第3話 マルセルキスク

第2章


 『ガチャガチャ…キー…』玄関の鍵を開ける音が聞こえた。

その主は真理絵であった。

彼女は注意深く誰も玄関に居ない事を確認すると、小声で外にむかって言った。

 「さ、早く!静かに上がってね。」

唇に人差し指をおいて、静かにする事を強調する。

すると、彼女に続いてマルセルが、キョロキョロと周りを見、不安げな顔をしながら入ってきた。

 真理絵が客用のスリッパを彼の足元に置こうとすると、その前にマルセルがブーツのままで上に上がろうとした。

慌てて止める真理絵。

 「ここは靴を脱がなきゃならない国なのよ!」

 真理絵の言葉に、マルセルはやっとの思いでブーツを脱いで、客用のスリッパに履き替える。

まだ、早い時間なので、父と弟は眠っていたが、母だけが朝食の支度をしていた。

母に気付かれまいと、真理絵は、マルセルのブーツを持って静かにしかし小走りに階段を昇って行った。

 やっと、自分の部屋についた。

真理絵の部屋は階段を昇りきった手前の部屋であった。

その奥が客間。

そして、向かい側が弟の勇一郎の部屋だ。

 彼女は部屋のドアノブを回し、中に入った。

それから、マルセルを招き入れ、側にあった小さな折り畳み式の白いテーブルを広げ、隣の客間から座布団を持ってきて、彼の前に置いた。

 彼は最初、出された座布団を何に使うのか分からない様だったが、真理絵が「こうやって使うのよ」とお尻の下に座布団を引いたので、彼も真似した。

 「着替えてくるからちょっと待っててね。」

着替えの洋服を持って、真理絵が静かに客間に入ると、

後に残されたマルセルは、部屋の物を不思議そうに眺め始めた。

女性の部屋らしくきちんと整理されており、彼女の部屋は8畳で桃色の絨毯が敷き詰めてあった。

中でも彼が興味を持ったのは、かなり大きめの平たいテレビ、その下のDVDデッキ、最新型の黒いミニコンポ。

そして、たくさんのDVDとCDであった。

日本版のCDを手に取ると、いろいろなジャンルの音楽が揃えてあった。

ジャパニーズロックとポップス。

外国のロック。

その中に彼のバンド『サベージパンプキン』のCDがあった。

しかも、それだけは、国内版と海外版2種類が揃っており、彼らが今まで出した、アルバム、シングル、12インチまで、こと細かく調べて陳列されてあった。

 「熱心なファンだなあ。」彼が目を丸くして思っていると、そこへ、真理絵がコーヒーとお茶菓子を客間から用意して持ってきた。

薄紫のセーターに、深緑色のロングスカートをまとった24歳の彼女は、先ほどとは一変していた。

肩までかかる染めた茶色の髪は、白いバレッタでとめてあった。

 真理絵は、テーブルの下にお盆を置くと、コーヒーをカップに注ぎ、ソーサーに乗せて、テーブルの上に置いた。

 「これ、君の?僕たちのCD買ってくれたんだね。ありがとう。」

マルセルがCDを手にしながら、真理絵に言った。

マルセルは笑うとえくぼが2つ出る。

何だかこそばゆいな…。ちょっと恥ずかしくなった真理絵は、彼の出した気持ちにコクッとう頷くと、コーヒーをマルセルに勧めた。

香ばしい香りがマルセルと、真理絵を包む。

「いただきます。」

出されたコーヒーを美味しそうに頂くマルセル。

本当に嬉しそうだ。

考えてみると、先程までは、マルセルと一緒に、しかも自分の家でコーヒーを飲むなんて思ってもみなかった。

女の子座りをしながら真理絵は筋肉痛で痛む足をさすり、そう思った。

 コーヒーを飲んで軽く一息をつくと、あれだけ口を閉ざしていたマルセルが、何の気なしにさらりと会話を始めたのだ。

 「実は、昨日から何も食べていなかったんだ。そう、日比谷のホテルを出た夜の2時…頃だったかな。連中(バンドのメンバーのこと)が、六本木のある、カフェバーに行ったころだから、そのくらいの時間だったと思うけど、それからずっと東京を彷徨って、気が付いたら…地下鉄に乗っていたんだ。」コーヒーのカップをソーサーに置きながら、彼は昨日あったことを、回想するかの様に話した。

