第35話 冷えたキールとバーボンソーダ 最終話

冷えたキールとバーボンソーダ 最終話



大沢社長に促されファミレスのドアを開けると、僕が来るのを待ち構えていた様に内側のドアが開き「お疲れ様でした」と声が掛かった。


見ると知らない男が深々と僕に頭を下げている。


その後ろで雄樹がにこやかに笑い「お帰りなさい」と言った。


「おう、先に帰ってたのか」


破顔した僕が答える。


「はい、先月」


「随分早かったな」


「自分、中では模範囚なもんで」


「そうかおめでとう」


僕は先に務めを終えた雄樹に労いの言葉を掛けた。


「こいつは中で拾って来た若い衆で…」


言いかけた雄樹を手で制し「後で聞くよ」と僕は笑いながら浮かれ気分で皆の待つボックス席に向かった。


今はそんな事より一刻も早く翠と会いたい。


直ぐに立ち上がり、僕に頭を下げたのは翔太だ。


どこか不機嫌な顔をしている。


吉川和也が忙しそうにタバコを吹かし、貧乏ゆすりをしていた。


僕を見つけタバコを持ったままの手を挙げただけでニコリともしない。


俯いたままの翠がティーカップを手の中で弄んでいた。


今日の再会があまり喜ばしいものではない事を、この店に来て僅か数秒で僕は感じ取っていた。


「まあ、席に着こうや。雄樹、豆腐持ってきたんだろ」


そう言って大沢社長はその場を繕った。


僕は翠の顔から目が離せない。


そして僕は大きな勘違いをしている事に気が付いた。


「あ、葵さん…」


そこに居たのは翠では無く、死んだと聞かされていた葵さんだ。


「お帰りなさい」


葵さんは初めて僕と目を合わせ、一言だけそう言った。


「えっ?だって…なんで?」


僕は訳が分からず、次の言葉さえ見つける事が出来ない。


葵さんは何も言わず、ただ僕を見つめるばかりだ。


「積もる話も有るでしょうけど、先ずは豆腐の角をやっつけましょう」


雄樹がそう言って家から持ってきたのだろう、タッパに入った豆腐を僕の目の前に置いた。


「取り敢えず健二の再出発だ。朝っぱらだけど乾杯だけしよう」


大沢社長の提案でビールが運ばれて来た。


僕は促されるまま豆腐の四角を口に入れ、一口だけビールを飲んだ。


どこか気まずさを含んだ乾杯に、少しだけ僕は不安を覚えていた。


「翠は?」と言う一言を僕は言い出せずに黙り込む。


誰の顔にも緊張が浮かんでいた。


雄樹だけが訳も分からず戯けた様にその場を見回していた。


「あれれ、黙り込んじゃってどうしました?」


沈黙に耐えきれず雄樹が言った。


「雄樹すまんがな、これからちょっとばかり込み入った話しが有るから席を外してくれるか」


そう言ったのは大沢社長だ。


雄樹も翠がこの場に居ない事を既に察している為か、不満そうな顔も見せず「分かりました」と二つ返事で席を立った。


雄樹の背中を見送った後、再び短い沈黙が訪れた。


次にその沈黙を破ったのは僕だ。


「込み入った話って何ですか?」


僕の問い掛けに誰一人答えようとせず、大沢社長と吉川和也がタバコに手を伸ばした。


「姉から手紙を預かっているの」


口を開いたのは葵さんだ。


ハンドバッグの中から一通の手紙を取り出し僕に渡した。


僕はその手紙を受け取り、急いで封を切った。


それは……とても長い手紙だった。



健ちゃんへ


お帰りなさい…二年間、きっと貴方は辛い時間を過ごしたんでしょうね。

一度も面会に行かず、手紙も書かなかった私を恨んでいる事でしょう。

一方的に別れを告げたと言うのに、貴方は私の言葉なんか本気にはしていない。

翠は必ず俺の帰りを待っている…なんて思ってたんでしょう?笑

なんでそんなに自信が有るのか、いっぺんその頭の中を割って見てみたいわ。笑笑


今健ちゃんが考えてる事が私には手に取るように分かるの。

「待っててあげるから刑務所に行って来なさい」

なんて言っておきながら、いざ刑務所に行ってしまえば知らん振り…俺の事が邪魔臭くなって言葉巧みに刑務所に追いやられたと思ってるんでしょ?


