円の池を指してさわぎ声が上がり、反応した安世が盛大にまゆひそめた。

「膝から爪? それは幼子をおそうと言われるすいかもしれませんな」

「いいえ。ただ騒ぎに立ち上がっただけの江獺かわうそです」

 かくにんして訂正してみるが、彩華の声をまともに聞く者がいない。

「わぁぁああ! なんだあの大鳥は!」

「あの子はじやくと言って──」

「赤青黄、黒白、さいが揃っている……っ。あ、あれは、ほうおうだ!」

「いえ、赤みが強いくらいで、ただの孔雀……」

 木の上からかつくうするように二門閣の前を横切る、美しい孔雀。長く風になびばねらして木立の中へと消えていった。

 押し寄せるろうに彩華がうなれると、朗清もつかれたような声を出した。

「なんなんだ、ここは……?」

「先ほど安世どのがおつしやっていたとおり、ちんじゆうを飼育する場所にございます」

「うむ、あぁ。そう、だったな……。いったい、どれだけの種類がいるんだ?」

 ふと、彩華は朗清が普通に話を聞いてくれていることに気づく。

 発言さえきよされていた金烏館でのことがうそのようだ。

「うん、あれはなんだ? あの老人たちが肉でゆうどうしているきよだいな……蛇か?」

「いえ、蛇ではなくただのおお蜥蜴とかげです」

 彩華の答えと同時に姿を現した大蜥蜴を目にして安世がさけんだ。

「あんな大きさ、蜥蜴のわけないでしょう!」

 人間と同じくらいの腹回りに、尻尾まで入れれば人の身長など軽くえる長大な体。地面をむ太いにはするどい爪が並んでいた。

「ですから、大蜥蜴です。正確にはみずおお蜥蜴とかげといい、時には水中にひそむこともあるのです」

 泳ぐ姿はゆうゆうとしてごたえがある。ただ今は正直、水にかくれる前に見つけられて良かった。

「水にまで住めるのか? あれほどのよう、いっそ、無角のりゆうだな」

 朗清の呟きに、ろうばいしていた安世は大蜥蜴を改めて見た後、孔雀が隠れた木立を凝視して考え込む。朗清の兵もけいかいは続けながら、中にはこう心に目をかがやかせている者がいた。

 いけるかもしれない、と彩華は一人息をめる。

 とつぜんはいえんを言いわたされたことでまどってしまったが、最初から、珍獣に興味を持ってもらい春霞宮の存続を願おうと、老人たちと相談して決めていた。想定していたじようきようとは大きくちがうものの、当初の目的は達成されている。

「陛下、珍獣に関する記録は、すべて春霞宮に保管してございます。母の代に移管されたのです。もちろん、飼育する珍獣の記録もございますので、お時間をいただけるようでしたら、全ての記録を隠さず提出させていただく所存にございます。まずは珍獣についてお知りになりたいのでしたら、金烏館にてお答えさせていただきたく」

 老人たちと相談して決めていた台詞せりふを状況に合わせて変えながら、嚙まずに言えたことで、彩華は心中ひそかに喜ぶ。

 話し合いを仕切り直そうと、彩華はきんちようこわった顔でうつたえた。硬すぎて無表情になってしまっている顔の中で、ひとみだけは黒くれて強い意志を感じさせる。

 そんな目で見上げられた朗清は、言葉に詰まった。

 やはり、金烏館できよぜつした時ほどのれいたんさはない。彩華がもうひと押しになる言葉を考えていると、思わぬ方向から後押しがあった。

「よろしいのでは、陛下? この状況でございますし、記録をすぐに用意するだけの人手もおらぬようですし? 待つ間に話を聞くならば、ここよりも前庭のほうが安全かと」

「安世……。お前が言うなら、そうしよう」

 何やら朗清と安世の間で、視線だけの意思つうが行われたようだ。

 不安はあるが、つかんだ希望のたんしよを離してはいけないと、彩華はくちびるを引き結ぶ。庭園の珍獣たちは老人に任せて、一人朗清たちを金烏館へ案内し直すこととなった。

 ちゆう、二門閣の中で、安世が朗清へとささやく。周りを鎧の音で囲まれているせいか、安世の声は本人が思うよりも大きい。

「陛下、これは思わぬ拾いものでしょう。ずいじゆうを陛下が得たとなれば、旧臣たちからの非難をらす大義名分に使えるかもしれませんぞ。ずいしようを天よりのけいとして、改革の正当性を補強し、し進めるのです」