 「寒くなかったの?通り雨も降っていたし、冷え込む夜になるって、昨日天気予報で言ってたから…。」

 「うん。確かに寒かったよ。でも僕は結構寒い地方に住んでいるから、それは心配なかった。体も…自然に慣れてくれたしね。でも、むしろ本当に寒かったのは…僕の心のほうだった。」

「心が…寒い?」

彼の不思議な言葉に、真理絵は疑問を感じた。

そして、その答えを聞きたい気持ちで一杯になった。

とうとう堪らなくなった彼女は、先ほど公園で断られたバンドを出てきた訳を再度聞いてみることにした。

 「マルセル…。もう一度聞くんだけど…どうしてバンドを出てきたの?私、ファンとして、その訳をどうしても知りたいのよ。教えてください。」

自分を真剣な目で見つめる真理絵を見て、マルセルは迷った。

だが、彼には先ほどより彼女にはいくらか親近感があった。

何も食べていなかった自分に、コーヒーとお菓子を用意してくれた恩人だということもあるし…。しばらく考えていたマルセルは、コーヒーをグッと飲み干すと、カチャッとカップをソーサーの上に置いた。

そして、体を前に乗り出し、真理絵の瞳を真剣に見つめ、話し出した。

 「…誰にも言わないって…約束してくれるかい…?」

一瞬真理絵はドキッとしたが、彼の瞳は真剣だった。

それだけに、これからマルセルが言う言葉は、今までどの雑誌にも載っていなかった事実が隠されている様な、そんな気がした。

 真理絵は生唾をゴクン!と飲み込むと、崩していた足をキチンと正座し直し、ユックリ、コクンと頷いた。

 「まず、先月号の『ミュージックスピリッツ』て、雑誌読んだ?」

「ええ。あの、ハードロック、ヘビーメタル専門雑誌のことね。毎月買って読んでるわ。」

 「僕たちのバンドのインタビューが載ってたよね。」

「ええ。」

 「僕の出身地は?」

「ハンブルクよね?」

 「それが、違うんだよね。」

「えっ!?」

 「僕、本当は日本で生まれたんだ。しかもこの東京でね。もう…ずいぶんと前の話になるな…。僕がこんなに日本語が達者なのも、僕の父と母が僕が生まれる前から、日本にいたからなんだよ…。」

そう言うと、マルセルは真理絵に事のいきさつを話し始めた


マルセルキスク。

本名。

『ミハイル・ アルベルト ・フォン ・シュワルツ』は、1992年父親である『ルドルフ・シュタイナー・フォン・シュワルツ 』と、母親の『ヘレナ バルバラ フォンテーヌブロー』との間に生まれた。

現在25歳。

 マルセルが生まれる前、ルドルフとヘレナは共に交換留学生として、東京の有名大学に通っており、勉強家だったヘレナをルドルフが見初めた事がきっかけになった。

彼は徐々にヘレナと交友関係を深めていったが、ある時、ふとしたことからヘレナが自分の事が好きだという気持ちに気付き、二人の仲は急速に恋人へと発展していった。

だが、本国ドイツのルドルフの両親は、彼に婚約者が居た事で、二人の仲を引き裂こうとした。

怒ったルドルフはそれから家を飛び出し、大学も辞めて、日本に永住を決め、ほとんど駆け落ち同然のまま、二人は、同じ大学の友人達に祝福されながらの結婚式を行った。

そして、1年後にマルセルが生まれたのだ。

 二人は貧乏ながらも幸せな生活を送っていたが、マルセルが4歳くらいになった頃、突如ヘレナが離婚届を突き付けたのだ。

ヘレナは、前から、大学を辞めたあと働き始めた、日本橋の『京錦』という、呉服問屋の息子と愛人関係に落ちていた。

しかし、その息子が、彼女にプロポーズした事から、本気でルドルフと別れようと思い、今回のことに至ったのだった。

 ヘレナは言った。

「あなたのことを愛しているわ。今でも。でも、私は生活に疲れてしまった。もう、この現実に疲れてしまったのよ…。」

そして彼女は静かに「彼なら、私のことをきっと幸福にしてくれる。私だって、本当の幸福が欲しいのよ!でも、それは愛だけではなれないと、身勝手かもしれないけど…気が付いたのよ。」そう言ってヘレナは、テーブルの向かい側に座っていたルドルフに向けて、離婚届を置いたのだった。

