沼の神

 私は休暇を見つけるといつも沼に出かけて、水面に釣糸を垂らす。釣りといっても魚を釣るわけではない。釣るのは蛙だ。小さな釣り針の先に柔らかな小鳥の羽を付けて、蛙の前に垂らす。そして、少し針を躍らすと、活きのよい虫と勘違いした食い意地の張った蛙が食いつくのだ。それで駄目ならゆっくりと引き摺るようにしてもよい。要はやり方など何でもよく、虫に見えさえすればよいのだ。これらは偉大なる先人、提灯鮟鱇チョウチンアンコウに学んだことだ。


 しかし、この釣りに特に意味はない。魚釣りのように釣果を絞めて食べるわけでも、仇の首を取った戦士の様に、蛙をトロフィーとして誇るような悪趣味なこともない。釣れたのならば、また沼に還すだけ。戯れだ。


 つまり、私にとって何ら得はない。そして、蛙も虫を食べることができるわけでもないので得はない。双方に得しない行為だ。


 結局は釣果も沼に還すので、私はこの沼にほとんど影響を与えず、釣果たる蛙を食べることも叶わないので、私もほとんど影響をうけない。そんな行為に休暇の大半を費やす。


 他人はこれを不毛だというのだろうが、私はそうは思わない。この世で生きるものたち生産的と称し、賛美されるべきものとする行為も、私は不毛だと思っている。畑を耕したところで、その作物は誰かに食べられ、糞となり、土となり、その土をまた耕す。つまりは畑を耕すために畑を耕すという不毛なことに、定命である人間はその人生の大半を費やすのだ。


 しかし、私はその不毛こそに意味を見出す。この不毛こそが流れであり、我々は川に流されている落ち葉と同じ存在である。流れに逆らうことも留まることもできない。


 この沼の蛙も同じである。卵から沢山のお玉杓子が生まれ、彼らの一部は他の住人たちの餌となり、一部のお玉杓子が蛙になってまた卵を産む。この繰り返しだ。


 人間もそうだ。母の腹から産まれて、同胞の加護のもと成長し、春に種を撒き、夏に汗水たらし働いて秋に収穫し、冬に備える。その間に子をつくり、父母となり、いずれ死ぬ。蛙とほとんど同じだ。


 最初はこの不毛さに絶望して共産主義や社会主義に傾倒したり、詩家になってこの世の構造の無情さを訴えようとも思ったが、それも不毛だと思いやめた。


 そこで私は気が付いた。世界とは流れだ。季節が回るように、生き物がつながる様に、巨大な流れの中で生きているのだ。


 この流れは「神」にも変えることができぬだろう。いや、きっと神とは蛙釣りをする私と同じなのだ。世界という大きな沼に釣り糸を垂らし、蛙を釣っては返し、それを繰り返す。その沼の中には大きな魚もいるだろう。それが泳げば波が生まれ、雨蛙ほどなら波にのまれてしまう。

 

 しかし、釣り人にそれを変えることはできないし、止めることもできない。できることは時たま餌を落としてみたり、波を作ったりすることだけ。神というものは流れを調整することで精いっぱいなのだ。


 それに気が付いても、それもまた不毛だ。私は今日も釣りに行く。沼に釣り糸を垂らすときだけ、私は小さな沼の小さな神になるのだ。


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