「しかし、珍獣は元より葉氏が集めていたものだ。この様子ではおくしている者も少なかろうが、まんがばれた時のことも想定すべきではないか?」

「何、瑞祥を疑い検証するなど天につばこう。何よりここにはきようちようたぐいにも似た珍獣がおりますゆえ。ここの瑞獣のみを陛下が手の内に収めたなら、残る凶兆に手をばす者にはそれを理由として、相応の処分を下せば良いこと」

 身勝手な安世の言葉に、彩華は胸にいかりをおさえ込む。

 道具のように利用するだけの打算とは言え、興味を持たれていないよりもましなのだ。珍獣がすこやかにすごすためには、珍獣の良さをなんとしても理解してもらわなければいけない。

 ふと彩華は、見知らぬ人間に囲まれるより、手のかかる珍獣たちとすごすほうが、ずっと心おだやかでいられることに気づく。

 気づいてしまえば現状が重くかたにのしかかり、彩華の意気をくじく。奮い立たせようと息を吸い込んだところで、朗清のすぐそばから情けない叫びが上がった。

「ふぁぁああ……っ、な、何かが、わ、わたくしのそでんでおりますぞぉ!」

「落ち着け、安世。これこそただの蜥蜴だ。よく見れば、おもしろい顔をしているじゃないか」

「いやいや、陛下! なんですかな、この大きさ。わたくしの二のうでくらいありますぞ。ぜ、全然袖を離さないのです」

 金烏館へ続くろうかざり窓のふちかぎづめのある足をかけているのは、黄みがかったわに蜥蜴とかげという珍獣だ。おうとつのはっきりしたうろことくちようで、水辺の生き物なのだが、どうやらこちらまでげてきてしまっていたようだ。

 思えば二門閣と二門をしっかり閉じずに庭園に向かってしまった。ほかにも庭園から移動してしまった珍獣がいるかもしれない。そう彩華が考えたたん、飾り窓の向こうから、短く鳴き続けるかんだかい声が上がった。

「また何かわからない生き物がいますぞぉ」

 どうやら動物が得意でないらしい安世は、うんざりした様子で外を指差した。

 地面に四つ足をついて飾り窓を見上げるのは、全体的には赤毛で、腹と足が黒く、顔には白い模様の入ったねこぐま。丸い目で人間を見返し、愛くるしくうすべにいろの小さな舌をのぞかせている。

 甘えるように短く甲高い声を発する猫熊は、しまようの入った太い尻尾をくねらせ、大きな三角の耳を動かしている。猫よりひと回り大きく、熊のようにどっしりとしたあしを持っていた。