 しかし、ルドルフは絶対に印鑑を押さないと頑として聞かなかった。

そして、自分だけ、この現実から逃げるなんて卑怯だと、反対に彼女の事を罵った。

彼の問いに、「勿論、私だけが逃げる事にはならない」と言った。

「私がミハイルを引き取るわ。彼も一緒に子供を連れてきてもいい。と言ってるし、だから、あなたは何の束縛もなく、もう一度やり直すことが出来るわ。お互い…その方がより、自分らしく生きられるなら、そうしたほうがいいと思うの。」

 「君は身勝手な女だ。」

ヘレナの言葉を聞き、ルドルフは涙を流してそう言った。

「俺の気持は…どうなるんだ?君は、自分の気持ちさへ満足なら、それでいいのか?こんなに君を愛している俺を一人残して、あまつさえ、ミハイルさえ引き取ろうとするなんて…。良いだろう。そんなに君が俺と別れて、金持ちの日本人と結婚したいなら離婚してやろう。ただし条件がある。ミハイルを置いて行け!彼は俺の息子だ!そして、これを持ってこの家を出たのなら、二度と俺とミハイル前には姿を表さないことを約束しろ!それくらいはしても当然の事なんじゃないか?お前のわがままを聞き入れるんだから!」

 ルドルフは、離婚届に判を押すとヘレナの前に突き付けた。

ヘレナは唇を噛み締めると、ひったくる様にそれを持ち、マルセルに最後の別れを言った後、荷物をまとめ出て行った。

マルセルは外へと出ていく母親を、玄関でただ見送るだけであった。

その時彼女からもらったロケットの金色のペンダントをしっかりと握りしめて、5歳になったばかりのマルセルは、母と父が別れた事を本能的に知ったのだ。

 彼女と別れてから、ルドルフは、わずか5歳のマルセルを必死に一人で育ててきたが、やはり、あれほど愛したヘレナの事は、どうしても忘れることが出来なかった。

いや、忘れようとすればするほど、余計鮮烈に彼女が浮かんできてしまうのだ。

その為に酒に溺れ、仕事も上手くいかない、どん底の生活に落ちていった。

家に帰ることも頻繫になくなり、マルセルの面倒は、近所にいたおばさんが見てくれたものの、幼稚園に行く事も出来なくなっていった。

 これではいけない。

ヘレナと別れてから3年後。

ルドルフは7歳になったマルセルを連れて、日本を後にした。

自分の故国ドイツへ帰って、一からやり直そう、と決心したのだ。

 ドイツ、ベルリンに帰ってから、ルドルフはアパートを借り、その近くのレストランで洗い場の職を見つけた。

そこで彼は、そのレストランでウェイトレスをしていた、シェフの娘、『ルーザ シュッテンバーグ』と結婚した。

ルーザは、ヘレナとはまた違った性格の女性で、自分より他人の事を思いやる、非常によく気の付く人だった。

その為か、ルドルフは徐々にヘレナのことを忘れていき、二人の間に子も出来た。

女の子だった。

 一見順調そうに見えた生活だったが、マルセルはどうしてもルーザの事を母と認めることが出来ずに、すれ違いの毎日が続いた。

それをルドルフは察し、マルセルが、11歳になったある日、ザルツブルクの少年合唱団に彼を入団させた。

 もともと、小さい時から歌うことが大好きだった彼は、それを一も二もなく了承し、そこで4年間音楽の勉強をすることになる。

マルセルは学校に通いながら、夢中になって音楽の世界へとのめりこんで行った。

彼は彼なりにルーザという女性を母と認められずに、苦しんていたのだ。

そんな彼にとって音楽の勉強は、何もかも忘れる事が出来た。

 その努力あってか、彼が変声期を迎えた14歳の秋、合唱団の先生がマルセルに歌の才能があると見込み、ドイツの有名な音楽学校に推薦状を書いたのだ。

 それまで普通の共学校に通っていた彼の胸は、新しい希望に大きく膨らんだ。

その時マルセルは、生涯を声楽家として生きることを心に誓った。

 ルーザやルドルフに別れを告げ、男性ばかりの音楽学校で、寮生活をしながら通う、新しい生活に慣れ始めたある日、マルセルと同室の友達が、急に何か聞いた事のない音楽をかけ始めた。