半分当たりかな…なんてね…そんな事がある訳ないでしょ!

貴方の事を世界で一番…ううん、この銀河系で一番愛しているのは紛れもなくこの翠様よ。えへんっ!笑


だから…これから話す事を何度も何度も繰り返し読んで、ちゃんと理解して欲しいの。

そして、誰の事も恨まないで…貴方がもし誰かに騙されたと思うなら、それは全て私がお願いしてそうしてもらった事だから。


だから…誰の事も恨んではだめよ、約束して…。



健ちゃん…貴方がこの手紙を読む頃、私はもうこの世には居ません。

乳癌なんだって…気が付いた時には既にリンパに転移していてどうする事も出来ないって…。


余命三ヶ月と言われ、残された時間で私にはやるべき事が有り過ぎて…それに段々と弱って行く私を貴方に見せられなくて、別れるふりをするしかなかったの。


刑務所と言う閉ざされた塀の内側で、私を恨みながら二年の刑期を務めることは出来ても、貴方は私を一人で死なせる事に耐えられないわ。

自分を責めて…責め続けて貴方は壊れてしまう…。

もしかしたら、どうにか刑務所を逃げ出して私の元に駆け付けようとするかも知れない。

もっと悪く考えれば…私の後を追うかも知れない…。

ううん、多分貴方はそうする。

私には分かるの。

貴方がどんなに私の事を愛しているか…。

でも、それでは困るのよ…。


翔太を託せるのは貴方しかいないから。


母は翔太より先に死んでしまう。

葵は…私を一人で死なせた貴方の事を絶対に許さない。

そして、こんなに早く死んでしまう私の事も…だから、貴方が帰って来た時、あの子は翔太を貴方に押し付けるわ…。


だから…翔太をお願い。


貴方が翔太を自分の子供のように思ってくれてる事はちゃんと翔太にも伝わっているし、あの子だって貴方の事を父親だと思ってる。

私が居なくなっても、貴方達二人はちゃんと親子で居られる…私はそう信じてる。


ねぇ健ちゃん…私が貴方を待ってるって言う約束は今もちゃんと生きてるわ。

お空の上で、お爺ちゃんになった健二を39歳のままの私がずっと待っててあげる。

それはちょっと嬉しいでしょ?笑

皺くちゃのお爺ちゃんになっても、若くて美人の私を連れて歩けるのよ。笑笑


貴方と付き合い始めて私は直ぐに気が付いたの…ああ、この人とは前世でも夫婦だったんだって。

だから心配しないで…今度生まれ変わる時にはきっとまた巡り会える…。

その時は貴方が一番先に私を見つけて…。

だってほら、私は酷い方向音痴だから、直ぐに自分の居場所を見失ってしまうでしょ?

だから、その時が来たら健二に私を見つけて欲しい。


今度は…貴方のために翔太を産んであげたいから…。


ねぇ健二、貴方も少しは反省しなきゃダメよ。

もっと沢山私とエッチしてくれたら、胸のシコリだって早く気が付いたかも知れないのに…怒

なんてね…セックスを拒んだのはいつも私の方。

でもね、好きな人に抱かれるのが嫌な女なんて居ないものよ。

薬に酔った貴方に抱かれるのが嫌だった。

だってその時は私じゃなくても良い訳でしょ?誰でも良いからやりたい時の相手にはなりたく無いのも女なのよ。


それともう一つ…貴方の子供を身籠るのが怖かった。

健ちゃん…貴方は子煩悩だわ。

翔太の事を本当に可愛がってくれた。

でもね、貴方の本当の子供が産まれたら…そう思うと翔太が不憫で妊娠するのが怖かったの…。

自分勝手な女だと思うでしょ?