 その猫熊が、とつぜん前足を高々と頭上に挙げて、こうで立ち上がる。短い脚を必死で挙げる姿は愛らしく、兵の中からもかすかに笑いが起きた。

 次のしゆんかん、猫熊が口を開くと、頭上から激しいらいめいの音がとどろく。

 人間はもちろん突然の雷鳴に身を硬くしたが、安世の袖を嚙んでいた鰐蜥蜴も、大きく口を開けて全身に力を入れていた。

「なんだ、今の雷鳴は? 今日は雲などなかっただろう!」

 おどろいた朗清が窓から空を見上げるが、やはり雷鳴を轟かせるような雲などない。

「ま、まさか……、今の雷鳴は…………」

 袖を取りもどした安世が、こわごわと飾り窓から猫熊を見る。猫熊は何ごともなかったかのように四つ足をついており、見つめる安世に小首をかしげてみせた。

「雷鳴のような鳴き声を持つ、四足の獣、らいじゆう。そして、雷鳴を聞かなければ決してものはなさない、らいこう…………?」

「ほ、本物の…………!」

 安世の言葉に兵たちがざわめく。

「いえ、ただの猫熊と鰐蜥蜴、と申し上げても聞いておりませんね。雷鳴の正体は……」

 彩華が窓から腕を出すと、羽ばたきが近づき、あざやかな緑色の鳥がい降りた。

 彩華の腕にとまって首を伸ばす鳥のもうは、目の覚めるような緑の羽に、青みがかった部分もある。木の実のような赤いくちばしを持ち、はとよりひと回り小さいくらいだ。

 安世は、新手の珍鳥の姿にのどらせた。

「ひぃ、あれは……っ。むらさきと緑の羽、長い首、赤い嘴。伝承よりも小さいが、あの姿はちん!」

「鴆? あの羽をけるだけで毒酒を作れるという、毒鳥の?」

 確かに羽は青紫にも見えるが、鴆のような毒などないことを彩華は知っていた。

「そんな、違います。この子はかけほんせい鸚哥いんこの」

「ん? なんと言った?」

 聞き慣れないめいしように、朗清が顔をしかめる。兵たちもどくへびの次には毒鳥かと、けんを険しくして殺気を高めている。

「鸚哥、鸚哥という南方の鳥です。毒などございません」

 雷鳴の音に本能をげきされ、動きを止める動物は多い。そのため、鸚哥の声真似まねの習性を利用し、珍獣たちがけんなどをした際には、雷鳴をひびかせるようしつけていたのだ。

「驚かせてしまい、大変申し訳ございません。おがないようでようございました。それでは、参りましょう」

 厳しい視線から逃げるように鰐蜥蜴と猫熊も回収した彩華は、雷鳴の発生源がわかっているのでどうようもなく金烏館への先導に戻る。

 逆にその落ち着きはらった彩華の背中を見つめて、瑞獣や凶獣も本物ではないかと、低く囁きがわされていた。

「えぇ…………、それで、だな……」

 最初と同じように、平敷の座にこしえた朗清の歯切れが悪い。柱の間に並んだ兵も、落ち着かない様子だ。安世に至っては、彩華のひざにいる猫熊から目を離せなくなっていた。

 なんだあの公主と聞こえた気がした彩華だったが、朗清が動いたのでそちらに集中する。

 ただ、慣れない人間の相手にろうする心をなぐさめるため、猫熊のやわらかな毛並みをでる手を止めることはなかった。

「その、膝にいるちんじゆうは……、先ほどのようなことを、ひんぱんにするのか?」

 朗清の問いに、彩華は良心のしやくを覚えながら、表情には出さず答えた。

「頻繁というほどではございませんが、本日におきましては初めて見る人の多さに驚き、かくをしただけのことにございます。ご覧のとおり、慣れた人間の手であれば、心許し身を任せ、決して傷つけることなどございません」

 もしかしたら、雷鳴を本当に猫熊の力だと考えているのかもしれないことは、反応を見れば想像がつく。もし本当だと信じておそれ、春霞宮の取りつぶしをてつかいしてくれるなら、と期待を込めた答えだった。

 彩華の言葉をこうていするように、猫熊は膝から離れようとはしない。鸚哥はだんよりも高くったかみが気に入ったのか、頭上で大人しくしている。鰐蜥蜴はじっと動かず肩に乗り、反対側の肩からはおくびようそうとうが髪にかくれて、二対のそうぼうで朗清を見つめていた。

