第4話 橋本哲太
大都会と簡素な街並みが同居する町、豊島区。
その密集する住宅街の中に、哲太が住んでいるアパート『つりがね荘』はあった。
このアパートに足を運んで4年経つな。
階段を登りながら、真理絵は何の気なしに考えた。
橋本哲太のアパートにつき、哲太に部屋へ通してもらった後。
真理絵は哲太にどう話をきりだしたらよいか迷った。
だが、マルセルとはもう、約束をしてきてしまったのだし、今更後戻りは出来ないのだ。
彼女が色々頭の中で巡らしていると、彼はガスコンロの上に置いておいた、沸騰したやかんから湯を注ぎ、コーヒーを真理絵の前に差し出した。
「どうしたんだ?真理絵?改まって話があるなんて。」
身長180㎝の、真理絵の幼馴染は、幼稚園からの真理絵との付き合いだった。
面長な顔に二重瞼の切れ長の瞳をメガネの奥に隠した、その男性は、彼女に親しみのこもった言い方で話しかけた。
真理絵は哲太の着ていた黒いチェックのワイシャツに目をやりながら、「うーん」と気のない返事をする。
「あのさー。ちょっと聞いてもらいたいことがあるのね。」
「だから、なんだよ。」
「怒んないで聞いてほしいのよね。」
「変な奴だなあ。…じゃあ、怒らないから話してみなよ。」
煙草に火をつけながら、哲太が言う。
「実は…。」
真理絵は哲太に事の次第を話し出したが、その5分後、哲太の部屋から、とんでもない大きな声が聞こえた。
「えーーーーーーーーーっ!?」
哲太が驚く。
「嫌だよ!なんで俺がそんな事をしなきゃならないんだよっ!!」
「哲っちゃん!怒んないで話聞いてくれるって言ったじゃない!」
「あのね、真理絵…。」
彼があきれ果てたように真理絵に言う。
「確かに俺はそう言った。それは認めよう。だけどね、話があまりにも自分勝手すぎるから俺は怒ったんだよ。どうして?何の義理で俺がそいつをかくまわなければならないんだよ。友達ならまだしも、お前がファンだからって俺には赤の他人じゃないか。そうじゃないの?真理絵。」
「そ…それはそうなんだけど…でも、あの人、すっごく苦しんでいるのよ。もし、今私たちが助けてやらなければ、あの人はろくに東京を知らないから、路頭に迷う事になるのよ。」
「そんなの知らないね!それは、マルセルって奴の問題なんだから、俺が心配する事じゃないね。」
哲太は頑として、真理絵の話に耳を貸そうとはしなかった。
彼女はついに彼に土下座をして頼み込んだ。
「お願いします。この通り、マルセルをかくまってやってください!」
しかし、哲太は無情にも、・・・
「ダメだね。」
と言っただけだった。
「どうして、哲ちゃんはそんなに冷たいのよ!!少しは思いやりってものがないの!?」
真理絵が開き直る。
「思いやりがあるからそう言ってんだよ!!俺だったら逆に奴の事をドイツに帰らせる方向にもっていくね!俺にとっては邪魔な存在なだけだし。そのヘビメタ野郎は、お前に調子のいい事を言っているけれど、結局は逃げてるだけじゃないか!そんなやつを助けること自体、俺は嫌だって言ってるんだよ!」
真理絵は哲太に、『ヘビメタ野郎』と言われた事に腹を立て、帰り際彼のアパートのドアを思いっきり閉めた。
が、電車に乗り、マルセルが泊っているビジネスホテルが近づき始めると、なんて馬鹿な事をしたのだろう!という後悔の念で一杯になった。
哲太を怒らせてしまった。
やっぱり、話のもって行き方がまずかったのだ。
どうしよう…。彼だけは味方につけておかなければならなかったのに。
しかし、今更何を考えても無駄であった。
仕方なく彼女は、ビジネスホテルに入ると、マルセルの部屋まで行き、事の次第を彼に全部話した。
淡い暖色のスタンドの明かりの下で、真理絵が全部話し終わると、彼は、「そうか…。」と、一言言って、首をうな垂れた。
「そんなにガッカリしないでよマルセル。また何か対策を考えるわ。」
「嫌…。もういいよ。ありがとう。ここまでしてくれただけで、僕は十分満足さ。あとは自分で何とかするよ。」
彼はホテルのベッドの上に座って真理絵に笑みを見せたが、その表情は重苦しかった。
そんなマルセルを見ていた真理絵は、どうしても何とかしてあげたかった。
マルセルキスクと会えることなんて、もしかしたら、これ一度きりかも…。これを逃したら、二度と会えないかもしれない。
いえ、会えないのよ!彼女はマルセルとの関係を切りたくなかった。
真理絵は、肩を落として考えているマルセルを連れて、再度哲太の所に足を運ぶことを決心した。
電車に乗り、また、つりがね荘の前に来た。
真理絵と、黒いサングラスをかけたマルセルは近くにあった階段を上り、哲太の部屋のチャイムを恐る恐る鳴らした。
また、頭から怒鳴られるのではないか…。そんな考えを巡らす真理絵の前に現れた哲太は、どうしたことか、至極冷静であった。
そして、彼女の後ろにマルセルの姿を見つけると、「上がれよ。」と声まで掛けてくれたのだった。