今目の前にいる三人の関係が、壊れてしまう事が私は何時も怖かったの。

だからきっとバチが当たったのよ。


ごめんね…二年もの間嘘をつき通して…。

でも、健ちゃんは何時も私に嘘ばっかり付いてたんだから、一度くらい私の嘘は許してくれるわよね…。笑


健ちゃん…最後に…最後の最後に、私のお願いを聞いて。


もう二度と覚醒剤はやらないで。


貴方が貴方で無くなってしまうから…それだけは約束してください。


愛してるわ…心の底から貴方一人を愛してる。


また会いましょう。


きっとまた会えるから…ねぇ信じて…私たちは必ず再び巡り逢って、今度こそ幸せな家族になれるわ…。

だから、わたしの死を悲しまないで。

ずっと空の上から貴方の事を見守っています。





「へへへ、なんだよこれ…冗談にしちゃぁ趣味が悪すぎるよ」


僕の言葉に誰一人返事を返さなかった。


「つまりアレだろ?刑務所なんて入ってたらこう言うことになるんだよって事を俺に知らしめようって魂胆なんだろ?大丈夫だって、ちゃんと反省して来たって」


「健二…」


大沢社長が気の毒そうな目で僕を見ている。


「葵さんまでなんだよ、こんな猿芝居に乗っかって死んだフリなんかしちゃってよ、良くねぇぞこう言うの」


「健二…」


大沢社長がまた僕の名を呼ぶ。


「これでアレか?俺が涙なんか流して翠ごめんなさい…なんて言ってる所に翠が登場するって演出かよ?」


「健二」


「何処にいるんだよ、便所にでも隠れてんのか?翠出てこいよ」


「健二!」


大沢社長の声が一段と大きくなった。


「俺が呼んで来てやるよ!翠!居るんだろ?隠れてないで出てこいよ!」


僕は店の隅々まで聞こえるほどの大声で翠を呼んだ。


「いい加減にしろ健二!」


そう言って大沢社長が僕の頬を力任せに殴り付けた。


「痛ってぇなこの野郎!いくら社長でも…」


そう言って大沢社長に向き直った瞬間「やめてちょうだい!」と葵さんが叫んだ。


「姉は死んだの!最後の最後まで、あんたみたいなくだらない男の事を心配しながら惨めに一人で死んでいったのよ」


「……」


僕は何も言葉が返せず、ただじっと葵さんの顔を見つめていた。


「よくも姉を独りぼっちで死なせたわね。私は一生貴方を許さないから」


葵さんはそう捨て台詞を吐いた後、座っていた椅子を蹴飛ばす程の勢いで席を立った。


翔太がオロオロとした顔で葵さんの背中を目で追っている。


「一緒に行け、後で電話するから」


吉川和也がそう言うと、翔太は一瞬だけ僕と目を合わせ、葵さんの後を追って駆け出していった。


「タバコでも吸うかい?」


残された僕たち三人の話の切っ掛けを取り繕う様に、大沢社長が僕にタバコを勧めた。


二年ぶりのタバコ…1mgのタバコはそれほど僕に眩暈を与えなかった。


「ある日突然…なんて言うとどこか芝居じみて聞こえるけどよ、本当にある日突然俺と和也が翠ちゃんに呼ばれてよ」


大沢社長の語りに和也が頷いて聞いている。


僕は中々減らない長巻のタバコを指先で弄んでいた。


「聞いてるかい?」


大沢社長に言われ「聞いてます」と僕は答え、大沢社長の顔に目を向けた。


