2/4 記憶変容
井口は家に着くなり『日本の未来』の応募ページを開き、必要事項を記入した。自由記入欄には睡眠不足に至った経緯を詳細に書き並べた。記憶がいかに井口の生活に悪影響を及ぼしているか、また、かつての記憶がもしなかったらどのような幸福が待っているのか。普段井口は幸福とか自らの生活を省みるような質ではなかったが、そのような記憶の棚卸しは埃被った井口の内面に微かではあるが風を通した。
だが、たとえ自分の過去の事柄であったとしても、自分の言葉で、自分の意思を他人に伝えようとする努力は酷く根気の要する作業だった。一度自分から離れた言葉は自分の言葉のように思えず、誰か見知らぬ他人のことのように思われた。こんな時の、見知らぬ誰かが自分の思いを代弁してくれたらどれほど気楽だろうか。
井口はひどく疲弊してベッドに倒れるようにして眠りに就いた。
******
日本社会科学研究会は日本社会科学出版社の母体となる組織で、全国9カ所にその支部を置いている。研究会本部はその中枢をなす機関であり、『記憶売買に関する研究』は日本社会科学大学遠山教授、准教授の浅沼、学生助手の守口が中心となって行われている。
遠山は学会から研究室に戻ると浅沼、守口に作業の進捗状況を訊ねた。
浅沼は口をへの字に曲げ、守口は眼鏡の奥の細い眼をさらに細めた。やや間があったのち守口が憔悴した表情で答えた。
「遠山先生、この実験はあまりにも危険すぎるかと思われます。もしこの実験が成功し、実用化されでもしたらおそらく多くの人々はこの研究成果を善の為に使わないでしょう。もしそうなってしまったら、僕たちは世間から悪と見做されかねない。僕は人間悪の発展のために仕事をしているのでしょうか」
遠山は守口の心配をよそに、自信に満ちた表情でその一学生の質問に答えた。
「記憶の売買は守口君が思っているほど危険なことではないよ。ただ、一方の記憶が、他の一方に移行するだけなんだ。誰しもが心の裡に秘められた記憶というものを持っている。君にも忘れたい記憶、味わいたい記憶があるだろう?」
「ええ、まあ……。ですが、僕の欲求と正義というものは結びつきませんよね」
「欲望がいつの時代も抑制されてきたのは……」と、遠山は講義と同じような語調で話を続けた。
「人間の心の内面を繋ぎとめるためであって、人間の欲求とか正義とか、そのような人道的・倫理的側面からではない。記憶はチューイングガムのような、時間とともに味が薄れてたちまち吐き出したくなるようなものではないんだな。むしろ時間が記憶に作用して記憶そのものの価値を現実より高めしまうことだってあるのさ。問題は記憶の変容の仕方にあって、それが人間を人間臭くさせるんだ」
「記憶が人間を人間臭くさせているんですか。だから変容した記憶の管理が必要なんですか」
「そうさ。今朝も報道されていただろう。無職の男が交際相手を殺した事件。あれは記憶の変容の典型さ。その男はもともと広告代理店に勤め、仕事ができ、同僚からの信頼も厚かった。しかし、最近起きた裏金問題で彼がプロジェクトを 受け持つチームが摘発され、男は懲戒解雇処分となった。彼女は[仕事のできる男]を愛しているに過ぎなかった。しだいに彼女は別の男と付き合い出した。全てを失った男は最終的に自尊心を傷つけられた腹いせとして、その女を殺したんだ」
それが事件の内容であったが、遠山は事件よりもその事件に関わる記憶の問題に焦点を当てた。
「私は記憶売買の適用範囲は限定的に使われるべきだと思うが、浅沼くんはどう思う?自尊心が傷つけられて、男を殺人に駆り立てたのなら【仕事ができる男】という記憶は抹消する必要はあるが……」
遠山は浅沼のほうを見ると、浅沼は未だ口をへの字に曲げてパソコンのキーを叩いていた。浅沼は遠山から話を振られたにもかかわらず、遠山のほうを見ようともしなかったので、守口は気を利かせて遠山に話を投げかけた。
「意識の連続の中から部分的に切り取られた自我というものは、現実との差異に耐え得るでしょうか。それはそうと、遠山先生。応募者の中に気になる人物はいましたか」
「ああ。実はもう候補は決まっている。この井口という男は第一候補だ。そして謎の多い清宮一樹。主婦の倉田真美。臨床実験はこの3人で行うこととしよう」
「いよいよ来月から実験ですねぇ」守口は眼鏡を額に上げ、両手で目を擦った。
翌月、3名の被験者、井口、清宮、倉田は研究所の実験室に集められた。実験室は薄暗くじめじめとしていて、どこからともなく名もなき猫がニャーニャーと泣き出しそうな不気味さがあった。
3名は8畳ほどの部屋の中心に置かれた椅子に腰掛けた。しばらくすると、遠山が入室し挨拶をした。
「初めまして。日本社会科学大学教授の遠山です。この度は、「記憶売買に関する研究」の被験モニターにご応募いただき誠にありがとうございます。記憶売買の装置はすで完成しておりますので、実験は数時間で取引は完了します。どうぞ肩の力を抜いてリラックスしてご参加ください」
「へえ。遠山先生って若いんですね。私、教授っておじさんばかりなのかと思ってました」遠山の話に飽きた様子の倉田は遠山の話を遮るように無神経に遠慮なくべらべらと話し始めた。
「ええ。最近じゃ30歳で教授になる研究者もいるくらいです。私はもうすぐ40歳になります。まあ、堅い挨拶はこの辺で。倉田さんですね、今の夫との苦い記憶を取引したいということでしたね」
「そうなんです。去年、子供が産まれたんですけど、私が妊娠している間、夫は会社の上司とキャバクラに行っていたり、休日はゴルフをしていたりしていたんです。ひどいとおもいませんか?産まれるって時も夫は病院に来なかったんです!それで最近、夫の財布から飲み屋のカードが出てきて、日付を見たら出産した日だったんです。それで、離婚という言葉が浮かんだんですけど、その晩、夫は私が前から欲しいって言ってた洋服をプレゼントしてくれて……たしかに出産のときのことは一生根に持つでしょうけど、たまたま記憶売買の記事を見つけて、その記憶だけが消えるならいっかって思ったんです」
井口は倉田のあまりにも長い理解不能な自分語りがくだらくて大きなあくびをした。
そんなつまらない理由で記憶を売ろうだなんて愚かな女だな、と井口は思った。
記憶売買 藤原誠治 @sono_saki
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