「これなんて曲?」

マルセルが聞くと、彼はCDを片手に持ちながら、「今アメリカで流行っているロックンロールと言う音楽だよ。」と言った。

「凄いんだぜ。体中の血が逆流するような感覚をこの音楽を聴くと感じられるんだ。クラッシックなんて目じゃないよ。」

それから、彼は更に、「深夜にこの町のライブハウスでショーがあるんだが、一緒に行かないか?」とマルセルを誘ったのだ。

毎日毎日、モーツアルトのアリアを歌う事にうんざりしていた彼は、退屈しのぎにそのライブを見てみる事にした。

 

彼にとって、ライブハウスは初めての経験であった。

何もかもが新鮮に思えた。

寮の見回りが終わって寮長が行ってしまった後、コッソリ、ベルリンの壁程の高い壁をよじ登り、学校の外へ出た事や、またライブハウスに集った若者達の奇抜なファションには目を見張るものがあった。

そのライブは、アメリカのとあるロックバンドのライブであり、その友達はこのバンドのヴォーカリスト見たさに、わざわざここまで来たのだった。

 だがマルセルは、そのバンドよりも前座として演奏した無名のバンドの方に、強いショックを受けていた。それは、ヘビーメタルバンドであり、まだ曲は有名なバンドのカバー曲を演奏していたが、クラシックに通じるものを感じ、彼の心に深く共鳴したからだった。 

 これが、マルセルとヘビーメタルとの出会いであった。

 そして、あの衝撃的な出来事があって以来、彼は不思議と以前ほどクラッシックには夢中になれなくなってしまったのだ。

それどころか、今の自分の道に疑問すら抱くようになったのだ。

その矢先、例の友達が学校を退学した。

プロのロックミュージシャンになる為、アメリカへ渡ったのだ。

この知らせを聞き、彼の人生は大きく転換した。

2ヶ月後、考えた揚げ句マルセルは友達を追うように学校を退学。

家に戻り、ルドルフとも話し合ったが許してくれず、家も出た。

 それからのマルセルの生活は苦しかった。

学校続きでろくに働いたこともなく、それに加えて、髪を伸ばし始めた彼にとって、世間の風は予想以上に冷たく厳しいものだった。

髪のせいで職場で、嫌な思いをした事もあった。

 そんな、彼のたった一つのよりどころは、毎週欠かさず出るヘビーメタル専門誌であった。

その雑誌で彼はある日、バンドのメンバー募集の広告を見つけた。

それはヴォーカリストの募集であった。

学校を飛び出して1年後。

マルセルはようやく『サベージパンプキン』に出会うことが出来たのである。

 早速マルセルは、ヴォーカルのオーデイションを受ける事になった。

会場に行くと凄い人混みで、とてもアマチュアのバンドのオーデイションとは思えないほどであった。

当時のサベージパンプキンは、ライブハウスでの受けがよく、客もかなり入ってファン層も開拓していたので、いくらアマチュアだと言ってもその世界ではプロ並みの扱いを受けていたからである。