「いよいよ健二とは終わりにします、なんて宣言されるんじゃ無いかって和也と話しながら翠ちゃんの家に向かったんだ」


「……」


「葵さんとはそこで初めて会って、妹ですなんて紹介されてな、なんだかホームパーテーみたいな感じでご馳走まで並んでやがんだよ」


僕は黙って大沢社長の話を聞いていた。


和也も口を挟まない。


「韓国の料理はどれもこれも辛くてよ、俺がヒーヒー言いながら食うもんだから皆んな大笑いでよ」


その光景が目に浮かぶ様だった。


「それがどうしたんですか?」


堪らずに僕は話の先を急がせた。


「慌てるない、順を追って話して聞かせるからよ」


「食事が終わって皆んなで後片付けしたんだよ。その後ケーキと紅茶が出て来て、ところで今日の話ってなんだいって社長が聞いたのさ」


初めて和也が口を開いた。


その話の続きを大沢社長が受け取った。


「そしたらよ、実はですね私近々死ぬんです…なんて笑いながらよ」


「皆んな冗談だと思って大笑いだよ。葵さんまで…」


和也が大沢社長の話に言葉を足した。


「そりゃ誰だって冗談だと思うわな…所が病院の検査結果を持って来てこの通りでございますってよ…」


悲しい報告をワザと明るく転換する…翠らしいやり方だと思った。


「葵さんは泣き出すし、俺たちはどうして良いか分からないしで困ってしまってよ…」


「翔太は?」


「翔太だけは事前に知ってたみたいでな、ずっと翠さんの肩に手を置いて歯ぁ食いしばってたよ」


和也がその時の翔太の様子を語った。


「その後が恐れ入谷の鬼子母神様でよ、使い込んだ大学ノートをポンとテーブルの上に置いてな、今日から二年間、皆さんとお芝居をしたいので宜しくお願いしますって有無も言わさぬ物言いでよ」


「それで今回の事ですか?」


まだ完全に信じた訳ではないが、僕は翠の死を少しだけ信じなくてはいけない気持ちに傾き始めていた。


「そのノートにはな、事細かに色んなことが書いてあってよ、例えばお前が切手が欲しいと言って来たらこう言うのを送って欲しいとか、メガネだったら亀有のアリオにあるJINSでこんなのを買って欲しいとか、それを送る時は必ず四ツ木の郵便局の消印が付くようにして欲しいとか、いかにも翠ちゃんが選んだみたいに絶対に自分が死んだ事を健二に気付かれない様にとことん気を使って欲しいってよ…」


「そのノートは何処にあるんですか?」


見てみたいと思った。


「正直者の姉がおそらく人生で付いた一番大きな嘘だから、天国に持って行かせるって葵さんが棺桶の中に入れちゃったよ」


和也もその時の事を思い出したのだろう…辛そうな口調だ。


「お前は見ない方が良かったかもな」


「なんでだよ」


僕は思わず和也の言葉に噛み付いた。


「それがな…」


新しいタバコに火を付け、再び大沢社長の語りが始まる。


「始めの方は几帳面な字で細かく書いて有るんだけどよ、訂正箇所も二重線で消して有ったり…。所が後半の方は本人でも読めねぇんじゃねぇかってくらいぐちゃぐちゃで所々千切って有ったりしてよ…翠さんの焦りっていうか病気との闘いっていうか、そう言うのがはっきりと読み取れる様な…なんせ、見てるのが辛くなる様なノートだったよ」


