クロマイザー野埼紫朗
安良巻祐介
事の起こりは単なる「空耳」だった。
ある冬の夜半、隣の友人から聞こえてきた奇妙な言葉に、思わず繰り返す。
「クロマイザーノザキシロウ?」
「何それ。改造人間?」
「今。呟いたよね」
「いや、俺が言ったのは小説のタイトルだけど」
そしてもう一度友人が言い直すのを聞けば、確かにそれは昭和の有名な某探偵の初期短編であった。
なんで聞き間違えたのかわからない。しかし、友人曰く「改造人間」というその空耳は、奇妙に僕の頭の中に残った。
クロマイザーノザキシロウ。人名らしき部分に漢字を当てるなら、「野埼紫朗」だろうか。『クロマイザー野埼紫朗は改造人間である――』。そんなフレーズが浮かんでくる。
では、クロマイザーとは何か。調べると、商標登録されたクローム鍍金加工の名称が出てきた。ということは、野埼紫朗はクローム加工されているのだ。頭の部分が滑らかなぴかぴかの銀色になっている男の顔を、想像する。その下に、野埼紫朗なんて野暮ったい名前がくっついているのが、なんだか可笑しい。きっと仏頂面で、そして草臥れたコートを着込んでいるに違いない。
もう一つ、その名前から「電気」のイメージも浮かんできたが、それは今しがた与えた改造人間という属性と、何より名前の「紫」のせいだろう。「紫電」だ。紫電と言えば、紫電一閃――蔓を引く如く、彼は今度は一振りの日本刀を腰に差した。四字熟語のせいばかりではなく、空耳の元になった小説と一緒の文庫に入っている、より有名な一編。その中に出てくる、殺人仕掛けのせいもあったろう。なぜと言うに、そのイメージの連鎖で、我が野埼紫朗はぴんぴんとよく鳴るお琴のような心臓をも得たからだ。
そして…と僕は考えた。その理屈で行くならば、彼の改造された場所は「黒猫亭」でなければならない。野埼紫朗はそこから脱走したのだ。そして改造人間が脱走したということは、その場所は悪の拠点、悪の巣窟と相場が決まっている…。想像の中で、勝手に絵が出来上がった。
サーチライトが幾条も走る夜空の下で黒く塗り潰された前時代趣味の「黒猫亭」。
その魔物のような大屋敷のシルエットを背景に、悪魔的頭脳を内包する銀の頭蓋を大袈裟なパナマ帽で、冷たい人工血液を送り出す鳴弦心臓を古コートでそれぞれ隠し、猫背気味に画面奥から歩いてくる男。
その眸は全身に巡る車井戸発電機構からの電流ばかりでなく、哀しみと怒りの感情のせいで青白く燃えている。強く握りしめた右手には、見よ、骨董的な、一振りの刀が、青白い刃をぬるりとぎらめかせる。……
『クロマイザー野埼紫朗は改造人間である――』
…彼の逃避行の先には、懐郷地区特有の残酷で煌びやかな、それでいてやるせない事件の数々が待ち構えている。
皮肉な運命をあざ笑うかのように、サーチライトを縫って上がってきたか細い三日月が、男の姿を、キネオラマの虹色に染めていく。
そして、孤高の改造人間は、「黒猫亭」の追跡の手どころか、我が想像の範疇からも、そのまま静かに逃げ去った。……
クロマイザー野埼紫朗 安良巻祐介 @aramaki88
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