惨めな崖

『お一人様でのご予約はできません』

 その文字を見て「ほう」と口に出した。

 有名な作品のモデル地の近くにあるホテルは、同時に自殺の名所であるからして『お一人様お断り』は正しい策である。

 それでも汚名が拭えないのは、今も、あの崖から落ちる人が多いからだろう。

 年間人数は興味がない。私は、なけなしの赤錆びたチェーンと、それに括りつけられた『一人で悩まないで、まずは電話をして』という色のない文句が書かれたラミネートされた紙一枚に、とても夢中だ。

 まず「一体どれだけの人が、この鎖を跨いだか」まず「この文句を見て何人が電話をしたか」まず「崖まで歩き、何人の人が靴を揃え、手紙を置き、泣き崩れたか」そして「結局、死ぬこともできずにおめおめと帰ったのか」だった。

 想像するだけで面白くて仕方がない。

『自殺の名所』という称号は、誰かが言った「あそこで自殺する人が多いんだよ」の一言で始まる伝言ゲームだ。真相は地元の住人しか知らないだろう。

「いつもの場所で死んだ」などと口にしてみろ。有名な作品のモデル地としての観光資源が瞬く間に消えていく。しまいには公式様から『一人でいかないでください』とアナウンスされるだろう。それも面白い。

 人の本能と感情が、ぐるぐるぐるぐると混ぜ合わされ混沌とした雰囲気が美味しい。

 崖の下は、何ともないテレビで見たことのある岩に水が打ちつけられている光景だけだ。もちろん死体はない。まあ、落ちても波にのまれて海流の終点に打ち上げられるだろうて。

 きっと、こんな現場を見た人がいたら「待って! 待ってくれ!」と言われるだろうか。

「いえ、覗いているだけです」と返すのに。

 やや考えて、もっと惨めで面白いことを思いついた。

『自殺を止める人などいなかった』

 これだろう、全ての終わりで最期とする時に欲しい言葉を「言われない」

 でも、まあ、自分で死のうと決めている人は言葉を聞かない。今の人生の幸福を手に入れる為の行為が『自殺』という行動で『間違っていない幸せな選択』と思っているのだから。

 まあ、止める人は? 惨めになる人は? 掲示板でもコミュニティサイトにでも愚痴を書いていればいい。悪意を放出して寝ては醒めての繰り返しに戻るといい。

 思考がずれた。

 とりあえず、私は自殺の名所様から遠い『お一人でもいいホテル』に泊まっている。

 駅前ホテルなので、ここまで来るに四十分くらいだ。

 肺一杯に混沌を食して帰る。先ほどと同じようにチェーンを跨ぎ、潮風に髪を揺らしながら、一人とぼとぼと駅前のホテルに戻ることになる。

 周りに人はいない。有名なモデル地のくせに。

 私に声をかける人影は一人もいなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

遠出 朶骸なくす @sagamisayrow

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