これだけリアルな話を聞かされていると言うのに、僕はまだ翠の死と今聞いている話を頭の中で結びつける事が出来ない。


まるで水の中で遠くの声を聞いている様に、くぐもっりながら僕の鼓膜を揺らしているだけだ。


「葵さんが死んだって言うのは?」


そうだ、翠の死を隠すだけなら何も葵さんを殺す必要も無かったはずだ。


「その事よ」


大沢社長が膝を打って話し出した。


「先ずは葵さんが死んだって聞けば健二は何故死んだのかを気にする。その事をのらりくらりと教えなければ一年は健二を誤魔化せるってよ」


「それも翠が言ったんですか?」


「おうよ!」


まったく翠はなんだって僕の事はお見通しだ。


「それで具合が悪くなって実家に?」


「所がそうじゃねぇんだ。翠ちゃんは死ぬ直前までこっちがびっくりするほど元気だったよ」


韓国人至上主義の母親とあれほど反りが合わず、死んでも母親とは暮らさないと言っていた翠が、何故死の直前に実家に戻ったのかを疑問に思った。


「まあ一つには自分が突然居なく成ったときの翔太の居場所だわな」


「一つには?」


「後一つ、翠ちゃんが死の直前まで必死に動き回ったのはよ、自分のお墓なんだよ」


「お墓?翠は実家のお墓に入らなかったんですか?」


「横浜の港の見える丘公園のとこに有る外人墓地よ。なんでも死んだ時に住んでた場所が神奈川県内じゃなきゃ、あそこに墓は買えないらしいのさ」


山手の外人墓地…港の見える丘公園…僕と翠の思い出の場所だ…。


その場所で眠るために、翠はあんなに嫌っていた実家に帰ったと言うのか…。


込み上げる悲しみで意識さえ遠のきそうだと言うのに、僕の目からは一粒の涙も溢れる事はなかった。


「泣けよ」


和也が言った。


「ああ、我慢するこたぁねぇ」


大沢社長が言った。


でも…僕の目からは涙は溢れなかった。


まだ僕は翠の死を受け入れて居なかったから…。




その夜、一人になりたいと言う僕を大沢社長も吉川和也も止める事は無かった。


僕は浅草のホテルに部屋を取り、翠からの手紙を繰り返し読み返して居た。


読み終わる度、翠の死が一歩ずつ僕に迫って来る。


そしてまた僕はその手紙を初めから読み返し、翠の死に近づいて行った。


哀しみが胃の中をせり上がり、吐き気を伴いながら僕の意識を朦朧とさせた。


「翠…」


一度名前を呼ぶと、堰を切った様に哀しみが溢れ出し、僕は叫び声を上げながら止めどない涙を溢れさせた。


知らなかったとは言え、僕は二年間翠を疑い続け、翠を恨みもし時には汚い言葉を投げ付けて来た。


一片の曇りもない翠の愛情を受けながら、僕は翠を憎み続けて居たのだ。


会いたくても会えない、恨まれている、憎まれていると知りながら、たった一人で何処までも深い愛情を抱いて死んで行くのはどれ程辛い事だったのだろうか。


そう思えば思うほど、僕は僕を許せなく成って行った。


翠はちゃんと天国に行けたのだろうか…。


方向音痴な翠の事だ…三途の河を渡らずに、今もまだこの街を彷徨っているのかも知れない。


僕が行って…僕が手を引いて、あいつを…翠を天国に連れて行ってやらなくては…。


いつしか僕は、そんな思いに囚われ出していた。




ホテルの部屋を飛び出し、僕が向かった先は雄樹の実家だ。


勝手知ったる他人の家で、僕は玄関を開け雄樹の部屋が有る二階へと続く階段をヅカヅカと上り込む。


「あら健ちゃん久し振りじゃない」


雄樹のお袋さんが僕を見つけ声を掛けた。


「ご無沙汰してます。雄樹居ますか?」


僕はおばさんに聞いた。


「居るけど、なんだか女の子が来てるわよ」


とおばさんは言った。


言われてみれば玄関の靴脱ぎに、若い女が履く様な靴が置いてあった。


一応礼儀として、僕はノックをしてから雄樹の部屋のドアを開けた。


「雄樹、入るぞ」


そう言ってドアを開けた瞬間、慌てふためいた雄樹がベットから飛び出して来た。


裸の女が急いで背中を向けた。


しかし…僕はその女の顔を見逃さなかった。


女は貴子だった。


翠に二度と会わないと約束させられた遊び女…。


「健二さん、説明しますから…ちゃんと説明するんで、ちょっと待ってください」


