記憶売買

藤原誠治

1/4 睡眠不足

 井口は大きなあくびを丸っこい手でどうにか抑えた。勤務中にもかかわらず大あくびをしてしまったのは、昨夜も例の悪夢にうなされて眠れない夜を過ごしたためだった。近頃では午前の仕事もろくに手がつかず、「仕事をしない上司」というレッテルを貼られてしまった。

 正午の休憩の時間になって、ようやく眠気もさめてきた頃に「井口さん、昨日はちゃんと睡眠をとったんですか」と声が聞こえた。部下の木下だった。

 木下は大学の後輩で、大学生活をラグビーに打ち込み、学業も十分な成績を修めた。その健康的な、日に焼けたつややかな小麦色の肌と微笑んだ時にみせる白い歯が誰の目にも爽やかな印象を与える好青年だった。

「ああ、昨夜はあまり寝られなかった。」と井口は目頭を押さえながら答えた。

「昨夜も、じゃないですか」と木下は右頬を少し上げ、苦笑して答えた。


 実際のところ、井口はここ最近になってまともな睡眠をとっていなかった。

 帰宅するや否やよれたスーツを脱ぎ捨ててシャワーを浴び、食事を摂ることもなく歯を磨いて22時には床に就く。それから数えきれない時間、過去に起きたあらゆる出来事を思い返してはかつての自分に失望し続けた。

 例えば、学生時代にバイト先で知り合った女性との出会いから別れまでの事の顛末は、彼に深い失望と羞恥が相まって脳の奥に柔らかいを掻痒感を呼び起こした。

―――野の草には露が置き、コオロギは秋の風に合わせて鳴いていた。若い男女は心地よい秋風のなかでお互いの印象や学生生活の他愛もない話、バイト先の恋愛事情を夜な夜な語り合った。それはスイカ割りで木の棒がスイカを捉えたときのような、青っぽくも新鮮な、どこかわざとらしさのある時間の流れだった。


 ―――気がつくと時刻は午前3時を回っていた。睡眠時間は3、4時間といったところだった。起きるとシーツは汗でべたついていて、まるでバターの海を泳ぐ夢でも見ているかのようだった。


 井口は仕事を終え、コンビニに立ち寄った。

 いつも何となく通り過ぎる書籍棚をいつものように通り過ぎようとしたときに、横目でちらっと見えた『増刊 日本の未来 日本社会科学出版社』という活字がやけに大きく見えて、その本の前で立ち止まった。

 日本の未来なんてやけに誇張されたタイトルだな、と井口は思った。

 SF創作の類はきらいではなかった。非日常的な現実を求めていたのかもしれない。


「当雑誌読者のみなさまへ」


 『すでにお判りかと存じ上げますが、人間を最も愚かにするものが-記憶-であることはこれまでの連載において取り上げてきた最重要主題のひとつでありました。とりわけ、幼少の頃の記憶というものは人間の意思形成のみならず、人格形成、ひいては政治、経済、社会にまで影響を与えることはこれまで述べてきた通りであります。

 毎日ニュース番組で飽きられることなく報道される犯罪の多くは、この記憶の作用によってもたらされたものであります。犯罪と芸術は紙一重とよく云われますが、この紙一重の間にはおおよそミクロンほどの記憶の粒子が散らばって、われわれの心から生み出されるあらゆる感情を濾過しているのであります。

 犯罪者も芸術家もそのような記憶のフィルターを通してこの世界を構築しているのであります。もう一例を挙げましょう。人間界のなかでもきっての感傷家、センチメンタリストである音楽家はその悲しみを糧に人生に意味づけを行って、生きようとします。彼らは不幸から幸福を知る術を知っているのです。

 もっとも「三つ子の魂百まで」とはよく言ったもので、幼少の記憶という無邪気な観念はどれほどの時間が経過しようともわれわれの心を支配し続けるのであります。


 さて、この度わが日本社会科学研究会は、これまでの連載の間に寄せられた多くの読者の苦悩、煩悶への対応を苦慮し、どうにか読者らをその苦しみの淵から解放したいと祈願して、ここ数年間を人間の研究に奔走してまいりました。

 そして、ようやくわれわれの研究は臨床段階に入ったのであります。

 ここに実験臨床者を3名募集します。苦悩、煩悶によって不幸の渦中を彷徨う幸福な人々へ』


井口は『増刊日本の未来』とお茶を買い、家路に就いた。

 


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