なつく、ものなのか?」

「はい。つねごろ、心を通わせ世話を続けるなら」

 彩華の答えに、安世がかくにんを取る。

「つまり、あなたなら、珍獣たちの世話も操縦もできると?」

 いやな言い方だとは感じても、彩華は表情を動かさずたんたんと肯定した。改めて今までにない数の視線にさらされると、きんちようが高まり表情も声もかたくなってしまう。

 その間に、また何ごとかを考える安世が、朗清へと耳打ちをする。

 応じて朗清は、うかがうように彩華を見た。

「……それも、一つの手、か」

「そのとおり。これならば一挙両得。庭園を見た時にはあしだったとらくたんしたものですが、なんにでも利用価値というものはございますな」

 安世の言葉選びから、あまり良い相談ではないらしい。

 朗清も決断を迷うらしく、難しい顔でだまってしまった。

「陛下も故国からの申し入れにりよなさっていたではございませんか。花は飾るだけでも良いのです。実をつける木は、陛下が望む良木を選ばれれば良い」

 朗清の反応のにぶさに、安世は一度言葉を切ると、もつこうして説得の方向性を変えた。


「これも、あんねいのため。山積した問題を片づけるには、まずこの都を安んじなければならないのです。そのために使えるものがに存在しているのなら、有意義に使うべきでしょう」

「そう、だな……。使える手が増えると思えば、悪いことではない」

 彩華も内心で、朗清の言葉にうなずく。

 この際、珍獣たちがけんけんでんするため利用されることを、受け入れてもいい。春霞宮を潰され、間接的に殺されるよりはましだ。

 元から公主としても忘れ去られた存在だった。春霞宮を所有する名分以外に公主の座へのしゆうちやくがあるわけでもない。

 できれば、珍獣たちの飼料のえんじよくらいは引き出したいが、彩華を見下ろす朗清は、まるで最初に金烏館で向かい合った時のように、何処どこれいたんふんまとっていた。

 彩華も猫熊を撫でる手を止めて、朗清からの言葉を待つ。

 かくを持って朗清の言葉を受けた彩華だったが、その内容はあまりにも想定のらちがいだった。

「後宮へと入れ、ようけんえい。その際、ずいじゆうであれば後宮での飼育を許可し、飼育に必要なかんきようを整えることを約束しよう」

 静まり返った金烏館に、朗清の声がきゆうして消えた。

 朗清の言葉は、申し入れではなく命令だ。上位者のみに許されるいみなをあえて口にすることで、彩華にきよ権がないことを告げていた。

 後宮に入れる、つまり妻とするという発言に、兵の間からもおくれてきようがくの声が上がる。

「瑞獣、のみ……?」

 思わずれた彩華の声に、安世が当たり前だと答えた。

「今のところ、りゆう一体にほうおう一羽、れいにそこの委蛇、といったところでしょうか。ほかにもいるようでしたら、言ってくだされ」

 つまり、きようと言われた星斗や鴆と見なされた鸚哥は、受け入れを拒否するということだ。

 それでは、半分も連れて行けない。

 その上、安世は二門閣の中でおんなことを言っていた。

「…………この春霞宮は、どうなるのでしょう?」

 彩華は取り乱しそうになる自身をおさえ、少しの期待を込めて問う。

 春霞宮が存続する可能性があるなら、と。

「取り潰しは変わりませんが、そつこくというわけではないですな。あ、もちろんきゆうと珍獣は宗室の所有となりますので、勝手なことは考えぬよう」

 彩華が珍獣を生かすため余人へとじようするのは、凶兆であっても許さないということ。

 きつちようでも凶兆でもない珍獣も、春霞宮がなくなれば結局は住みくし、死ぬしかない。

 しかも安世は二門閣で言っていた。凶兆に手をばす者には相応の処分を、と。

 凶兆に手を出したと処分される人間が出れば、凶兆と言われた珍獣はどうなるのか。やくはらうために、いつしよに処分されると見るべきだろう。

 罪もない、ましてや凶兆という無実のめいしんで、家族同然に暮らした珍獣が殺されるかもしれない。

 考えたたん、彩華は血の気が引いた。

 そんな彩華の気配の変化に珍獣たちはびんかんに反応し、それぞれが口を開いて威嚇する。

 らいじゆうかもしれないと思っている兵たちは、ねこぐまの動きで緊張を一気に高めた。

 すると安世が、威嚇する珍獣から身を引いて、くぎすように言う。

「現状陛下にひんはいらっしゃいませぬゆえ、相応の位はさずけますが、この離宮の所有を望むことのないよう、申し上げておきますぞ。先のとおり、せんていのために国庫のひつぱくは深刻。まぁ、今の生活よりも良くはなりましょうが、わきまえた暮らしというものを心がけていただきましょう」