慌てふためく雄樹を、僕は冷めた目で睨み付けた。


「説明ってなんの説明だよ」


「だからその、貴子の…」


「そんなポン中女の事なんかどうだって良いんだよ」


僕の言葉に、ベットの中の貴子の肩がピクリと揺れた。


薬さえ有れば誰とだって寝る様なシャブ中女だ。


雄樹が欲しいと言うなら、熨斗をつけてくれてやる。


「お前ネタ持ってんだろ?ちょっと寄越せよ」


僕は雄樹に覚醒剤を貰いに来たのだ。


「有る事は有りますけど、今日はやめた方が良くないですか?」


「手前ぇ俺に意見するのか?」


「そうじゃないですけど、さっき和也さんから翠さんの事聞いたから」


「だからなんだよ」


僕は一歩雄樹に詰め寄った。


その歩みに合わせ、雄樹が後ろに下がる。


「いや、帰って来たばかりだし」


「手前ぇは帰って来たばかりで、俺の女と一発決めてるってのに、俺にはやるなって言うのか」


「健二さん、どうしたんですか?」


狼狽える雄樹に僕はまた一歩詰め寄った。


僕の剣幕に、雄樹は完全に震え上がっている。


「出すのか出さねぇのかどっちなんだよ」


「分かりました出しますよ、1回分だけですよ」


ついに雄樹が根負けをした。


「ポンプに20目盛詰めろ」


僕の言葉に雄樹が目を丸くする。


「二年もやってないのに、そんなに入れたらヤバイっすよ」


「手前ぇ締められたいのか?」


どんどんヒートアップしていく僕に、雄樹はもう言いなりだ。


「本当に1回だけにして下さいよ」


雄樹はそう言って僕に覚醒剤を詰めた注射器を手渡した。


僕はそれを受け取り、ワイシャツの胸ポケットに入れた。


「それとお前に預けてある道具持って来い」


雄樹がハッとした顔を僕に向ける。


「道具って…」


「道具って言ったら道具だよ、チャカに決まってんだろうが」


僕は雄樹に昔手に入れたトカレフを預けて有った。


「チャカなんかどうするんですか?」


「どうしようと俺の勝手だろうが!」


怒鳴りつけた。


「渡しません。それだけは絶対に渡しませんよ」


雄樹も必死だ。


「このガキ!」


殴り付けた。


雄樹の唇が切れ、血が飛び出した。


「ちょっ、まっ」


鳩尾を蹴った。


雄樹が翻筋斗打って転がった。


もう一度蹴った。


呻き声を上げながら雄樹が蹲る。


テーブルの上の灰皿を掴んだ。


雄樹が観念した様に手を上げ、ベットのヘッドボードを指差した。


「車のスペアタイヤの中に隠してあります」


ついに雄樹がトカレフの在り処を教えた。


「車借りるぞ」


僕はそう言い、ヘッドボードに置いてある鍵の束を掴み雄樹の部屋を出て行った。




深夜の山手本通りはすれ違う車も無い。


僕は山手外人墓地の前に車を止め、トランクの中からスペアタイヤを取り出した。


そのタイヤの横っ腹をカッターナイフで切り裂くと、黄色い油紙に包まれたトカレフが出て来た。


弾倉を抜き取って中にある弾を確認した。


弾は一発しか入っていない。


「一発有れば充分だ」


一人呟き、僕は真っ暗な外人墓地の中に入って行った。


翠の墓は、横浜の街を見下ろす高台にあった。


Midori Sanoと日本名で名前が書かれてある。


白い小さな墓碑…周りと比べ一際新しいその墓が、僕の悲しみを増幅させる。


名前の下には「愛を貫いた人」とエピタフが刻まれていた。


翠の死を否定する理由は、もうどこにも無かった。


僕は膝から崩れ落ちる様に跪き、翠の墓に触れながら泣いた。


「翠……翠……翠……」


何度呼んでも返事など帰って来るはずもなく、僕は叫びに近い声で翠の名前を呼びながら、暗闇の中、子供の様に泣き続けて居た。


「翠、ごめんな。手紙の中に書いて有ったこと、俺は何一つ守る事が出来ないよ…。俺が居なくなれば翔太の事は葵さんがちゃんと育ててくれるさ。だから…俺、今からお前の所に行くから…。お前の事独りぼっちに出来ないよ。そんな寂しい所に一人でなんて居させられないよ。だけど俺…怖くて…自分の頭をチャカで弾くなんておっかなくて…だから…だから、最後に一回だけ薬使うぞ。一発キメれば恐怖心だって吹っ飛ぶからよ…。でも、これやっちゃったら俺、そっちに行ってもポン中のままなのかな?」