 いよいよ50番目くらいにマルセルの番が来た。

「なんでもいいから自分の好きな曲を歌ってみて。」

メンバーの一人にそう言われた彼は、何を歌えばよいのか迷ったが、このままでは何の為にオーデイションに来たのか分からなくなると思い、自分の持ち歌で勝負する事にした。

彼は、シューベルトの『魔王』を歌い始めた。

突然の彼の選曲にそこにいた者は、あっけにとられて彼を見つめたが、彼の歌を真剣に聞く者がいた。

このバンドのリーダー、ヴォーカリスト兼リードギターの、『ジミー ハンセン』だった。

彼は、このバンドで二つのポジションを兼任してきたが、彼が本気でギターに打ち込みたいという願いから、この、ヴォーカルオーデイションが実現されたのだった。

彼は、マルセルの伸びのある歌を真剣に聞いていた。

 オーディションが終わって、メンバーの一人のウォルターが録っておいたテープを回しっぱなしにして意見を出し合い、4人は次々と点数をつけていった。

暫くして、マルセルの声が流れ始めた。

ジミーを除いた他のメンバーは、対象外とはなから相手にしなかった。

「こいつは、本当に俺たちのバンドに入りたかったのか?バンドの曲さえ把握してなかったんだぜ。」

口々にマルセルの事を貶すメンバー。

 しかし、ジミーだけは、「あいつには、このバンドにないとてつもない何かを感じる。」と彼を強く推したのだった。

 「ジミー。あのな、バンドのオーディションでクラシック歌う奴に、俺たちの音楽の何が分かるって言うんだよ。」ベースのチャーリーが呆れて口を挟む。

しかしジミーは、

 「選曲は自由だったはずだ。それはお前も含めてメンバー全員が納得したことだ。だから、それをとやかく言うべきではないだろう?それに…チャーリーも聞いただろ?あの声!あいつなら練習すれば4オクターブ位軽く出てしまうかもしれない。バンドにとって凄い武器になるかもしれないんだよ!」

と、こう言ったのだ。

 結局マルセルから後の者達が、あまり声が出ていない事と、ジミーが強く推した事から、マルセル一人にもう一度歌わせる事になった。

曲はサベージパンプキンの曲から、一曲選び、彼に譜面を読ませた。

が、マルセルは学校に通っていた事もあってか、短時間で曲を覚えてしまった。

演奏をテープで流し、メンバーが見守る中、マルセルが歌い始める。

とにかく気持ちがいいほど声が出る。

発声の基礎が完全に出来上がっているのだ。

音の強弱もしっかり固定されていて、しかし、時折スクリーミング(ウキャーと怒鳴ること)だけが、オペラ的に出てしまうところを除いては、すべて合格であった。

 「どうする?」

ジミーが3人のメンバーにニヤリとしながら訪ねた。

「これ、俺が作った曲だろ…こんなにいい曲だったっけ…。」

チャーリーの最高の誉め言葉で、マルセルのメンバー加入は決定した。

彼が19歳の時の出来事であった。

 マルセルは名前を、『マルセルキスク』と改名。

サベージパンプキンのヴォーカルとして活動を始めたが、声楽とヘビーメタルの声の出し方はまるで違ったので、それを直すのに骨を折った。

しかし持続力があったので、練習の時に続けて8曲ぐらい歌っても平気な顔をしていた彼に、メンバーは一目を置くほどだった。

 また、今まで働いていたバイトを辞め、ウォルターと一緒にディスカウントショップで働くことになった。もともとウォルターは、バンドの資金集めの為にずっとここで働いていた為、彼の紹介でマルセルも一緒に働く事が出来たのだ、また、この店の店長は実に気さくな人物で、ロックをしている若者に理解があり、髪が長かろうが、染めてようが雇ってくれるので、ここで働いているのは、多くのアマチュアロッカーが働いていたのだ。

しかし、賃金が安いことが玉にきずであり、メンバー全員がそこで働くことは、経営上とても無理であった。そこで他のメンバーはそこより高い給料の店で働いていた。

ジミーは駅の売店。

チャーリーは髪が短かったため、パン屋で働いていた。

それからジョージはビールバーで働いていたが、すべて、バンドの資金に消えるため、生活は苦しく、いつもぎりぎりの線であった。

 だが、とうとうバンドにとって、信じられないチャンスが転がり込んできた。

マルセルが入って3年後サベージパンプキンは、プロにも劣らないほどの実力を身に着け、ファン層も確実に広がっていった。

演奏をさせてくれるライブハウスも徐々に増え、ケルンでのライブが終わった後の事、ドイツでは結構知られている、フランクフルトの『ジャーマンレコード』が楽屋で彼らを待っており、「うちと契約しないか?」と、交渉してきたのだ。

彼らは願ってもないチャンスと考え、それからすぐに契約。

レコーディングに入り、デビューアルバムが半年で完成。

それは好調にマニアに売れていき、地元で有名なヘビーメタルバンドの前座について、ドイツツアーを3ヶ月間行った。

が、時代の波に乗ったのか、なんとデビュー仕立てでワールドツアーに出る事になったのだ。

 これは、日本で彼等のアルバムが一番最初に売れ始め、素晴らしい好成績を収めた事から、日本のレコード会社が騒ぎ出し、是非とも彼らを日本に呼んでくれないかと頼み込んだので実現したのだ。

 だが、それだけではない、世界の2大レコードマーケティングと言われている、アメリカと、イギリスに、サベージパンプキンを売り込むチャンスだと、ジャーマンレコードの社長『バーナード ハウゼン』が考えた戦略でもあったのだ。

 その知らせを聞いたメンバーは、夢のような出来事に完全に舞い上がっていた。

 だが、その矢先、マルセルにとって大変なことが起きてしまった。

ベルリンにいるはずのマルセルの父親ルドルフが、フランクフルトまでわざわざ、会いに来たのだ、その話の内容は、マルセル達がこれからツアーで回る国、日本で、彼の実の母のヘレナが死んだというのだ。

 母が死んだ!?