 彩華は公主としてあたえられるろくのみをたよりに、春霞宮のに心血を注ぎ、珍獣たちを優先して暮らしてきた。

 後宮で皇帝のために身をかざる生活は、明日の食料を心配する必要も、れる都の治安に心細らせる不安もないだろう。

 ないが、ただ、それだけだ。

 心配も不安もなくなると同時に、今体に寄りぬくもりを発する珍獣たちがいないのでは、安らぎも喜びさえもなくなる。

「位が上がっても、禄が増えても、それじゃ意味がない……っ」

 彩華は自分にしか聞こえない声で心中をした。

 公主の位も妃嬪の位もいらないから、春霞宮の存続と珍獣の助命を申し入れたいというのが彩華の本心だ。

 それでも皇帝から直接命令された後宮入りを、拒否することはできない。

 この場で拒否したところで、皇帝に対する不敬を理由に並ぶ兵に殺されるだけだ。

 そうなってしまっては、春霞宮の取り潰しをかいするために動ける者さえいなくなる。

「さて、後宮入りとなると、先帝のほうにも使者を発さねばなりませんな」

「あぁ、すでに両親は……。後見は先帝本人なのか?」

 拒否することなど考えていない、できないとわかっている朗清と安世の会話に、彩華は思い余って声を上げた。

「私は、亡父のびようもりをいたしたいと存じます!」

 彩華の言葉は、太陽のしんきんえがいたてんじように高く木霊こだまする。

「…………はぁ?」

 だれからともなく上がった疑問の声に、彩華は硬いこわうつたえた。

「先々帝であった父の祖廟は、宗室である葉氏皇帝の廟にございました。ですが今、宗室の祖廟はすでに高氏のもの。宗室ではなくなった今、父たる先々帝をまつる廟はなくなり、子も女児のみで、けがれなくしんれいに仕えられる者は私のみにございます」

 昭季公主と呼ばれたように、彩華は季が示す、四番目の子女。上三人の姉はすでにけつこんしており、祀るのは婚家の廟だ。

 葉氏として先々帝を祀ることができるのは、未婚の彩華のみ。

 祖廟守は先祖の霊を慰めると同時に、災いを起こさぬよう、うらのろわぬようその身をささげてちんこんしようがいをかける。つまり、彩華は生涯未婚をつらぬきたいと、皇帝に申し立てたのだ。

「祖廟守、祖廟守……か。孝徳の志、だな」

 確かめるようにつぶやいた朗清は、彩華の申し出をいつしゆうできない。

 親へのけんしんは、孝徳として徳目の中でも上位に位置する。世間的に正しく、おのれせいにしてくすと表明した彩華の申し出を、ちからくならくつがえすことはできる。不快を理由にこの場で彩華を手打ちにしても、朗清は許される。

 許されるが、後々のめんどうを考えれば、この場で彩華を責めることはできない。

 皇帝の命令とは言え、祖廟守の申し出をきやつしてはけんていが悪く、彩華の孝徳の道をざして後宮に入れたとなれば、非難はまぬがれ得ないのだ。

 瑞獣を大義名分として得ながら悪評がついては、瑞獣を手にする意味が半減してしまう。

「考えましたね……」

 舌打ちするように口をゆがめて、安世が呟く。

 注がれる朗清の視線に、彩華はまばたきさえせず動かなかった。

ほんはない、か」

 ちんもくの中、あきらめたような朗清の声が広がる。

 この日、叔父おじを帝位から追った新帝と顔を合わせた彩華は、ちんじゆうのため、意に染まない求婚を正面からたたき返してしまった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る