僕はそう翠に語り掛け、胸ポケットから覚醒剤の詰まった注射器を取り出した。


ペットボトルの蓋を開け、注射器に水を吸い上げる。


1ccの注射器に20目盛の覚醒剤。


0.5ccまで水を吸い上げても、覚醒剤の結晶は中々溶けてはくれなかった。


ジャケットを脱ぎワイシャツの袖を捲り上げる。


携帯の明かりを頼りに血管を探した。


二年間、薬を抜いた身体は直ぐに血管を浮き上がらせ、注射器の針さえも容易に受け入れた。


なんの抵抗もなく注射器の押し棒が引ける。


注射器の中に血液が流れ込み、覚醒剤の水溶液と混ざり合った。


僕は右手の人差し指でその液体を身体の中にゆっくりと押し込んでいく。


最後まで押し切るのを待たずに覚醒剤のラッシュは訪れた。


指先が震えだし押し棒が硬くなった。


どうやら血管を外れた様だ。


僕は最後まで打たず、3分の1ほど水溶液の残った注射器を腕から引き抜いた。


充分に薬は効いていた。


だがしかし…自分の頭を拳銃で撃ち抜こうという恐怖心は、薬のラッシュにも負けなかった。


僕は震える手でトカレフを取り出し、スライドを下げて弾を充填させた。


ロシア製の軍用拳銃…32口径の弾に大量の火薬。


殺傷能力の高いこの拳銃なら、間違いなく翠の元に連れて行ってくれるはずだ。


顳顬に銃口を当てた。


指先にゆっくりと力を込める。


後1ミリも進めば弾は発射される。


分かっているのにその1ミリが進めない。


手が震えだす。


その手首を左手でしっかりと掴み、震えを押さえ込んだ。


二年振りに覚醒剤を打ったと言うのに、なんの快感も無い…況してや恐怖心は消えるどころか更に増した様にも感じる。


神経ばかりが研ぎ澄まされ、小さな音さえ耳元で聞こえる様だ。


「翠…怖ぇよ…」


僕は何度もそう呟いた。


それでも…僕は翠の居るあの場所に行かなくてはいけない。


「みどりぃ!」


僕は叫び震える指先に全ての力を集めた。


「ッダーンッ!」と言う音と共に、閃光が闇を切り裂いた。


一斉に虫の声が止み、鳥が羽をばたつかせ、木の枝が騒めきに揺れた。


一瞬の静寂の後、再び虫が求愛の鈴を鳴らし始める。


小雨がパラついている。


遠くで霧笛が鳴いていた。





「いらっしゃいませ」と言う声に迎えられ、僕は翔太を連れてスターダストの店内に入った。


「おや、息子さんですか?」


マスターが翔太を見てそう言った。


「分かりますか?」


破顔した僕が言った。


「分かりますとも、お母さんにソックリだ」


その言葉を聞いた途端、翔太が嬉しそうに笑う。


「俺、母ちゃんに似てるのかな?」


照れ臭そうにしながら、翠に似てると言われた翔太は嬉しくて仕方ない様だ。


「今日二十歳になったもんで、連れて来ました」


そう、翔太は二十歳になった。


「お祝いに何が欲しい」と聞くと「健ちゃんと母ちゃんがよく行った店で酒を飲ませろ」と言った。


どうやら翔太も、自分の成長を翠に報告したかったのだろう。


あの日…僕は死ねなかった。


銃弾は額の肉を削ぎ取っただけで、僕の命を奪うことは無かった。


僕は衝撃で気を失ったものの、強く降り出した雨に叩かれ意識を呼び戻された。


ひりつく様な額の痛み…。


手で触れてみた。


激痛が走った。


ぬるりとした感触…血が溢れ出していた。


僕はワイシャツの袖を肩先から毟り取り、額に巻き付けた。


朦朧とする頭で車に戻り、行くあてもなく走り出した。


気がつくと僕はスターダストの前に車を止めていた。


引き寄せられる様に僕はスターダストの店の中に入って行った。


マスターは何も言わず傷の手当てをしてくれた。


酒が飲みたかった。


喉が焼け付く様な強い酒が、今の僕には必要だと思った。


「バーボンをくれませんか」


僕は言った。


マスターは首を振った。


「うちの店はね、楽しいお酒しか売ってないんですよ。今日のあなたに売るお酒は有りませんよ」


そして、気が済むまでこの店にいて良いと言った。


他に客は誰も居なかった。


夜明けまで居た僕に、マスターは一度も帰れとは言わなかった。


硝煙の匂いは雨に打たれたくらいでは消えない。