信じられなかった。

信じろという方が無理だった。

 「嘘だ!」

マルセルが怒鳴った。

しかし、ルドルフは彼の問いには答えず、黙ってある小さなメモを彼の手に渡した。

それには、ヘレナがルドルフと別れてから嫁いだ先の家の住所と電話番号が書いてあった。

「お前には本当に気の毒なことをした。一度だけでもヘレナに会わせておけばよかった。まさか…まさか…こんなことになろうとは…。」

ルドルフは頭を抱えてその場にうずくまった。

 そんな…そんな、母さんが死んだなんて…!?彼の手の小さなメモが小刻みに震えた。

父が再婚してから何回か、マルセルはもう一度、実の母親のヘレナに会いたいと切なげに思っていた時期があった。

しかし、今の母親のルーザの事を考えると、そんな気持ちは口が裂けても言えないと自分の心を殺していた。しかし、今、ルドルフに「ヘレナに会って来い」と言われ、その住所さえも渡された。

ただし、死んだ実の母親にだ!

 こんな状況になってから会えと言うのか?今まで一度も会わせてくれなかったくせに!!彼は思わずその場にいたルドルフを、殴りたい。そんな衝動にかられた。

しかし、そんな事をしたって、ヘレナはもう、俺のもとには戻ってこない…。

 体を切り刻まれるかのような鋭い痛みと共に、マルセルは初めて人を恨むという感情を知った。

父を恨み、自分をこんな気持ちにさせたまま死んでいった母ヘレナを恨み…。

そんな狂おしい思いを抱えたまま、サベージパンプキンのワールドツアーは始まった。

 人を憎むことは人を強くするのか、彼の歌には何の支障もなく、ツアーは順調に進んでいるかのように見えた。

だが、やはり、普段のマルセルの歌い方にはないようにメンバーには思え、「何かあったのか?」と、彼に聞くのだが、マルセルは決まって、「何もないよ」と、にっこり笑って答えるだけであった。

 3ヶ月後、いよいよ今回の目的地の日本に着いた時、マルセルの顔色が変わったのを、ジミーだけは見逃さなかった。

早速その夜、彼はマルセルから全ての話を聞いた。

ジミーは「東京のコンサートが終わった後、その日に墓参りをしてきたらいいよ」と、マルセルに勧めてくれたのだが、彼はどうしてもヘレナが死んだ現実を受け止めることができず、墓参りをする行為を極端に嫌がり拒否していたのだ。


マルセルと真理絵は向かい合って話をしていた。

いつの間にか真理絵の瞳には涙があふれていた。

さらにマルセルが話し始めた。

 「その一方で僕は、彼女に会わなければ一生後悔するとも心の中では考えていたんだ。ライブの時も、その2つの気持が僕の心の中で揺れていて…。ファンには申し訳なかったよ。…だから何とか吹っ切れたくて、最終の東京公演では思いっきりハイになろうと、いつもの倍もパフォーマンスを増やしたんだ。きっと…メンバーもびっくりしただろうね…。」

 そういえば、そうだった気がする。

真理絵は心の中で、あの時のライブを思い出していた。

 「しかし、あれが起きてしまったんだ。」

マルセルが言った。

その横顔は、先ほどよりずっと重い。

 「…最終公演が終わって、メンバー全員が雑誌のインタビューの為、ホテルへと戻ったんだ。そのあと、オフになり、ジミーがギターの弦を直していて、僕はその時シャワーを浴びていた。ジミーがギターを直し終わったのか、向こうからバンドの曲が流れてきたんだ、だから、僕も思わず口ずさんだら…声が出ないんだよ。高い部分が。おかしいな。ライブで声を使いすぎたかなと思って、シャワー室から出た後、喉をよくうがい薬で洗い、自分の個室に入って改めて声を出してみた。でも…出ないんだよまったく!低音階なら出るんだけど、1オクターブ上のレの音から先は、もう全然声が出なかった。絶望的になったよ。サベージパンプキンのメインになる音の声が出なくなったなんて、どうやって、どんな顔してみんなに言えばいいのかわからなくなったよ。ましてやファンに知られたら、僕たちがここまで必死になって苦労してきたことが全部水の泡になってしまう。この僕のせいで!…だから僕はホテルを出たんだ。だって、それしか方法が見つからなかったから…。」