真理絵はなぜ、哲太がマルセルの姿を見ても何も言わないのか、とても不思議に思ったが、その答えはすぐに悟ることができた。
2Kで6畳の4畳。
それが、哲太の部屋だった。
その4畳の部屋で、先程まで映してなかったテレビがついていた。
その番組は報道番組で、内容は今回来日していた、『サベージパンプキン』の『マルセルキスク』が都内で失踪したというニュースが放送されていたのだ。
TVの中のリポーターはなぜ、マルセルキスクが消えてしまったのか、その疑問をメンバーが泊まっているホテルの中庭で、カメラに向かって盛んに話をしていた。
その光景を見て、真理絵はリポーターが物凄く滑稽に思えていた。
「あれ、あんたのことだろ?」
哲太がテレビを見ながら口を開いた。
「ああ…。」
マルセルが答える。
「どういう、事情だか俺も詳しくは知らんけど、そんなにバンドに帰りたくないのか?あんた達にとっては大事なデビューだったんだろう?…自分の事だけを考えていていいのかよ?」
彼は、煙草をくわえながら、マルセルを横目で見た。
「そんな言い方ないじゃない!マルセルだって、したくてしたわけじゃないんだから…。」
真理絵が慌てて口を挟む。
だが、それをマルセルが優しく止めた。
「確かに僕は自分勝手だ。大事なサベージパンプキンのデビューをメチャクチャにした張本人だものな。でも、今の僕は…バンドに帰ったとしても、足手まといの存在になってしまうんだよ。ヴォーカリストが歌を歌う事が出来ないんだものな…。」
マルセルは悲しかった。
昨日まであんなに自由自在に出た声が、全く出なくなってしまった事を、今全く顔も合わせた事もない他人に話をしている。
今、彼は最高に惨めな気持ちで一杯だった。
その気持ちに押し潰されそうになったマルセルは、黙ってその場を立ち、荷物を持ってドアを開けようとした。
「待って!マルセルどこ行くの!?」
「君には本当にお世話になった。やっぱり自分でまいた種だから、自分で刈り取るよ。それじゃあ、さよなら…。」
そう言って彼は、ドアを開けて外に出た。
「そ…それじゃあ。仲間のもとに戻るの?サベージパンプキンに帰るわけ?」
真理絵がまた、マルセルに聞く。
しかし、彼はその問いにただ寂しそうな笑みを一つ浮かべただけで、真理絵の期待した言葉を出さなかった。
その様子を先程から一部始終見ていた哲太は、戸口の外でまさに行こうとしているマルセルに向かって呼びかけた。
「おい…。」
哲太の言葉で、マルセルが振り向く
哲太は更に続ける。
「あんた、共同生活した事あるか?」
彼の問いにマルセルは戸惑いながら答える。
「一回だけなら…メンバーの一人とアパート暮らしをした事がある。」
「そうか…」哲太が頷く。
「俺は…一度もそう言う真似はした事が無い。でも、半年だけなら共同生活をしてやってもいい。」
彼の突然の言葉に、真理絵はしばらく驚いたが、やがて信じられない。
と、言った顔つきで彼に言った。
「哲ちゃん…。いいの…?本当に?」
彼女の瞳からいつの間にか、涙がポロポロと零れ落ちていた。
「泣くほど大騒ぎする事じゃないだろう?ほんとに…。マルセル。一度しか言わないからな。半分宿を貸してやるよ。家賃を半分入れる事と、半年間だけと言うことを条件に付けてな。その間、これから自分がどうやって生きていくか、考えるといいさ。その代わり家賃を払わずにとんずらはするなよ。ちなみに俺の名前は、橋本哲太。年齢は25だ。よろしく。」
哲太はそう言ってぶっきらぼうに挨拶をすると、マルセルに向かって、手を指し出した。
マルセルはしばらくの間、彼の手を繁々と見ていたが、状況が分かったらしく、哲太の手を痛いほど掴むと、「こちらこそよろしく。」と、握手を交わしたのだった。
真理絵は、これで何とか一見落着したな…と安心したように思うと、家族が心配しているからとマルセルを哲太のアパートに残して、一人帰る事にした。
そして、真理絵が帰り支度を始める。
「それじゃあこれで。おやすみなさい。」
真理絵が部屋のドアを閉めて、階段を降りようとすると、マルセルが真理絵を呼び止めた。
「何?マルセル?」
「あのさ。僕、君にこんなに世話になったのに、まだ君の名前を聞いてなかったから・・・。」
その言葉を聞くと、真理絵はキョトンとした。
「私、名前まだ言ってなかったっけ?」
半分笑いながらマルセルに聞く彼女を、マルセルがブラウンの瞳で見つめながら頷いた。
「フフ…。浅野真理絵。真理絵って言うの。歳は24歳。いて座の女性でーす。」
半分恥ずかしそうに、彼女は自分の自己紹介をした。
「へえー…真理絵って言うんだ。真理絵って名前だったんだ。」
そう言って彼は、白い歯を見せ、安心した様に微笑んだ。
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