何が有ったのか、世慣れたこの店のマスターには分かっていたのかも知れない。


夜が明けて僕が向かったのは大沢社長の家だ。


僕は直ぐに病院に連れて行かれ、右の顳顬から額に掛けて十数針も縫われた。


その夜の事を誰も僕に尋ねる者は居なかった。


翔太を引き取る事を翠の母親は許さなかった。


僕は翠からの手紙を見せ、翠の意思である事を説得した。


どちらも譲らず、結局出した結論は家族になる事だった。


だから僕は今…翔太と翠のオモニの三人で翠の実家で暮らしている。




〈エピローグ〉


礼服のポケットから車の鍵を取り出し、僕は解錠のボタンを押した。


ハザードランプが二回点滅し、僕を迎えてくれたのは翠が乗っていた、あの白いセダンだ。


僕は喉元に人差し指を押し込み、白いネクタイを緩めてから車に乗り込んだ。


すっかり型も古くなり、もうオンボロになった翠のセダン。


エアコンのスイッチを入れると、翠が付けていた香水の匂いが今でも僕の鼻をかすめる様な気がする。


新しい車に乗り換えないのはそれが理由だ。


翠が付けたバンパーの擦り傷もそのままにしてある。


翔太が結婚をした。


結婚を機に、翔太は正式に僕の養子となった。


だから今日は五十嵐家の結婚式だ。


嫁さんはどこか翠に似ている。


翔太にそれを言うと「偶然だよ」と不貞腐れて見せるが、それこそが偶然ではない事を語っている。


男は誰もマザコンだ…母親に似た女を嫁に貰うのは悪い事じゃない。


僕はその事を、これから翠に伝えに行く。


あの頃を思い出しながら、僕は四ツ木のインターから高速に乗った。


一度都心環状に入りレインボーブリッジから湾岸に乗り直す。


翠が好きだったドライブコースだ。


湾岸横浜インターで高速を降り、山手の外人墓地に向かった。


翠の墓に花を手向けた後、リキシャルームのあった場所に車を向けた。


時代の流れとともに、街の景色も随分変わった。


リキシャルームは取り壊され、今はマンションが建っている。


翠との思い出の場所が、一つまた一つと消えて行く。


赤レンガ倉庫の前を通り過ぎ、みなとみらいを突き抜けると新しい橋が架かり、そこを渡りきって右折をすると、スターダストが現れる。


街灯もない真っ暗な道を走り、この店に通っていた頃が懐かしい。


「おや、今日は何かのお祝いですか?」


店に入るとマスターが話しかけて来た。


「息子の結婚式で」


僕は晴れやかに答える。


翠が死んでから、僕はこの店に来る事が多くなった。


この店の奥のボックスに座り、ガラス窓の外に揺れる真っ暗な海を見ていると、何故か翠と語り合える気がするからだ。


事あるごとにこの席に座り、僕はその時々の出来事を翠に報告する。


殆どが翔太の事だ。


大学に入学した事、彼女が出来た事、就職が決まった事、僕を始めて「父ちゃん」と呼んだ事…どんなくだらない事も、この席で翠に語り掛けると気持ちが華やいだ。


そして…今日は翔太の結婚の事と、僕の息子になった事を報告に来た。


何時もの席に着く前、僕はポケットから100円玉を取り出し、翠が好きだった曲をジュークボックスで選曲した。


翠と二人、最後にこの店に来た時「余程のことが無い限り、私たちは別れないと思うの」と翠が言った。


確かに翠は死んだしまったが、それが僕にとって余程の事だとは思わない。


だから僕と翠は今も恋愛中だ。


「お飲み物は何にしましょう」


マスターが僕に聞いた。


「今更…」と僕は思う。


僕はいつだって同じ物しか頼まない。


黙っていたって分かりそうなものを…と思うが、もしかすると、マスターも僕からその言葉を聞くのを楽しんでいるのかも知れない。


この店は…楽しいお酒しか売っていないのだから。


僕は思い切り気取って何時もの飲み物をオーダーした。


「冷えたキールとバーボンソーダを」




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

冷えたキールとバーボンソーダ sing @Sing0722

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