 ここまで話して、マルセルの言葉は途切れた。

瞳に涙をいっぱいに浮かべて無念の表情を見せている彼に、真理絵は黙って側にあった、ティッシュを差し出す。

「ダンケ」

彼はドイツ語でありがとうと言うと、ティッシュで涙をふき、びっくりするような音で鼻をかみだした。

 真理絵は、彼の話したあまりにも衝撃的な話に、思わず声を失った。

そして、涙が止まらなかった。

彼女はマルセルと共に声を殺して泣いた。

『あの、声が出なくなった!?』彼女はマルセルがバンドを抜けてきたことよりも、まず、この事実を認めなければならない現実に胸が痛んだ。

 それから、冷静になった真理絵が、マルセルに問うた。

 「バンドに戻る気はあるの?」

「わからない。でも…今は戻りたくない。」

 「声を失ってしまったから?」

「それもあるけど、…自分の存在理由を失ってしまったから…が本音かもしれない…。」

「……。」

 彼の、一つ一つの重い言葉を聞きながら、彼女は無意識にコーヒーをすすった。

また、マルセルは沈黙をし、時計だけが時を刻んでいた。

そして、お互いが下を向き、何も言葉を出さない。

だが、真理絵は考えていたのだ。

ある、重大な事柄を。

しかし、それを実行するには、少なくともなんでも話せるもう一人の協力者と、お金がいる。

そして、彼を信じようとする心と、勇気が必要だ。

 しばらく考えていた真理絵は、やがて、決心したように顔を上げ、そして言った。

 「マルセル。私がかくまってあげようか…?」

 彼女の信じられないような言葉に、マルセルは仰天した。

 「僕を?」

「そう!だって、あなた、ドイツに帰りたくないんでしょ?だからあなたが帰りたいと思うまで私がかくまおうと思うの。どう?素敵なアイデアでしょ?」

 「かくまうたって…ここに?君の両親が許してくれるのかい?」

鼻で笑うように、マルセルは真理絵の言葉に答えた。

「ここ…じゃないわ。まあ、それは私にまかせて、必ずOKの返事をもらうから。」

コーヒーを飲みながら、彼女は自信ありげに彼に言った。

その時、壁にかけてあった時計が8時のベルを鳴らした。

「いっけなーい!今日は仕事だったわ。そろそろ、勇一郎が起きちゃう!」真理絵は、弟の勇一郎とこの家の工場で仕事をしていた。

 彼女は立ち上がると、ドレッサーの椅子に座り、木目の引き出しから迷った挙句、オレンジ系の口紅をとり、それを急いで唇にむらなくつけると、マルセルの方を向き、こう言った。

 「それじゃあ、とりあえずここを出よう。」

「出るってどこへ?」

 「この近くにビジネスホテルがあるの。マルセルはそこで待ってて。私は仕事が終わったらある人を何とか説得して、協力してもらえるように話をしてみるわ。そうね…大体夜の19:00ごろには戻ってこれると思う。」

 「その人に…今言ったこと、全部話すの?」

不安げにマルセルが聞く。

 「主なことしか話さないように…してみるけど…でも…信用できる人だから、大丈夫。安心してよ。」

と、真理絵は言ったが。マルセルは一応うなずいてはみたものの、彼女の突飛すぎる行動に、いまいち信用することができなかった。

でも、時間はたっぷりあるし、行くところもなかったので、とりあえず彼女の言葉に従ってみることにしたのだ。

だが、完全には信じていなかった。

身の上話はしたが、あの子がちょっとでも不審な行動を起こしたら、さっさと立ち去るとしよう。

そう、彼は考えていたのだ。

 そんな、マルセルの思惑とは裏腹に、真理絵は仕事が終わった後、服装を整えて、彼女の幼馴染である、『橋本哲太』のアパートに足を運んで頼みに行ったのだが…。

 真理絵の考えは甘かったのである。

 

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